野口整体(活元運動)の理解-ポカンとするとは-

この二か月ほど紹介などで「野口整体」を経由せずに個人指導を受けられる方が続いた。何が何だかわからないけど、とにかく「良くなる」と聞いて来られるのだが、整体の方法はすべて常識的な健康観や病気観とは真逆の視点で成り立っている。そのため「思想と価値観の共有」がない方には、うかつに技術など使えないなあと思ったし、力不足も感じた。西洋医療に例えて言えば、「手術」ということ一つとっても、多くの方に医療(治療)行為として認知されているからいいものの、少し見る角度を変えれば身体に傷を負わせる行為である。お互いに「これは治療だ」という共通認識がなければとても出来ない話だ。

そういう意味から言えば、整体というのは先ず生命の完全性を肯定した上で、如何にそれを阻害せずに(生命活動に則った刺戟で)最大限の成果を得るか、を考えている。ここでの刺戟というのは何も皮膚を介在するばかりでない。言葉でもいいし、表情でもいい。服装も、部屋の温度も、あらゆることが刺戟となってこれに呼応して身体(いのち)は動いていく。だから刺激が小さくて済むならそれに越したことはない。その変化の妙も個人個人まちまちであるし、またそのタイミングでもみな違う。頬をはたかれても表情一つ変えないような人が、さ湯を一杯出されただけで泣き出すこともあるのだから、人間心理の複雑雑性とは斯くの如しと言えよう。

一般医療の関係者とお話をしていると、やはり整体との決定的な違いは「個人の理解」ということに至ると思う。当然のことながら同じ人は二人といないし、また同じことは二度起こらない。「その人が何故そうなったのか?」ということに関して言えば、「そうなっている、その人」からしか学べないのだ。だから徹底その人を観ることが、治療の第一歩となるのは当然と言える。平たく言えば「観察」が第一義的問題であり、またそれが全てである。ここのプロセスに「価値」を見い出せない方には整体指導はむずかしいな思うこともよくある。

さて、身体に起った事というのはその時点では、「善い」も「悪い」もない反応(適応)である。「痒い」とか「痛い」とかいう事は生涯ついて周る話で、それをただ「悪い」という角度からしか見ないところが医療的視点の落とし穴である。それと同時に「良いと見る」ことも、また捉われであることを知らなければならない。そういう人間的見解を離れた上で、「どうしてそうなったのか?」ということを只ひたすら感じ、考えると、時に「妙だ」ということが見つかるのだ。そういう時には身体から「自然」や「美」というものが、大なり小なり減じている。

整体指導の方向性としては、生きた身体から「有機的な調和を害するもの」を徹底的に排除したい。大ざっぱに言えば、自然界で人間だけが有機的調和から逸脱している、といっても良いわけで、その自然性から離れるものが「理性」である。だからこそ、この理性の完全休止状態を「ポカン」と説き、この時の生じる動き(活元運動)にこそいのちの調和を取り戻す力が100%現れると言えるのだ。

しかるに、いろいろな治療方法方を探してきた人の中にはこのことが中々肯えない方がいる。「何かする」ということ数多くをやってきた人には、「何もしない」という選択肢にはガラクタ程度の価値も見い出せないのかもしれない。ポカンとすることは、身体の「自然」がフル稼働している状態で、そこに邪魔(理性)の入り込む余地がない。言うまでもなく、このとき身体は一番巧く動いているのである。

矛盾するようだが、常識的な健康観を脱することが容易ではないこともよく判っているつもりだ。逆にこれさえ成ってしまえば整体生活の95%は完成したとも言える話で、あとは実践あるのみとなる。生命を扱う世界も玉石混合なので、何が「真」であるかは自身で嗅ぎ分けていただくしかない。個人指導を受けるなら、まずは「そうかもしれないな」という程度でもよいので、野口整体と活元運動の理念に理解の姿勢が見えないとこちらも触れられないのだ。一方で説明責任も充分果たせていなかったことを反省した。そういう訳で自身の発信している言語をもう一度点検していこうと思っている。

助からないと思っても 助かって居る

助からないと思っても 助かって居る
河井寛次郎著 『いのちの窓』 東峰書房

人間にとっての本当の「救い」が判らなかったときは、愉気することが大変だったな。

人は救えない。

何故なら最初から救われているから。

最初に「助かっている」から、悩むことができる。

最初に「助かっている」から、苦しむこともできる。

「助かっている」は誰もが平等に与えられている最前提条件だ。

自分の目玉は生涯自分の目では見えない。

これから救われるようでは〔今〕に間に合わない。

助からないと思っても 助かって居る。

「考える前」に世界はあった。

はてしない土地
新しい世界
― からだ

袋の中のネコ

睡眠薬の効果

睡眠薬というのは飲んだことがない。子供の頃の記憶として、近所のお兄ちゃんが学校の試験前に緊張して眠れなかったらしく、「しかたなく睡眠薬を飲んで寝たのよ」とそこのお母さんがお話していたのが印象的だった。「何でそんなことするのかな?」と子供ながらに疑問を抱いたものだった。身近な所にもこういう疑問を抱く人は少なくないのだが、以前としてはっきりしない方も多いので自分なりの気づきを記しておくことにした。

指導を受けられる方の中には睡眠薬を飲まれた経験のある方、服用中の方などが一定の割合でいらっしゃる。いろいろな経緯があるけれども、一様に話されるのは「睡眠薬を飲んで寝ても、寝覚めはまったく良くない」ということだ。生きた身体を見ている立場としては当然そうだろうなと思う。斯様に「今日の意識活動」と言うのは直近の「眠り」が直接的に反映されるのだ。

薬学的には睡眠薬は向精神薬に分類されるそうな。「向精神薬」とは「脳の中枢神経系に作用し精神機能(心の働き)に影響を及ぼす薬物の総称」とされている。因みに人間における中枢神経とは「脳と脊髄」だから、厳密に言えば脳に影響のない投薬など皆無だと思うのだが。

身体上の疾患、その中でも特に「原因不明」として扱われるものの多くは、この中枢神経系に直に働きかけるのが的確な治療法となる。一般に「不眠症」は「自律神経失調症」にも分類されるが、失調と言うよりは大脳皮質・前頭葉(前頭前野)の過剰亢進によって、身体全体の働きが自然の波(昼夜など)から逸脱している状態である。失調と言えば言えなくもないが、それが「自然の生理的反応だ」とも思うのだ。だから自分自身で、脳の働きをノーマルに戻せる生活に切り替えるなり、またそのような「身体性」を身に付けなければ一向に解決しないのが不眠症の正体である。

整体操法では始めにうつ伏せになってもらい、相手の背骨に手を当てる型から始まる。これを愉気という呼び方をするが、万病が全て心より発し、その心の働きを司る中枢神経系に最初に触れていくことをが生命着手の王道である。これを行うと、あるタイプの人は初めてでもカクっと眠ってしまうことがある。話しかけるとまたすぐ起きてやり取りはできるのだが、対話が終わった途端にまた「グ~・・zzZ」といったりするのだから特殊な意識状態だと言っていいのかも知れない。当然だがこれをもって「不眠症を治す」という事ではなく、脊髄神経(首から下の身体・骨格)を刺激して整えることで脳の働きも変わるという事実が垣間見える。

整体指導の時間内で前頭葉の働きがなかなか休まらない時には、仙骨を直接蒸しタオルで熱すると短時間で変化しやすい。一般に眠れない方は尻が小さくなっている。骨盤(仙腸関節)が締まり過ぎて息が浅くなっているのだ。その場合の自律神経は交感神経優位の状態になっているのだが、仙骨を温めるとそこに隙間ができて副交感神経に切り替わりやすくなる。

心理学の世界では古典の時代から、「精神から身体へ」なのか「身体から精神へ」なのか、という学説が並立しているが、それらをバラバラに考えている内は生命の実体がわからない。身体の刺激と言うのは即精神的刺激であり、逆もまた真である。つまりは、眠れないという意識の在り様は、眠れないという不眠体(たい)を意味してる。この不眠体のまま、睡眠薬を飲んでも眠ったことにはならないばかりか、服用がつづけば精神状態が変性してくるから厄介なのだ。

ただ、ほとんどの方が、何か調子が悪ければ医薬に頼る以外の方法を知らされていないので、「眠れない」となると病院へ行き、原因はさておき眠ったように見える「薬」を受け取るという構図になるのだ。ここまで行くと西洋医療の「盲点」と言うよりも、科学的視点から見えるものは生命活動全体の幅からいえばかなりの広範囲が「死角」になると言っていいだろう。結局のところ睡眠薬で不眠症は「治らない」し、不眠症自体が「治すような病気」ではないとすら思うのだ。すなわち夜眠れないという時には、その不眠体を正すということが正当な対応策である。

何にせよ意識活動と身体の形を切り離して診ることから生命に対する複雑性が生じる。「身体」という活動体をまるごと直観的に見ることではじめて観えるものがあるのだ。もとより「症状」と「原因」は切れ切れに存在するものではなく、生きた身体をよく見れば「症状」が如実に「原因」を語っている事が殆どだ。逆に観察を怠って、原因のわからないまま不快感の解消だけを渇望すると、自然の調和性を破壊するような方法へと偏りがちである。

畢竟、自分の身体の問題を他に任せる以上、カスを掴まされても誰にも文句は言えない。身体に現れたものは一切自己責任であると知り、自身の身体感覚の向上をひたすら求める人にとっては愉気と活元運動は光になる。各々が「何を信じるか」はそれぞれの感受性に拠るものだが、〔生命〕以上の確実性を示せるものは人間の知恵からは出て来ない。いま息をしているその身体意外に「聖医」は存在しないのだ。

太極拳の思い出

20代に太極拳の教室には2度ほど通った。2つ目に行ったところの先生が大変個性的な方だったこともあり、一時期興味をもって通った。

途中でやめてしまったけれども、基本功と呼ばれる基礎訓練はいまの仕事にも役立っている。特に放鬆(ファンソン)という身体中が液体のようにゆるゆるなリラックスの概念は、スポーツ空手で固める事ばかりをやっていた自分にとっては革命的に見えたものである。

俗に「東洋的身体」などというとアジア人が全部一纏めに扱われがちだが、「歌舞伎」と「京劇」があれだけちがうように、とりわけ日本は東洋の中でも独特の身体性を発達させたと考えられる。太極拳の先生は「アジアで身体が固いのは日本ぐらいだ」とおっしゃっていた。「ムエタイもテコンドーも、みんな柔らかいだろ?」と。ただこれは純粋の日本的身体ではなく、伝統的な身体が近代教育によって毒された結果の固さであろうと思う。特にスポーツ空手の型は腰を意識的に反らせて固める傾向に流れがちでなので、上半身と下半身の連絡性が極端に制限されるのだ。

太極拳の場合は仙骨を重力に任せたままである。日本語でいう「腰を落とす」ということは、「膝を曲げる」のとは別次元の感覚で、腰の中心寄りの筋肉(大腰筋等)が最大限にリラックスしていることを意味する。

今さら何でこんな話かと言うと、最近指導の現場で「どうすれば良い姿勢をとれるのか?」ということを個人個人、徹底考え抜くようになったのだ。そこでふと「はて?自分はどうやってるんだっけ?」と省みたら、ルーツは空手と太極拳にあったことに気づいた。将来的には「歩き方」、「坐り方」などを自身の体験からまとめられれるといいのだが。

自分として「これならまちがいない」という身体は未だに定まっていない。もしかしたらこれはずっとこのままかもしれない。

体の探求は今日まで続いている。

雑念がないとは(愉気)

先月の活元会では久しぶりに愉気法の実習を行った。その場の空気でたまたまそうなったのだが、愉気法は野口整体の象徴だ。という訳でまたしばらく教室でやって行こうと画策している。

時々「愉気というのががよくわからない」という方に説明を求められるのだが、どこまで行っても「ただ手を当てる」だけである。これ以上のものは出てこない。坐禅は「只管打坐」の一語に尽きるが、これと外見は違えど質的には同じである。一切のものを打ち捨てて、「その時」、「その事」に成り切って行う。成り切って、成り切って、坐る、あるいは手を当てる。そうすると、一切合財カタが付くのだ。

こういう事を時に「無心」と言ったりするのだが、「無心になる」というとまたこれが「難しい」という人もいる。そういう方は「どうも後から後から雑念が湧いてきて、いろんなことを考えてしまう」という話をされる。ところが普通は目が覚めて活動していれば雑念が自然に湧いてくるのが「正常」なのだ。それに気づいたのだから一応は進歩と言っている。「念」というのは、そのまま「今の心」である。心にはいろんなものがどんどん去来して、それでいて一つも跡を残さない。それで万事上手くいっているではないか。

ここで少し、愉気について野口先生の言葉を引いてみる。

愉気は雑念があってはできない。欲があってもできない。天心になってやる。自信があるとか、きっとよくなるとかいうことも雑念なのです。そんなものも何も持たないで、ジーッと静かに息をして、息を一つにしていく。

深い息をしていく。それ以外の余分なことを考えないことが望ましい。だから愉気は、利口な人よりは、適当に間が抜けている人の方が効果がある。利口な人も、愉気している間はいろいろな雑念を払って、気をそこに集中すれば、できるようになります。

気を強くしようと思って、一生懸命努力する人もありますが、強い気がいいのではなくて、気は澄んでいることの方がいい。強い気なら、ラジウムや放射能の方がずっと強いです。しかし、それは人間を弱くします。有るか無いか判らない位の力で丈夫になっていることが一番いい。やったかやらないか判らないようなことで、健康を保つことが一番いい。(『月刊全生 増刊号』 晴風抄より)

という風に残されている。

真面目な方が愉気をしようと言うと、ついこの「雑念」が気になるらしい。ところがもともとの念に「雑念」という念はないと知ることが初関となる。例えば、庭を整備しようと言った時には「あそこの花は残して、こちらの雑草は抜いて」ということがある。草は草で全部が「ただ」生えているんだが、そこに人間的な価値で要否が立つと雑草というのが「出てくる」のだ。念というのもそういうもので、念自体には「よい」とか「わるい」とかは付いていない。だから浮かんでは消えていく、そのことに手を付けないで、ただ「そのまま」やっていればそれでいいのだ。

「またそれが難しい」というのも判らないでもないが、実際に手を当てて仕事していると次から次へといろんな思念が出てくる。そういうものがいくら在っても、やはり愉気をしているとお互いに呼吸は深くなるし、気が鎮まってくるのだから「手当て」はどこまで行っても「手当て」なのだ。講習会形式で、何かしら自信を持たせてからやる方法も有効と言えばそうだが、そういう「外」のモノを頼み、信じているうちは愉気にはならない。その時本気になってやれば誰でもできるし、気が抜けるとプロでも力にならない。

だから難しく考えているより、やはり実践に重きを置きたい。やっていれば「ああなるほど、こういうことか」と思う時が必ず来る。これを自覚したらはっきり自分の力となるのだが、そういう余計なことすら考えないで、いつでも「ただやる」ことだけで終わるようにするのが肝要だ。どこかに向かって行くのではなく、今の自分の在り様でさっと行えるようになると、どんな事に出会っても今の自分で「間に合う」人になれる。

愉気する人に資格があるとすれば、「ただ、そのまま」やれる人ということに尽きる。例え疑念が沸いたとしても、それとて「今の心」ではないか。とにかく最初に「愉気をしたい」という気持ちがあれば先ずはそれで充分だ。思念をどうこうするより、身体的実践を宜しく、と言う話である。心は形について来るのだ。

天心の愉気4

九種体癖の働き方・生き方

野口整体を知ってからようやく10年経つ。それでいていまだに「体癖」はわからないことが多い。ただわからないなりに体験を積んで少しずつ「わかる」ことも増えてきたのだが、最後の最後まで見分けがつかなかったのが「開閉型九・十種」である。

個人的には「捻じれ型」が最初からわかりやすい方だった。情動を起こすと全体の格好も、椎骨もみんな捻じれてくるのだ(詳しいことはまた「捻れ型」として別に書こうと思う)。これに次いで、上下型・前後型・左右型もそこまで難しいという印象はない。だけれども「閉型(九種)開型(十種)」は、特に後者が未だに見分けにくい。

それでも分かる範囲で例を挙げると、例えば会社務めの人が「仕事(指示されたこと)に納得がいかない」といってじっと固まっている時には、まず「この人は九種ではないか」と疑ってみる。とにかく九種は「不合理」だったり「自分の価値観」から外れたことを、言われた通りにやることが耐えられない。「何故この人(たち)はこんな(愚かな)事をしているんだろう?」思ったり、嘘とか欺瞞を見つけると途端にやる気が失せる。

かといってパッパと仕事を辞めたり変えたりもできないと(だいたい辞めるが)、そういう不満が内攻してまず身体の全体に力が入って動かなくなっていくる。そうしてから「自分はなんでこんな風にやる気が出ないんだろう」と考えたり、「周囲に適応できない自分を駄目だ」と思って引きこもったりすることもある。

こんな事例を考えていくと、やっぱりお互いに体癖感受性を理解し合うことの意義は大きい。もともと九種の感受性はトラとかクマみたいに自分で考えて独りで行動する様になっているので、集団の中にいると本来の力を発揮できない。そうした集団生活の中で内向したエネルギーは、爆発のタイミングを謀ってじーっと待っているのだ。

九種が生活環境を容易に変えられないとすると、停滞した圧縮エネルギーはどうなるのだろうか。このような事情から鬱散の方法はどの体癖でも身体を余分にこわさないために重要なのだ。力が抜けない時は身体全体が凝固しているから、まず「ゆるむ」きっかけを与えることが必要だ。そして、ゆるみはじまると要求がはっきりしてくるから、その人の気が集まることをその人のタイミングで充分やらせるという方法を取ればいい。いわゆる「ガス抜き」みたいなことになるが、エネルギーの流れる「水路」を上手く作ってやるのが九種的圧縮エネルギーの自他破壊欲求を未然に消化するやり方である。

少し抽象的な話になったが、九種が集団の中に埋もれて力を出せないでいるのを見るとつい気の毒になる。個人的には「みにくいアヒルの子」の話を聞くといつも「体癖」を思い浮かべるのだが、あれは白鳥がアヒルより素晴らしいという話ではなく、「自分を知らず、他人もわからず」では社会全体に余分な摩擦や軋轢が増えるという話だと思う。

アヒルはアヒルとしての活動様式があり、白鳥は白鳥として生きると楽であり快感があるのだ。実際のところ「苦手」と「得意」は一つの特性の表と裏なので、苦労したことで自分なりの「個性」が見つかることもあるから、「適応障害」の多くは自己実現の前兆と考えていいのではないか。

9種話を九種に戻すと、最近新たに解ったことがある。「知音」という言葉があるが、九種は本当の理解者に出会うとようやく、少しずつ、心を開く。だから彼らを指導するときにはウソ偽りのない、深い共感的理解が必須なのだ。かといって変に「合わせられる」のも大嫌いである。

そういう気配があるというだけでさっと殻を閉じるから厄介なのだ。ずっと考えていくと、そもそもが人に相談するようなタマではない。だから九種を指導するには野性的勢いを引き出しつつ、放し飼いで育てるという高等技術が要る。早い話がただ信じて「待つ」という、それ以外にない。悲しいかな、全部自分の体験知なのだが。

インフルエンザに関する一考察

野口整体には『風邪の効用』という名著がある。実際にこの一冊から整体に関心を持たれたという方は多い。著者の「風邪が体の掃除になり、安全弁としてのはたらきをもっている」という見解は、実際にそういう角度から自身の身体を見て風邪を数回経過することで、だんだんと自身に肯えるようになる話だ。知識が確信に昇華するまでには一定の年月を要するが、整体(活元運動)を専一にやっていけばやがてはそこに落ち切る。

ただ、仕事をしていると「インフルエンザのワクチンは打っていいんですか?」という質問を年に2、3回はいただく。現代に至ってインフルエンザワクチンが効く、効かないという論争は枚挙にいとまがない。病気は悪いものとしか聞いていなければ、「予防接種は打った方がいいに決まっている」となるのだが、もう一方で「病気は身体の自然良能(病症そのものが身心のバランス作用)である」という見方を知ると、迷いが生じるのも判らないでもない。

ワクチンの是非ということで言えば、実際は効果が無いばかりかワクチンを打った人の方がかえって罹患しているという話もある。これはうわさレベルの情報だが、自分の経験ではタミフルを飲んで「治した」人が、間を空けずにまたインフルエンザに罹った例を見たことがある。身体が固いとそうなり易い。

生きた身体を観ている立場から言えば、風邪でもインフルエンザでも、「自然に」経過した身体はうしろ姿がやわらかい。一方、薬で経過を中断させたものはそういう有機的な「流れ」がないのだ。バツン!と打ち切られたような感じだから、症状と一緒に身体から美が失せる。プロセスを無視して結果だけを求めると、造り事のような身体になってくるのだ。例えはよくないけれども、生け花と造花のような違いといったら判り易いだろうか。

結論を言えばインフルエンザでも風邪でも身体に弾力があれば罹らない。生きた身体は偏り疲労があると身心のバランス回復機能が働き、あらゆるものの力を借りて「生命の全体性」を回復しようとする。病気はそのもっとも手近な秩序回復機能なのだ。

だから最初のような質問をされるという事は、事の真偽以前に生命に対する態度が露呈する。西洋医療は信用できない、では東洋医学だ、いや代替医療だと、色々な知識に踊らされている人は、自分の「息」に気がつかない。騒がしい意識の運転を停め、身体の感覚が良い意味でむき出しになることで初めて命の力に「信」が生ずる。仏道には「妙法一乗」という教えがあるが、「一つ」に乗り切れないものはいつも危うい。自身の命以外に一体どんな乗り物があるのか、あれば聞いてみたいと思う。

一乗

断食はすすめない

昨日は図らずとも断食になった。いや「俺は断食したぞ!」という元気のいい話ではなく、風邪で食欲がなかっただけなのだが。今朝になってようやくミツコに雑炊を作ってもらい40時間ぶりに食べたら味がよくわかる。舌から塩分がしみ込んでくる感じがした。そしてさ湯は甘いね。

因みにこの断食や減食が三、四日に及ぶと黒っぽい宿便が出ることもある。胃腸や、肝臓、膵臓、腎臓などが消化吸収から解放されると、ここぞとばかりに体中の大掃除をはじめるのだ。今回はそこまでいかなかったけど、まあ断食には一定の効能があるという話に留めたい。

野口整体の食養生観には「食べたいものを、食べたい時に、食べたいだけ」食べる、というスローガンがある。「それはいいですね」と言われることもあるし、「とんでもないね」と思われることもある。但しこれは「身体の生理的欲求」が整っていることが大前提での話なのだ。

古来から「断食指導者・信奉者」というのがあるが、「その時その人にはマッチングした」という視点は大切にしたい。現代の日本では食べ過ぎ常習者が多いのだから断食・減食を謳えば一定の支持者を得られるのは間違いない。但し「その人」の身体に合わなければ、無益、或いは有害な断食だっていくらでもある。

つまり身体感覚を抜きにして行われたものが、例えどんなに良い結果を及ばそうともそれは無価値だと言いたい。「その」時は「それ」で良かったというだけの話で、「同じ状況」は二度はないのである。どんなに良いモノも「掴んだ」らそれはやはり執らわれなのだ。それよりも「〔今〕どうしたいか?」という身体の要求に沿って、どこまでも自然に行動できる身心を保つことが最優先されるべきだろう。

畢竟「断食」なんていらない身体になることだ。外から命令して「食を断つ」のと、裡なる欲求で「食べない」というのでは、外見は一緒でも中身は全く別物である。そうすると最後は「お腹がいっぱいになったらハシを置き、ハラが減ったら食べる」という話になる。こんな風に「真理」というのは近くにありすぎて有難味がないのだ。さらに言うと普通のことを勧めてもビジネスにはならないんだよね。

整体をやるからには是非「持って生まれたこの身体のままで結構だ」となっていただきたい。人為的な努力をやりつくしてみると、聡明な人は最後の着地点が〔今ここ〕しかないことに気が付く(努力の途上で終わる人もいっぱいいます)。平凡から非凡になることを説き、勧め、またそれに従がいならう人が多い中で、「平凡の真価」に気づく人はごく稀だ。平凡ほどすごいものはないのだが、余りにすごすぎてそれが平凡にしか見えないのだ。

話がアサッテの方に行った気がするが、そういう事情で断食は勧めない。それよりも身体感覚が直に判る「澄んだ頭」と「心の静けさ」を養うことを改めて説くのみである。これを静養という。

普通道

病気は怖いモノ

半年から一年くらい指導に通うと、「風邪を引きました」、「下痢をしました」といっても平然としている人が増えてくる。さらに少々の病気にはビクつかなくなる。それはそれである面進歩と言えるが、このくらいになると今度は逆の注意がいる。例えば「風邪の経過」一つとっても、それを理解し善用しようとすると、病気の複雑性がよく解るのだ。

実際は風邪くらい厄介なものはない。また操法しだして一番難しい病気は何かというと風邪です。今でも風邪というと体中を丁寧に調べて、それだけでは足りなくて、今度は過去の記録から何から全部調べて、それからこの風邪はどう経過するかということになるのです。それが判ってピタッと考えている通りに行くと、やっとその人の体に得心ができる。風邪で見間違えるようなうちは、まだその人の体を理解していない。
風邪を引くとたいてい体が整うのです。そうかといって高を括っていると悪くなる。けれども体をよく知っていくと、この風邪はこれこれこういうコースでここへ残るとか、ここに残ったものはこれを処理すれば治るとか、これこれこういうコースで体のこういう場所が良くなるというように予想して、ピッタリと間違いない。それもここ十年くらいのことで、それまではやはり掴まえ難かった。(野口晴哉著 『風邪の効用』 ちくま文庫 p.17-18)

一般に病気は怖い、また悪いものという固定観念でみているのが「常識」である。ところが「そうではない」、というのが野口整体の見識で、大抵はその独自の切り口に驚きと感銘を抱くところが整体の入り口だろう。そして最初は半信半疑のものも、しばらくして病気を自然経過した時の爽快感や体調の良さを味わうと、「なるほど」と思うのだ。野口晴哉の言った事は本当であると自身に確証を得る。

ところが先の引用のように「高を括っている」とやはり悪くなる面がある。初心の罠というか、ここを見落としやすい。下痢でも熱でもそうなのだが、時として体を整える働きとみなすが、その本質はやはり「処置を誤れば生命に関わる」破壊性を秘めているのだ。斯様に生兵法はおそろしい。

畢竟、病気は「怖さ」を内在しており、そしてその怖い中にも「有用性がある」と言うべきであろう。だからその病気という働きが「どうなっているのか?」と観つづけることで、その活かしようも見えてくるという話だ。「怖い」という見方も偏見なら、「怖くないのだ」というのもまた執らわれなのだ。野口整体は一切の依りかかりを奪い、本来の自由性の発現を促す。その依りかかるものが「思想」や「観念」であっても、それをお守り札として持っている以上は縛られ、自由性が減じる。

もとより「生命活動」とは無色・無臭、人間的な「はからい」から見たら何も意味などないのだ。ただ、そのことが、そのことして、ただその通りに働いている。それだけである。時に「精妙だ」などというのも一種の「見解」で、もともと息にも脈にも精妙など付いていない。本当に「何もない」のだ。野口整体では「その純粋な生命活動をそのまま味わう」という態度で身体感覚の発揚を謳う。「妄想を除かず真を求めず」で、求めなければまるごとそのままの自分である。病気だけを切り離して、「こちら」から「あちら」を見ている内は、怖い、怖くない、とっては絶えず自分に騙されるのだ。

実際「自分がどうなっているのか」。その見極めがつけば、病気がそのまま治癒である。〔今〕を見破ることだけが救いとなる。ただすごいのは、「病気は良いモノ、悪いモノ」などと何を考えていようがいのちはお構いなしなのだ。人類創生以来病気は病気として、生を全うさせ、消滅さることを繰り返してきた。もとより生命とは底が抜けているのだ。「人間的な」はからいで汲みつくせるようなものではない。だが頭の良い人はその知によって愚に陥り、「どうにかしよう」といっては、どうにもならない自身の命を右へやり、左へやっては喜んでいる。真に聡明な人はまさしく「任運自在」の境で、自身の生命に悠然とまたがり、ただ息をし、飯をくい、大小便をして、眠るのだ。

整体はこれから学ぶものでも、知るものでもない。自身の身心をもって、命の完全無欠を実証するのみである。ただの一度でいいから、「確かにそうだ、間違いない」ということを肯えれば、もう迷いの世界には戻れない。その瞬間から大安心の生活者であり、絶学無為の閑道人である。

水面の木

面壁一年

約一年ぶりにブログを再開して、パソコンに向かう時間が増えたせいだ。風邪を引いた。久しぶりに言語野が活性化して、調子が出てきたと思った矢先のことである。

整体の臨床で必要な力は感覚、感性だ。脳科学的にいうと大脳辺縁系より内側の中枢神経系の領域だと思うのだが、こちらを専一に使っていくと言葉はだんだんうざったくなってくる。というか自分の場合は喋れなくなるのだ。それと反比例して勘は冴えてくる。それで昨年はほぼインプットだけに費やした、「黙」の一年であった。

因みに不立文字を説く禅が現代ではもっとも出版書籍が多いそうな。禅を端的に表現するには「黙」が一番間違いないものだが、その一方で言葉による空想は事実を正確に示す上で有効だ。冷静に見れば、「不立文字」も「黙」も文字ではないか。だが文字は、月を指し示す指であって、どこまでいっても月そのものではない。こうやってパチパチ文字を打っている(或いは読んでいる)間は永遠に〔気づく〕ことはないと言える。それでも果敢に書くのだが。

だいたい昔から「沈黙は金、雄弁は銀」と決め込んだ例があるが、その弁も、時には沈黙に勝るとも劣らない「金言」となるから侮れない。また黙には黙の弊害もあって、黙っていると果たしてモノが判っているのか、さっぱりなのか、その辺が曖昧になるという難点がある。言語的思考だけで深奥まで触れていただくのは無理だとしても、やっぱり入口まで案内するためには文字の利便性は欠かせない。さらにトンチンカンな誤解があれば、それを明らかにし、正すのにも有効である。

いろいろ屁理屈をこねてみたが、畢竟また喋りたくなったという話だ。黙っているというのは文字通り「黒い犬」の態度で、強者の手段であると言える。黙のレコード保持者はおそらく面壁九年の達磨さんだと思うのだが、こちとら理解者が現れるまで九年も坐ってられない。結局面壁は一年で終わった。まあ実際は喋るも黙るも同じことだが。ただあんまり文字とにらめっこは風邪の経過にはよくない。今日は液晶の光りが目にくるのでこの辺で。また明日お会いしましょう。ちーん。