「やさしく」教えよう

昨夜は月イチ恒例の禅会へ行った。坐禅が終わってから質疑応答を兼ねた茶話会があるのだが、会の主旨としては各々がやっている修行の点検が目的だ。

昨日の質疑はちょっと毛色が変わって、一人の参加者から「托鉢」とか「戒名」にどんな意味があるのかと矢継ぎ早に質問が飛んだ。一つ一つ和尚さんがやさしく諭してくれたのだが、改めて説明を聞くと大本はちゃんと仏の教えに因んだ行為であった。横で聞いていて「なるほどな、そうだったのか」と心の中で唸った。

みだりに書くと余計な誤解がうまれそうなのでその説明までは割愛するが、いわゆる宗教的行為というのは経済社会の常識に照らすと「何でだ?」と思うものは少なくないだろう。

またひと口に「宗教」と括ってしまうにはこの手のジャンルはあまりに雑多すぎる。まさに玉石金剛そのものだ。

話は戻るが、「禅」というとお寺でバシバシ叩かれながら足のしびれを我慢するようなイメージも根強いのではないだろうか。「棒喝」という言葉もあるくらいに、指導者は時として過激な手段として暴力も辞さない。

その一方で、先のようにごくごく平易な言葉で、やさしく「真理」を説くこともできるようだ。「殴る」という行為も時には「迷いを断つ」ために有効な方法と成り得るが、大切なのは「手段」の押し売りではなく、「目的」の達成である。落ち着いて世の中の現象を見渡してみると、この「手段と目的」は到る所でひっくり返っていることに気づく。「何のために坐るのか」は各自が責任を持って参究すべきところだ。

自分自身の仕事を振り返って見ると、むずしい「技術」や「言葉」を覚え込んでは使うことに拘り過ぎていた時期がある。この仕事で一番大切なことは、相手がほっとなってゆるむことなのだ。

今の年齢から「まろやかさ」などと言いたくないのだが、その一方で「やさしさ」とか「やわらかさ」というのは余裕の象徴だとも思うのだ。やさしさを自在に使うために「ちから」を上げていくことは不変のテーマである。いつかはマギー司郎さんのようになれるだろうか。