靖国 みたままつり

お昼から九段下、靖国のみたままつりに行ってきました。

靖国のみたままつりに行ってきました

電車を乗り継いで行った九段から神社まで続く道には、「子供達に正しい教科書を・・・」と署名を集める方々の姿が・・。

演説を聴いてると今の社会科の教科書には日本が台湾を中国に返還したと書いてあるらしい。確かに僕の知る限りではそういう事実はないな・・・。

さて、いつも一番最後の鳥居をくぐったところに並ぶ有名人の献灯を全部見るのだけど、あらこの人も?みたいな、いういろんな人の名前を見つけるのは楽しい。

そんな感じで見ていると沢山のタレント・俳優・書家・漫画家の書、画、絵が並ぶ中に何メートルも先からひときわ清らかな墨跡で光彩を放つ灯篭を見っける。

「おっ!なんだー・・!?」と、思って寄ってくと、そこには・・・

相撲の北の湖さんの献灯だった。

北の湖さんの献灯
澄んでる・・・

世代的には活躍した時期を知らないけど、「怪童」とか、悪役みたいに言われたイメージとは違うなあ。さすが史上最年少横綱。

今日は靖国に因んで途中まで私的感情をいろいろ書こうと思っていたけど大部分を消してしまった。身体をみて人を丈夫にしていこうという立場の人間が政治思想的な色を持つのは余計だと思ったから・・。

「俺はこうだよ」、という口述の愛国論も自粛いたします。m(__)m行動を見ればその人はわかるし、考え方も伝わるからね。

人間っていいな

その昔読んだ本で、「マージャンというのは、いい大人がタバコの煙にまみれて徹夜をしたりするので、全く亡国の娯楽だ」と書かれていた。

今はそのマージャンは脳に良いからといって公民館なんかでお年寄りが習っていたりするから、どんな説も長期的に見れば全ては仮設と思っていい気がする。

現代でいうと携帯電話というのが人間存在を危機にさらしているのではないかな、と僕は勝手に思ってます。どんな製品にもプラスとマイナス、功罪、二つの顔があるのが普通だけどね。

例えばインターネットを駆使して何千人もデモに集まるような世の中を50年前とか、30年前でもどれほどの人が想像できたんだろう?

それはそれで便利な世の中でいいじゃない、というふうにどうも楽観視ができない・・。とかいうのは時代錯誤的で、自分だけなのかなぁ?

野口整体という世界にひたっていると、人間というのは魂の奥深いところでつながっているのだというユングの仮説がなんとなく理解できる。

命というのは命あるものとつながりを持っているから生きていける。捕食とか、スキンシップも基本は「命あるもの」がその対象だ。

「他の生命とつながりを持ちたい」というのは全ての生命が持ってる共通の欲求だろう。携帯電話だって多くの人にそんな欲求があるから一定の利用者が獲得できているんだろうしね。

もしこの携帯電話というものが世の中からなくなったらどんな世の中になるだろうか?と考えるとわたしにはどうしてもそれが不便でつまらない世の中になる、というようなマイナスの方へは想像がはたらかない。

もっと人と人がつながり合おうよ、とお互いが相手を慮って、人間を大事にするような、そういう気のつながりを求め合うあたたかな世の中が思い浮びます。

商売なんかでも、人と「会う」ということの重要性は増すだろうし、納期や約束を守る、という信頼関係も今よりもっと大切になってくるはずだ。

意思や言葉の伝達は人間の行為の中でもっとも神聖であるべきなのに、今や「ゆとり」も「間」もなく、絶え間ない意思の応酬にアタフタしてて、子供の心が育つような「間」も失われている気がする。

チャップリンのモダンタイムスの時点で人間の機械化という予兆はあったのかもしれないけど、今の人間は何やら機械以下のおもちゃに成り下がったかのようにも見えなくもない・・。(ある条件を与えればそんな状態は脱する、とも思ってるけど)

今となってはこの便利でライトな通信手段の蔓延、定着というのは逆らえない巨大な潮流となっているんだろうけどね・・。

電車に乗ると正坐はおろかイスにすらまともに座れない大人がうつろな目でケータイ電話をいじってる姿は、亡国病というのを目の当たりにしている感覚だ。

わたしは、身体に対する畏れと、人間賛歌の情愛が混在している、「野口整体」のような実践哲学がこれからの世の中には必要なんだ思っています。

開業届けを出す前から、「腰から日本を立て直す!」と言い続けているんだけど、共鳴してくれる人は意外といてくれて励まされつつやっている。

生きてるうちに自分の力を出し切りたい、とか、この国を守りたい、とかそんなこと考えながら仕事してます。

そして読んでくれたあなたに、「ありがとう」と言ってみる。^^

デトックス 汗がかける身体になる

梅雨の今どきって余分に食べるとすぐくたびれる。そんなだからあっひーは近頃はうどんとか芋とか食べてます。((;π;))うまま・・

この季節に白米はソッコーむくんでしまいます。4~5年前まではなんともなかったけどね。夢見がちな34歳・・夏

食べすぎると手の感覚も、心の目もがナマクラになるからこの仕事的にアウトなのだ。

だもんで自分でもうどん茹でますが、ときどき仕事の合間に関内の丸亀製麺までちゃりを疾らせます。

あ、そーだ・・今日こそは汗の話します。大口には今シトシト雨が降ってますが、今日あたりからだんだんと「梅雨」から「夏」になってきそうな感じですね。

いつもベランダから見えるネコもすでにぐったり・・。

いつもベランダから見えるネコもすでにぐったり・・。

汗もそろそろべたっっとした汗から、タラタラー、さらさら~に変わってきてる人が多いのではないでしょうか。

女の人は汗をかかない方が歓迎されることもありますが(お化粧とか?)野口整体では汗のかけない身体を警戒する。

汗って体と心を新鮮に保つために重要な役目があるみたいです。

見ていると、スポーツなんかで定期的に汗を出している人は感情の「持ち越し」がない。代謝が悪いとどうやら感情まで澱んで停滞してしまうらしい。

感情は涙からも汗腺からも捨てられます。悲しいときに泣くことも大事だけど、発汗は気持ちをリセットするためには健全な方法なのだ。

そういえば自分が最初に勤めた会社の社長(山形出身)が行動型(野口整体の体癖でいうと5種)の人で、業績が落ちてくると毎朝走っていた。

「走ってっとヤル気になってくんだ!」と山形弁で力説されると、巷の格言である、「幸せだから笑ってるんじゃない、笑っているから幸せなんだ理論」を彷彿とせる。

話がずれました。ほぃ・・。

さて、汗が出ない人というのは、背中がカタい人です。(肩甲骨の間のあたりね)ここに愉気すればじわじわと汗が出るようになってきます。

一人だと肩甲骨の間に愉気とかはできないので、自分で発汗を誘導するには足の指の間を押してひらくというのが良いと思います。

これは足の甲にある指の骨の間を両手の親指で刺激して開いていきます。(一箇所ずつ、扇の骨を開くイメージで・・)

足の甲は緊張したりこわい思いとかすると狭くなります。気が縮むからです。これをもう一度広げてあげると身体がゆるんできて汗も出やすくなってきます。

指の骨の間を両手の親指で刺激して開いていきます
お風呂に入る前にやるとさらに効果がUP。クーラーで冷えて身体がダルい人なんかも試しにやってみてくださいね。

とにかく夏は運動でもいいしサウナでもいいし、半身浴でもいい、汗をドンドン出してみてくださいね。水分とお塩を補給しながら

ではねー

<追伸>
熱中症には気をつけてください。m(__)m

肩が上がる

今日、夜ご飯のの材料を買いにスーパーに行ったら、ものすごい肩に力が入って上がってる人がいた。いや肩が上がってる人はいくらでもいますが、すごい上がってるんです。それはもうスンゴイ・・・

このままいったら3~5年の間に身体に大きな変動が出そう。(今はいいかもしれないけど・・)これは何とかしないと、と思ったところでどうすることも出来ず。

こんにちは。朝比奈です。

今日は旬な「汗の質と処置」のことを書こうと思っていたんですが、やっぱりやめて肩の話にします。

身体の調子が芳しくないという人は、整体の観察でいうと気が上がっています。

気は見えません(僕には・・)、ただ後ろから見ればその人の気の有り様は一目瞭然で、写真には写らないトコロですけど気の状態というのは感じ取ることができます。

そして大体の見当をつけた後で、実際に身体に触れて確かめるんですが、肉体的な現われとしては肩が上がっています。

これが下がってくれば、呼吸が深くなるし、気も本来の状態になって頭から足先に向かって流れ出します。

肩が下がれば自律神経系も通常の働きになっていきますから、自然治癒力も闊達になる。これが病気が勝手に癒えていく身体です。

そうなるためにどうすればいいんですか?というとこれは毎日の動作の積み重ねなんですよね。

身体を丁寧に上手に使う、というのは特殊なアクロバットではないので、整体は誰にでもできます。始めからはできませんけど、気を付けて長く続ければ自然とそうなっていきます。

整体っていうのは身体の教養、命の智慧です。

とかいって、このまま観念論で終わってしまいそうなので、体操を一つ。(体操って程でもないけど・・)

俗に言う「アガる」というのも気が上がると同時に、肩が上がることを指しています。そこで中途半端に上がった肩を一度思いっきり上げて、少し後ろにストン!とすると肋骨がゆるんでほっと新しい息が入ってきます。

両肩を耳に付ける様にぎゅーっと上げて、どさーっと落とす。よくみかけるアノ動作ですね。ホントはこれと合わせて骨盤にも愉気すると好転が早いんですけどね・・。

でも今はヨガとか骨盤の本とかいっぱいあるから、わざわざ整体に来なくても骨盤の勉強はできますね。

ちょっと新鮮味にかけますがこんな単純な体操でも気を集中してきちんとやると、身体って変わってくれるんです。愉気でもなんでもそうですけど、整体は何をやるにもとにかく気の密度が大事かな。

それにしても今日の人気になるな~・・今度見かけたら思い切ってショップカードわたしてみようっかな・・。うーん・・。

活元会 in 大口

今月の横浜大口活元会は7月25日(水)13:30からです。(*^o^*)

内容はいつも通り、活元運動と愉気法の実習をやります。そのあと時間のある人はお茶とお菓子ですね^^

見てるとみなさん、どちらかと言うと活元運動よりも愉気に関心があるみたいです。弱っている人を庇ったり癒したりしてあげたい、というのは人間の本能なのかもしれませんね。(人間の根源的な愛を感じます)

愉気は誰でもできます。今日はじめて今日からでもできます。でも、誰でもできるんですが、やはり一つの技術ですので、精度というか「静度」、気の純度みたいのがやっぱりあると思います。

愉気法がきちっとできるためには自分の中になるべく澱みないことが大切になってきます。

だからいつも活元(で偏り疲労を修正してから)→愉気の順なんですね。^^

他でやっている手当ての技術ではセンタリングっていう風にも言うみたいですけど、日本風に言うと心身統一ですよね。僕は日本語の方がしっくりくきますのでこっちの表現が多いですね。^^

もう一つは「型」 身体の構えですね。これと気の統一がイコールで、一つです。

愉気をするときプロとアマチュアでは求められる気の質っていうのも違う気がするんですが、僕はこの地元、大口だけで愉気法がきちんとできる人が100人育ったら横浜の中でもちょっとイカした街になると思ってます。

例えば・・お子さんが「お母さんちょっと頭イタイ・・」って時にお薬を出す前に、「そっかそっか、○○ちゃん、ちょっとおいで」とかいってじーっと愉気して、それで癒してあげられたらいいでしょう?(治すのが愉気の本質ではないんだけど・・とりあえず)

心が育つときっていうのもこういうときだと思うんです。身体の感覚や痛みを共有する。肌の記憶がいっぱいある子ほど心も体も丈夫に育ちますよね。

いろいろな事情があって、こういう肌の良い記憶が足りなかった人は後から必要なだけ足せばいいんですよ。真理はいつもシンプルなのです。

塾に行かせてあげることも大事かもしれないけど、大切なことって、他にもいろいろ、いろいろあるってことです。と、僕は思います。

教室に参加される方は、また事前にメールしてくださいね。

腰痛・肩こりの原因で意外なもの

整体指導の時には装身具は全てはずします。まずメガネ、指輪はまず基本で、ネックレス、ピアスなどはずせる金属は全部はずします。あと、ハードコンタクトもはずします。角膜を圧迫していると頭部も骨盤もゆるまないのです。

やってみるとコレだけで呼吸が深くなって来ることがわかるとおもいます。ためしに自宅で眠るとき指輪などはずしてみてください。

以前へそのピアスをとったら卵巣の違和感がその場でなくなった方もいました。あとは耳のピアスをとったら一晩で腰痛が消えたり・・。症例は沢山あります。

整体操法をする目的は「感受性を高度ならしむるため」なのです。身体の感覚を鋭敏にすると言うのは整体の入り口であり最終的な目的でもあります。

では何でみんなピアスをざくざくしてしまうのか?というと私は「身体を鈍らせるため」だと思います。

今の生活は心身両面にストレスが沢山かかっていますから。悪い刺激を心身に響かせないように、感受性にリミッターをかけてやり過ごしている人は少なくないのです。

しかしこの方法ではかえって本当の健康は遠ざかってしまいます。本来は身体を整えてストレスに対する抵抗力をつけて、「よく感じる」心と体で生きていく、これが正しいのです。

だからまずは鈍りのもとは全部取り除いていきます。食べ物でもお砂糖がどっさり入っているものからやめていきます(「ガマン」するのではなく甘いものが欲しくならない身体になるということです)。

気や身体が整ってくると良いものと悪いものの判別がつくようになってきます。快感と不快感もはっきりしてきます。こういう状態で身体の軸をきちっと保っていられれば病気の多くは治っていきます。

体から金属をはずすなんていうのは大した努力は要らないけど、続けてるとちゃんと自分にプラスになって反ってくるのでこういうことこそ侮れません。信じるか信じないか、も個人の感受性に依拠するものですが・・。

とまと

お腹が空いたのでトマトにはちみつかけて食べてます。((;~;))ンマイネェ・・・

こんにちは、あっひー先生です!ドンストッマイラブ。

この仕事をすると頂き物が多くて・・、日々是恐縮です

今年は何故かトマトをよく頂いて、たぶん今日で5回目くらい・・。

僕の顔ってトマトを食べた相なのかな(笑)いや、好きですけどね^^

自家栽培とかね、田舎から送ってきたものとかを下さるんですが、とにかくすごく美味しいんですよね。

よく手塩にかけるとかいいますけど、「糖度を上げるためにこうしてるんです!^^」とか、「薬は使ってません!・▽・」とか時間と情熱を傾けて育てると、「中身」が詰まってる感じがします。

でも、これって植物だけじゃなくて人間の身体でも一緒なんですよね。

僕が身体を見ていても健康な人は「中身」がしっかり詰まっていて重い。なおかつ頭から足のつま先まで目に見えない直線が通っている感じがします。

乱れている人というのはこういう「軸」もないし、顔の表情もうつろです。背骨もぼんやりして「にぶり」という感じがします。これは両極端な例ですけどね^^;ふつうはこの中間ぐらいを行ったり来たりしていることが多いです。

とかく今は身体を丈夫に保つということが難しい。身体に良くない食べ物の誘惑も多いし、姿勢や作法の教育もない。

野口先生が大活躍された昭和30~40年代は今よりもう少し人間がしっかり生きていたので、一過性にバランスをくずしたものを「調整する」くらいでよかったと思うのですが、現代となると30歳や40歳を過ぎてから初めて身体の教育をはじめるような感じです。

そうだとしたってやらないよりは全然いいです。ただ僕が学んできた野口整体は、愉気法でも活元運動でもある程度モノにするためには時間と根気がいります。

苦しい症状の人ほどやっぱり結果を急がれますけど、これはと思ったものは一定期間続けるって事も大切です。

勝海舟が『氷川清話』のなかで近頃(明治時代)は人間の根気がなくなったといっているけど、根気がないから身体が萎えているんです。その身体をきちっとするためにはやっぱり最初の気力が大事。

僕の仕事は人の気力を充実させる仕事なので、なにより僕が元「気」じゃないとね。人間同士が互いに気を分け合って、与え合って、助け合って、励ましあって、元気に生きられたらそれが整体の理想とする世界、なんじゃないかなぁ。

「薬をやめる」と病気が治る

安保徹氏の免疫学は整体のスタンスを擁護する内容なので来院される方にはよく奨めている。氏の著書『「薬をやめる」と病気が治る』は投薬と自律神経のバランス、肉体の免疫力や病気に対する抵抗力の関係性を科学的に説明している。

安保氏の免疫理論の中でも消炎鎮痛剤やステロイド剤は自律神経のバランスを崩してしまうので、結果的に自然治癒力を弱めてしまうことが書かれている。

またイギリスのエネルギーヒーラー、ベティ・シャイン氏の著書『スピリチュアル・ヒーリング』(英題:”Mind to Mind”)には「薬はすべてのエネルギー体を体の正規の位置からずらす作用を持っている。薬を飲むと心のエネルギーは押し上げらるので、その人は肉体からわず

切り口は違うけれども、薬にはいわゆる「全体性」というものを損なわせる働きがあるということで、共通した意見だろう。

それにしても「野口整体とは薬を飲まない」が一人歩きしているようなのが現状で、年に2~3回かはお越しになられる方からは「整体指導を受けながらでも、薬は飲んでいいですか?」と訊かれる。わたし自身は身体的に苦痛や不具合があって、投薬治療が是非に必要な方なら有効に利用すべきだと思う。

遅かれ早かれ「体が整う」ということが理解できてくると、医療のお世話になる必要度は自然と減っていく。整体法をやることが精神的ストレスになることのないように気をつけたい。

根本的には身体を敏感にすることで「裡なる要求」に気づき、その実現のために生きるのが整体法の目的である。「薬がどうの‥」というのは実はどうでもいい。指導を受けに来られる方に核心を掴んでもらえるように精進しようと思う。

夢を叶える方法 ‐七夕‐

今日は七夕のことを書きます。

受付表には「なりたい自分の姿」を書く欄があります。これがないと身体が変わっていかないからです。目標を一つに纏めて氣を集めるから、どうやら治っていくみたいです。整体とは、命の要求を叶えるための身体です。

勝ち組負け組みという言い方は少しギスギスして好きではないのですが、人生の成功を分かつのはただ一つ、気の統一といいますか、心の集中密度の違いです。・・と思います。

人間の能力は気が統一されることではじめて「ちから」になります。今までできなかったこともできるようにもなります。幸田露伴の努力論という本には「人、二気(ふたき)なれば即ち病む」の一説がありますが気が目の前のことになく、あちらこちらに散らばってしまうと、身心の健やかさが失われます。その人らしい美しさも輝きもなくなります。

でも一瞬、一点に集中すると目の前の現象が全て変わってしまいます。そんな風な心の訓練法の一環として、野口先生は七夕祭りをやっておられたのではないでしょうか。

以下、野口先生の潜在意識教育法としての『人間の願い ― 七夕祭にて ―』から抜粋して引用してみます。

私の昔経験したことは、耳の聞こえない人がいて、神経性のものだから治らなと言われたという。治らないといって放っておくのもよくないと思ったので整体指導したら、聞こえるようになってしまった。すると神経性のものだから治ったのだと言う。私にとってはどちらでもいいことで、ただ聞こえるようになりさえすればそれでいい。私はその人の裡に何かを聞こうとする意欲を惹き出しただけなのです。・・・<中略>・・・昔から奇跡的変化と言われていることの多くもこれと同様で、心が動員された結果なのです。

願い事は言葉を口にだして、それからそれを紙に書いておけばよいのです。言葉を紙に書いただけでは、七夕まで届きません。一生懸命心を込めて、気を集めて言うとそうなるのです。人間が気を一つに集めて心を凝らすということは、決して無能無力ではないのです。実際に、注意を集めて願いを込めれば、どんな願いも叶うのです。

過去から現在まで、人間はいろいろなことを切り開いてきました。机がここにあるといったって、最初からあったのではない、最初に空想があったのです。出来上がった机の空想が最初になかったら、いくら木を切ったところで机はならない。初めにいつでも空想がある。そして言葉がある。この順序さえしっかり踏んでいけば、願いは叶い、人間の世界はもっと大きく広がる。人間はそういうようにできているのです。

近頃、幼稚園に行っている子供まで、目の輝きを失っているのが多い。小学校へ行くともっと多い。教え込まれて、自分の欲求を見失ったからだと思うのですが、子供がそういうようではいけない。もっと、皆さんで力を合わせて、子供の目が輝くような、ついでに自分の目も輝くような、自分の周囲に目の輝いた人ばかりになるような世界を造ろうではありませんか。そうすれば本当にもっと活き活きした活発な世界になる。

今、世界中が核兵器に怯えて生活しています。だからといって理想を失ったなどというのはおかしい。目の輝きというのは核兵器を爆発させないだけの力があるものなのです。人間の心は水爆より、もっと力があるものなのです。

<以上>

ほんの200年前は夜になったらどこも真っ暗でした。でも今はネオンもイルミネーションもあります。これも最初に空想があったから、ですものね。人間が最初に心のどこかで望んだ世界でしょうきっと。いつだって技術が生まれるのは空想の後です。エジソンの白熱電球も最初に空想があったはずです。ケータイ電話なんか江戸時代の人が見たら、ね。

そして原発もできました。福島から40年間東京に電気を送ってくれました。そして今また新しいエネルギーが求められる時代が来ています。もしかしたらエネルギーの大量生産、大量消費の輪から抜け出す世界がもう近くにあるのかもしれません。

人間は失敗する生き物です。そして失敗のあとにはいつも学びと進歩の歴史がありました。人間が心を鍛えて活発に要求すればまた新たな空想が生まれて、そして進化して、きっとみんなでまた豊かに育っていくと思います。

こんな風に大人になっても、いや大人ならなおさら生きてる限りワクワクした方がいいに決まってる。プレゼントをくれるサンタクロースも相当魅力的だけど、今どきアナログアイテムの短冊に夢を託させてくれる七夕さんも粋である。

野口先生流の短冊の書き方は願い事を書いて、言葉に出すこと。そして書いたことを人に言わないで、自分もすっかり忘れること。その際に「○○になりますように」だと「これは実現しないのだ」、という逆の空想が育ってしまうので、書くときはかならず「こうなる」「こうである」という風に完結するように書くのだそうです。

整体とは夢を叶えられる身体です。今年は紙と筆を用意して、あなたも書いてみませんか?

自己実現

久しぶりに夜近所の妙蓮寺のデニーズでご飯食べました。 行くと大抵「うっコレ食べたい!」っていうメニューが5、6コあってすっごい迷って頼んだあげく一つを頼み、またすぐ行っちゃう仕掛けになってるんですよね。よーできとるワイ。

今日は豚しゃぶの定職とラザニアをチョイスしたけどやっぱり美味しかったですー。ラザニアの油の量に(まるでラー油がかかってるみたいだった・・)圧倒されつつ完食。プフー、ありがとうございます。

こんにちは、あさひなです。明日は顔パンパン確定です!

今朝お越しになったおなじみさんのお身体を観た後、お茶をお出しして話していたのですが・・・

おなじみさん「ここに来てもいつもコロコロひっくり返されてるだけですよね。気持ちいいけど、よく考えると何でこれで良くなるのか不思議です・・。」

あさひな「うーん・・それはたぶんおなじみさんが自由に要求通りに動いているからだと思います。」

おなじみさん「あー・・、そっかぁ・・。」

あっひー「そっす。」ヾ(@°▽°@)ノタブン

って感じだったのですが、野口先生は「やはり人間を一番健康にするものは、自由であるということである。」と言われています。

昨日のエレファントシンドロームからの流れになりますが、心を解き放つ、身体を自由にするということが整体指導の要諦です。ただこの場合の自由というのは野放図とか、傍若無人とかじゃないです。^^

自分にとって心地良いことが、他者のためにもなっている、という「個の幸せ」と「公の豊かさ」が溶け合って渾然一体になった状態が整体の最終的に求める身体のあり様です。

せい氣院の個人指導は愉気をしながらストレッチや寝返りの誘導をして、あとは正坐で活元運動を出すようにします。何をやっているかというと身体と身体で気を結んで心に問い懸けているんです。だからいつも同じことの繰り返しのようだけど、毎回ちがう動作と結果が出るんだと思います。

そして身体の要求がはっきりしてくると、全ての動作の中に心地良い充実感が出てきます。そうなってくると身体のあちこちにあるコリがゆるみ始めて、その人らしいキラキラ感がでてきますのでこういう時って仕事していて一番うれしい時なのです。

身体の中心にある真の要求と、実際の行動との絶え間ないズレが人間の生活に「願い」を生み出しますし、人はみんな「こうありたい」という理想と、「あれまぁ・・」という現実とのギャップを埋めるために昼夜活発に動いてるもんだと思うのです。

世間ではもうすぐ七夕ですが大口駅に飾られた短冊を見ると、子供達の願いって大人にはないエネルギーを感じます。それは大人とは違って、これから50年60年と生きていけるエネルギーの塊ですから・・。

それでも人間は生きてる限り願いを持てるんですよね。願いって逆から見れば欲、あるいは不満ですが、ウチに来る人には不平不満を沢山もって来て欲しいのです。整体とは自己実現の身体、人が夢を叶えるための身体ですから。沢山の人の心を近くで応援できる僕はある意味幸せだーね。