胎教

前項の『いのちの輝き』の中でも胎教の重要性を説いているが、野口整体でも一生を通じて健全な人間を育てるという観点から胎教を重視している点は通底する。

医術ということを突き詰めていくと、必ず途中で教育の問題に突き当たる。病気でも怪我でも「どうしてこうなったのか?」「こうならないためにはどうすればよかったか?」とずっと辿っていくと、原因は過去にあるために「そもそもそこに至った生活から正すべし」ということになっていくのだ。

更にその生活スタイルに至った原因を追究していくと、幼児期に浸っていた社会、そして胎教に至るのは当然の成り行きと言えるだろう。

例えばうちの子でいえばもう8才なので、胎教のことをいくら思ってもとうに手が付けられない域に達している。同じ8才の子どもたちを見てみると、本当にそれぞれ個性豊かで人格形成の土台はほぼ完成しているという印象を持つ。

以前の私は母胎の中で体と心の発育の5、6割が済んでいると思っていたのだが、どうやらそれは誤りで、本当は9割以上がすでにでき上がってしまっているのではないかと考えを改めた。

たとえば人間の生活スタイルに朝型とか夜型という表現があるけれども、これは出生の時刻に起因しているのだという。明け方に生まれた子は概して朝型になりやすく、夜半に生まれた子は夜型になるという統計結果が前掲書の中に記されていた。

井深大の著作にある『幼稚園では遅すぎる』という主張も、この線でいえば育児を意識するのは生まれてからでは遅い、ということになる。

昔の日本には「お腹の子に障る」などという表現があったように、母胎内の生活が生まれてくる子の性格や体質にどれだけ強い影響を与えるか、ということが広く一般に共有されていたのである。

しかしながら現代のようにもろもろの事情で共働きが当たり前となっている状況にあっては、いくら胎教を叫んでも深い共感を得ることは難しいかもしれない。

もちろん妊娠期に多少の配慮を持って生活をする人はいるだろうが、かといって「いかに生活すればいいか」とい具体的な問題となると、整体法を正しく修めないことには的確な効果をあげることは難しいのではなかろうか。

すこし論点からはずれるかもしれないが、現代教育はとかく知育に偏り過ぎている。知育に加えて、徳育、体育が教育の三要素として掲げられているけれども、これらをばらばらにして、それぞれ別々の方法で育もうという考え方で果たして奏功するだろうか。

利発で、情があり、逞しい子に育てるための急所の時期を考えるなら、一粒の生殖細胞が数億倍に成長する受胎直後の数週間を軽視する訳にはいかない。これは体感的なもので現代人の好きな科学的根拠の確立を待っていたら実証は難しいだろう。

しかし現実に目を向ければ現代社会を生きる人々の心身の問題は山積みで、根拠以前の直感を頼りとし、速やかに胎教の実践を奨めたい。妊娠が分かった時点で仕事をしているなら早期に休暇を取り、家庭内においては妊婦に不当なストレスを掛けないように皆が協力し合うべきである。

社会制度の改正も結構だが社会の最小単位は個人に帰するのだから、社会の改革は個人を十全に育てることから考えねばならないのが道理だろう。

胎教に関してもう一つ知的な方からアプローチするなら前掲書に加えてトマス・バーニーの『胎児は見ている』を読むとその重要性をより深く認識できると思う。

環境問題が叫ばれて久しいけれども、自然を守ろうと思うならまず人間の内なる自然を護り心身の環境破壊をなくすことが重要ではなかろうか。

意識を閉じて無意識に聞く、裡なる要求を感じ生活する、こういうことは人間の自然を守り外界をも治めることに繋がっていく。教育も自然保護も百の論より足下の実践に尽きる。胎教を重んじ良い出産を迎えることはその第一歩であると思う。

乳歯

小1(6才)の子どもの上の前歯がかなりぐらぐらしている。かれこれひと月くらいはそうしていて、これがまたなかなかとれない。

早い子なら年中さん(4~5才)から抜け替わっているんだけど、うち子どもの発育は他と比較するとだいぶゆるやかである。

実はこれはある程度画策してやっていることで、たまたまそうなったわけではない。

整体法では早く育つこと、いわゆる早熟を警戒する。

「早く育って何が悪いか」という反論もあるかもしれないが、この場合何をもって良しとするかは個人の主観に委ねられる話で絶対的な是非善悪はないと思っている。

子どもをどう育てたいか、どうしたいか、というのは親の価値観に拠るもので、生物の適応力を活用すれば、早く「人間」にしようとすればできない話でない。

ハイハイしてれば早く立たせようとする、アーアーといっていれば早く話せるようにする、字も早く訓練して覚えさせて、足し算引き算でもやらせようと思えば幼稚園からできるのだから。

しかし整体法においては急づくりになるよりも、着実に、適切な期間を要して成熟していくことをよしとする。

乳歯に関して言えば、乳児期に十分栄養が満ちていればそれほど早く生えてくる必要がない。咀嚼の必要がないからである。

そのために生後2、3ヶ月くらいから赤ん坊の要求に応じて離乳食を施す。柔らかくて、体に適した、栄養に満ちたものをあたえていれば自然、そうなっていくのだ。

乳歯がおそければ、当然永久歯もおそい。「おそい」いうのも比較によって生じる表現なので、より正確に言えば「その子」の「その時」に生えてくるわけだが。

「なんだそんなことが整体なのか」と思う人は無論こんな面倒なことはやらなくていい。

しかし人間の人間たるゆえんは知恵を働かせて上質な文明を形成し、他の動植物よりも緩やかに育つ点にある。

馬とか鹿なら生まれたと同時に立とうとし、その日のうちに走れるようにならなければ生存できない。

その点人間は違う。周囲の大人たちからさまざまな保護を受けて高い生存率を保有しているために、生後1年以上も安心して寝ていられるのである。

そうしてこの期間に充分要求を満たされ、保護され安心して育った子どもには独特の雰囲気がある。外界に対する漠とした不安や恐れが感じられない。

根拠のない自信、とか余裕と呼ばれるものもここから生じるのではないだろうか。

具体的に言えば「人見知り」ということが生じにくい。そして初めての場に行ってもさっと不安なく相手の中に入っていける。

だから核心となるのはそういった点で、歯の生える時期というのは副次的についてくる現象と思った方がいいのかもしれない。

そうやって出てきた歯がどの程度丈夫なのか、という点はもう少しを観察を要するけれども、現時点で虫歯その他のトラブルはない。その点順当にきているといえそうだ。

真に見るべきは発育の遅速ではなく、常に相手の要求から出発するという生命主体の世界を築こうという心の態度にある。

こういった着眼は他の育児書ではあまり見かけたことはないので、これも整体独自の知恵の一つなのかなと思う。

子どもの宇宙

息子(3歳)の保育園放浪記が3園目でようやく落ち着いた。

「子どもが保育園(幼稚園)に行きたがらない」

「行こう、というと泣きだす」

こういうことは世の中にいくらである話だけれども、河合隼雄先生によれば子ども一人一人の中に別々の宇宙があるのだ。周囲の大人にはその一人一人の世界を大切に守る責務がある、という。

これに因んて思い出すのが、サン=テグジュペリの『星の王子様』の冒頭、みんな最初は子どもだったのに子供だったことを覚えている大人はいない、という一節である。

子どもの心がわからなくなるのは、それだけ大人の心と体が日々ストレスにさらされ、鈍ってしまうからかもしれない。

鈍りも身体の防衛反応の一種なので、一概に「悪い」と言えない複雑さが人間には、ある。

野口晴哉は「子どもの目の輝きをよく見てそれを守ること」そして「抱き上げたときの重さ(リラックス度合)をよく感じとること」の重要性を説く。

身体がずっしりと重く感じれば、それだけ安心して、世の中を信じて生きていることがわかる。

大人が整体を保つのは、人類の未来を担う子どもの心に広がる宇宙を守るため、といってもいい。

そういう風に「大切に」されて育った子どもたちが大人になり、そういう大人がまた子どもの宇宙を大切にしていく。

これをくり返せば人間の世の中が少しづつ豊かになっていくはずである。

大それた話になったが、まずは我が子の中にある唯一無二の宇宙を守りたい。

そのためにときどき自分のこころの扉を開けて、光を入れ、風通しをよくしておきたいと思う。

 

妊娠中から活元運動を行なってもよいか:できることなら妊娠前、出産を意識したらすぐにはじめよう

質問〕 子供ができたばかりの人に、活元運動を奨めたいのですが、反応が心配です。

 活元運動をやりますと、内部に異常のない時は流産する傾向が無くなってしまいます。流産しかけている人でも、活元運動をすると元へ還ります。

内で胎児が死んでいるような場合は、活元運動をすると、直ぐに流産します。一、二回やっていると、出てしまいます。

だから、内で死んでいるとか、母体がどうしても産むのに具合が悪いという状態以外は流産しません。

活元運度をすると却って楽に産める。流産した場合でも、簡単に終えます。何でもない時は体を丈夫にします。

 

近頃痛まずにお産をする方法として、活元運動をする人がとても多いです。

その誘導の方法は、仰向けにして、臍の上に手を当てて愉気をする。そうするとお腹の中が動き出してくる。動き出してくる人達は活元運動をしても大丈夫です。

手を当てると、動かないで逆に硬くなってしまう人もいます。そういう人を誘導すると、流産する場合があるのです。

予めそれ(臍に手を当てるということ)をやっておくといいと思います。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.141-142 一部改行は引用者)

活元運動は身体を敏感にし弾力を持たせるための運動だから、出産に備えて行っておくことはとてもよい。

その上でいつから始めるかということだけども、まったく整体の素養のない人ならば妊娠中、特に安定期に入る前に行うのは注意がいる。

体が整っているということは身体の様々な機能が正常にはたらくということなので、丈夫な子ならきちっと月が満ちるまで待って生まれてくるし、何か異常があった場合は流れてしまう。

だから考えよう、見方によっては「リスク」があることを知っておく必要がある。

うちを例にとると2009年から仕事をしてきているが妊娠期から整体の個人指導、活元運動の指導をお引き受けしてこれといった問題が生じたということはない。

そもそも件数自体がそんなにないのもあるけれど、基本的に自分の技術は愉気をベースに行っているので、急激に大きな変動を起こすようなことがないのだろう。

しかしまあ「いい出産をする」「自分で産むんだ」と決心したら、妊娠を意識したと同時に整体指導、活元運動をはじめる方が絶対にいい。

折に触れて何度も書いてきているが、「整体」という概念を理解するのに早くて1年、それらしい身体になってくるのに3年くらいはみておきたい。

何でもそうだが、こと身体のことに関していえば付け焼刃でぽっとできるようなものは信用ならないと思っている。

世相全般に高齢出産が増えていることに加えて、都心ならば体の固い人、基礎体力のない人も多いだろう。

そういう人がまた分娩台のような体の自由の利かない環境で産むとなると、やはり備えあれば憂いなしだ。出産は「準備で9割決まる」と思ってもらいたい。

引用とは少しことなる意見だが、「時代性」を考慮に入れれば腑落ちするだろう。『健康生活の原理』自体が40年前に出版されたものなのだから。

整体出産・整体育児を志すなら半年、1年くらい前から活元運動をはじめるといいだろう。

野口整体と予防接種:子供を丈夫に育てる知恵と覚悟

太郎丸がもうすぐ3歳だ。そんなわけで存在すら知らなかったのだが3歳児健診の案内状が来た。

たしか1歳児検診?かなんかの時だったと思うが、現地に行くとあっちからもこっちからも子供の悲痛な叫び声が聞こえて、「こりゃあなんのための集まりだ‥?」と妙に疲れて帰ってきたことを覚えている。

「身長を測ります」とかいって子供のかかとをギューギュー引っ張ったりするのがちょっと見るに堪えなかった。医は仁術じゃなかったのか。このくらいの時期なら大きいか小さいかくらい抱っこすればわかるじゃあないか。

人間はモノではない。そういう当たり前のところをスルーして、ものも言えない子どもを捕まえて、呼吸もタイミングもなくガサガサやらるのは残酷である。健康診断で親子ともに精神衛生を乱されるというアイロニー。

加えてうちは予防接種を打っていないので、そこをかならず突っ込まれる。

整体の仕事をしていると年に1、2回くらいは「子供に予防接種を打っていいんでしょうか?」といったたぐいの質問をいただく。大事な子供のためなのだ。いくらでも情報は収集して、自分で考えて決断すべきである。

参考までに一つ書いておくと、水野肇著『誰も書かなかった日本医師会』か『誰も書かなかった厚生省』という本のどちらかにBCG(結核の予防を目的としたワクチン)についての記述があったと思う。

これによるとBCGの普及率の増加と結核の罹患率の減少については数字上はなんの関連性もない、という調査結果が表されている。わかりやすくいうと「BCGを打ったら結核にかからない」という数値上の証拠は取れていないのである。

全く「無関係」ではないかもしれないが、だからといって何がなんだかわからないものを盲信して体内に注入するという神経がわからない。

まるっきり効果がないならまだいいが、何かしら作用はしているんだろう?人間の身体というのは研究して解っているのはほんの一部、99%はブラックボックスなのだ。それでなくてもワクチン関連の被害報告は枚挙にいとまがない。

そうかといって「野口整体」をちょっとかじったくらいでいきなり薬も飲みません、病院の検査は一切受けません、という盲信から盲信への枝渡りも困ったものである。

整体という生き方はなにも「西洋医療と対立する」という位置で固定されたものではない。「自分のカラダで感じ、自分のアタマで考えて行動し、その結果に自分自身が全責任を負う」という自立の態度なのだ。そもそも自立とか自由というのはそういうものだろう。

自分の健康は自分で保つ。

こう聞くと耳触りの良さも手伝って「アライイワネエ」といわれるが、わるいけど整体はそんな甘っちょろいものではない。

つまり他人の弁(客観)に頼らずに主観を軸に生きていくわけだから、その主観が狂ったら全てご破算なのである。

整体生活を志すならそういう基本的な思想理解からはじまって、身体がまあまあでき上がってくるのに3~5年くらいはかかると思って欲しい。取って付けたように整体やったって整体にはならない。生兵法はケガのもとで、いのちが掛かっていることを忘れてはならない。

くり返すが「自分の考えで行動して、その結果に全責任を負う」。自然界ならあたり前のことなんだが、人間の場合はこの大事なことを他人に丸投げしたまま生きている人が大勢いる。

いわゆる指示待ち人間、責任転嫁型の人間を脱却しないかぎり、自立した健康も、自由も独立もないのである。

弱ければ、強くなるより他ない。

どんなことに出会っても息を乱さず生活できるようになるまで、人知れず静かに鍛えることである。そういう覚悟がないなら最初から整体なんぞやらないでいい。

論点が予防接種からずれてしまったが、医術というものはたとえその行為がどんな些細なことに見えても、自分の、あるいは肉親のいのちに関わる一大事であることを忘れないでもらいたい。

世相全般にもっと真剣になってもらいたい。もっともっと、生きること死ぬことを深く悩んでもらいたい、というのが正直な思いなのだ。

生理痛は頭を休めて寝ること

このブログ内でも何度も書いてきたが、女性の体調不良に関するスマホとパソコンの被害は軽視できないと思った。

生理痛や生理不順にはじまり、妊娠中のつわりや腰痛・腹痛などは、だいたい2日くらいパソコンを見ないだけで軽減できるものが大半である。

これは40年以上前の野口先生の文章にも見つかる話で、「キーパンチャーのような仕事は女性に向かない」といった内容が記されている。おそらく、指の使い方、それから目の負担などを総合的にみた結果であろう。

そうはいっても今時パソコンを使わない仕事を探す方が大変である。だからといって全く希望の持てないような話かというと、その気にさえなればある程度はコントロールできるものだ。

可能な方はパソコンを使用する時間帯をシフトするだけで、なかなか良好な結果が得られることがわかった。簡単に言えば寝入りばなに画面を観ない、というそれだけでもかなりいい。

どうしてもやめられない仕事なら仕方ないけれど(これも本気になればやめられるのだが)、個別にお話を訊いてみると用もないのに電車の中や夜中にネットサーフィンをしてる人は存外に多い。

試しにデジタルデトックスを実践していただくと、一週間で身体は相当変わる。一番は頭蓋骨の形と頭の働きだ。出どころの判らない余計な不安や怒りが消えていく。そうなると一気に自分の住む世界が静かになるのだ。

生理痛・生理不順や妊娠前後のトラブルで病院や治療院にかかるなら、ますその前に1週間の早寝と脱液晶画面を勧めたい。必ずや効果を感じられるはずである。

生き物を観る眼

赤ちゃんの観方で一番大切なのは、他から抱きとったときの重さの感じである。異常のおこる前は、その重さの感じがフワッと軽いし、充実してズシリとした感じのするときは調子がいいときである。これは物理できな目方の問題ではない。「留守にして帰って、まず子供を抱きとる。その瞬間の重さの感じで留守中どんなに扱われたか判る。また皮膚のつやと張り、眼の色と光とちから、便の量と色、及び掌心発現の状況などから、観る眼を養うことが大切である。そういう生き物を観る勘は、生き物に注意を集めて。興味をもって観ることによって育つ」と(野口)先生は言う(野口昭子著『子育ての記』全生社 p.7)

先月太郎丸をつれて一歳半検診に行ってきた。診るものと言えば、身長・体重、歯科検診、それから言葉がどれくらいわかるのか、である。「言葉の遅れ」がないかどうかを確認したいようだ。

それはいいとして、歯の検査の時に無理やり口をこじ開けられたみたいで太郎はかなりショックを受けてしまった。顔が小さくなってしまって、翌日は熱も出した。結局調子が正常に帰るのに三日はかかったのだった。

診察室に入っては泣き出す子供の集団を見ると、やっぱり人情的には憤懣やる方ない気持ちにはなる。申し訳ないのだが、こういうものが「人間」の健全な発育を点検するものとは到底思えない。ただし、それは極々少数派の主観的な価値観で、ふだん我々が職能的に使っているような「生き物を観る眼」の方が相当「異質」なのだということも知っているつもりだ。

簡単に言うと、「動いている物を動いているまま、全体性を観る」というのがこちらの仕事で、一般医療(科学)では「動いているものを一時的に止めて、部分的に測り」たいわけである。

もちろん、こういう風に部分的に専門性を高めることで解ることもあるのだ。それはそうなのだが、部分的になることで観えなくなることも沢山ある。そして我々はいつだって、その専門分化によって「見えなくなる」ものに用があるのだ。具体的には先に引用した、「皮膚のつやと張り、眼の色と光とちから」というものがそうだし、もっと端的に言えば「いのち」というものが「それ」である。

整体というのは発生当初から、近代医療の見地で「見落とされるもの」を相手に仕事をしてきたのだ。科学的な分析は生命活動から出てくる燃えカスを調べているだけで、「いのち」そのものを捉えることは絶対にできない。

だから「人間の健康生活を指導する」といったときには、やはり整体の独壇場というのが実状ではないかと思う。我田引水も甚だしいのだけど、本当のところそうだとしか思えないのだからしょうがない。縁のあった人たちと向き合って、一人一人、直にこの価値を伝えていくより他ない。多勢に無勢なのだが、それは職業としての存在意義とセットなので複雑な気分だ。

安産しやすい妊婦さんの服装

妊娠期に着る服の注意点を聞かれたので、自分なりに気づいた注意点を少し書いておきます。

まずゴムのような圧迫感のある服は極力排除しましょう。きつくてもゆるくても、いずれも外からの圧はない方がよいです。よく伸縮性の腹巻のようなものを付けている方がいますが、外から支えつづけると全般に身体がたるみやすくなるのでおすすめしません。

腰痛の方が骨盤ベルトを勧められることもあるようですが、これもお尻がたるんだり、人によっては恥骨が痛んだりします。

それから足元ですね。妊娠期はいつも以上に、「冷える」ということの注意が必要です。それも気を付けなければならないのは「足首」です。夏場に素足にサンダルで電車に乗ったりすると、思った以上に冷房で足を冷やします。足を冷やさない工夫をしましょう。

また、かかとの高い靴やサンダルを履きますと、膝、腰に負担がかかります。また足を挫いたりしますと、骨盤に影響が行きやすいので、妊娠期は靴底の平らなものを努めて履くと良いですね。

ですから、まとめると・・

・身体を締めたり圧迫するもはできるだけ着ない

・冷えに注意する(特に膝から下、足首やくるぶし)

・靴は平ぺったいものを履く

このへんを守っていただければ、まずまずじゃないでしょうか。

あんまりおっかなびっくりにならなくても大丈夫ですけどね。妊娠中は細かいことを「気にしすぎない」でぽんわり生活することも大切です。ただ「着衣の問題が気になる」という方は、一応の参考にしてみてくださいね。

逆子体操では直らない逆子

昨年の今頃、「逆子体操を毎日やっている」という方をみていた。「28週から毎日、いくらやっても直らなくて・・」と悩んでいらしたのでその場で実演していただくと、大変キツそうだった。

「逆子体操はあなたの身体には合いませんから」、といって初回の時に止めていただいたのをよく覚えている。それよりも不安で腰が縮こまっているようだったので、カウンセリングでストレスの原因を伺っているうちにだいぶ腰の形が正常に戻ったのだ。2回目にお見えになったときにはもう表情が明るくなっていたので、言わずもがなの結果であった。逆子体操を止めた直後の7日の間に戻ったのだ。

誤解のないように言っておくと、「逆子体操」が悪いという話ではない。どんな刺激であっても、「その時のその身体に、合う、合わない」という診断が正確につかななければ、闇鉄砲と一緒で当るかもしれないし当らないかもしれない。先のケースではむしろ弊害であったのだ。整体は命に触れる御業である。厳しいようだがこういう「やってみなければわからない」ようなものを技術と見做す訳にはいかない。

何事も原因が解らなければ対処のしようがないのだ。だから整体はいつ如何なる時も「原因を観る」ということに集中する。自身で探求するなら、一つの目安はやはり「快・不快」の感覚だろう。身体に合うものは快く、合わないものは不快に感じる。「他はこれ吾にあらず」という言葉の示す通り、この快・不快は自分にしか判らない。野口整体が身体感覚の保持、向上を説くのはそのためなのだ。

今回は体操だったからこの程度だが、運動にしろ、食事にしろ、薬にしろ、自身に合う合わないかを判らないで生きているということは危なっかしい。産まれた当初はみんな100%の「感覚」が働いているのに、成長するにつれて大なり小なりそれがくもってくる。原初的な身体感覚が「良い意味でむきだしになる」ということが、整体指導の目的の一つだ。野口整体を「野生の哲学」と説いた例もあるが、言い得て妙である。

実のところ、逆子になってからで訓練するのではちょっと遅いのだ。だが「気づかないでいる」よりはずっといい。逆子が直る、直らないという事よりも、それを機会に自分自身の感覚に目を向ける人になることが観ていて一番嬉しい。自分を守るのは自身の身体感覚である。しかもこれから備えるのではなく、今あるものを最大限に使うのだからなお良いのだ。自分自身が、自分自身を、自分自身で救うのだから、これが一番間違いがないではないか。人間がいるかぎりこういう学びには用があるし、誰かが説き続ける必要がある。養生とは自然を知り、その自然を人体上に現すことなのだ。

逆子体操

 

離乳食に偏食はない:子供の「食べない」には理由がある

今春から太郎丸は保育園だ。事前に下見に何回か行ってるけど、やっぱり泣かない。人見知りしないのだ。幼児が知らない人をみて泣くのは、かつて「初めて会った人」でこわい思いをしたからである。

具体的には、まず産湯とか。これが熱すぎると、やっぱりこわいと感じる。だけど生まれたばかりの子は「熱い!」とは思わないで、「!っ・・」と思う。次に「これはとんでもない世界に来た」とそう思う。そうするとまず初めて触れるものに対する「警戒」が生まれるのだ。

それから「病気の予防」だといっていきなり注射を打つ。これも当人には理由がわからないから、「ビョウインはイタイ!」という連想が固着する。そうやって「事実」に触れる前の観念の方が身体につよく影響するようになってくる。「と、思い込んだ」ことは身体上に実現するのである。

それはそうと保育園のアンケートに「特に好きな食べ物」と「嫌いな食べ物」の欄があって、固まってしまった。好きなものは「その時食べる物」と書きたいところだが、それじゃあ困るのだろうし‥。でも実際はそうなのだ。

ところが大人は過去に体験したことを「そうだと決め込んで」与えるから、「はい、○○ちゃんの好きな、好きな○○よ」といって、例えばトマトを出したりする。ところが食べない。

それはこの前食べた時はおいしかったというだけの話で、今日はまた別問題である。別に「キライ」ではないのだけど、「キライになったのか」と考えたりする。こうやってるうちに大人の方がいろいろと複雑に考えるようになる。

そもそも、そうやっている大人の方は自由に食べられるはずなのに、案外自分で自分を縛っていたりする。「わたしはコレが好き」と思い込んでいると、いま腹が減ってなくても出てくるとつい食べてしまう。タイミングも量もお構いなしにそうやってしまう。そうやって「うまいか、まずいか」もわからない大人が、純粋な感覚をたよりに生きている赤ちゃんに食べさせるのだから無理がある。

ともかく子供に「偏食」はない。

いつだってからだの要求に寸分くるわず食べている。

砂糖でも塩でも、そのときからだに用があるもの(合うもの)はうまいし、からだに合わなければうまくない。身体が疲れれば甘いものが食べたくなるし、頭が疲れれば辛いものが食べたくなる。

そういうふうに感覚(この場合は味覚)は偏らない。偏るのは身体に良いとか悪いとか過去に覚え込んだ「観念」の方で、その偏った観念と並べて比較するから、「今の味覚」という正確な指標の方が歪んでいるように錯覚してしまう。

また食べないとしたら、その食べない原因には味とか量だけじゃなく、あげる速度とか、スプーンの色・形・温度とか、またその口に持っていく角度とか、あるいは天候、お母さんのキゲンの良し悪し、声のトーン、昨日の運動量などなど、いろんなものが複雑に作用して、赤ちゃんの胃袋というのは動くのである。

だから「なぜ食べないのか」を感じとる力がないうちは、前の「食べた、食べなかった」という記憶の方に踊らされるより他はない。そういうわけで子供の偏食に悩む前に、大人の感受性を見直す方が正解なのである。

身体感覚を鈍らせていては育児はできない。いや育児にかぎった話ではないが、感覚こそが真実なのである。その働きを保つために体を整えるべきなのだ。ここに至って食育以前の体育の必要性を改めて世に問いたい次第である。