妊娠中から活元運動を行なってもよいか:できることなら妊娠前、出産を意識したらすぐにはじめよう

質問〕 子供ができたばかりの人に、活元運動を奨めたいのですが、反応が心配です。

 活元運動をやりますと、内部に異常のない時は流産する傾向が無くなってしまいます。流産しかけている人でも、活元運動をすると元へ還ります。

内で胎児が死んでいるような場合は、活元運動をすると、直ぐに流産します。一、二回やっていると、出てしまいます。

だから、内で死んでいるとか、母体がどうしても産むのに具合が悪いという状態以外は流産しません。

活元運度をすると却って楽に産める。流産した場合でも、簡単に終えます。何でもない時は体を丈夫にします。

 

近頃痛まずにお産をする方法として、活元運動をする人がとても多いです。

その誘導の方法は、仰向けにして、臍の上に手を当てて愉気をする。そうするとお腹の中が動き出してくる。動き出してくる人達は活元運動をしても大丈夫です。

手を当てると、動かないで逆に硬くなってしまう人もいます。そういう人を誘導すると、流産する場合があるのです。

予めそれ(臍に手を当てるということ)をやっておくといいと思います。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.141-142 一部改行は引用者)

活元運動は身体を敏感にし弾力を持たせるための運動だから、出産に備えて行っておくことはとてもよい。

その上でいつから始めるかということだけども、まったく整体の素養のない人ならば妊娠中、特に安定期に入る前に行うのは注意がいる。

体が整っているということは身体の様々な機能が正常にはたらくということなので、丈夫な子ならきちっと月が満ちるまで待って生まれてくるし、何か異常があった場合は流れてしまう。

だから考えよう、見方によっては「リスク」があることを知っておく必要がある。

うちを例にとると2009年から仕事をしてきているが妊娠期から整体の個人指導、活元運動の指導をお引き受けしてこれといった問題が生じたということはない。

そもそも件数自体がそんなにないのもあるけれど、基本的に自分の技術は愉気をベースに行っているので、急激に大きな変動を起こすようなことがないのだろう。

しかしまあ「いい出産をする」「自分で産むんだ」と決心したら、妊娠を意識したと同時に整体指導、活元運動をはじめる方が絶対にいい。

折に触れて何度も書いてきているが、「整体」という概念を理解するのに早くて1年、それらしい身体になってくるのに3年くらいはみておきたい。

何でもそうだが、こと身体のことに関していえば付け焼刃でぽっとできるようなものは信用ならないと思っている。

世相全般に高齢出産が増えていることに加えて、都心ならば体の固い人、基礎体力のない人も多いだろう。

そういう人がまた分娩台のような体の自由の利かない環境で産むとなると、やはり備えあれば憂いなしだ。出産は「準備で9割決まる」と思ってもらいたい。

引用とは少しことなる意見だが、「時代性」を考慮に入れれば腑落ちするだろう。『健康生活の原理』自体が40年前に出版されたものなのだから。

整体出産・整体育児を志すなら半年、1年くらい前から活元運動をはじめるといいだろう。

活元運動は一日のうちいつやったらよいか

質問〕 活元運動は一日のうちの何時ごろに行ったらよいでしょうか。

 活元運動は硬張っている体を弛むようにするのですから、寝る前にやるのが一番よいのです。あるいはまた、くたびれたときならいつでもなさってよろしいし、非常に効果的です。

しかし寝る前と限定してしまうと、つい眠くてズボラする恐れがありますから、時間的なことは余り拘泥なさらないで、暇ができて、気が向いたときなら、いつ何どきにやられても構いません。むしろこのほうが気楽で、永続性があるでしょう。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.138-139 改行、一部太字は引用者)

引用にある通り、活元運動は就寝前に行うと一番シックリいく。

ただし眠りの質が良くなるので短時間睡眠になるひともいるから、そういうことも知っておいた方がいいだろう。

たとえば夜の11時頃に活元運動をやって眠りにつくと、2時とか3時に目が覚めてしまうことがあるのだ。スパッと起きてしまうならそれでもいいけど‥。

そういうわけで、「いつでも気の向いたときにどうぞ」といっておけば一番障りがないということだ。

どちらかというとあまり細かいことをたくさん覚えて不自由するくらいなら、鬱滞を感じたときにすぐ行うようなつもりでいるほうが、本来の目的には適っていると思う。

個人的には場を区切ってしっかり活元運動を行なうのは月に1~2回、あとは気の向いたときにさっさっとやっていく位でいいと思う。

それもやがて慣れたらいらなくなる。「整体」とは本体、いつでもどこでも活元運動が発動しっぱなしの状態を指すからだ。

よく考えたら健康を保つためにいちいち「訓練している」なんておかしなことではないか。せめて整体に関わるときくらいは時計も病気も健康も忘れて、無条件な自分でいたらいいと思う。

活元運動は毎日やるべきか:回数よりも気の密度 気が集まることで体は変わる

質問〕活元運動は、毎日やった方がよいですか。やり過ぎることはありますか。

 だれでも、自分に適う運動しか出ません。だから二度やろうとしても出ないことがある。しかし、三度やっても、同じように出ることもあります。訓練してあれば、必要なときに、自然と動き出します。その時は終わるまでやった方がよろしい。

前に道場に来ていたイスラエルの人ですが、国へ帰って昨年のクリスマスに手紙をよこしました。先週からドライブするのに眼鏡をかけていない。自分を知っている人は不思議がっている。私自身もまだ信じられない。でも、もう眼鏡はいらなくなった、というのです。

一昨年、ここを出ていく時に、「目が悪いがどうやったらよいか」と私に訊ねたのです。私は、活元運動をした後で眼をじっと押える。そこへ気を集める。それを一年間やることを教えました。つまり、やろうと決心したこと、一年間という目標をたてたこと、それを忠実に実行したことで、眼鏡がはずせるまでになったのだと思います。

皆さんどうぞおやり下さい。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.137-138 一部太字は引用者)

だいたい1年に2、3回くらい「先生は毎日活元運動をやっているんですか?」と聞かれることがあるが、以前は申し訳ないくらい一人ではやらなかった。

せいぜい活元会を行なったときにみんなと一緒に少し行うぐらいで、あとは全くといっていいほどやらない。

この1年くらいだろうか、心身が鬱滞したときにはマメにやるような感じになってきた。

活元運動を修得する時期においては、一応の区切り、というかここまでやっておけば意義はあったというのは好転反応を全部経過したあたりである。

活元運動の好転反応に関する記事はこちら

熱が出たり、あちらこちら痛くなったり、そういう反応が終わったらもう訓練法としての活元運動はやめても構わないと思っている。

だから「活元運動は毎日やった方がいいのか」という疑問については気持ちもわかるけれども、大切なのことは義務感のような自分への押しつけを避けることである。

まずなによりも意欲とか自発性が自然と発揮される自然な心を保つことが大事。

なぜなら「その気」になったときに、はじめて自分の身体は中心からすみずみまで動くからである。

引用からもわかるように「目が悪いがどうやったらよいか」という本人の関心がもっとも高まったところですかさず、「目を押える、そこへ気を集める」ということを指導した。

そうやってほんの少し見えた自発の動きを見逃さず、意欲の方向づけをする指導をしている。

活元運動にかぎらす、人間が普段の生活のなかで自然の健康を保つためには気の集中、気が集まることを積極的にやっていくことが大切だ。これによって眠っている体力が振作される。

逆に気が集まらないことをだらだらやる習慣がついてしまうと、今これといった病気をしていなくても、もうすでに健康は損なわれているといっていい。これはなかなか根の深い問題なのだ。

ただし気の集中というのは体力にも裏打ちされている。活元運動は眠っている体力を呼び起すものでもあるから、やはりからだの怠けている人は一定期間集中して行う必要はあると思う。

それでも「毎日やる」というよりは活元会などでみんなが集まったときに質の高い活元運動を丁寧に行うことを心がけるほうがいいだろう。

丁寧さ、細やかさ、というのは整った生活を支える基盤だ。回数を多くして自分自身が粗雑になるくらいならやらむしろやらないほうがよい。

だいたい小いち年くらい淡々と取り組めばそれらしい身体(整体)にはなっていくる。好転反応というのもだいたいその頃までにはおおむね終わるだろう(出る人も、出ない人も‥)。

どちらかというと一過性の特効薬的なものではなく、一生ものと考えて欲しい。中断があってもいいから一生付き合うつもりでいた方が、人生の要所要所で助けになるのではないかと思う。お守りみたいなものだが神仏に祈っているよりは、ご利益は確実にあるはずだ。

活元運動の目標(目的):「身心脱落 脱落身心」整った体に世界は正しく映る

質問〕座禅には悟りという目標がありますが、活元運動では、どういうことが目標となりますか。

 先ず体が無くなってしまう。心も無くなってしまう。つまり、手があるとか、胃袋があるとかいう感じは、そこが鈍いからなのです。胃袋がきちんとはたらいている人は、胃袋のあることを意識しない。体があると感じるのは、まだ体が整っていない、体が調和していないときです。そういうことで、先ず体が無くなってしまう。

心についても同じことが言えます。例えば「悟り」などということを意識している間は、悟りではない。無になっていない。体も心も無くなって、気だけが感じられる。生活自体が気の動きそのものになる。その気も、ただ一個人の気だけでなく、もっと大きな(宇宙的な)気と感応し合い、それと融け合いながら動くと、世界は一つになる。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.137)

活元運動は体が最短のコースを通って整う方法だ。

活元運動が上手に行われて体が整うと、引用文にあるように「整った」とか「悟り」とか、ともかくその時は「あー」も「うー」も無くなってしまう。

それどころか、肩がいつも凝っているからとか、緊張しやすいからとか、最初に悩んだり問題にしていたものも消えてしまう。

問題が解消したわけではなくって、相手にしていた自分が融けて消えてしまうのだから「悟り」と同質の体験といっていい。

「世界と一つになる」なんていう表現もあるので、いわゆる仏道の「見性」とほぼ同じものを指していると思う。

ただし「一つになる」というと、「もともと一つではない」という前提になってしまうのでこれには気をつけたい。

世界はもともと一個の一大活動体なのだから。

ただ人間は理性による「認識」でもって分別心がはたらくから、こちらは私、あちらはあなた、これはスマホ、スマホの画面、とそのカバー…etc、とかってどんどん(認識の上だけで)分化していく。

そういうふうに「分けて別にする心」が止めば、また一個があらわれる(本当は心がどう動こうが世界はお構いなしに一個なのだが)。

ただ「あ、一個になった!」といったとき、その瞬間また「私」と「世界」が分離している。一個になった世界を見ている人がいるのだから二個になっているのだ。

これが「鑑覚の病(悟った病)」といわれる悟りの矛盾である。

最初の引用にあった、「「悟り」などということを意識している間は、悟りではない。無になっていない。」というのはこのことを指して言っている。

これを坐禅の方で見てみると、鎌倉時代に道元禅師が宋に渡って修行を積んでいた折、ある坐禅の最中に「あ、いま身心脱落した(しんじんだつらく≒悟った)」と気がついてその時の師であった如浄禅師にさっそく訊ねたところ、師はそれを否定し、「身心脱落、脱落身心(いや、修業したから悟ったんじゃあなくって、最初から悟りも迷いも、何ーんにもなかったんでしょう?)」と教え諭した(正した)と言われている。

それで道元禅師もあらためて納得し、「ああ、そうですね」と言ってそれ以来、すっかり抜け切ってしまったそうである。

活元運動というのはそういう「悟り」みたいな到達点を設けないで、「身体の自然な動きに任せましょう」といって統一に向かう過程がそのままゴールになっているから「迷い」にくい。

「ポカンとすれば、もうそれでいい」という表現も、野口先生特有の国語力の高さというか、人をしてみだりに惑わせないための巧妙な表現である。

だからもしも「活元運動の目的は?」と訊ねられたら「その目的を捨てることだ」というのが当たりかもしれない。ただしそれでは納得されないので最初の引用のような表現になったのだろうと思う。

これを理屈だけで理解しようとすると極めて難解だが、活元運動が終わったときの場の雰囲気を知っている人ならだいたい意味するところはわかるだろう。

固い人も柔らかい人もやっていけば、やがてはみんなゆるんで整っていく。非常に安全で簡単で、人を選ばないのがいい。

体がゆるんでしまえば、生来の位置に整い意識は静まる。

この時には「わたし、と、あなた」といって分別するはたらきも休んでいるので、こちらの静寂が世界を満たす。

体は世界を映しだす鏡なのだ。

体がかたよって(鏡がゆがんで)いると、世界もゆがんで映る。

つまりかたよった体で何も見ても聞いても、あれが面白くない、これがつまらない、ということになる。

こんなとき、鏡に映った世界をいじくるのは賢い者のすることではない。

賢明な人ならば、まず鏡を直す(体を整える)ことに取り掛かるだろう。

すなわち活元運動が闊達自在に行われるとき世界は秩序を取り戻しみるみる動いていく。

この世界を取り替える必要など最初からなかったのである。

体が整うとき、世界も整う

そういうことを考えながら活元運動をやるのも本当はよくないけれども、根本はそういうことだと理解してからやる方が気持ちの面から言っても統一しやすいだろう。

たから「ポカンとして体の自然の動きに任せる、それだけでいいのです」というのは、人類全体が救われる道、世界を安んじる方法をごくごく端的あらわしていると言っていい。

活元運動は他人の力をいっさい借りずして、この自分の体だけを使って徹底的に救われる、そういう至高のものなのだ。

そういう非常に簡単なことなんだけれども、「正しい理解と実践」、この二つが揃わないと充分な恩恵は得られない。

ともかく、理屈は以上でおしまい。

あとは本当に、自分でやって、確かめてみると「ああ本当だ」と、そういう風にみんなちゃんとできていることがわかる。

それぐらい「いのち」とか「世界」っていうものは、間違いようのないくらい最初からしっかりしているのである。

誰も踏み外していないんだけど、なぜか落っこちる人がいるからそっちの方がふしぎなんだな。

やってみると、やがてはどこかで自分の体がちゃんとしていることがわかるものだ。

そういう意味で、いのちはみんな平等。それが納得いくところまでやられてみることをおすすめしているのだ。

今月の活元会 日程はこちら

活元運動のコツ「雑念について」:ポカンとできない、ポカンってどういうこと?3

問(60) 坐禅中雑念が次々と出てきてどうしようもない時がありますが、そういう坐禅でも宜しいのですか。また雑念とはどういうものですか。

答 うんそれで良いのです。それが今の様に、皆雑念、雑念というて、自分で考え過ぎているのです。教えられたものを、出てくると直ぐそう思うのです。それが雑念なんです。

…<中略>…一寸出ると、アアこれが煩悩じやというて、そういう考えを以て取り扱う。そしてそれを無くしよう、無くしようと思うから、それで間違うのです。(井上義衍著『玄魯随聞記』龍泉寺参禅道場発行 p.77 太字は引用者)

さて、さらに昨日から引きつづきである。「雑念について」。ちょっとくどいかもしれないけど‥。

活元運動は「あたまの中をポカンとして自然の動きにまかせる、それだけでよい」ということになっている。

そのポカンが誤解されやすく「なかなかポカンとなれません」とマジメにがんばる方がいるので、「もっといいかげんでいいですよ」というアドバイスをすることもままあるのだ。

上の引用は坐禅の話なので方法論がことなるが、まあ大事なところは共通している。

つまり、いわゆる雑念だとか、煩悩だとかいうものは放っておけばいい、という。

ここでまた「放っておく」と聞くと、「放っておこう」とがんばる人もいるのだが‥。

ただしこういうことも言える。

坐禅と活元運動の両方を経験した立場からいうと、精神状態は微妙にことなる。

活元運動のほうは個人のからだの特性や状況、疲労度合に合わせて適度な運動がでるので、自分の体験としては統一状態、というか良い気分に入り込みやすい。

いや活元運動の優性を説いているわけではなく、坐禅の場合は生活全体が禅という態度で行われないと、一般の方が趣味的に行っているだけでは意識が静まりにくいと思うのだ。

もう一つには「活元運動が出ない」とか、「いろいろ考えてしまいます」というひとは、そもそもがあまり回数をこなしていない初心者の方が圧倒的に多い。

ひとつには「慣れ」、なのである。

だからまあ、いろいろ考えているよりも繰り返し活元会に参加して、意識も身体も気持ち良くとけてなくなっていくような感覚をあじわってほしい。

だいたい4~5回もやれば、動きもこなれてくる。

興味のないひとにまで教えることは非常にむずかしいので、そんなことまではしないけど、活元運動は覚えておくと本当に便利なのだ。

便利というか、本来なら必須のものと思っている。

だいたい月に一回か二回、活元会で行うとして、それを一年くらいつづければからだの調整機能は安定するし、意識が騒がしいひとならだんだん落ち着いてくる。必要なときに運動が出るようにもなっているだろう。

きっとそのころには雑念とかポカンとか、そういうことも忘れていると思う。整体というものはあたまの勉強だけでは不充分で、環境とか場の雰囲気にひたることで少しずつからだに馴染んでくるものだ。

やり方さえ教わったら、あとは気の向くときにどんどんやっていって欲しい。1年もするころにはいろいろな恩恵にあずかれるはずだ。

活元運動のコツ「天心について」:ポカンとできない、ポカンってどういうこと?2

きのうの活元会の話のつづきになるけれど、野口整体の本には「ポカンとする」という表現がしょっちゅう出てくる。

それで最近気がついたことがあって、その「ポカン」という言葉の印象がつよいらしく、何か本当に頭が空っぽになってまったく念が浮かんでこないことを期待するひとがけっこういるのだ。

俗にいう「無心」とか「無念無想」とかいう言葉のイメージが先行して、自分がきちんと目が覚めて活動しているときでも「頭のなかに何にもでてこない」、そういうことが本当にあるように思われるらしい。

当然のことながらいくら「ポカン」といったって、そんな状態などありはしない。

あるワケがない。

少しこれに因んで仏道のほうから言葉を借りると、「目耳鼻舌身意(げん・に・び・ぜつ・しん・い)」というのがあるけれど、

これらは「六根」といっていわゆる「五官(五感)」、プラス「意」。意というのは、まあ心とかイメージのことを指している。

人間として生きて活動しているかぎり、この六つの感覚器官はつねに付随する、ということだ。

目が開いていれば必ず何かしら景色が見えるように、生きていれば頭の中にはいろいろな言葉やイメージがいつも去来しているのが正常なのである。

健全というのはこの正常さがそのまま現れていることで、それ以上のことを期待するのは誤り、というか欲ばり?

ところが「瞑想」とか「精神統一」なんて作り事をやろうとすると、この正常なはたらきであるはずの意識の活動を邪魔に感じるようになってくる。

俗にいう「雑念」とか「妄念」という取り扱いをして、とかく浮いてくるイメージをどうにかこうにか押しとどめようとするのだが、これは全くおかしなことではないか。

このあたりについて野口整体の『健康生活の原理』という本に「天心について」という見出しから始まる一文があるので、下に引用することにする。

天心ということ

活元運動も相互運動も、行うときに一番大切なことは、やり方ではありません。「天心」であること、が根本です。

天心で欲のない、相手に何ら求めることもなく、恩を着せることもなく、ただ自然の動きに動く、そういう心の状態でやらなくてはならない。

親切にしてやろうとか、やってあげる、受けているというような心があったり、自分の技術を誇るとかいう心でしてはならない。

…<中略>…

「心を空っぽにすることは難しい、無心になろうとすると、あとからあとから雑念がわいてくるのですが…」と質問した人がありました。けれども雑念があとからあとから沸いてくる時は無心なのです。

心が澄んできたから、雑念があとからあとから出ては消えるのがわかるようになったといえる。或る雑念が心から離れないで、次の雑念を生み出すようだといけないのです。

だから浮かんでは消える雑念のまま手を当てていれば動き出してくるし、動き出せばひとりでに雑念がなくなって、統一状態になります。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.124-125 太字、改行は引用者)

このように、つねに何か浮いては消えていくのが生きているこころの実相といえる。

そのために、からだを静止して自分の念の動きにフォーカスしてみると、いろいろなイメージが流れていることにはじめて気がつくのだ。

ところがそういう中に、他人を悪く思ったり、欲心めいたことが浮かぶとすぐそれを「雑念だ」、という人がいる。

わたしに言わせれば、そういう風にただ浮かんできたことを追っかけて、これは良いとか悪いとかいうこと自体に不自然さがある。

むしろそういう行為こそが人間的な欲心ではないかとすら思うのだ。

例えば雑草なんていう言葉もあるけれど、もともとはこの世界に雑草という草はない。

ところが庭の手入れなんかしていて、この花はのこそう、この草はむしろう、そうやって分別心を起こすから「雑草という取り扱い」が出てくる。

別にそのこと自体、人間の生活を邪魔しているということはめったにないのだが、そこに好悪の情を持ち出すから障りになるのである。

「雑念」というものもこれと同じだ。

頭のなかに出てきたものは、別になんにも邪魔にはなっていない。

悪心といったって欲心といったって、そんなものはそれを相手にしているわずかな時間だけが問題になるのであって、一日の生活全体を見渡してみれば、風呂に入ったりお茶を飲んだりして、そのことがすっかり消えている時間もいっぱいある。もとより人畜無害のものである。

そんなものをいちいち振り払おうとしてみたり、呼吸に集中するだの、数を数えるだのいろいろやって、それでも「気がつくと考えちゃってます」なんてやっているのは、徒労以外の何ものでもない。いわんや自分の念を怯えて逃げ回っているなど滑稽の極みではないか。

もっともっと、自然の、あたりまえの在り方について目をつけるつもりでいたらいいじゃあないか。

訓練してようやくそうなるような話ではなく、普段の一日の生活のなかにだって「ポカン」としている時間はいくらでもある。

おそらくは今朝だって「無心・無念無想」で靴を履き、出かけていったひとがほどんどだろう。

そういう時にはいっさい気にならないものが、ちょいと「集中」とか「精神修養」めいたことをやろう、なんていうともうそれが気になってぐしゃぐしゃになってしまう。そんな人が存外多い。

ただ、そのまんまにしておいたらいい。

放っておけば出てきたものは即座に消えていくことに気づくはずだ。

瞑想だって活元運動だって教える人が「きちっ」としていれば、そういうこともおいおいわかってくるはずなんだけど。

むしろ一つの「雑念」を三日も四日も、ずーっと取って置こうと思ったらそっちの方が大変ではないか。

消そう、流そうなんて思わなくたって、こころに浮かんだものはいつだって自然に流れていってひとつも跡を残していない。なんだ、みんな最初っから無心だったんじゃあないか。

それに気がついたらもう作り事はやめてその最初のところに帰ればいい。いや、実際ポカンてなったら帰ることすら忘れるんだけど。ポカーン‥。

活元会 2017.10.5:ポカンとできない、ポカンってどういうこと?

今日は10月最初の活元会でした。

長編の教材を用意していたのに今回は使わずじまい。あら‥。

いや、話の流れで「ポカンとするってどういうこと?」というテーマでしゃべった気がします。あんまり覚えてないんだけど‥。

それで教材は使わないで、日本に曹洞宗の禅を根づかせた道元禅師による『普勧坐禅儀』(みんなにおすすめできる坐禅の仕方)から下の一節、

心意識の運転を停め、
(しんいしきのうんてんをやめ、)
念想観の測量を止めて、
(ねんそうかんのしきりょうをやめて、)

とういうところを使って野口整体でいう「ポカン」についてつらつらーっとしゃべっていったと思います。

つまり、

ここらで一回、こころの働きということを一切やめてみましょうよ、

思いというもので、ものごとを測るのもちょっとの間やめませんか、

という感じでいいと思うのです。

そうすると、何がどうなるんですか?っていうと、

まあ何も起こらなくなるんですね。

世の中にさまざまな悩みの種とか問題がありますけれども、問題を起こしているのは必ず自分です。

つまり、現場はいつも向こう側ではなくこちら側。

その自分というはたらきの中でもあえて限定すると、

「頭の中」

ですよね。

そこがピタッと収まるように、自分自身を持ってってやる。

もう少しくだいていうと、

頭のはたらきが止まる、という「身体の構え」があるわけです。

そういうものがさっきの道元さんに代表されるお坊さんたちの修業の核心部分だと、わたしはつねづね思うのです。

そのために「坐禅」もあるし、それ以前に朝から晩までお寺の掃除をしたり、お庭の草をむしったり、ご飯を作って食べて、お茶碗を洗って、という「作務(さむ)」があるわけです。

そうやって、身体内に余剰エネルギーを残さないように自分自身をくまなく使っていく。

また、そういうことを出家した坊さんだけの特権と考えないで、われわれだってやれるし、またやれないと「救い」っていうものがもう本当にみなさんの日常の生活から遠い存在になってしまう。

それじゃあだめでしょう?

この身体というもので誰もが修行ができて、自分で自分を修めていく、救っていく、というそういういき方でなければ本当の意味でみんなの役には立たないでしょう?

活元運動っていうものはそういう系統の、つまり東洋的な身体行のエッセンスといって差し支えないものです。

だから体力のあるひとないひと、若いひともいれば年寄りもいるし、男でも女でも同等に行なえる、病気があるとかないとか、そういうこととはまったく別次元の生理的な作用の部分で訓練をしているわけです。

そして個人個人にピッタリ適合した体運動がきちんと行われることで、身体の脱力がすすんでいって、これに応ずるように頭のはたらきというのが徐々に静まってくる。

つまり「ポカン」になっていく。

こういうプロセスというか、ちゃんとした生理学的な道理があるわけです。

最近は、考えるのをやめましょう、頭のデトックスをしましょう、スマホを長時間見つづけるのはやめましょう、

と、

そういうことを巷でもよくすすめていますが、

頭が休まるとか、心の平安とか、安心とか、ポカン、

こういうものはみんな、

考え方とか思考形態のバリエーションではなくて、

身体能力なんだ、れっきとした身体の技術、なんだ、

っていうことを、

なるだけ早い段階でおさえてもらいたいのです。

つまり頭だけの問題ではなくて、

首から下の状況っていのがものすごく大事。

「悟り」だってそうでしょう?

道理とか理屈のものだったなら、文字で読んだり、話で聞けばみんな済むことになってしまう。

道元禅師だって中国(宋)まで命懸けで教えを乞いに行く必要はなかったってことになっちゃう。

ところがやっぱり、こういうものは自分自身の心と体をフルに使って、自分自身に実証してやる必要があるんです。

「ああ、なるほどな」

「ポカンとするっていうのはこういう状態なんだ」

「からだがこうなるから頭が休まるんだな」

っていうことを、実体験して、それで自分自身のちからにしていかなくっちゃあいけない。

人にやってもらうようなものじゃあないんだよね。

そういう意味で、みんなで修業しやすい環境を作って、一人ひとりが自分に取り組んでいく。

そういうような感覚で「活元会」っていうものを利用していただければ有意義な「場」になると思うのです。

昔からそういう場所のことを、

「道場」

と、こう呼んでいたと思うのです。

まあちょっと穿った言い方をすれば、

本当はいま、みなさんの身体のあるところが道場、といってもいいわけですけれど。

「歩々是道場」

っていったりしますしね。

ともかく体をこまやかに整えていく。

そうやって自分自身を大事に使っていく習慣を身に付けるんです。

粗雑なのはだめ。

だからポカンっていう「頭のはたらき」だけにフォーカスしないで、

自分の手足、枝葉末節から、腰、要の部分ですね、

そういったところまで、

体のパーツ、パーツをこまごまと、上手に手入れしながら丁寧に使っていく。

そういうことの積み重ねで、ようやく「精神」のはたらきっていうのは少ーしずつ上質な方向へ変わってくるわけです。

むかしから「精神修養」っていいますけど、そういうことだと思うんですよね。

ま、体のことでも心のことでも、現代はあまりにインスタントな手法に流されやすい、

世相全般にそういう風潮があると思うので、整体っていうのはまず、「そういうものとはちょっと違うんだよ」っていう認識は必要かなと。

なにも厳しいわけではないし、むずかしい話でもないと思うんですけど、着眼っていうか目のつけどころがちがっちゃうと、やっぱりいくらやっても成果は上がってこない。

「まちがいのない」ようにやっていただくことだし、こちらもミスガイドにならないように気をつけながら、これからもやっていこうと思ってます。

次回は、10月14日(土)です。

活元運動を深めていく:継続はちから

昨夜は子どもの寝かしつけが終わろうかというときに、久しぶりに自然の活元運動が出た。

からだの偏りが一定に達して、さらにからだの緊張・疲労度合と精神のゆるみバランスがちょうど釣り合ったときに、たまにではあるけど自然に活元運動が出ることがある。

まっ暗にしめ切った部屋でじーっと子どもに愉気をしていたので、それがたまたま呼び水になったのかもしれない。経験的に自分はあまり明るい部屋でない方が活元運動は出やすい気がする。

活元会は月に4回ばかり行っているが、こうした会で行なう活元運動はいわば予行練習みたいなものである。

野口整体の文献によれば、食べたものが傷んでいた場合に突如活元運動が出て全部吐いてしまった、とかスキーで足の骨を折った人がその場で活元運動が出て、その後、自力で滑って降りてきたという話が残っている。

活元運動はこんな風に、実際の生活上で必要性が高まったときに自然と行われるのが本来の姿である。

そうはいっても活元会に参加したときだけ行う方も多いだろうし、それでも効果は充分ある。それでもやっぱり実人生とリンクした形で行なわれるのが理想なのだろう。

いってみれば活元会で学ぶのは剣道でいうところの竹刀稽古みたいに思ったらいい。

もともとは真剣勝負のための訓練として行われていたものだから、竹刀の練習だけで完結するものではないはずだ。

訓練だけで済むならもちろんそういう生活の方が穏便で良いのかもしれないけれど、実際には生きていればいろいろな問題に直面するのでこの活元運動をしっかり修めておけばかなり心強い。

そして、なにより「継続」が鍵だ。

むかしから石の上にも三年というが、何ごとも半年、一年でやめてしまうのではその真髄を味わえないのではないか。

ときおりボディワーク・ジプシーのような方が活元会にふらっと参加されることもあるが、こういうものはなんでも「幅よりも深さ」だと思う。

気功・ヨガ、アーユルヴェーダ、野口体操・etc、ともろもろやってみても、悲しいかなどれも自分の解釈の深さでしか味わえない。

もちろん指導者の力量も大きく関与するが、「これは」と思ったものに出会ったのなら、一度は尻を落ち着けてじっくり取り組んでみることではじめて身体はその方向に発達する。

そうやって、継続は深さを生む。

情報過多な現代性にも罪業はあるのだが、そんな時代にあってこそ、あれやこれや何かと心が散らばりやすい現代人にこそ活元運動は役に立つ。

余談だが『荘子』には坐馳(ざち)という言葉が出てくる。

からだは坐っていながらこころが駆けずり回っている様を表現している言葉で、どんなにすばらしい行法を学んでいてもこれでは修養にならない。

からだの深部から起こるリラックスは質の高い精神の統一を生み出す。

そうしたこともあって、縁のあった方には活元運動の可能性を自分の心身で開拓していただきたいと思っている。もちろん丁寧な指導は必定である。

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活元運動の反応期に気をつけること

活元運動でも整体指導でもやっていればやがては反応が出る。

下痢をしやすくなったとか、38度以上の熱をよく出すようになったとか、そういうものがよくある反応である。くわしくは昨日の記事で書いた。

活元運動の反応とは

「好転」反応といはいっても経過中は苦しいこともあるので注意はいる。

身体の変動期というのは良くも悪くも刺激を受けやすくなっている無防備な状態なのだ。

まず弛緩反応期というのは、とにかく弛めるということに尽きる。環境がゆるすならよく眠って、ごろごろしていると経過がよい。

ところが過敏反応期に入ったら、あちこちに痛みが出ても熱が出ても、動きたければ動くようにする。意外と動けるのがこの時期である。

そして排泄反応期になったら、反応の出かたに応じて熱刺戟を使うのもいい。

たとえば風邪を引いたのなら、のどの痛みや頻尿など呼吸器・泌尿器系統の風邪の場合は踝(踝)から下を熱めのお湯につける(足湯)。

これとはちがって下痢や腹痛のような消化器系統の場合は膝から下を同様に熱めの湯につける(脚湯)。

時間はいずれも5~6分程度。両足を見比べて、赤くなりにくい方があったらそちらの足だけプラス1~2分つける。

熱が出た場合は、後頭部を蒸しタオルで40分ほど繰り返し温めると、もう一つ熱が上がって経過を助けることになる。後頭部は体温調整の急所である。

まあ反応期は全般に冷やさないことが大事だ。

そして反応の全工程が終わったかというときに、だめ押しにもう一度安静にする。

病気の予後と一緒でいきなり活発に動き出すのは良くない。身体の要求にしたがって動けば問題ないのだが、その辺りが曖昧な人は多いので、一応のガイドは必要である。

何にせよ好転反応をひと通り経過すると改めて身体は丈夫になる。この辺がようやく整体の入り口だ。

一応の整体入門を果たしたと言ってよいと思う。

活元運動の好転反応とは

前回の活元会で、活元運動の反応についてご質問があったのでこちらでもお応えいたします。

活元運動は身体のバランスをとる機能を活性化して、自分の力で健康を保てる人を育てるために行います。その結果として、もともとの体力が活発になるので早く病気になり、早く病気を経過する身体になっていきます。

そのために、活元運動をはじめた人は身体が敏感になり、元気になってきたという証明として「反応」があらわれます。

反応はさまざまですが、おおよそ次の三つの段階を踏んで経過していきます。

1.弛緩反応 最初におこる反応は眠くなったり、だるかったりという弛緩反応(第一反応期)です。どーっと疲れた感じがしながらも快い、といった気分になります。この期間は食事をしてもおいしく、またいくらでも眠れます。非常に気持ちいい感覚で過ごせるのがこの弛緩期です。

この弛緩反応の経過のコツは眠ければ眠る、だるければ横になるなどしてとにかく心身をゆるめることです。また身体が無防備になっていますから冷たい風に当てたりして、ふいに身体を冷やすことのないないように気をつけましょう。

2.過敏反応 皮膚の下層に水が通るような、涼しい感じがします。人によっては強い寒気も感じることもあります。これが次の過敏反応(第二反応期)のはじまりです。最初の弛緩反応期が非常に気持ちよかったのに対して、過敏とあるように熱が出たり、古い打撲のあとが痛んだりすることもあります。あるいは、目が腫れた、歯が腫れて痛んだ、など急性病にも似た反応が出る人もいます。次の反応である「排泄」に備えて身体がたかぶっている時期と思ったらいいでしょう。

3.排泄反応 上の二つの反応期を経過すると排泄反応という第三反応期に入ります。体内の老廃物や毒素などが排泄される時期です。ここまでくると反応の経過はもう一息です。湿疹がでたり、うす皮がむけたりなど、皮膚にいろいろな変動が出る人もいます。また下痢などの大小便が大量に出たり、目ヤニや鼻水がたくさん出るなど、いろいろなものが身体の外へ排泄されます。あとは女性の場合、生理の時に血の塊が出たという話を何度か聞いたことがあります。

この活元運動の反応については『整体入門』に面白い記述がありますので、引用しておきます。

反応の経過で注意すべきこと

反応中は肌着は汚れるし、爪は伸びやすくなるし、ふけは多くなるし、傍へ行くと臭い。中には体内で石をつくっている人などはその溜めている石を、胆石でも、腎臓結石でも、膀胱結石でも、どんどん出してしまう。ただこのような反応期に石が出る場合には、固まりにならないで、臭い尿になることが多いが、ときどき気忙しい人がいて、胆石でも、あるいは膀胱の石まで、固まりのまま出すことがある。膀胱から大豆大の石が出たという人も、胆石で三十六個も出たという人もいました。またバケツに三杯ぐらい下痢をしたとか、鼻水が洗面器に一杯出たとかいろいろありますが、ともかく排泄反応まで来れば、もうよくなると安心できるのです。(野口晴哉著『整体入門』ちくま文庫 pp.65-66)

というように、にわかに信じがたい症例もありますが当院に通われている人の中でも一時的にだるくなる、それから風邪を引きやすくなる(38度以上の熱が出る)、という反応はよく見られます。わたしの経験では、活元運動(野口整体)をはじめて3年くらい経ったときに黄色い水の便がいきおいよく出たことがあります。そのときは本当に黄色のインクみたいな液体だったのですが、それと同時に顔がしゅーっと縮んで顔面の巾が半分くらいになったような感覚におそわれました。もちろん本当にそんなふうにはなっていませんが‥。

ですから活元運動を病気を治す、というような目的でやられるとびっくりされるかもしれません。身体を丈夫にするというのは病気をさせないことではないのです。病気を利用して積極的に身体を整えていくことができるように、潜在体力をゆすぶり起こすことが本来の目的です。

さて、反応についてだいぶ注意点をあげましたが、ここまで説明すると「反応が出ない人」からも疑問を呈されることがあります。「わたしは反応がでないのですが、活元運動がちゃんと出ていないのでしょうか?」ということです。実際は先の3つの反応がすべて出るかというと身体がそこまで極端に鈍っていなければ、知らない間に経過していくという例もよくあります。なんとなく眠かったり、少し熱っぽいという様な程度で気づかないうちに済んでしまうこともめずらしくありません。

活元運動は人それぞれ千差万別ですから、ともかく反応が出ている人は心身の変化のときですからは無理はよくありません。落ち着いて休養を取るように心がけしましょう。

今月の活元会のお知らせ