見るということ

この二週間ほど文字を見ることができなかった。活元運動を毎日やっていたら目が痛くてしょうがなくなってしまったのだ。

そしてメガネがかけられない。

どうもあやしいので近所の眼鏡屋さんで検査したら、近視の度数が軽減しているではないか。簡単にいえば目が良くなっていたのだ。

活元運動の効用かどうかはわからないけれども、気がついたときには「目の前にレンズがある」、「顔に金具が掛かっている」という不自然さがつらくなっていた。

目の疲労は背骨の上方と、肩甲骨の動きとの関係が深い。そして肩甲骨は骨盤の動きと対応している。

さらに骨盤は呼吸といっしょにわずかに開閉する。と、こんな風に身体各部の関連性と連動性を挙げていくときりがない。

だから人体上のどこに問題が起こってもその責任は全身にある。

近視も眼球だけの問題ではないのだ。

伝え聞いたところでは、野口先生の存命中は整体指導者たるものメガネなどはかけなかったそうである。

とはいっても航空機のパイロットみたいに、裸眼視力のよくない人は最初からはじかれてしまう、という話ではない。

近視や遠視の人はその視力のおよぶ範囲内で生活をおくっていたという。

だからぼやけた世界で一生懸命氣を集めてモノを視て、それで立派に仕事をしていたそうなのだ。

だから人に会ったら50cmくらいまで顔を近づけて、「ああ〇〇さんか、こんにちは」とかやっていたらしい。

壮絶っ、という気もするけれども自然界ならばそれは当たり前だったりする。

そういうことが「自然」なら、服を着るのはどうなんだ、靴を履くことは?自動車に乗ることは?と考えていくとメガネだけに固執するのも妙な気もするのだが‥。

しかしながら、「目」そして「視る」という行為は精神活動に直結する気がしている。

むかしから「目は心の窓」というし、江戸から明治を生きた剣禅書の達人、山岡鉄舟によれば、人間はいくら学問や知識そして財力があっても「目から光が出るようにならなきゃ偉くはなれない」そうである。

仏教の方では慈眼などという言葉もあるし、人間を語る上でやはり「目」は軽視できない。

なんだか取りとめない話になってきたけど、本気で身体の再構成を願うならメガネ、コンタクトレンズといった矯正機器を付けている人は一定期間はずしてみると効果的ではないかと思った。

強度近視の方などはむずかしい場合もあるかもしれないが、今回のことでメガネを外したぼやけた世界でもかなり生活できたことに我ながら驚いた。

主観的には今までの頭の「はたらき」とは何か違う感じがする。

些細なことかもしれないが、また一つ身体の自然について考えさせられるできごとだった。

それにしても活元運動は本当にいろいろなことを教えてくれる。生命神秘の体現法だ。