内外一如

質問 愉気に対する理解の仕方で相手の感応が異なるのでしょうか。

答 人間は心も体も一つものであります。心も体も魂も何もかもが一つものであり、一個のものであります。その一個の人間を研究上の便宜で分けた、その分けたものにとらわれ過ぎているのです。

顔が綺麗でも、心がいやしければ、その顔には必ずいやしい動きがあります。どんなに醜くみえても、心の美しい人には美しさが反映している。可笑しな顔をしていても動くと美しいのです。あるいは教養を身につければそれが自然に顔に現れるし、頭の空っぽの人は何も言わなくたって、空っぽでございという顔をしている。だから、心と体は決して別のものではない。別のものと見たり、心があるとか体があるとかいうように考えるのは本当ではない。(野口晴哉著 『愉気法1』 全生社 pp.102-103)

「人間は内面が大事である」とは折に触れて聞く言葉だけども、内面というのは即外面に現れているものなのだ。自分の世界というのは「いま目に映っているもの」が全てだし、これ以外には生涯何も出てこない。

パッと見た時には、いつでもそこに〔今〕のトータルサムが映っている。

そして手を当てるという時には、今度はその手の触覚にすべてが映ってくる。愉気の実習を行うと、人によってはすでに触れていながら、相手のことが「わからない、わからない」といっていることがある。本当は触れた瞬間にざっと全部「わかって」いるのだ。

いま、確かに、見えて、触れられているもの、それが間違いなく今の「その人」だ。

何か裏があるんじゃないかといって、追っかけたり、探ったりすると、すでに見えている、触れられている実態がわからなくなってしまう。

生きているということはいつでも、そのままの自分が、さっと事実にぶつかっている。すると誰もが、そのことがそのこととして、その通りに頂ける様になっている。

余分な荷物を背負わずに、いつも自由に、「さらさらさら・・」と生きるためには何よりまず無垢であるということを大切にしたい。目は騙されない。手で触れたことも騙されない。ちゃんと「全部」がそこに現れているのだ。

先ずはそういう目や手が欲しい。貪りを止めれば即座に真実が現れる。あとはそれ「そのもの」に、ひたすら気を集めていく。愉気の基本である。