病気は体の自然良能

2003年に『風邪の効用』がちくま文庫に入ってから今年ですでに17年経っている。

10年ひと昔という言葉に照らせばもうふた昔は前になろうかという話だが、当時は大手書店では平済みの状態が続き、まあまあのセンセーションをもたらしたようである。そこから比べれば「野口整体ブーム」も今はやや小康状態になったとみるべきだろうか。

それにしても野口先生の存命中は「病症が身体を整えている」というだけで、かなりのトンデモ説として非難されたそうである。

考えてみれば往時の日本はペニシリンやストマイを西洋から流入したおかげでようやく死病を克服できそうだと安堵していたさ中であった。

一見して高度な合理性を示す科学的医療の威力に目がくらんで、科学を絶対的に信じている人が大半の時代だったのだ。

その時にいち早く西洋医療の限界と問題点を指摘した先見性はもっと評価されるべきだと思う。

現代はそこからまた少し科学の方が進んだので、例えば熱が出るとその熱で症状を引き起こしている病原菌が死滅するのだ、という解釈も場所によっては受け入れられるようにはなってきた。

ただ注意がいるのは「病菌さえなくなればいいのだ」という見方に引っかかると、やはりそれは善悪の二元対立の世界に留まることになってしまうことだ。そうであるうちはどうしても是非と善悪の間でうろうろしてしまう。

病菌自体の存在も地球規模というか、宇宙的視野でとらえようとすると、善も悪もない「ただそのようにある」という一大活動体の中から一部を切り出して悪しと見ているだけである。

だから苦しければ苦しい、痛ければ痛い、というそのことで終わっておけば、それも宇宙全体の健やかな動きとして自覚できる時が必ず来る。

科学を基盤とする近代的な価値基準に生きる人たちに対して、ある種のコスモロジーの転換を迫ろうとするのが野口晴哉の説いた整体法という世界である。

こういう視点はそもそも東洋では昔からあるもので、例えば禅という世界がまずそうだし、天行健を冒頭に掲げる「易」もはるか昔から同じことを言っている。

是非、善悪、上下、苦楽といった二元的な対立概念はよくみればそれを見る人が与えた評価なのである。そして同じ人でも昨日と今日ではもう変わってしまう。

そういう不確実な考え方をもとに世界を理解し、コントロールしようとあくせくするより、「ただそのようにある」実態のほうに自分のいのちをそっくり浮かべて漂うな気持ちになってみたらどうであろうか。

法然の南無阿弥陀仏とか親鸞の自然法爾というのはこれだろう。キリスト教の方では「神のみ心のままに」というきれいな言葉があるけれども、キリストの宗教者としての強さをよく表していると思う。

人間には最初から拠り所などない。

もしも「唯一絶対」というものがこの世にあるとすれば、それは今こうして展開するいのちだけである。

頭の中を虚しくポカンとさせて、今を十全に生きようというのが整体法の説いた道である。

良し悪しを思う心がやめば、病気も一つの健康の働きであり、体の自然良能であることがわかる。

健全な動きの中にある一つの状態を人間が切り出して、「良い」とか「悪い」とか言っているにすぎない。

そういう観点で『風邪の効用』にもう一度目を通していくと、整体法が事実に即した生命観であり不易のものであることが実感できる。

とりわけ巻末の「愉気について」は圧巻である。風邪やその他の病名に拘泥して、不安に駆られたままあくせく治そうとするのではなく、先ず「病気しているその心を正す」ことが肝要であると説いている。

この辺りのところが整体法の精髄といっていいのかもしれない。

ただしここからが難しいのだが、これをさらっと信じられる人と、どうにも受け入れられない人がいる。

後者のような人を「常識の豊かな人」というのだが、実のところこういう人たちのおかげで整体がこの世に生まれたと言えなくもない。

考えてみれば信仰とかドグマというのは「受け入れられない人」がいるからその存在価値もあるわけで、みんなが「そうだ」と信じていたら、今さら改めて説く必要もない。

キリスト教も仏教もいつまでもなくならないのは、その愛も慈悲も悟りもなかなか受諾されないからに他ならない。

『整体入門』も『風邪の効用』も一般書の中に紛れ込んでいるのでうっかりすると見過ごしてしまいそうだが、その内容は教育、医療、宗教を分け隔てすることなく人間を全一的に導くための示唆に富んだもので、その功徳は計り知れない。

折に触れて読むといつも偏りかけた自分の心の姿勢を正される気がする。一冊の本の中に整体の技術としての潜在意識教育が盛り込まれているのだ。

活元指導

活元指導教室の告知をしばらくブログで行なっていませんでしたので、こちらにご案内いたします。

現在は原則月の第二木曜日、第四土曜日に活元運動の指導を行っています(臨時変更有)。

本家サイトでは教室の日程を随時更新していますので、今後はそちらを中心にご確認ください。

参加につきましては、原則的にせい氣院の整体個人指導を継続的に受けられている方に限ります。

整体法に対する理解の浅い方、体験目的の方はご遠慮ください。

自分で自分の身体を管理し、健康保持とその生き方責任を持とうという意志のある方はその旨をお書きのうえご応募ください。

汗冷症

毎年のことだけど、そろそろクーラーで身体をこわす人が増えてくるだろう。

冷夏のようだったので例年と少し時期はずれるかも知れないが、まあ大筋の動きとしては大差ないはずだ。

しかし企業とか学校で「来月から冷房がつくので、必要な方は羽織るものをご用意ください」というアナウンスをよく聞くが妙な感じがしてしかたない。

そんなに寒くしなければいいじゃん、というのがごく自然のツッコミ衝動である。

身体感覚の問題だと思うが、夏はあついのが気持ちいいのだ。

近年は舗装道路とか排気ガスの問題とかも相まって酷暑が当然だから、多少なりとも人工的に冷やさなければなるまいが、だからといって何も寒くなるほど冷房を効かすこともないだろう。

「ものすごく熱い」から「すこし暑い」くらいまで下げればいい話ではないか。

ご存知の方も多いと思うが、野口整体の概念で「汗の内攻」という捉え方がある。

汗をかいて急に冷やすとそれで簡単に身体を毀す。

まず身体が重ダルくなる。頭痛や腹痛、下痢なども定番の症状だ。

こうなった場合どうすればいいか。

汗を冷やして引っ込めて毀したのだから、もう一度体温を上げてドカッと汗をかけばいい。

ただし風呂やサウナで温めても一度内攻した身体の汗は出にくい。できれば身体を思いっきり動かして中から体温を上げたい。

成人の方で身体を動かす習慣のない方は少々難しいかもしれないが、現代はフィットネス関連の施設がも充実しているし「その気になれば」どうにでもなるだろう。

汗の内攻に限らずだが、心身の調子を崩したときに治そう治そうとうにゃうにゃ試行錯誤しているよりも、「エイヤ!!」と身体を動かしてしまった方がさっさと調子が上がってくることは存外に多い。

総じて運動不足なのだ。

人間も動物であり、動物はみな動くように出来ている。

だから動かなければ病気になり、それを発奮材料に潜在体力を振作しようとするのである。

身体の不快症状には必ず全体性を保持しようとする合目的的な要因があり、結果としてある種の秩序に向かう動きがある。

その方向に向かって適量の刺戟を加えれば、心の鬱滞でも体の失調でもすらーっと流れていく。

汗の内攻に戻るが、赤ん坊や幼児などは要注意でクーラーや扇風機の使用を誤ると場合によっては肺炎のような重篤な状態になる。

保育施設や幼稚園でこの「汗」に関する知識をもっと共有できたらかなり重宝するだろう。しかし現状は病気と言えば早期発見と早期の薬物治療、予防接種が盛んに行なわれるばかりで、生きた人間の生理的な連絡性を掴まえようとする動きは一向に見えてこない。

汗を冷やすと具合が悪いということも「自分の感覚」から出発すれば存外カンタンに解るのだが、こういう主観主義は疑似科学からは排斥の的になりやすいのだ。だからまあ向こう100年位は致し方ないかもしれない。

何にせよ毎年のことなのでこちらは飽きてくる。どうにかならないものかと嫁に向かってぶつぶつ文句を言っていたら「どうにかしたいんなら洋ちゃんが言い続けるしかないんじゃないの?」と言われたためにこの記事を書くことになった。

数人しか読んでなさそうなサイトで汗冷症などと題してみたが「汗を急に冷やすと危ないよ」という概念が通説になることを願って唱え続けてみるか‥。

10月21日 愉気の会後記

去る10月21日(日)、愉気法講習会を行いました。

愉気とは狭義においては整体法の気の手当てです。こまかな技術以前に「愉気をする人になる」ことが先ずなによりも肝要です。そのための下準備を念入りに行いました。

はじめは脊髄行気からです。

背骨に気(もしくは息)を通すような心で、スースーと呼吸をします。

しばらくすると気持ちが落ち着いてきますので、すっかり落ち着いたところで活元運動に入っていきます。

しっかり一時間弱、時間をとって行いました。

しかしながらこれもまだ下準備です。大自然のリズムと自分の呼吸を合わせるために、頭をぽかんとさせて身体の動きの中に没頭していきます。

この日ご参加されたみなさんは、よく体が動いていらっしゃいました。

愉気をしよう、人に手を当てて癒そう、と考えるような方はそれだけ心が自然に近いのかもしれません。

そうして活元運動がおわったら今度は坐学です。

教材は野口先生の『健康生活の原理』から。下に一部を引用しておきます。

私は医学的な考えというもの、あるいは体の解剖学的構造というものについて、何も学ばない十代のころから、大勢の人に愉気をし、また活元運動を誘導して健康をたもつように指導してきました。痒いところを掻くと、痒みがなぜ止まるのかは判らなくても、掻くと痒みが止まるようなものだったのでしょう。そのための体の構造も知らなければ、何を食べたらよいか、そういうことも知らないのに、相手を健康に導き得たのです。

何を基準に導いたか。強いていえば、人間はどうしてい生きているのか、生きている力を潑溂とさせるにはどうしたらよいか、人間の勢いということ、気の集注分散の波、ただそれだけを見つめ、その勢いを使って、さらにかくれている勢いを誘い出す、それだけのことを目標にしておりました。…<中略>…だから私の知識は五十何年間、一つ処へ坐りこんで、来る人の体を丁寧に観察し、そのうちにある勢いと、その勢いのもたらす体の変化だけを一人一人、調べ考えてきただけなのです。(野口晴哉著『健康生活の原理』全生社 pp.8-9)

とこういう具合に、とにかく形以前の「勢い」を呼び覚ますのが整体法の根本です。そうして相手の裡なる勢いを揺さぶっていく媒体が「気」である、と考えたら良いと思います。

こういう原理を念頭に置いて、その上で技術に入っていくことが大切だと私は考えています。

さて前置きがうんと長くなりましたが、いよいよ実習です。

具体的なこと‥をいちいち書いていくとものすごく長い駄文がつづいてしまいそうなので、申し訳ないのですがここから抽象になります。あとはご参加されてからのお愉しみと、思ってください。

先ずは気の感応を視覚化するための稽古です。

それから相手の背骨に手をかざして、引き合うところを見つけます。

そのあとで実際に触れての愉気を行いました。

あとはご参加いただいた方から「こんな場合はどこに愉気をしたらよいか?」という質問がありましたので、それにお応えするような稽古を行いました。

個人的にはこういう手かざし、手当ての系統は「変な方向」に言ってしまわないことがとても大事だと思っています。

ひと言でいえば「謙虚さ」みたいなものを修めていくことが修行ではないでしょうか。

自然との調和をはかっていく時に、やっぱり「私は、こうだよ」というものがあると、何となくギクシャクしてしまいます。

だからとにかく呼吸を自然に、こころを自然に。でも「自然にしよう」なんて思うとかえって不自然になりますから、自然にするなんていう作為らしいものをすっかり忘れてしまうくらいにまで活元運動をやっていくことが「愉気をする人」になるための近道だと思います。

などと言いつつも「この人のために」という気持ちがあれば、それだけでやっぱり愉気にはなりますが‥。何であれ、こういうことを覚えておくことは良いことにはちがいありません。

また有志の方で集まってやって開催いたしましょう。

見るということ

この二週間ほど文字を見ることができなかった。活元運動を毎日やっていたら目が痛くてしょうがなくなってしまったのだ。

そしてメガネがかけられない。

どうもあやしいので近所の眼鏡屋さんで検査したら、近視の度数が軽減しているではないか。簡単にいえば目が良くなっていたのだ。

活元運動の効用かどうかはわからないけれども、気がついたときには「目の前にレンズがある」、「顔に金具が掛かっている」という不自然さがつらくなっていた。

目の疲労は背骨の上方と、肩甲骨の動きとの関係が深い。そして肩甲骨は骨盤の動きと対応している。

さらに骨盤は呼吸といっしょにわずかに開閉する。と、こんな風に身体各部の関連性と連動性を挙げていくときりがない。

だから人体上のどこに問題が起こってもその責任は全身にある。

近視も眼球だけの問題ではないのだ。

伝え聞いたところでは、野口先生の存命中は整体指導者たるものメガネなどはかけなかったそうである。

とはいっても航空機のパイロットみたいに、裸眼視力のよくない人は最初からはじかれてしまう、という話ではない。

近視や遠視の人はその視力のおよぶ範囲内で生活をおくっていたという。

だからぼやけた世界で一生懸命氣を集めてモノを視て、それで立派に仕事をしていたそうなのだ。

だから人に会ったら50cmくらいまで顔を近づけて、「ああ〇〇さんか、こんにちは」とかやっていたらしい。

壮絶っ、という気もするけれども自然界ならばそれは当たり前だったりする。

そういうことが「自然」なら、服を着るのはどうなんだ、靴を履くことは?自動車に乗ることは?と考えていくとメガネだけに固執するのも妙な気もするのだが‥。

しかしながら、「目」そして「視る」という行為は精神活動に直結する気がしている。

むかしから「目は心の窓」というし、江戸から明治を生きた剣禅書の達人、山岡鉄舟によれば、人間はいくら学問や知識そして財力があっても「目から光が出るようにならなきゃ偉くはなれない」そうである。

仏教の方では慈眼などという言葉もあるし、人間を語る上でやはり「目」は軽視できない。

なんだか取りとめない話になってきたけど、本気で身体の再構成を願うならメガネ、コンタクトレンズといった矯正機器を付けている人は一定期間はずしてみると効果的ではないかと思った。

強度近視の方などはむずかしい場合もあるかもしれないが、今回のことでメガネを外したぼやけた世界でもかなり生活できたことに我ながら驚いた。

主観的には今までの頭の「はたらき」とは何か違う感じがする。

些細なことかもしれないが、また一つ身体の自然について考えさせられるできごとだった。

それにしても活元運動は本当にいろいろなことを教えてくれる。生命神秘の体現法だ。

9月13日活元会後記 体の波について

9月13日活元会を行いました。

事前のふれこみでは坐禅・活元会だったのですが、わたしが前半しゃべりすぎたために坐禅の時間はなくなりました‥。

教材は野口晴哉先生の講義録より「体の波」を選んで音読をして、みさなんに聞いていただきました。

整体法(野口整体)というのは実践哲学です。

なので、実践と並行して知的理解の両輪が必要である、というのが当院なりのスタンスです。

「両輪」ですから‥

左右の車輪のどちらかが大きかったり小さかったり、回転数がちがったりすれば、それでもうクルマはまっすぐ走れなくなります。

だから頭で理解するばっかりでもなく、理解したら必ず実践をする。

実践をある程度かさねたら、何のために、あるいはどういうことかを考える。

こういうことを行ったり来たり繰り返しながら、整体法をみなさんが体得していかれるようにと一応は考えています。

ちょっと話が横にずれましたが今回は「体の波」です。

人間には「波」があります。

これは科学的な検査でとらえにくい人間の生理機能といってよいと思います。

もちろん心電図や脳波計などではかろうじて「波」的なものがとらえられますが、レントゲンとか血液検査では完全にそういう時間軸はとらえられません。

そういう「点でとらえた」情報だけで、「生きた人間」がまるごと解るかといったらそれはおそらく不可能でしょう。

だから「生きて動いて絶えず変化する人間」をそのままとらえて、その波の低調高調を見極め、そのうえで波の間に間にポンポンとリズムや言葉や身体的な刺激を叩き込んで勢いを呼び起していく。

これが整体法の原理原則です。

しかしこれは決して「整体指導」という非・日常の特殊な空間だけにいえる話ではないと思います。子どもの躾のような家族間のコミュニケーション、家族以外でも人と人が心を通わせるためにはこういう生理的な波のあることを知り、その波の使い方を覚えていくことは大変有効です。

どうしたらそういうことが可能になるのか、といえばそれは自分の心身を通じて波のあることを勉強し理解していくことが一番の近道です。

心・体の微細な動きをよくとらえられるように敏感さを保ち、育てていくように、丁寧に生活をしていくことでそれは可能となります。

活元運動をこつこつやっていく、ということが王道ですが根底にあるのは自分自身の「たましい」とかその器である身体に対する礼、そして畏れの気持ちを持つようになれば年々歳々、心身は磨かれていくことでしょう。

ダイヤモンドと同じようなもので、磨かなければ誰の目にも止まらない石ころです。

身体もそういうものではないでしょうか。

有志のみなさまにはぜひ活元運動をお伝えしたいと思います。

次回は22日土曜日です。

8月25日活元会後記

毎月第4土曜日は坐禅・活元会です。

ご参加は比較的初心の方2名様でしたので、活元運動の準備動作をとにかく丁寧にやりました。

物事は何でもそうですが、準備、「仕込み」が大切です。

「仕込みが9割」です。

活元運動の場合なら、まずは呼吸。

「邪気の吐出法」という(ちょっと古めかしい名前ですが)、大きく口を開けて「はぁー」と吐き切る呼吸を最初にくり返します。

これで頭のはたらきを切り替えていきます。

とにかく現代の人はアタマの回転が早すぎて心の休まる暇がありませんから、それをまず「ゆっ‥くり」動く状態に導いていく。

言ってみれば「活元脳」みたいな、いわゆる「ポカン」の状態です。

「これだけで自然の健康を保てます」と断言できるくらいの重要なプロセスです。

そうやって横隔膜の動きを柔らかく大きくしてくことで、気持ちにもゆったりとした余裕が出てきます。

世界が変わる、といってもいいくらいです。

・それから背骨を捻じる動作。

・背骨に力を集める訓練。

これをきちんとやってあとは目を瞑って「だらん‥」、としていると身体が動きはじめます。

初めての方もしっかりそれらしい運動が出ていました。

このまま繰り返していけば、自律神経が整い身体のバランスを取るはたらきが自然に強化されていきます。

非常に簡単なうえに、スポーツのようにケガをする心配もありませんのでどなたでもできます。

来月は9月13日(木)、9月22日(土)に予定しています。

野口整体に興味のある方、自分で健康を保つ方法をお探しの方はご参加ください。

8月9日活元会後記

去る8月9日に坐禅・活元会を行いました。

なぜか前回と同じく台風の予報と重なりましたが‥。そして前回同様、予報に反して大したことはなく、みなさん無事にお集まりいただけました。

内容は脊髄行気から始まって、坐禅、野口整体の教材資料を使っての座学、そして活元運動です。

まずは脊髄行気について。

ちなみに「行気(ぎょうき)」というのは自分の身体のどこかに、呼吸を入れていくようなつもりで気を集める訓練法です。

だから「脊髄・行気」といった場合は、脊柱管という背骨の中心孔をイメージして、頭のてっぺんから尾骨に向かって息を吸っていく(つもり)。

「すーっ」と鼻から吸って、吐く方は特に意識しません。

目をつぶって静かにおこないます。

大体、10分くらい。

ひとしきりやって落ち着いてきたところで次は坐禅です。

坐禅はご存知の方も多いと思いますが、半眼といって目を開けておこないます。ただし、視線は45度下方(やや伏し目がち)になります。

そして、うちの坐禅会では「坐骨」を大切にしています。坐骨をぴたっと座布団に据えて背骨をまっすぐに立てていれば、「足の形は自由」ということにしています。

一般的には結跏趺坐(けっかふざ)という、いわゆる大仏様の座り方を推奨するわけですが、これがむずかしければ正坐でも結構ですし、アグラでも椅子坐でもOK。

そしてさらに、眠くなったら寝っ転がっていてもOKです(今のところ、ゴロ~ンと寝た人はいませんが‥いいんですよホントに)。

とにかく、

「何にもしない」

ということをやってみましょう、という集まりです。

本当に「何にもしない」でいる時、自分は、世界は一体どうなるのでしょうか。

どうぞ、やって確かめてみてください。

 

さて、それから休憩をはさんでお待ちかね(?)の座学です。

いや‥、脊髄行気と坐禅がおわった時点でみなさんエンディングモードだったのですが…一応スケジュール通り敢行いたしました。

資料は野口晴哉著『愉気法1』全生社の「質問に答える」より。

質問 活元運動の会で大変よいことを学びまして感謝しておりますが、年を取ると(六十五歳)、長患いをしないで終わりたいということを考えます。老衰死ということになりますと、一年近くはおしもの世話を受けるようですが、避けられないことでしょうか。

 こういうご質問ですが、死ぬ時はみな快感があるのです。老衰して人に世話をかけるというのは、まだ自分の力を発揮していない人です。力のある内に力を使わないでいると、そういうように動けなくなるのです。本当は死ぬ間際まで動ける。…<中略>…

…ですから、死ぬ前の一年間、人に小便をとってもらうことなど考えないでいいと思います。それまでは相互運動をし、人にも愉気をし、自分も愉気を受け、相互におやりになることがいい。人間はそういう力を持っているのだから、それを存分に発揮しなくてはいけない。専門家ではなくては治せないというのは嘘なのです。みなお互いに治し合う力を持って生まれているので、そういう人間の持っている力を発揮しさえすれば、お互いがお互いを助け合えるのです。ただ心を無にして触ればそれでいい。(『愉気法1』pp.75-80 一部太字は引用者)

坐学では整体の心得と世界観を知っていただくために資料を選出しています。

大切なことは価値観と世界観、そして死生観の共有と理解。

平たくいえば、生きているうちに「力を出し切ろう」と言っているのです。

そのために頭のはたらきを停止して、身体の方に任せることが大切だといいます。

整体ではよく「ポカンとして‥」、といいますが、何にもしないでぼやーっとしていることにも立派に価値があるんですね。現代的にはあまり好まれないかもしれませんが。

例えば、日本に曹洞宗を伝えた道元禅師によって、坐禅の要諦について記された『普勧坐禅儀』という指南書があります。これによれば‥

諸縁を放捨(ほうしゃ)し万事を休息して、善悪を思わず是非を管することなかれ。
心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ。

という部分があります。つまり「心のはたらきをすべて開け放して、一切を忘れて休息しなさい」と言っているんです。活元運動というのも、形こそちがいますけどそういう訓練ですね。

どこまでいっても、「ポカン」として身体のはたらきに任せましょう、という話です。

そして、いよいよ実践に移ります。

みなさんでいっしょに息を合わせて活元運動を行いました。

活元運動にはこうしなければいけない、こうしてはいけない、ということはありません。ぱたぱたよく運動の出る人、とろーんと眠りかけている人、いろいろです。

丁寧に1時間くらいかけておこないました。全員の運動がある程度おさまったところで終了です。

最後にほっこりお茶を飲んでおしまい。

実際のところ、毎回毎回、これって一体何をやっているのかなあ、なんて思うこともあります。

でも何となくみんなお集まりいただくのだから、たぶん目に見えない功徳があるんでしょうね。

心がほんのちょっとでも洗われて、ラクになって帰っていただければ、本人並びにまわりの人たちにとっても良いことだと思うのです。

今月はもう一回、25日(土)にも行います。

ご参加を希望される方は前々日までに、メールフォームにてお申し込みください。

整体の臨床を考える

ここしばらく野口整体とユング心理学の統合を謳っているけれども、改めて何をどうするのか訊かれるとなかなか上手く答えられない。

一つ言えるのは、ユングの提唱した「個性化」ということを整体指導の臨床で実現したいというのは大きなテーマである。

ユングの言う「個性化(individuation)」というのは、俗にいう「個性『的』に生きる」ということとは別物である。その真意は、自分の原初的な〈こころ〉につよい関心を寄せることで「本当の意味で、私らしく生きていこう」という態度なのだ。

整体流にいえば「裡の要求に目覚める」という表現がこれに近いように思われる。これは身体の中心(深層意識)にある純粋な〈思い〉に目を向けることで、自分が芯から望んでいる生き方を真摯に考える、という極めて敬虔な態度なのである。

この両者のプロセスにおいて共通しているのは、いずれも顕在意識の活動水準をひたすら下げていく、ということだ。

これについて野口整体ではよく「ポカンとする」という表現を使うけれども、このポカンというのが顕在意識の活動水準が充分に下がった状態を指しているのである。

現代的にはどうしても「思考力をいかに高めるか」という方に価値が置かれやすいのに対して、敢えてそのウラをかく行き方ともいえるだろう。

深く考えたり内省したりするような「意識的な」活動を積極的に放棄することで、自身の行き詰まりに対する「打開策」や「活路」を見い出そうというのである。

イメージとしてはアニメの一休さんが頓智をはたらかせる際に、坐って目を瞑りポクポク‥チーンとやるのが典型的と言える。いってみれば目覚めた意識の統制下において、大脳の活動を休ませる状態を作り出したい。

そこで鍵となるのが「身体」なのである。

一般的に「意識」とは脳の活動状態のみに従属するものと考えられやすいが、実際は「全身これ意識」といった方が正しい。特に幸福感や心の余裕度といった面においては、もっぱら脳よりも下腹部や腰周辺の「姿勢」や「体勢」といったものが大きく影響するようである。

特に腰椎部(ヘソの裏側あたり)に生理的な正しい湾曲(反り)が現れると、余計な心配事や不安感は消失する。いわゆる「大丈夫」とか「大安心」の境地というのは、下腹部を中心とした「修養」を正しく積むことで得られる「身体能力」と考えていいようである。

換言すれば整体指導というのは個々人においてこの「大丈夫」を顕現するためにある、といっても過言ではない。

それは頭のはたらきを一定に鎮めることで、腹脳と呼ばれる二次的な(より高尚な)意識の覚醒を試みることである。東洋的な身体観において「上虚下実」という状態が好まれるのは、上記のような理由によるものと考えられる。

そしてこれこそが最初に書いた「個性化のプロセス」や「裡の要求に目覚める」ために必要な心身の構えとなっていく。

これに因んで、ユングは自身の精神的危機を乗り越える際にヨーガをやったと言われているけれども、クライエントに対して身体的な「行」を勧めたというような記録は今のところ目にしたことがない。

実際はそういうこともあったかもしれないが、やはり当時の西洋社会においては「身体」の中に精神を開拓できるほどの可能性を見出してはいなかったのではないかと思われる。

その辺りを現代日本人の心と体の教育に適用して成果を上げようというのが、現行の整体指導のねらいなのだ。開業して9年ほど経つけれども、多少なりとも概要がまとまってきた感がある。

一方で、自分の職業の可能性があまり小さくまとまってしまうのもつまらない。だから「整体指導とはこういうもの」という概念の固定化はできるだけ避けるようにも心掛けている。

実際の臨床においては、よくわからないけれども会っている内に「なんとなく」元気になっていく、というようなことは数多く経験するものである。そういう余裕というか含みのある態度は大切に残しておきたい。そのためにも人間的な大きさとか、徳性を養うことはライフワークといえる。

そういえばむかし手相鑑定士に「あなたは哲学や宗教学のような『正解』のない学問をやり続けるのが性に合っている」と言われたことがある。ふと気がつけば大体そんな人生になってきているの気がするのだが、はたして鑑定士の見立てが当たっていたのだろうか。

何にせよ人生の導き手たらんとする者は、自分の人生、つまり「私の道」を日々創造し続けることが一つの責務である。坐禅と活元運動の励行は無意識からのエネルギーの流れを生み出して、自我の再構築を進めてくれる貴重な行法なのだ。

そうやって自身の自由性を充分に発揮していくことが、他者の自由度を拓く力になる。そういう意味で「整体」という生き方は、生の終着地点としての死を最良の状態に仕上げるための指針のようなものである。

ひたすら死に抵抗し続ける「自然科学」に対して、死を積極的に迎え入れることで生を輝かそうとする「宗教」としての位置に、ユング心理学と野口整体は鎮座しているのだ。

あとは洋の東西を越えた視点に立って、「現代」という同次元の中を生きる「人間」に対しどう向き合うか。その術を生み出す過程において、先の両者の思想の統合が非常に有効な手立てになると考えている。

いずれにしても「個人」に真正面から向き合うことは原則である。臨床における術(すべ)に普遍的な方法論はない。

それだけ「生きた個人」ほど解らないものはないのである。人間は策を弄するほど〈いのち〉の原形からは遠ざかる。

この無限の不思議さに有限の生を以て追い続けた先達に範を求め、自分自身のいのちの真相を解き明かすことが自ずと両者の「統合」に至る道ではないかと思っている。

心のゆらぎと安定

せい氣院の整体では仕上げに必ず正座をしていただく。

ちなみに古伝の整体法ではベッドを使用しないため、受ける方は操法布団にうつ伏せ・あお向け・正座のいずれかになる。

とにかく3、4年前までは私も師匠に教えられたとおり、坐骨が安定させて腰椎(背骨の中の腰部分)がしっかりと伸びること「だけ」を目標に一回の操法を組み上げていた。

ところが最近になり「果たして本当にこれでいいのか?」と考えるようになってきた。

確かに腰椎が伸びれば意識は静まる。

それはそれで結構なんだけれども、そのとき思考も停止して精神は非常に「平安」の状態になる。

「それも結構じゃないか」と言えなくもないが、本来は「悩む」ことでその人は何かが変わろうとしているわけだから、もう少し悩みを深くして、葛藤の純度や精度を高めることも必要なのではないか、と考えるようになったのである。

ところがカリスマ性の強い指導者やメンターというのは、しばしば相手の中にあるユレやグラつきを全て奪ってしまう。

その結果クライエントは「その人」に会ったときだけものすごく安定する、という「問題」が出てくるのだ。

そして時折りこれが一種の中毒症状になって、「治癒」と「自立」を目的とした臨床の場がかえって不健全な癒着状態に陥ってしまうケースが巷には散見される。

これはあくまで私見だが、高額のスピリチュアル・カウンセリングやスピリチュアル・ヒーリングの世界には、このようなモデルで関係性やコミュニティが成立しているものが多い気がしている(もちろん本当に霊的な感性を有効利用して人々を導いていく先生もおられるが‥)。

本来「自分のこと」というのは、必要に応じて援助者がいたとしても、最後のところは自分で完成させなければならないのだ。

たとえば心理学者のユングは師のフロイトのもとを去ったのちに直面した自身の精神的危機を乗り越えるために、ヨーガの瞑想を行なったとされている。

ただし東洋宗教の場合は瞑想によって一切の妄想雑念からの解放(悟り体験)を願うが、ユングはこのような態度に疑問を持ち続けたのである。

何故かといえば、本来心が人格の全体性に向かって葛藤しつづけることが、治癒と成長に欠かせない生命のダイナミズムである。

だからこそ心が極度に静止した状態が長い間つづくことに対して、心理療法上の弊害が予想される。

もちろん瞑想行を通じてすばらしい人格を築き上げていく人も世の中にはたくさんおられるわけだから、ここで事の正否まで明言することはむずかしい。

ただ現時点のわたしは、やはり「悩むべきとき」には心はぐらぐらに揺らぐ方向にかけている。

昔「みんな悩んで大きくなった」というCMソングがあったそうだが、大きくなるためには悩むことが必要なのだろう。

悩んで悩んで、そうしていわゆる「どん底」というところまで沈みきったときに、つんと地面を蹴ると、不思議と人間は何もしなくても浮かび上がって来るものである。

「時」こそが「癒し」なのだ。

もちろん、無意識から顕在意識の方へ急激にエネルギーが流れ込んだ結果クライエントが極度なうつ状態になっていたり、方向性を見失ってどうにもならない、というような場合には「事故」にいたるまえに適切な保護は必要かもしれない。

このあたりの按配が(時には命も関わるので‥)極めて重要だが、指導者の方に「相手の力を使う」という気構えがあれば、うっかり相手の立ち上がる力までを奪うようなことはなくなるものと思われる。

物事にはなんでも厳然とした順序やプロセスというものがあるのだ。だから今ゆれているものを「時」を無視して急に止めるということにはやはり「無理」がある。

これが生物ならやはり「こわす」方向に行くだろう。

安定に至るための「ゆらぎ」というのを如何に充実した期間にするか、が治療者の力量であり器量ではないだろうか。

コツはやはり見ている方が「呼吸を深く」保つこと、そのための鍛錬を日々行うということではないか。ひと言でいえば心の余裕だが、自分自身の中にあるゆらぎを黙って見守ることができる余裕は必要だろう。

ゆらぎを活かすということは取りも直さず自然を味方につける、ということである。まず自分自身が自然と一体になることでその功徳がやがて余人にまで及ぶのだから、シャーマニズムの原型のようでもある。

熱も下痢も身体を丈夫にするために利用するのが野口整体だが、不均衡、不安定な状態というのはいずれもそれ自体がエネルギー内包しているのだ。これを上手に使う発想をしっかりと身に付ければ、不安になることをそんなに怖がらなくてもよくなるだろう。

病気は生命の自然良能である。身体においても精神においてもそれは変わらないのである。