<気>
私はそうして心や体の働きをつなぐものは何かを観てまいりました。元気とか、不機嫌とか、気という言葉はいろいろに使われておりますけれども、さて、その気とは何かというと、なかなか答えられない。外国の人達は、オーラとか、ミトゲン線とかいう言葉で説明しておりましたが、それを丁寧に観ていきますと、それらはみんな体の中にある細かい物質の分散なのです。しかし、私のいう人間の気とは、そういう細かい物質の分散ではなく、分散する力なのです。必要なものを集めてくる力、不必要なものを捨てていく、分散していく力をいうのです。細かく分散されたもの、それが気ではないのです。物質を吸収したり発散したりする力、それが気である、心と体をつなぐ力、それが気なのです。だから精神の集中の密度が濃くなると、気は旺んになります。体を動かすことが活潑になると、気も旺んになります。
整体指導の技術の基は、この気をどう使うかということだけで、心とか体とかそういうものにはこだわらない。気の停滞、気の動かし方、気の誘い、気の使い方といったように、体に現れる以前のもの、物以前のものを、物以前の力で処理していく、それが技術の基になります。(野口晴哉著 『整体法の基礎』 全生社 pp.38-39)
この1、2年ばかりは「気」については何も考えていなかった。飽きてしまったという感もあって、もっぱらフィジカルの研究に没頭していたのだ。
当然だけど「気」の方ばかりを先立てて研究していても限界があるし、かといって物質的アプローチだけで人間を観つづけるには説明のつかない動きが山ほど出てくる。やっぱり目に見えないものも大切だ。
だから「気」というものは理解しきれるものではないけれども、放っぽっておいて良いということもない、と思う。いまのところ、「もの」と「気」は同じひとつのことだということで研究している。
気で気を誘導するうえで邪魔になるのが、随意筋の緊張である。整体操法を修得するには、身体をつくるのに10年、それから技術を身に付けるのに10年で、計20年という話を聞いたことがある。
どんな職業においても「技術」を行うには、まずそれが可能な身体にならなければならない。整体の場合は差し詰め「気の身体」というようなものだと思うのだが、その習得方法がずっとわからなかった。
今の年齢になって気づいたのだが、「わからない」、「できない」ということはワクワクするものだ。成長の可能性を突き付けられているのだから。逆にできるはずのないものがスラスラできてしまっている時は、やはり何かがズレているのだ。これはこれでオカシイ。
気の話から観念論に流れたが、気と肉体、技術はすべてリンクして同時的に学べるというのが、ここ最近の発見であり、おどろきだったのだ。人間の探求には終わりもないし限界もない。これ以上ないくらいおもしろい世界なのだ。