波動を思う前に

ある時、僧が趙州に尋ねた、「私はこの道場に入ったばかりの新米でございます。ひとつ尊いお示しを頂きたいと思います」。すると趙州が言われた、「朝飯はすんだかい」。僧が言った、「はい、頂きました」。すると趙州が言われた、「それでは茶碗を洗っておきなさい」。僧はいっぺんに悟ってしまった。(西村恵信訳注『無門関』岩波文庫 p48 無門関第7則 趙州洗鉢より)

※趙州・・・趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん、778年 – 897年)は、中国唐末の禅僧。Wikipediaより

今日は午後から陽の光がさしたので、仕事の合間に家中の換気をした。

数日にわたる長雨で建屋に湿気と澱みが籠っていたのだ。

巷でよくいう、掃除をすると波動が良くなるというたぐいの話は疑わしいと思いつつ否定もできないでいる。掃除が綿密にできている時ほど仕事の成果もよく上がるからだ。

そもそも「波動」という言葉が何を意味しているのか曖昧な点も多い。自分としては「気」とか「勢い」に類するものだと想定している。

去年の11月に総持寺の催しに出かけた際、百間廊下という長い廊下を初めて見た。ここを修行僧が毎朝雑巾掛けするというのだが、廊下の無言の光沢が禅とは何かを雄弁に語っていた。

「飯を食べたら茶碗を洗え」という禅の示唆が醸し出すように、波動がどうであろうと住家はきれいがいいに決まっている。

目に見えないものも、実はみんな目に見えている。

精神、即、肉体。心身は不即不離といって相違ない。掃除をした時、いったい何が清められるのか、改めてよく考える必要はないか。自分という活動体がどうなっているのか、本当に見極める必要はないか。

よくよく参じ、真摯に取り組みたいところである。

自然モデル

治すためにいろいろな技術を使わなければいけないというのは治療の前段階だ。

真の治療は造作もないことの中にある。つまり一切の作り事を止めること。自然・宇宙の時、摂理に任せ切る。

実際はその「任せ切る」ということも造作のうちだ。だからそういう人間的な「はからい」を全部捨ててしまう。

そう考えると、「何もしないということに全力を懸ける」と言った、心理療法家の故河合隼雄氏の言葉は秀逸だ。

手を出さない、手を着けない。

そうすると、無になるだろうか。

無にはならない。

必ず残るものがある。

自身の「体」と「環境」が残る。

環境は人を苦しめない。

苦しみたい人は苦しむ。苦しむことを止めれば、苦しいは消える。

そういう自由性がいつも、〔今〕、与えられている。

生きているということは限りなく自由である。

本源的に治療と言える行為は、当人にその自由性を気づかせること以外ない。

だけれども、これから自由になろうとすれば縛られる。

今どうなっているか。

感ずれば皆わかる。

行き詰ったら、意識を閉じて、無心に聞く。

しかし聞いているものがあるうちは、最後のところが落ち切らない。

今どうなっているか。

感ずれば即わかる。

自然を体得すれば、もうもとへは戻らない。その瞬間から大安心の生活者だ。

治ると治すの違い

治ると治すの違い

だから治すということは病気を治すのではなくて、病気の経過を邪魔しないように、スムーズに経過できるように、体の要処要処の異常を調整し、体を整えて経過を待つというのが順序です。

最近の病気に対する考え方は、病気の恐いことだけ考えて、病気でさえあれば何でも治してしまわなくてはならない、しかも早く治してしまわなければならないと考えられ、人間が生きて行く上での体全体の動き、或は体の自然というものを無視している。仕事のために早く治す、何々をするために急いで下痢を止めるというようなことばかりやっているので、体の自然のバランスというものがだんだん失われ、風邪をスムーズに経過し難い人が多くなってきました。しかし愉気法をやって何回か風邪を経過すると、その都度に非常に早く経過するようになり、簡単な変化で風邪を引き、風邪を引くと同時に、或る場所を愉気してもらいたい要求が出てきて、そこを愉気すると皆早く抜ける。だんだんに風邪の宵越しをしなくなるようになっていくわけですが、愉気法以外の方法では、風邪を治した治したとい言う度に、だんだん風邪の経過に鈍くなり、風邪を引いた後も疲れが抜けないのです。愉気法をやると疲れが抜けて体がサッパリし、方々の弾力性が恢復するのに、それが起こってこない。だから同じ経過をしたといっても、自然に治ったというのと、治したというのではかなり違うようです。従って早く治せばいいという考えだけで病気に処することは、別の考え方からいえば、寿命を削る行為ともいえると思うのです。

早く治すというのがよいのではない。遅く治るというのがよいのでもない。その体にとって自然の経過を通ることが望ましい、できれば、早く経過できるような敏感な体の状態を保つことが望ましいのであって、体の弾力性というものから人間の体を考えていきますと、風邪は弾力性を恢復させる機会になります。不意に偶然に重い病気になるというようなのは、体が鈍って弾力性を欠いた結果に他ならない。体を丁寧に見ていると、風邪は決して恐くないのです。(野口晴哉著 『風邪の効用』 ちくま文庫 pp.40-42)

手を当てて(愉気によって)子供の風邪が治ったというとやはり巷ではおどろかれる。一般の方の価値観(常識)というのは、定期的に自分の立ち位置の特殊性を教えてくれるものだ。自分の場合は28歳から整体をやり始めてちょうど十年だが、以来、目薬を差したことがあったが(それも半強制的に)、その他は薬を使ったためしがない。こんなものは自慢でもなければ誇るような話でもない。ただただ天然自然の妙に敬服するばかりである。

しかしながら、愉気(手当て)で治ったということになると、今度は「薬」から「手」の方に信が移りやすい。いわゆる超能力崇拝とか聖人信仰の軽度のものだ。ところが手を当てて治るようなものは、実は手を当てなくても治るのである。それどころか、生きているものはみんな治ってしまう。ただし手の施し方によって、治り方がちがう。プロセス・イコール、結果なのだ。

もとより自然というのは至高のものである。ところが「人間に於ける自然とは何か」と考えると、ただ与えられたままの自然では力にならない。人為の中に無為の自然が現れるように訓練するのである。端的に言えばそれは活元運動だが、日常の中でいつでもどこでも活元運動が発動している人が愉気をする資格を有する人だ。実際にそこまではむずかしいので、手を当てる時くらいは自然に対する信頼の心が現れるようにしたい。それには体験を通じて、自らの自然生命に目覚める以外にない。

もとより身体上の現象にこれから治すようなものは一つもないのだ。痛いといった時にはもう治り始めている。病気と治癒は一つの現象の2つの側面なのである。これが解らないうちは本当の愉気はできない。それでもできないなりにやっていると、或る時にぱっと愉気になっていることがある。「やっている」ものが消えると、人間的な作為や造作がなくなる。その時すべてが上手くいく。雑念で見えなくなっていた秩序がふいに現れるのだ。これを古人は「妄息めば、寂生ず(もうやめば、じゃくしょうず)」と示された。治そうというものが消えたとき、すでに治っているものが出てくる。生命とは須らく任運自在の境に浮かんでいるものなのだ。

一つ

誰しも一度薬で治ったものは、その薬がないと治らないと思い込む。整体で治ってものは、整体を受けなければ駄目だと思ってしまう。それが何もしないで、よくなってしまうことはとても考えられないことで、だから不思議なのだ。

しかし一旦、何もしないで乗り超えた体験がある者には、もう不思議でも何でもない。自己の内に、灯明(ひかり)を発見するからだ。その灯明に導かれて動いていけばいい。これがほんとうの意味の自立ということかもしれない。

もう一つ、私が感じたのは、自然の経過というものには、人智の及ばない順序と速度があって、どんなに痛くても、痛いことなどお構いなしに、着々と周到に進められているということだった。

速効を求めるものには、じれったいような動きかもしれないが、よく考えると、お産にしても、育児にしても、病気を経過するにしても、この順序を全うしたものは、皆そのあと生き生き丈夫になっている。

私は「自灯明」のが、人間の意志で頑張る自力ではない、宇宙の息に連なるであり、無限の灯明に包まれた安らぎのであることを思い知らされていた。

そして「自灯明、法灯明」が、お釈迦様が亡くなるときに、弟子に言われた言葉だったということに改めて感動した。すると、不思議とそこに先生が重なってきて“真理は一つ”という思いが深まるのだった。(野口昭子著 『見えない糸』 全生社 pp.14-15)

手技療術を行う人がよく使う言葉で、「治る力は、治療者と患者の力が半分、半分」というのがある。確かにそうとも言えなくもないのだが、本当のところ「治る力」というのはそんなふうには分けられない。「生命活動」というのは、はじめから宇宙全体の一個の「はたらき」なのだ。そこから分離的に働くのが人間に具わる「理性」である。

理性による「悪い・良い」という分別心が、もともと完全無欠であるはずの自然経過を阻害する。病気と健康の対立構造も、人間の作りだした「概念」なのだ。知恵の実を食べた人間は神の世界を追われたそうだが、宗教という訳語が与えられた「religion」という言葉には、その切り離された人間と神の世界を「もう一度つなぐ」という意味があるらしい。一報で仏道の禅という行は、人間はもともと世界と切り離されてなどいない、「一つ」であることを体得、体認するための行法である。

そもそもがいきている人間には、絶えずどこかが毀れている。それを絶えずどこかで治しているという、平衡作用がはたらいている。これを生きている、という。この動きは極めて玄妙なものだ。そのはたらきを体得できない人にとっては命はどこまで不思議なものとして映るのだろう。大事なことは、不思議といおうと真理といおうと、生命活動はまさにお構いなしであり、もとより〈いのち〉にはキズもケガレもくっ付きようが無いなのである。

そういう観点から、愉気法も活元運動も、いかに「自分が、する」という考えをを消せるかが鍵となる。「何かしている」のだけど、誰も何もしていない。この「何もしない」という積極的受動性の発露が愉気でもある。本当に任せ切ったときに、自我は自己と同一になり、宇宙になる。

そしてこれはいつでも「そう」なのだけど、ほとんどの人が気がつかない。自分のまつ毛は自分で見えない。近すぎて。坊主に憧れて「任運自在」などといっても、「梵我一如」といっても、自分自身が心底肯えなければそんな言葉はガラクタに等しい。これから一つに「なる」とこなど不可能だ。最初から一つなのだから。認める必要もない。そういう自分が引っ込めば済む話なのだ。

自分を拠り所に

本屋で立ち読みしながら、パラパラとめくった『禅語録』の中から、
自灯明 法灯明
という語句が目にはいった。
お釈迦様が亡くなるとき、弟子のアーナンダが、
「私たちは、これから何を依りどころに生きて行ったらよろしいでしょう」と尋ねたら、お釈迦様がそう答えられたと言う。
私はハッとした。先生が亡くなるまで説きつづけたのも、全くこのことだったからだ。
“自らを灯明(ひかり)とし、自らを依りどころとせよ。法を灯明とし、法を依りどころとせよ”
自灯明 法灯明――
何と端的な表現だろう。私は霧雨の庭に急に薄陽がさして来たような明るさを感じた。(野口昭子著 『見えない糸』 全生社 pp.10-11)

自分の仕事は、無条件に人を励ます仕事だ。それも「○○だから大丈夫」、「□□できれば平気だ」という話ではなく、ただの「大丈夫」でなければならない。

ありがたいことに毎日いろいろな状況の方のお話を聞かせていただく。生きていくのは「大変だ」のひと言で片付けてしまえばそれまでだが、人の悩みはどれも「個性的」である。いってみればすべてがオリジナルであり、すべてがレアケースなのだ。

その一つ一つに「これから」対応策を考えているようでは打つ手がいくつあっても間に合わないし、すべてが後手なってしまう。そもそもが、そういう人間的な行為や努力でどうにかなるようなレベルのものでは人は苦しまない。人間的「はからい」ではどうにもならないから、「悩む」のだ。

そうでありながらも、人間には等しく不滅の灯明(ひかり)が与えられているというのも事実である。そういう意味でヒトは平等だ。ところが思考が錯綜するとその不滅のはずの「光」が見えなくなる。これがいわゆる「迷い」の正体だろう。

仏道の方では、こういう「悩み」や「迷い」のことを無明と言ったりする。繰り返すが「明かり」も「光り」もはじめから失われてはいないのだ。光があっても「見えなくなっている」ことが問題なのである。いつだって問題事は「あちら」ではなく、「こちら」にあるのだ。

自分自身が自分自身を曇らせている。その曇りを自分自身で払う。これ以上ないほど確実ではないか。自分を拠り所にする。その為に他者の力も我がモノとして使うことができるのは、やっぱり自分に力があるからなのだ。

これから「なる」のでは間に合わない。すでに「ある」ものに気付けるかどうかである。

まさしく「自灯明 法灯明」だ。

「やさしく」教えよう

昨夜は月イチ恒例の禅会へ行った。坐禅が終わってから質疑応答を兼ねた茶話会があるのだが、会の主旨としては各々がやっている修行の点検が目的だ。

昨日の質疑はちょっと毛色が変わって、一人の参加者から「托鉢」とか「戒名」にどんな意味があるのかと矢継ぎ早に質問が飛んだ。一つ一つ和尚さんがやさしく諭してくれたのだが、改めて説明を聞くと大本はちゃんと仏の教えに因んだ行為であった。横で聞いていて「なるほどな、そうだったのか」と心の中で唸った。

みだりに書くと余計な誤解がうまれそうなのでその説明までは割愛するが、いわゆる宗教的行為というのは経済社会の常識に照らすと「何でだ?」と思うものは少なくないだろう。

またひと口に「宗教」と括ってしまうにはこの手のジャンルはあまりに雑多すぎる。まさに玉石金剛そのものだ。

話は戻るが、「禅」というとお寺でバシバシ叩かれながら足のしびれを我慢するようなイメージも根強いのではないだろうか。「棒喝」という言葉もあるくらいに、指導者は時として過激な手段として暴力も辞さない。

その一方で、先のようにごくごく平易な言葉で、やさしく「真理」を説くこともできるようだ。「殴る」という行為も時には「迷いを断つ」ために有効な方法と成り得るが、大切なのは「手段」の押し売りではなく、「目的」の達成である。落ち着いて世の中の現象を見渡してみると、この「手段と目的」は到る所でひっくり返っていることに気づく。「何のために坐るのか」は各自が責任を持って参究すべきところだ。

自分自身の仕事を振り返って見ると、むずしい「技術」や「言葉」を覚え込んでは使うことに拘り過ぎていた時期がある。この仕事で一番大切なことは、相手がほっとなってゆるむことなのだ。

今の年齢から「まろやかさ」などと言いたくないのだが、その一方で「やさしさ」とか「やわらかさ」というのは余裕の象徴だとも思うのだ。やさしさを自在に使うために「ちから」を上げていくことは不変のテーマである。いつかはマギー司郎さんのようになれるだろうか。

惺惺著 喏喏

開業して2年くらい経った頃からずっと、仕事の前に食べる物をあれこれ模索している。当然の事ながら、指導が始まった時に一番意識が醒めているようにコンディションを持っていきたい。基本的にはあるものを食べることが殆どだけど、重要なのは味の濃淡と穀類の量だったりする。

お米を食べるといい意味では気持ちがゆるむが、一口でも余分に摂ればお腹に血が下がり過ぎてぼんやりしてくる。お腹がコテーっとしていると、まず「目」がぼやっとしてくる。ピントがぼやけるという感じではなくって、「目」がきちっと働かないのだ。それなら空腹状態がいいのかとも考えたが、そうすると自分の場合はどうも「食べていない」という空想に負けてしまう。落としどころとしては、重湯やおじやのようなものがいいのかなと今は思っている。

実際ここまでこだわって仕事の精度にどの程度影響があるかというと、本当に微々たるものなのだが。ところが「神は細部に宿る」という言葉もあるように、100%と99%の違いというのはやっぱり結果の成否を分ける。100%というのが百発百中なのに対して、99%だと「外れる可能性」が出てくるのだから。出来るかどうかやってみなければ判らないというようなものは、職能的な「技」とはいえないと思うのだ。

これが例えば野球の打者みたいな仕事だったら、「打率」とか「打てた・打てない」という成績として白黒はっきりするけれども、整体の場合は「効いた」か「効かない」かというのはお互いの主観が決めている。しかも健康とか幸せとかいうものは、マルかバツかという二分法のものではないので、下手をすると安易なところで妥協に流れやすいので注意が要るのだ。

最終的には仕事の前に、自分で自分が「いま目が醒めているのか?」と問い続けることになる。事に臨んで自分の意識さえ明瞭なら、仕事はすでに完成したに等しい。大鵬幸喜の言葉で、「土俵に上がった時には、すでに勝ち負けは決まっている」というの目にした事があって、年々歳々身に染みている。

良寛さんにみる潜在意識教育

今日は潜在意識教育に因んで、良寛和尚の逸話から考えてみようと思います。その前に「良寛さんて誰?」ということもあると思いますので、そちらの説明を先に少し。

良寛和尚は江戸時代後期のお坊さんです。もともとは庄屋の跡取りになる予定だったのですがこれを辞して、厳しい僧侶の道に入って修行をされたそうです。晩年はやさしい和尚さんとしてとくに子供たちに慕われ、日が暮れるまでかくれんぼをしたり手まりで遊ぶこともあったと言われています。

その良寛さんが、あるとき弟の長男(甥)の放蕩を正して欲しいと頼まれた際に、本当に「自然」な方法でそれを行ったというエピソードがありますので、この話を引いてみましょう。

佐渡を望む出雲崎の生家は弟の由之が継いでいましたが、その長男(良寛の甥)の馬之助は大変な放蕩息子で、思い余った由之の妻、安子は、良寛さんに「馬之助に厳しいお諭しを」と頼み込みました。

安子の願いを引き受けた良寛さん、久しぶりに生家を訪れました。その夜、和尚を交えて久々の家族団欒となりました。次の日も次の日も馬之助も伯父(良寛)と酒を酌み交わし托鉢や子供達の話に花が咲きましたが、弟夫婦が期待していた肝心のご意見は一言もありません。

四日目の朝「やっかいになったな、それではおいとましますわ」

呆気にとられている由之夫婦を尻目に、玄関の上り段に足をおろし、「すまんがこの紐を結んでくれんかのう」老僧が腰を屈めるのに難渋している姿を見ていた馬之助は、「ハイ」と一言のもとにとび降り、良寛さんの足元にかがみ込み、良寛さんの細い足首に草鞋の紐を結び終えようとする時、馬之助は首筋に熱いものを感じました。驚いて顔を上げると、良寛さんの目に涙が一杯たまっています。

「ありがとう」ひとこと礼を言って、良寛さんは生家の玄関を出て行きました。不思議なことに馬之助の放蕩は、その日を限りぷっつりと止んだそうです。(『井上義衍提唱語録 併般若心経講説』より)

はい、心情的にはよく解る話ですね。ですけれどもこんなことが本当にあるのかというと、あり得るけれどむずかしいだろうなとも思う。やっぱり修行というのはこういう力を生むのかな、とも思います。

昨日まで、「人間は変われるのか」を書いてきましたが、河合隼雄さんの見解もお借りして、「とにかくガラ!っとは変わらないけど、でもやっぱり変わっていく。」そんな話でした。

今日の話はそれとは真逆のような逸話です。

あることをきっかけに心象がぐーっと変わってしまう。人間にはこういうこともやっぱりありますね。多くの場合は「偶発的」に起こるけれど、整体指導ということになるとこれを「必然的」に引き起こすのが職能的な「技」ということになると思います。おそらくこれに近い職業として「コーチング」などが少し共通しているかもしれませんけど。それでも整体ではこれが百発百中であることが求められるんですね。感情の基本的な性質や方向性がわかれば、ある程度の所まではできると思いますが・・。

野口先生の言葉には「心の角度をフッと変えると、人間はその全部が変わってくる」というものがあります。さらに、「相手に押しつけてはならない、相手自身が自発的に、自分の考えで行動するようにしむけることだ」と、こういう風に説かれています。一般に躾や努力で矯正的にやっていることは、どうしても反対の要求や空想を生むようになっていますから。強く押さえれば押さえるほど、圧縮されたエネルギーは噴出の場を探すようになってしまう。噴出されないものは、自分を中から「壊す」働き(病気)に変性するものもあります。

ですから、そういった方向ではなく相手の「中身」がさっと変わってしまう方が、お互いに心理的な負担がないのですね。教育や躾の現場ではありがちですが、最初に「悪い」ところを掴まえたうえで「良くしよう」とすると相手は自分の根本に「悪い」があると空想してしまう。元々人間の中には善も悪もないのですけれど、「ちゃんとしようね」という言葉を聞くと、やはり自分の中にだらしのないものを連想してしまう。

良寛さんの例では、相手の悪態を対象にしなかったことが一番の功徳になったということになるのでしょうか。「善悪を思わず、是非をかんすることなかれ」という禅的な態度は、人に最初に具わっている「天心」という心、生命の無為的な「秩序」へと向かわせるのかもしれない。これはまた「相手に対する無条件の肯定的関心」を説いたカール・ロジャースの来談者中心主義も彷彿とさせます。

ただしこれが、いわゆる指導する側の「テクニック」のようなものでないことは明らかです。人を良きに導くということは、自分自身の潜在意識が簡潔になっていないと、他者の中に清浄な力があることが信じられない、という事がここで出てくるわけですね。実は良寛さん自身が出家をされる前は、名家の跡取りとして教育を受けるかたわら遊蕩にふけったこともあったと言われています。ですからそういう所を自分自身で越えてきた力が、無暗に人を処罰しないような寛容さをもたらすのかもしれません。

ですからとにかく丁寧に自分の心に取り組んだということが、結果的に人を癒す力を生んだと言っていいと思うのです。宗教家の仕事としてよく「世界平和」を求められる節がありますが、最終的には自分を修め、後に他者も治め、ということに落ち着くのかもしれません。整体を行っていると、つい「相手の問題」に取り組む方へ流れやすいのですが、「潜在意識教育」といったときに一体「誰が、誰を」教育するのか、という所はよく考える必要があるのですね。それでは今日はこの辺で。

人は変われる(続き)

今日も河合隼雄さんの『心理療法序説』の続きです。

ただ、ここで注意を要することは、成長の過程ということを、一直線の段階的進歩のイメージのみで把握してはならない、ということである。成長を一直線の過程として見ることはわかりやすい。自分はどこまできていて、それに比して誰はどのあたりであるのか、などと考える。それはともすると到達点の設定ということまで考えることになり、「到達した人」に対する限りない尊敬心を誘発したりする。時には「自己実現した」人などという表現に接して、驚いてしまう。ユングが個性化の過程として、過程であることを強調するのは、そこに「完了」ということはあり得ないと考えるからではなかろうか。

もちろん、成長の過程を、一直線のイメージで描くことは可能であり、それはある程度必要ではある。しかし、それがすべてと思うと、とんでもない誤りを犯すことになる。人間の成長は考える際に、直線のイメージだけではなく、円のイメージで把握することも大切だ。すべてははじめから、全体としてあり、成長するということは、その全き円をめぐることで、言うなれば同じことの繰り返しであったり、、どこまでゆくやらわからなかったり、しかし、全き円の「様相」はそのときどきに変化してゆく。それは成長というより成熟という言葉で考える方がぴったりかも知れない過程である。

一直線の成長イメージで人を見るとき、人間は直線状に配列され、上・下関係が明らかになる。治療者はクライエントよりも高い到達点にいて、後からくる人を指導する。果たしてそうだろうか。遊戯療法の過程で、われわれは子どもから教えられることがある。子どもの知恵がこちらよりはるかにまさっていることを実感することもある。心理療法家というのは、相手から学ぶことによって、相手の成長に貢献していることがよくある。このことは、単純な直線の成長モデルによっては理解し難い現象である。そして、そのような、ことに心が開かれていることが、心理療法家には必要なのである。(『心理療法序説』 岩波書店 pp.283-284)

さて、「人間は果たして、変われるのか、成長できるのか?」という命題を考えています。例えば「適応障害」といわれる疾患(心の病)があります。これを解消するには、「適応」するのが難しい「環境」の方を変えるか、適応できない現在の「自我意識」が変わるのか、といういずれかの対応になると思います(投薬などを除けば)。そして後者の方法からは、「成長しよう」という心の方向性が見えてきます。

では「成長」って何?というと、ここが大事な所で「こうなったら良いのだ」という雛型がないのが心の問題の多様性に繋がっていると思うのです。明らかな「スタート地点」があって、そこから「ゴール」に近づいて行くだけなら比較的カンタンなのです。それは迷いようがない「直線的」な世界ですから。あっちにいけばいい、という。。ところが生きている人間の実相というのはそんな風にはなっていないですね。いつだって〔今〕の自分は完成している。完成しているんだけど、次の瞬間にはもう、あれ程完璧だった自我意識はもう変わってしまう。

例えば小学生の頃の時の自我というのは、確かにあったと言えます。だけど現在同じものを出すことはできない。では何時消えたのかというと、「あの時」という境目がない訳です。過去・現在・未来がずっとつづき通しの〔今〕に生きている。〔今〕は完璧なんだけど、それが絶えず変化している。「完成」と「過程」という、2つ並べると矛盾するようなものが、一つの矛盾もなく併置されているのが〔今〕の心です。

ここで、禅の『臨済録』に出てくる公案、「途中に在って家舎を離れず」というところを思い浮かべます。〔今〕というのはみんな行の途中なんです。途中なんだけれども、一つも「家」から離れない。スタートもない、ゴールもない、向かって行くような目的地がない。ところがそれが次々と相を変えて、一つも後を残さない(無相の相)。邪魔にもならない。そういう切り離された自在性がずっと今の心、ということですね。

そのように考えると引用文の、「人間の成長は考える際に、直線のイメージだけではなく、円のイメージで把握することも大切だ。…」から始まるところが、すらすらと肯えると思います。「変わって、変わらず」、そして「教えていることで、教えられる」という。心の中には、白とか黒とか、そんなはっきりとした「一線」はないんですね。だからそこがいいと言えばいい。整体指導も心理療法もそういう心の自由性と不安定さの間で仕事をしているという気もします。

引用の最後に、「心理療法家というのは、相手から学ぶことによって、相手の成長に貢献していることがよくある。このことは、単純な直線の成長モデルによっては理解し難い現象である。そして、そのような、ことに心が開かれていることが、心理療法家には必要なのである。」と、書かれています。だから単純に、上位の立場にたって、相手を「こちらからあちらに導けばいい」という、二元的な方向性で行なう訳ではないということです。一つ言えることは、とにかく心には「良い方へ、良い方へ」という「向き」はあると思って良いのでしょう。整体指導でも、それがあるからお互いに大変だなと思いながらも「手伝って」いけると思うんです。理論的な落とし所が見つかったので、また実践に戻ろう。河合さんの『心理療法序説』はもうちょっと続くかもしれません。今日はこの辺で。

情報オーバーロード

イチロー×稲葉の対談動画がよく再生されているみたいだ。話題は様々だが、イチローさんによるウェイトトレーニングの弊害が提言されていたりして面白い。

個人的には視聴後、「情報が多すぎて・・」という言葉が妙に沁みた。「ソーシャルメディアの功罪」などは今さらここで書くような話ではなかろうが、人が右手に便利なものを掴んだ瞬間、左手には知らぬ間に不自由を握っていた、ということはよくある話だ。

人類創生以来、人間から「悩み」が無くなったためしはない訳で、そこを乗り越えるために潜在する力を使うことが人間生命の醍醐味だと言っていい。ところが何か困ったことがあると、今ならまっ先に「膨大な情報の海を漁る」という手軽さに流れるのだから、この20年余りで人間の頭の使い方は相当変わったことだろう。自分の体験から言うと、膨大な情報によって事態が収束に向かうことは稀で、むしろ拡散的に収集がつかなくなることが多い気がしている。もとより「情報戦」という言葉もあるくらいに情報は尊いものだが、「ネット」という巨大な投網に掛かる情報には大魚も雑魚も不燃ゴミもごっちゃ交ぜでひっ掛かってくるから始末がわるいことこの上ない。

以前、読書は「ごはん」、ネットは「お菓子」という揶揄を目にしたが、一概にそこに質の高低を見い出せるかと言うと今はそうとも言い切れないと思うようになった。日本の「出版基準」にも責任の一旦はあろうが、食事の形態をとりながらさして内容の良くない「ごはん」もあるだろうし、ライトで食べやすい、それでいて身体にもやさしい「お菓子」だってある。今は情報に飢えている人が溢れかえっているので、所謂「釣り」と言われるような「こういうものをやれば彼らは喜んで買うだろう」という、決してカラダによくないようなものまでがごはん(書籍)の形で販売されているのだから、口に入れる前に正確に働く「嗅覚」が重要になっていくる。

つらつらと書いておきながら自分に対する戒めも兼ねている。実は仕事でもいろいろな方のご相談を受けていると自分で調べて得た知識にハマってしまうことがあまりに多いのだ。さらに偏見を恐れずいえば、日々の臨床から高学歴の方ほど悩み方が重度になるという傾向を感じている。だから野口先生が「良いアタマはみんなポカンとするのです」と言われたことは至言なのである。必要な時にだけ必要な情報が1つだけ上がってきて、用のない時はひっこんでいることが望ましい。現代に多い「うつ」という状態は、パソコンのデスクトップに無数のアプリが同時起動して固まっているような状態なのだ。自分は効率化を図っているつもりが、とんでもない混濁状態を生み出し自分の頭に難渋しているのである。

欧米では「禅(ZEN)」にその解決策があることを嗅ぎつけて、敏感な人は早々に取り組んでいるようである。ZEN・Retreat(リトリート:避難)というそうだが、何処から非難するかといえばそれは自分の作りだす「思い」からだ。どんな時でも今の事実に触れれば即、救われる。「今・ここ」という絶対性だけが全人類救済の万能薬であり特効薬である。「信じる者は救われる」というがあれは嘘である。信じようと信じまいと「事実」の方はこれ以上ないレベルでシッカリしているではないか。行をして、自分が自分に実証すれば、これ以上ない確かさが現れて、以降は「情報に使われる」ことはなくなることだろうと思う。