活元運動は体を敏感に保つために行うもの

活元運動をやると、胃腸が自然に動き出します。けれども、潰瘍を治そうと思ったり、そういう雑念で活元運動をやったのではよくなりません。

本当に無心(天心)でやり得れば、潰瘍もなくなります。

ですから、病名がつけられるほど体がこわれて、それから治すことを決めるといったやり方は、泥棒が出て行ってから縄をなっているようなものです。

いや、泥棒を見て縄をなうより、ずーっとおそいんです。

なにか異常を体に感じたときは、敏感にそれを感じて、すぐに治すことが体の裡で行なわれなけれなくてはならない。

活元運動をやっている人の体は、自然にそういう働きが出るのです。

活元運動は、病気が対象ではありません。

体がこわれて、そのことをすぐに感じて、そしてただちに恢復作用に結びつく――それが活元運動です。

人間の体は本来がその様にできているのですから、そういう人間の持っている本来の力を充分発揮する体に還る、という考え方が一番大事なことであります。

(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.146 一部改行は太字は引用者)

活元運動をやるうえでは「身体のもともとの自然を守る」ということは大切な目標の一つです。

そのために無心・天心、あるいはポカンというように、心の状態をできるだけ虚にして行うようようにする。

人間はこれまで頭を働かせることで自然を操る方法を講じてきた訳ですが、うらを返せば頭を使えば使うほど、人間はその分だけ自然から逸脱した存在になる、ということです。

文明社会にあって頭を有効に使うことはもちろん必要だけれども、その一方で頭をつかうことの弊害というか、デメリットも知っておかねばなりません。

つまり考え過ぎる(全身の中で頭の働きに偏ると)と、自律神経とか錐体外路系とかいわれる無意識に体のバランスをとっていく作用が停滞してしまうことがあるのです。

これが心の病気現象として現れたのが「うつ」だし、身体上に現象しているのが「癌」とか「肝硬変」というような冷えて固くなる系統の病気です。

このような病気現象になってしまうのは、それだけ身体が自然から遠ざかっていることを意味しているので、治療するにしたってその方法は人工的なものに拠らなければならなくなる。

あるいは「これらを治そう」となど思って活元運動を行なうことは、無心とは逆の方向に努力していることになります。

本来、愉気とか活元運動といったものは、病気があるとかないとか、または治る治らないとか、あるいは生きる死ぬとか、そういったこととは別の次元で行わればければならないのです。

全身の無駄な力が抜けた状態で、ただ「そのこと」を「そのこと」としてやる。

そうすることで体の自然が保たれ、逆に「自然から逸脱する」わずかな動きも敏感に察知できるのです。

そして早め早めに、身心のバランスを本来あるべきように保っていく。そういう生活態度のことを総じて「整体」と、こう呼ぶのです。

こうすることで薬とか手術とか、そういう大がかりな方法に拠らなくても、自分の健康を自分で保っていけるように主体的に行動していくことを「養生」といいます。

活元運動というのはそういう養生の在り方をもっともシンプルに体現したものといっていいかもしれません。

これさえマスターしておけば他のいろいろなこと、健康を保とうとする知識や方法をずっと省いて生きていけるのです。

治そうとしているうちはなかなか治らないのに、そのことを忘れて生活していると知らないうちに治っているうようなことはよくあります。

沢山の知識を身に付けてもなかなか安心を得られないけれども、たった一つ「無為(自然)」を味方につけることができたら、そのことだけで終生深い息をして生きていける。

最初から有るものを、そのまま、その通りに使えばいいのです。

野口整体が引き算の健康法といわれる所以もここにあります。

活元運動は生命の根源的統一へ向かう動き:不変を以って万変に応ず

そこで、活元運動をやっていると、体全体の運動が統一されます。もちろん胃袋は筋肉の運動によって左右できるのだから、体全部の運動系とみな関連があるのですから、活元運動をやっていれば、自然に(胃の)酸が調節されていきます。

酸の多少にかぎらず、胃袋が下がっているのは上がってくるし、ふくれているのは縮むし、潰瘍もなくなっていきます。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.145-146 改行は引用者)

活元運動は特定の病気に対する治療法ではなく、全身のバランスを取り戻す方法として行うものです。

病気が治るのはあくまで副次的効果であって、それは全身のはたらきが「ある一つ」の目的に統一された結果として得られる当然の結果といえます。

本来は全心身の協調性の回復こそが活元運動の目的です。

胃酸過多、胃潰瘍、あるいは胃下垂などなど胃袋だけに着目してもさまざまな名前の「病気」がありますが、その一つ一つの「動き」に病名をつけて治療手段を講じ、施していくとなるとその方法は今後も増加の一途となり幾多になるかわかりません。

これとは逆に、人間が生きている「はたらき」という漠たる一点に目を着けて、その無形の力の発奮だけに注力すれば道は容易に体得されるでしょう。

人間に始めに備わっている、「変わらないもの」をよりしろとして、千変万化する現実に自在に対応していけるのです。これまでの人間の歴史がそれを証明しています。

限られた時の中で、「人間」あるいは「生命」というものの根本を掴みきることが整体の目的です。ただし掴んだら掴みっぱなしではなく忘れてしまうこと。最後は元へ還ることがとても大切です。

活元運動で吐き気がしてしまう人は最初の呼吸法(邪気の吐出)をしっかりやること

質問〕 胃酸が出すぎて治りません。活元運動をやるとよくなると伺いましたが、胃酸の多少と活元運動の関係についてお訊ねします。

 生理的にみると、首からきている迷走神経が働くと胃酸の分泌は多くなります。胃酸自体は、腎臓から捨てる尿酸のうちの捨てきれなかった分であって、いってみれば廃物利用です。かなり筋肉が疲れないとその酸はできません。

つまり筋肉をつかって尿酸で捨てて、その余ったのが胃酸になるのです。

ですから筋肉を使わないとお腹は空かないが、しかし、迷走神経が働くと、それだけでも胃酸は分泌されるのです。

活元運動をやって首の運動が出すぎると、吐き気がすることがあります。それは胃袋の運動が亢まり過ぎたからです。そういう首の運動が出ると、迷走神経が働いて自然に胃酸の分泌は多くなります。

病気の名前はいろいろあります。胃酸の多いのもあれば、少ないのもある。

多すぎて潰瘍を起こすもの、胃袋が縮まっているもの、拡がっているもの、下がっているもの……いろいろですが、要するに胃袋が正常な働きをしていないというだけのことです。

(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.145 一部改行・太字は引用者)

活元運動をはじめて行なうときに一定の割合で「吐き気」や「めまい」を起こすひとがいます。実は私自身も最初そうでした。

ですから「活元運動をしたら気持ちがわるくなりました‥」という方のお話を聞くとそのときのことを思いだします。

これは首周りの筋肉が充分ゆるんでいないとそうなりやすいのです。

その場合は準備動作である「邪気の吐出」、これを入念に行うことで予防できます。

息を吐く動作のときに全身の緊張が細胞レベルでゆるんできますから、これを何度も何度も、あくびが出てもやめないで繰り返していくことで上半身を中心に力が抜けていきます。

首・肩・肘までがくったり力が抜ければ、運動中にめまいや吐き気を起こすことはなくなります。

活元運動で気持ちがわるくなる、という方は邪気の吐出を丁寧にやってみましょう。

活元会 2017.10.14:「個性化」とは?人生の後半に充実感を持たせるための大切なプロセス

昨日は活元会でした。

今回の教材はこちら。


『ユング心理学と現代の危機』河出書房新社

著者は複数、湯浅泰雄、高橋豊、安藤治、田中公明の四氏。うち、高橋豊氏のパートから。

テーマは「個性化」です。

まず「個性化」というのが少し専門的ですから、これについてまず河合隼雄先生の『ユング心理学入門』より引用してみると、

個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程を、ユングは個性化の過程(individuaton process)、あるいは自己実現(self-realizaation)の過程と呼び、人生の究極の目的と考えた。そして、われわれが心理療法において目的とするところも、結局はこのことに他ならないのである。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 p.220 太字は引用者)

と、このように書かれています。

この「自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程」というのをもう少し平易に表現すると、

自分の人格の成長を思って努力している過程」というような表現でもよいと思います。

この個性化こそが心理療法の目的である、というのが河合先生(元はユング)の論です。

そこで「どのようにしてその個性化を行なっていくか」ということが問題になるわけですが、ユングは自身の精神的危機を乗り越えて行く過程で「ヨーガ」を活用したと言われているのです。

つまりユングは当時の西洋にしてはかなり前衛的な試みとして、身体を通じて心の再編を行なうための実践的方法を追及していました。

そこに一つの強力なガイドとなったのが東洋思想と、東洋的な身体行法であったと考えられています。

当然ユングは年代的にも地理的にも日本の活元運動の存在は知るよしもありませんでしたが、この意識を閉じ、無意識に任せて行う活元運動は、自我を高次の全体性へと向かわせる手段として、非常に適しているものなのです。

野口整体には「全生」という、心を自我という枠から解放して命を全うする生き方を推奨する、教義があります。

これは先に挙げた心理療法における個性化、あるいは自己実現という概念と目標をほぼ等しくするものです。

当会の場合は、その「全生」あるいは「個性化」という方向へ生命を向かわせるための大きな推進役として「活元運動」を位置づけています。

何ごとも「目標をどこに置くか」で着地点は変わるものです。

志ある方は「よく生きる」という目標をもって、全身のちからを抜き、意識を鎮め無心のちからを体得しましょう。

次回、次々回の活元会は、10月9日(木)、28日(土)です。

アレルギー症も活元運動をやっているだけでよいのか:それ以前に整体の生命観を理解することが大切

質問〕 アレルギー症も活元運動をやっているだけでよろしいのでしょうか。

 アレルギーというのは敏感な、感じすぎるという状態です。

活元運動をやっていると、一時はその過敏が強調されるが、すぐに正常な状態に還ります。

鈍いのよりはいいです。

アレルギー症には、体のアレルギーと頭のアレルギーの二つの場合があります。

頭で空想すると、ちょうどレモンを見ると唾が出易くなるように、空想すると体に過敏に作用しやすいというようなのが頭のアレルギーです。

活元運動をして良くなるのがは体のアレルギーの方です。体のアレルギーの人が活元運動をすると、一時過敏が濃くなります。

それから良くなります。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.144-145 一部の改行・太字は引用者)

この『健康生活の原理』が出版された昭和51年から比較すると、アレルギーを持っている人は格段に増えている。

全般に体の過敏反応を呈する人が多くなってきているのだ。

個人的にはアレルギーと聞いてまず浮かべるのは花粉症とアトピーなのだが、活元運動をやっていってこれらが劇的に解消するかというと、なかなかそう単純なものではない。

わたし自身花粉症とアレルギー性鼻炎を持ち合わせているけれども、野口整体をやってからどうなったかというと、そんなには変わっていないのである。

ただし野口整体流の病症観を知ったことによって、同じアレルギーが出るにしても対応の仕方はまるでちがう。

整体流のそれというのは兎にも角にも「まかせる」というもので、体を整えることで本来のはたらきを高め、その邪魔をしないことなのだ(※ただ放っておくことではない)。

これについて畑は異なるが、精神科医の神田橋條治氏が述べる精神療法についての説明が非常に的を射ているのでここに少し引用する。

精神療法とは、自然治癒力と自助の活動とを活性化し活用することである。その方針をコトバでまとめると、「引き出す」「妨げない」「障害を取り除く」となる。(神田橋條治著『精神療法面接のコツ』岩崎学術出版社 p.32 太字は引用者)

このように整体指導、精神療法のいずれにしても、原則的には「クライエントが自分で治る」という「可能性」に着眼し、これを暗に助勢する行為なのである。

つまりは「生命」というのは「狂うこともなければ、冒されることもない、全きもの」、という信念が先ず真ん中にあって、治療者はそれをただ「みている」だけという構図に集約されていく。

だからアレルギー反応についても「出るものは出るにまかせて、どんどん出してしまう」という、そういう態度に徹しきってしまうのだ。

事実そのように考え行動していけば、体に対する背きがないぶんだけ経過はなめらかになるのは当然である。

また妻を例に挙げると、産後アトピー性の皮膚炎がだいぶ出たのだが、とにかく「何もしない」で経過を見ていくこと1年、2年、3年、‥ようやく最近肌の感覚がふつーに戻ってきたというではないか。

これが果たして「活元運動をやっていたから」なのかどうかは実証できないけれども、ともかく炎症を薬で抑えない、外から保湿もしない、落屑(らくせつ:肌のぽろぽろ)もなるだけ手をつけない、そういう手法でずっとやっていって、中庸の速度で治る方向にずっと動いてきているのは事実である。

わたしのところには野口整体を標榜していることで「アレルギー」にかぎらず、実際にはいろいろなことを頼まれるけれども、最初の関門はこの「思想」に関する理解と共感である。

これがないと整体指導も行えず、活元運動もお教えすることはできない。こちらがいくら教えようとしても相手の「判断」の壁にはじかれてしまう。

本当なら「指導」というのはそうした教育までが含まれるのかもしれないのだが、一方では「憤せざれば啓せず」というもので「教育」というのは指導力と理解力(と求める力)の乗算で成果が出るものだ。

とりわけ生まれてから長いあいだアレルギーに悩まされてきた人にとっては、価値観の転換こそが大きな障壁であると同時に、可能性を開く鍵になる。

言いかえると野口整体の本質を見抜く直観力と継続力、これによって体質改善の扉は開かれると思う。

活元運動をつづけていくと‥

質問〕 長い間活元運動をしている人は反応の三段階が終ってから、運動が変化していますか。

 その日その日の体の使い方で、それを調整する運動が起こりますから、始終変化しています。

ただ必要な運動が端的に出るようになりますから運動時間が短くなります。

多摩川の向こうに幼稚園がありまして、そこで子供達が毎朝活元運動をしているのです。

すると、他の幼稚園では怪我する子が日に何十人か出るのに、そこでは一人も出ないそうです。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.144 一部改行は引用者)

活元運動は「一度出るようになった」らおわりという訳ではありません。

つづけていくことで運動の質的変化があります。

ひとにもよるけれど、はじめのうちは何か騒々しい感じの運動が出ることが多い。

また手さき足さきの運動が目立つ段階から、つづけていくことで体幹、背骨といった中心側が精妙に動くようになってくる。

年齢からくるものもあるかもしれないが、だんだん運動の質が綿密・精巧になっていくと思っていれば間違いない。

引用には子どもにやらせると怪我をしない云々というところがあるけれど、これは子どもに教えたことがないからわからない。

ただし大人の場合、転んだり手を滑らて物を落っことしたりするのはあきらかに錐体外路系という、無意識のバランス機能が鈍っている。

活元運動の必要性の高い状態だ。

反応期がおわったからといって、それが全てではない。

一度自転車に乗れるようになったって、乗るときはいつも倒れないようにバランスを取り続けているのと同じような感じです。

体を守る見えないバリヤーというか、今まで自分で自分を保護してきた力を高めていくようなつもりでつづけていくといいだろう。

活元会でおこなう活元運動は訓練:目標はいつでもどこでも活元運動が出る体を育てること

質問〕 活元運動をしていない時でも、体のあちこちが痙攣みたいなものを起こすのですが?

 しばらく神経の鈍っていたのがはたらき出してきたのです。その時期というだけです。

体が活元運動で訓練されてくると、何か異常が生ずると自然に活元運動が出てきます。

そういうときは終るまでやる。

そういう体になるための訓練課程として活元運動をするのです。

(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.143-144 一部改行は引用者)

活元会で行なう活元運動は訓練です。

いってみれば道場で武道をならっているのに近いかもしれません。

例えば「剣道」は元はといえば斬り合いの練習なのです。

本当の斬り合いなんて無いに越したことはないけれど、元来は有事に備えて行う鍛錬、修養法だったわけです。

ところが現代ならばほぼ道場の稽古にはじまって稽古に終わる。

たまに昇段審査とか試合があるくらいで、メインは稽古のための稽古であっていい。それでいて健康保持や体力増進などの効用を思えば、現代的には充分役に立っているわけですから。

活元運動というものだいたいそれに似ていて、活元会で行なうだけでも1~2年もやればだいぶ体は変わるのです。

だけど、本来の目的はそこではなくって、

本当は体に何かストレスがかかったときに、きちっと発動するための訓練をしている。

普段的に活元運動を自分の意思で「行なう」のはそのためなのだ。

実際のときは「私がやる」という手続きをとばして、さーっと出る。

自分の経験からいうと、「そういう身体になったな」と思ったのは、‥今年から。

だから活元運動を始めてから12年くらいたってる。

遅いですね。。

なので、なるべくその様なことにならないように、活元会では理論の解説から誘導まで丁寧に行うようにしています。

目標は「お守り」いらずの体になること。

生命には後からつけ加えなければならないものは何にもありません。

もともとのスペックをしっかり使い切れるように、訓練をしておきましょう。

活元運動と体の波:健康とは自然の波に自分が同調している状態

質問〕 活元運動をやりますと、身体のよくなってゆくのが、波のように、よくなったり悪くなったりしてゆきますが?

 よくなったり悪くなったり感じるのです。感じるだけで、体はよくなる方向へと進んでいる。人間の体の感覚で、それを強く感じたり弱く感じたりする。

例えば打身をして痛みのない時に、活元運動をすると、痛みを感じだしてくる。感じだすこと自体はよい傾向なのに、多くの人は先入主で、痛みが起こったら悪くなったと思うのです。

熱が急にでる、これも排泄現象で良い傾向なのです。けれども、前の先入主で、それを悪いと思う。それで波を感じる。そういう場合が一つ。

それから体自体にそういう波があるのです。調子がよい時と、陰気になってくる時とがある。そしてそういう波で反応の出方が違う。

そういう二つの場合があります。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.143)

これは活元運動の反応だけに限定されず、個人指導で愉気を受けた場合にも適合する話である。

人間とは、生命とは波である。

バイオリズムという言葉の発現を待つまでもなく、全てのいのちには「ゆらぎ」の性質があるのだ。

だから同じように活元運動をやっていても、何ともないでいる時期と反応が出やすい時期があると思っておいた方がいい。

全般に体が整っている人ほどこの「波」がはっきりしている。

健康というのはこの気分が常にいい状態だと思われがちだがそれは違う。

低潮・高潮の波は一定の周期で常にあるのだ。小さい波でいえば、心は10日、体は7日で動いていく。

だから心の低潮と体の高潮がかさなったり、その逆のときなどに「調子が悪い」と感じるなど、妙な感じがするのである。

それをどうこうするという話ではなく、「そういうもの」なのだ。

そこで整体生活を営むなら、一つには「待つ」という技術を身に付ける必要がある。

病気を上手に経過させるのだって「待つ」ことだし、気分の浮き沈みなどもいちいと取り合わずに待っていれば、大抵のものは自然と流れていく。

整体法とは極論を言えば、時を待つこと、そして波に乗るなのだ。波に逆らわないでいられるように心と体を鍛錬していく。

「鍛錬」といっても変に苦しむような話ではなく、活元運動で体がやわらくなっていくことで、息は中庸となり、自然と待てるようになる。そういう方向に鍛えていく。

一つには「慣れ」もある。慣れてくると少々の体の変動ではおどろかなくなる。付け加えておくと、病気に「おどろかない」ことと甘く見ることは違う。

あくまで慎重に、それでいて落ち着いて自分自身の経過観察ができるようになってくるものだ。

その第一関門として活元運動の反応期は便利といえる。興味を持って自分の変化を見ていくと知らぬ間に反応は終わっていると思う。

反応期を有意義に過ごすコツは、体の変動よりも息の深さを注視することだろう。

活元運動の反応が早い人、遅い人

質問〕 活元運動の反応期に、弛緩、過敏、排泄の三段階を経過するのに、どの位かかりますか。

 人によって、いろいろ違います。早い人は一週間位、遅い人は二年位かかります。体の敏感な人は早い。鈍っている人は遅い。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.142)

前回に続いて活元運動の反応について。

どれくらいで経過するかというと、全くバラバラ。ちなみに私の場合、はっきりした反応が出た時には、整体をはじめて5年くらい経っていたと思う。だからだいぶ鈍かったのだ。

下痢として出たけれども、ものすごい爽快感だったのを覚えている。

人にもよると思うけど、自分の場合は心理的なロックが外れたことが大きかった。

つまりその時期に「整体に本気になった」のだ。

だからいい加減にやっていると、反応が出るまでにまず時間がかかるかもしれない‥。ハィ。

指導する側からいえば、「興味をもってもらうこと」、「意欲を高めること」は大切だ。

まず頭で理解して、やってみようという意欲を育て、そして自分の体と対話しながら取り組んでいく。

そう考えると早い遅いよりも反応期の生活の在り方、「質」の方を気にしたほうが有意義ともいえる。

ごくたまに「活元運動をすることで、あまりに生活が変わってしまいそうでちょっと不安なのですが‥」という人もいるけれど、基本的には反応期であっても心身の変化は自分のコントロール下にある。

案ずるより生むがやすしというか、どう生きればいいかは身体の方がよく知っているから大丈夫だ。

活元運動を通じて、いろいろな意味で身体に任せる感覚を学べたならそれが何よりだと思う。

活元運動の反応がはげしい人

質問〕 体の具合の悪い人は、活元運動をやり出して、反応があまりひどいと、本人がびっくりして、活元運動をやめたり、医者に行ったりするから、やる前にどの程度の反応が出るか知りたいのですが。

 それは前もって予想できます。でも、調べるのはむずかしい。しかし、どの程度、その人が耐えるか否かは判ります。

困るのは精神病や、そういう素質のある人で、三月も半年も休まないで続くことがあります。そういう場合は、やめるようすすめているのです。そういう人の反応は、活元運動の誘導と一緒に、声を出して呼吸と首の回転が起こる。そうしたら、トンと左肩を叩いて止める。

それ以外の場合は心配ありません。

そうなったのでも、精神病の素質があるからではなくて、単なるヒステリーである場合もある。ただ、潜在意識の中に家族間のゴタゴタなどを抱えていると、運動中にしゃべり出したりします。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.142 一部改行は引用者)

活元運動というと「反応、反応」と常に注意がついてまわるが、実際はそこまではげしい反応が出る人は稀だと思っていい。

だいたいは始めてすぐなら筋肉痛のような痛みがでる人、それから半年、一年くらい続けていって風邪を引けるようになる人がちらほら出るくらいだ。

ただ、ときどきつよい反応が出る人がいるから、あらかじめ断っておかないと具合がわるいのである。

そうなる人の傾向はまず体が硬い人(で、愉気を受けて眠ったようになる人も)、それからいきなり活発な運動が出すぎる人、がそうなりやすい。

活元「運動」というからには動くことはもちろん大切だが、初回からはげしい運動の出る人の中には非常に気ぜわしい人、頭の中が一向に休まらないタイプの人がいる。

整体であることの条件の一つは気持ちがユッタリしていることなので、活元運動も本来ならばそのような意識が確認できたうえで行なうのが正しいやり方だ。

そいう意味では頭の忙しすぎる人に加え、あきらかな精神疾患のある方にはおすすめできない。また現代では多いけれども投薬による治療を受けている場合も同じ。

そういう場合は活元会のような集団の場ではなく、個別で丁寧に愉気を受けながら徐々に弛めていく方が適している。

心配な方はしばらく邪気の吐出だけを充分に行ってみよう。意識の落ち着きを取り戻してから徐々に活元運動をやれば急激な変動は抑えられる。

体がゆるんでくれば、心は休まり、頭の中でゴタゴタしたものも自然に流れていくのだ。中庸の速度、感覚を意識して行えば反応もゆるやかになる。体の感覚に訊ねながら、無理をしなければあまり心配はいらないだろう。