良寛さんにみる潜在意識教育

今日は潜在意識教育に因んで、良寛和尚の逸話から考えてみようと思います。その前に「良寛さんて誰?」ということもあると思いますので、そちらの説明を先に少し。

良寛和尚は江戸時代後期のお坊さんです。もともとは庄屋の跡取りになる予定だったのですがこれを辞して、厳しい僧侶の道に入って修行をされたそうです。晩年はやさしい和尚さんとしてとくに子供たちに慕われ、日が暮れるまでかくれんぼをしたり手まりで遊ぶこともあったと言われています。

その良寛さんが、あるとき弟の長男(甥)の放蕩を正して欲しいと頼まれた際に、本当に「自然」な方法でそれを行ったというエピソードがありますので、この話を引いてみましょう。

佐渡を望む出雲崎の生家は弟の由之が継いでいましたが、その長男(良寛の甥)の馬之助は大変な放蕩息子で、思い余った由之の妻、安子は、良寛さんに「馬之助に厳しいお諭しを」と頼み込みました。

安子の願いを引き受けた良寛さん、久しぶりに生家を訪れました。その夜、和尚を交えて久々の家族団欒となりました。次の日も次の日も馬之助も伯父(良寛)と酒を酌み交わし托鉢や子供達の話に花が咲きましたが、弟夫婦が期待していた肝心のご意見は一言もありません。

四日目の朝「やっかいになったな、それではおいとましますわ」

呆気にとられている由之夫婦を尻目に、玄関の上り段に足をおろし、「すまんがこの紐を結んでくれんかのう」老僧が腰を屈めるのに難渋している姿を見ていた馬之助は、「ハイ」と一言のもとにとび降り、良寛さんの足元にかがみ込み、良寛さんの細い足首に草鞋の紐を結び終えようとする時、馬之助は首筋に熱いものを感じました。驚いて顔を上げると、良寛さんの目に涙が一杯たまっています。

「ありがとう」ひとこと礼を言って、良寛さんは生家の玄関を出て行きました。不思議なことに馬之助の放蕩は、その日を限りぷっつりと止んだそうです。(『井上義衍提唱語録 併般若心経講説』より)

はい、心情的にはよく解る話ですね。ですけれどもこんなことが本当にあるのかというと、あり得るけれどむずかしいだろうなとも思う。やっぱり修行というのはこういう力を生むのかな、とも思います。

昨日まで、「人間は変われるのか」を書いてきましたが、河合隼雄さんの見解もお借りして、「とにかくガラ!っとは変わらないけど、でもやっぱり変わっていく。」そんな話でした。

今日の話はそれとは真逆のような逸話です。

あることをきっかけに心象がぐーっと変わってしまう。人間にはこういうこともやっぱりありますね。多くの場合は「偶発的」に起こるけれど、整体指導ということになるとこれを「必然的」に引き起こすのが職能的な「技」ということになると思います。おそらくこれに近い職業として「コーチング」などが少し共通しているかもしれませんけど。それでも整体ではこれが百発百中であることが求められるんですね。感情の基本的な性質や方向性がわかれば、ある程度の所まではできると思いますが・・。

野口先生の言葉には「心の角度をフッと変えると、人間はその全部が変わってくる」というものがあります。さらに、「相手に押しつけてはならない、相手自身が自発的に、自分の考えで行動するようにしむけることだ」と、こういう風に説かれています。一般に躾や努力で矯正的にやっていることは、どうしても反対の要求や空想を生むようになっていますから。強く押さえれば押さえるほど、圧縮されたエネルギーは噴出の場を探すようになってしまう。噴出されないものは、自分を中から「壊す」働き(病気)に変性するものもあります。

ですから、そういった方向ではなく相手の「中身」がさっと変わってしまう方が、お互いに心理的な負担がないのですね。教育や躾の現場ではありがちですが、最初に「悪い」ところを掴まえたうえで「良くしよう」とすると相手は自分の根本に「悪い」があると空想してしまう。元々人間の中には善も悪もないのですけれど、「ちゃんとしようね」という言葉を聞くと、やはり自分の中にだらしのないものを連想してしまう。

良寛さんの例では、相手の悪態を対象にしなかったことが一番の功徳になったということになるのでしょうか。「善悪を思わず、是非をかんすることなかれ」という禅的な態度は、人に最初に具わっている「天心」という心、生命の無為的な「秩序」へと向かわせるのかもしれない。これはまた「相手に対する無条件の肯定的関心」を説いたカール・ロジャースの来談者中心主義も彷彿とさせます。

ただしこれが、いわゆる指導する側の「テクニック」のようなものでないことは明らかです。人を良きに導くということは、自分自身の潜在意識が簡潔になっていないと、他者の中に清浄な力があることが信じられない、という事がここで出てくるわけですね。実は良寛さん自身が出家をされる前は、名家の跡取りとして教育を受けるかたわら遊蕩にふけったこともあったと言われています。ですからそういう所を自分自身で越えてきた力が、無暗に人を処罰しないような寛容さをもたらすのかもしれません。

ですからとにかく丁寧に自分の心に取り組んだということが、結果的に人を癒す力を生んだと言っていいと思うのです。宗教家の仕事としてよく「世界平和」を求められる節がありますが、最終的には自分を修め、後に他者も治め、ということに落ち着くのかもしれません。整体を行っていると、つい「相手の問題」に取り組む方へ流れやすいのですが、「潜在意識教育」といったときに一体「誰が、誰を」教育するのか、という所はよく考える必要があるのですね。それでは今日はこの辺で。

人は変われる(続き)

今日も河合隼雄さんの『心理療法序説』の続きです。

ただ、ここで注意を要することは、成長の過程ということを、一直線の段階的進歩のイメージのみで把握してはならない、ということである。成長を一直線の過程として見ることはわかりやすい。自分はどこまできていて、それに比して誰はどのあたりであるのか、などと考える。それはともすると到達点の設定ということまで考えることになり、「到達した人」に対する限りない尊敬心を誘発したりする。時には「自己実現した」人などという表現に接して、驚いてしまう。ユングが個性化の過程として、過程であることを強調するのは、そこに「完了」ということはあり得ないと考えるからではなかろうか。

もちろん、成長の過程を、一直線のイメージで描くことは可能であり、それはある程度必要ではある。しかし、それがすべてと思うと、とんでもない誤りを犯すことになる。人間の成長は考える際に、直線のイメージだけではなく、円のイメージで把握することも大切だ。すべてははじめから、全体としてあり、成長するということは、その全き円をめぐることで、言うなれば同じことの繰り返しであったり、、どこまでゆくやらわからなかったり、しかし、全き円の「様相」はそのときどきに変化してゆく。それは成長というより成熟という言葉で考える方がぴったりかも知れない過程である。

一直線の成長イメージで人を見るとき、人間は直線状に配列され、上・下関係が明らかになる。治療者はクライエントよりも高い到達点にいて、後からくる人を指導する。果たしてそうだろうか。遊戯療法の過程で、われわれは子どもから教えられることがある。子どもの知恵がこちらよりはるかにまさっていることを実感することもある。心理療法家というのは、相手から学ぶことによって、相手の成長に貢献していることがよくある。このことは、単純な直線の成長モデルによっては理解し難い現象である。そして、そのような、ことに心が開かれていることが、心理療法家には必要なのである。(『心理療法序説』 岩波書店 pp.283-284)

さて、「人間は果たして、変われるのか、成長できるのか?」という命題を考えています。例えば「適応障害」といわれる疾患(心の病)があります。これを解消するには、「適応」するのが難しい「環境」の方を変えるか、適応できない現在の「自我意識」が変わるのか、といういずれかの対応になると思います(投薬などを除けば)。そして後者の方法からは、「成長しよう」という心の方向性が見えてきます。

では「成長」って何?というと、ここが大事な所で「こうなったら良いのだ」という雛型がないのが心の問題の多様性に繋がっていると思うのです。明らかな「スタート地点」があって、そこから「ゴール」に近づいて行くだけなら比較的カンタンなのです。それは迷いようがない「直線的」な世界ですから。あっちにいけばいい、という。。ところが生きている人間の実相というのはそんな風にはなっていないですね。いつだって〔今〕の自分は完成している。完成しているんだけど、次の瞬間にはもう、あれ程完璧だった自我意識はもう変わってしまう。

例えば小学生の頃の時の自我というのは、確かにあったと言えます。だけど現在同じものを出すことはできない。では何時消えたのかというと、「あの時」という境目がない訳です。過去・現在・未来がずっとつづき通しの〔今〕に生きている。〔今〕は完璧なんだけど、それが絶えず変化している。「完成」と「過程」という、2つ並べると矛盾するようなものが、一つの矛盾もなく併置されているのが〔今〕の心です。

ここで、禅の『臨済録』に出てくる公案、「途中に在って家舎を離れず」というところを思い浮かべます。〔今〕というのはみんな行の途中なんです。途中なんだけれども、一つも「家」から離れない。スタートもない、ゴールもない、向かって行くような目的地がない。ところがそれが次々と相を変えて、一つも後を残さない(無相の相)。邪魔にもならない。そういう切り離された自在性がずっと今の心、ということですね。

そのように考えると引用文の、「人間の成長は考える際に、直線のイメージだけではなく、円のイメージで把握することも大切だ。…」から始まるところが、すらすらと肯えると思います。「変わって、変わらず」、そして「教えていることで、教えられる」という。心の中には、白とか黒とか、そんなはっきりとした「一線」はないんですね。だからそこがいいと言えばいい。整体指導も心理療法もそういう心の自由性と不安定さの間で仕事をしているという気もします。

引用の最後に、「心理療法家というのは、相手から学ぶことによって、相手の成長に貢献していることがよくある。このことは、単純な直線の成長モデルによっては理解し難い現象である。そして、そのような、ことに心が開かれていることが、心理療法家には必要なのである。」と、書かれています。だから単純に、上位の立場にたって、相手を「こちらからあちらに導けばいい」という、二元的な方向性で行なう訳ではないということです。一つ言えることは、とにかく心には「良い方へ、良い方へ」という「向き」はあると思って良いのでしょう。整体指導でも、それがあるからお互いに大変だなと思いながらも「手伝って」いけると思うんです。理論的な落とし所が見つかったので、また実践に戻ろう。河合さんの『心理療法序説』はもうちょっと続くかもしれません。今日はこの辺で。

人は変われる

昨日さらっと取り扱ってしまったけど、「人間は変われるのか」という話は心理療法の急所だった。整体の潜在意識教育でも、「人格の変容・成長」はその人が本当の意味で「治るか治らないか」をわける分岐になる所でもある。今日はまずいろいろしゃべる前に、河合隼雄さんの『心理療法序説』から引用してみます。

4 心理療法家の成長

心理療法を行なう上で、もっとも重要なのは「人間」としての治療者である。従がって、治療者は常に自分の成長ということを心に留めておかねばならないし、またそのようなことを考えざるを得ないように、クライエントがし向けてくれる、と言っていいだろう。クライエントは心理療法家にとっての教師である。

治療者の人間としての在り方といっても、いわゆる「人格高潔」などという理想像を掲げるつもりはない。しかし、ユングの言っている「個性化の過程」ということは参考になるだろう。まず、この世に生きてゆくために必要な強さをもつ自我をつくりあげ、その自我が自分の無意識に対して開かれており、自我と無意識との対決と相互作用を通じて、自分の意識を拡大・強化してゆく。無意識の創造性に身をゆだねつつ生きることは、相当な苦しみを伴うものであるが、それを回避せずに生きるのである。このことをクライエントに期待するのなら、治療者自身がその道を歩んでいなくては話にならない。(『心理療法序説』 岩波書店 p.282)

この先にいくと、心の成長や自己実現の実際について書かれています。長くなるのでそれはまた明日以降に引くことにして、この文脈から言えることはまず「人間は変わる(成長する)」可能性を内在させているということですね。「何をもって成長か」と考えると一言では括るのがむずかしいけれども、この場合は「自我と無意識との対決と相互作用を通じて、自分の意識を拡大・強化してゆく」過程を指す訳です。まちょっとむずかしいので分解してみます。

「自我」というのは生まれてから(あるいは受胎前から)〔今〕までに作られた、かつての環境に適合する意識のことを指します。「無意識」というのはそういう表層的な意識ではなくずっと奥に隠れたようになっていて、全き人格へと向かう要求を備えているものですね。簡単に言うと「成長したい」、とか「もっと良い人格になって存分に生きたい」という意欲の水源みたいなものでしょうか。

ただ考えてみると、人間の活動を広く見渡した時に、成長欲求とか、自己実現の要求を伴っていないものはないと思います。と言うことは、人格の変化というのは「整体指導」とか、「心理療法」とかいう限られた場所だけで行われる「特殊」なものではなくて、多くの方に日々展開されている「日常」の中で絶えず微量に繰り返されていると言っていいのかもしれません。

では「整体指導の役割って何?」というと、その「成長」を、他力を伴ってより積極的に主体性をもって行うということ、と言えるでしょう。整体のとっかかりとしては「病気」、というのが鍵になることが多いのだけど、この病気というのを西洋医療では「命を脅かす可能性をもった活動であり、人体上から速やかに排除すべきもの」としか見ない訳です(大まかに言えば)。ところが野口先生という方は「これは生命の全体性から見れば、むしろ積極的に平衡を保とうとする大切な働きである」と看破した。「病気が生命維持に貢献している」という、いわゆる「コペルニクス的転回」みたいなものですね。それも子供の直観的に、生命活動の真相を徹見した訳です。

そしてこれと同じ見方をユングもしていた。それもほぼ同時代のことです。河合さんは別の著書で「人が治るということは、本来しんどいことなんです。」と言っていますけど、つまりそれは病的な痛みとか、不快感にも広げてみることが出来る考え方です。痛いから、〔今〕治っている、ということですね。さらさらさらと横滑りで話の焦点がずれてしまったが、とにかく「人は変われる」、あるいは良くも悪くも「変わっていってしまう」、ずーっと同じなどとということはありえない、と。こういうところで一応の昨日の疑念に対する着地点までは来た気がする。ここから面白い話になるのだけど、今日は早めにパソコン閉じて休みます。つづきはまた明日。^^

変われるのか 変われないのか

最近の研究テーマというか「人間というのは結局変われるのか、変われないのか」ということを深く考えていた。野口整体の根幹は「潜在意識教育」で、これが抜けてしまうといくら技術で身体を整えてもまた戻ってしまうのだ。だから基本的には自我意識の変容、成長ということが伴わないと、仮に「治った」としてもまた元に戻ってしまう。

それではどの辺まで変わるのか?ということなのだが、当然自分自身の変化の幅でしか他者はリード出来ない。一般に言う「性分」とか「性格」、「気質」など表現は諸々あるとして、自分が整体指導を受けてきた経験からも言えるのだが、「自分で自分をこうだ」と無意識に思っていることはなかなか変わらない。逆に言えば自我がしょっちゅうコロッコロッと変わってしまうようでは、自他ともに社会生活全体がままならなくなるだろう。昨日まで知っていたAさんが、今日になったら全く違うAさんになっていた、というような事が横行したら個人にも公にもさまざまな支障が出る。だから自我というのは生来強固な造りになっていると言えばそうなのだろう。

だからといって、「変わらないのか」と諦めてしまえば心理療法も整体指導も成り立たない。そう言う観点から、「変わる」も「変わらい」もなく続けていると、やはり何かが違ってくるのも事実だろう。実はこの辺りの所は河合隼雄さんの著作からヒントを得ながら、ある時期から熱心に取り組んでいるのだが・・。「人間が少しでも変わるというのは大変な事なのです。」という氏の弁は、実体験から出てきた重みのある言葉だ。

人間は「変わらない」ということと「変わる」ということが両方矛盾なくあるというのが実態かもしれない。臨床ではそう思って見ていくとお互いにとって一番負担がないし、長期にわたって同じ人に粘り強く取り組める心構えにもなる。具体的な方法としては「待つ」という技術になる。治療の方法論で「何かする」ということは沢山あっても、ただ「一緒にいる」ということはなかなかやれない。実際のところ「何もしない」ということが、生命の成長要求を一番シンプルに発現させる方法という気もする。天心で行う愉気というのがその象徴かも知れない。

治療者が相手の「自我」というのを掴んでいるうちは、そこに執らわれてどうにもならないということがやっぱり出てくる。だからその「どうにかしよう」ということがなくなれば、元来自然の相というのは次々を変わっていくものだから、その力をそのまま使えるようになるのではなかろうか。そう言えばこの辺りのことは河合さんの『心理療法序説』という本の中に、「自然モデル」という表現で著されていた。また復習してみようかな。いつもながら書いていると、どこからともなく答えが出てくるから不思議だ。誰だか知らないけど、「無意識」はありがたい。

衣は医なり

だいぶ温かくなったので久しぶりにYシャツで仕事をしようとしたら、妙に違和感があったのですぐに脱いでしまった。ボタンダウンの白シャツだったのだけど、着て数分もしないで首が緊張してきたのでこれでは整体操法が使えないと判断したのだ。それでふっと思い出したのは、知り合いの和裁の先生から聞いた「衣は医なり」という言葉だった。

因みに原典は「医は意なり」、だと思う。その意味するところは、「治療の成否は、その方法論や技術内容よりも治療者の精神性がもっとも大切なんだよ」ということらしい。なにやら訝しげな説だけど実際のところそうなのだ。プラシーボというか、「この先生は信頼できる」と思い込んだら最後、同じ病気を温めても冷やしても良くなってしまうことはよくある話である。実際、治療行為の99.9%はプラシーボなんだけど・・その辺は今日は置いといて・・。

それでうちでは普段和装とも洋服ともつかない格好で仕事をしてる。自分の感覚としては肩の力が抜けて、歩いたり坐ったりしやすいのだ。ところが今日カチッとしたシャツを着たら、最初に書いたように先ず首がシャキッとなった。その次に「肩」という身体意識が現れた。ご存知の通り和装には裄丈(ゆきたけ)という概念があるのに対して、「肩幅」という寸法はない(ですよね、確か・・)。裄丈というのは首根っこから袖口までを測った長さだから、つまり背骨が起点になる。そこから「肩」という意識を素通りして、手首まで行ってしまう訳だ。

何が言いたいのかというと、東西の身体文化の違いを実地で再確認したという話なのだ。襟のあるシャツを着ると脳は分析的に働く(自分の感覚的に・・)。だから数値の処理とか、言われたことを言われた通りにシャキシャキ「こなす」には適した身体になるなと思った。ところが和装ではそうはいかない。部分的な理解よりも、物事を包括的にとらえる直観が冴えてくる。それを「勘」といってもいいのだろうけど、無論、整体の仕事で必要なのは後者である。

そもそも「衣・食・住」と言われるように、衣類は文化の「イ」の一番に来るものだ。「衣は医なり」と言っても別段シャツが体にわるいという話ではなく、着衣は防寒や装飾のみならず、脳の働きや人格陶冶にまで影響が及ぶものだと知っておいて損はないと思う。今のところ袴をはいて仕事をしたことがないので、どうなるのかは知らないのだが、将来的には試してみたいなと考えている。ただ自分のメンタリティーからいくと「七五三」みたいになりはしまいかと躊躇もしている。我ながら冷静な視点だと思うのだが。

情報オーバーロード

イチロー×稲葉の対談動画がよく再生されているみたいだ。話題は様々だが、イチローさんによるウェイトトレーニングの弊害が提言されていたりして面白い。

個人的には視聴後、「情報が多すぎて・・」という言葉が妙に沁みた。「ソーシャルメディアの功罪」などは今さらここで書くような話ではなかろうが、人が右手に便利なものを掴んだ瞬間、左手には知らぬ間に不自由を握っていた、ということはよくある話だ。

人類創生以来、人間から「悩み」が無くなったためしはない訳で、そこを乗り越えるために潜在する力を使うことが人間生命の醍醐味だと言っていい。ところが何か困ったことがあると、今ならまっ先に「膨大な情報の海を漁る」という手軽さに流れるのだから、この20年余りで人間の頭の使い方は相当変わったことだろう。自分の体験から言うと、膨大な情報によって事態が収束に向かうことは稀で、むしろ拡散的に収集がつかなくなることが多い気がしている。もとより「情報戦」という言葉もあるくらいに情報は尊いものだが、「ネット」という巨大な投網に掛かる情報には大魚も雑魚も不燃ゴミもごっちゃ交ぜでひっ掛かってくるから始末がわるいことこの上ない。

以前、読書は「ごはん」、ネットは「お菓子」という揶揄を目にしたが、一概にそこに質の高低を見い出せるかと言うと今はそうとも言い切れないと思うようになった。日本の「出版基準」にも責任の一旦はあろうが、食事の形態をとりながらさして内容の良くない「ごはん」もあるだろうし、ライトで食べやすい、それでいて身体にもやさしい「お菓子」だってある。今は情報に飢えている人が溢れかえっているので、所謂「釣り」と言われるような「こういうものをやれば彼らは喜んで買うだろう」という、決してカラダによくないようなものまでがごはん(書籍)の形で販売されているのだから、口に入れる前に正確に働く「嗅覚」が重要になっていくる。

つらつらと書いておきながら自分に対する戒めも兼ねている。実は仕事でもいろいろな方のご相談を受けていると自分で調べて得た知識にハマってしまうことがあまりに多いのだ。さらに偏見を恐れずいえば、日々の臨床から高学歴の方ほど悩み方が重度になるという傾向を感じている。だから野口先生が「良いアタマはみんなポカンとするのです」と言われたことは至言なのである。必要な時にだけ必要な情報が1つだけ上がってきて、用のない時はひっこんでいることが望ましい。現代に多い「うつ」という状態は、パソコンのデスクトップに無数のアプリが同時起動して固まっているような状態なのだ。自分は効率化を図っているつもりが、とんでもない混濁状態を生み出し自分の頭に難渋しているのである。

欧米では「禅(ZEN)」にその解決策があることを嗅ぎつけて、敏感な人は早々に取り組んでいるようである。ZEN・Retreat(リトリート:避難)というそうだが、何処から非難するかといえばそれは自分の作りだす「思い」からだ。どんな時でも今の事実に触れれば即、救われる。「今・ここ」という絶対性だけが全人類救済の万能薬であり特効薬である。「信じる者は救われる」というがあれは嘘である。信じようと信じまいと「事実」の方はこれ以上ないレベルでシッカリしているではないか。行をして、自分が自分に実証すれば、これ以上ない確かさが現れて、以降は「情報に使われる」ことはなくなることだろうと思う。

身体に良いもの

一時期まったくコーヒーを飲まなくなっていた。避けていたという意識もないけど、きっかけをよく思い起こすと、昔読んだ健康関連の雑誌に「コーヒーは飲まない方がいい」みたいなことが書いてあったので、潜在意識に入ったような気がする。

結婚してからはなんということもなく普通に飲むようになった。コーヒーも少し前は「カラダにわるい」と言われてみたり、いやいや「やっぱり良い」となったり、体に毒とか薬とかいう話に普遍性を求めるのは難しいのかもしれない。いわゆる普通の食べ物に関して言うと、薬効のほうに着眼すれば「良い」ということになるし、毒性の方にフォーカスすれば「悪い」になる。よく考えれば「白米」だって度を越すといろいろ病気を作る元にはなるのだから、「適量」とか「合う・合わない」が判る身体感覚も大切なのだ。

「社会毒」という言葉もよく聞くようになった。毎度のことだけど砂糖や人工甘味料などの問題点を論理的に説明されると、「なるほどな」とほぼ一方的に納得するしかない。ただ、身体が整っている人の生活習慣を確認すると、不思議と口から入れるものもバランスがよく、自然なものを選んでいる。

すこし整体の価値観を表すと、毒だけ避けていればそれで良いのかといえば、そういう訳にはいかないという話になる。身体に眠っている「耐性」というのを育てるためには、適度にストレスがかかることも有効なのだ。例えば、「おなかにはやさしいものを」といって毎日粥を炊いてよく噛んで食べると、胃袋の力が弱ってくる。冷水でもタイミングよくかぶると身体が熱くなるように、冷や飯も時には胃腸を活性化するから、身体の状態を抜きにして是非善悪は語れない。

社会毒と言われるものに、そういう潜在体力を喚起する力があるかというと体験的にはよくわからない。ただし、毒を気にしている人に限って「元気な人はいない」という独自の主観がある。よく観ていると判るのだが、体力が弱ってくるとそういうものが気になり出すみたいだ。

整体の立場から言えば「カラダにわるいもの」が気になりだしたら、まず自分の身体がどうなっているか確かめて欲しい。毒か薬かは身体が決めるというちょっと変わった視点である。ざっくばらんに言うと、もっと他にやることがあるんじゃないかと思っているのだ。

野生の哲学

仕事のあい間にベランダの洗濯物をしまおうとしたら、屋根の下に大きなハチがうろうろしていた。よく見ると巣を作り始めているではないか。知り合いが昔スズメバチに頭を刺されて、救急車に乗った話が思わず頭をよぎった。

頭から白い布をかぶってささっと追い払おうとしたら、案の定こちらに真っ直ぐ飛んできた。気がついたら頭を股下に突っ込んで前方回転受け身で交わしたが、起き上がりざまに物干し台にしたたか頭を強打ス。ディズニーの実写みたいだった。

野口整体をはじめたころは「身体が整うとどうなるの?」と思ったけど、最近はやればやるほど自然体になってくることを実感している。活元運動をやっていると、「反射運動」とか「危険回避」能力とか本能的なものがさっと出やすいのだ。整体では「錐体外路(性運動)系」という言葉であらわすけど、自然治癒力とか、恒常性維持機能とか生命のバランスを勝手に取る力が大切だ。整体の目的はこれがしっかり発揮される条件を整えることで、そのためにじゃまをしているもの取り除いていく。そのほとんどのものが人間の「頭のはたらき」なので、思考がよく休まれば大抵のものは良くなるのだ。

最初から備わっているものを使うのだから「何も訓練などいらないのかな」とも思えるけど、逆に「最初からあるもの」を有効に使おうとする人は少ない。「自然」とか「野生」とかそういうものが身体に現れるためには、人間の場合は後天的な「訓練」がいるだろうなと思う。何かを「身に付ける」のではなく余分なものを取っていくという話で、やっぱり活元運動が近道なのだ。これで頭をぶつけてなければ説得力も増すんだけど。

久しぶりに愉気のこと

天心の愉気

それなら陰気を退けて、陽気な活発な気を送り込んだらどうなるだろう。そこで愉気ということをやってみました。実際は触らなくてもいい。気が感応すればいい。愉気して気を送ると、どこが変わるか判らないが元気になる。けれども不安や闘争心はいけないのです。平静な気持ち、天心をいいますか、自然のままの心でスッと手を当てるとよくなる。

良くしようと思うのは人間の作った心です。使えば減るなんて思うのも、人間が作った心です。体の自然は腕を使うと太くなる。足を使うと足が太くなってくる。頭を使うと深く考えられるようになってくる。使って減るようなものでない。気だって、陽気を愉気すれば、いよいよ陽気が増えてくる。活気を送れば、いよいよ活気が増えてくる。使って減るということはない。

ただ、伝えても相手に伝わったのか伝わらないのかが判らない、しかし愉気をして心を集中すると変わってくるのです。体が変わるのか、心が変わるのか、気が変わるのか、それは判らない。判らないが、その人も、相手も感じる。障子越しの明かりのように気持ちがいいという程度です。けれども、いろいろと変化を起こしてくるのです。怪我をしたらそこへ愉気すると、外側の怪我でも内側の怪我でも簡単に治る。やってみると妙なもので、私はそういうことを、触手療法として教えたことがありました。みんな手を当てているとよくなる。手を当てたくらいでよくなるわけがないと言う人がたくさんいました。やるまでは不安であっても、自分でやってみると信じないわけにはいかなくなる。そしてだんだん熱心になります。(野口晴哉著 『愉気法1』 全生社 pp,38-39)

気がつくと、最近「気」のことを語らなくなっていた。整体をはじめたばかりの頃は「気の感応」というのが面白くてしょうがなかったけど、それはもう「あたりまえのこと」になってしまったのかもしれない。身体は触れても変わるし、触れなくても変わる。死ぬまで一時も留まることなく、生命は生命に反応して動いていく。

骨盤矯正などということでも、やっぱり気があるから骨も自然に動いていくのだ。だから物理的な力だけで骨を動かそうとしても変わらないし、うっかりすると毀してしまう。特に仙腸関節などは、「関節」とはいうものの可動性はほとんど目には見えない程度の作りになっている。それでもただ触れていると身体にとって自然な方向へ動いていくから「気」というのは便利だ。身体を整えるためには細かな技術をあれこれ覚えるよりも、気の誘導法としての「愉気」を覚える方がずっと役に立つ。

もとより整体は気を重んじる世界だけど、改めて考えてみるとやはり気は目に見えないし、どこまでもぼんやりしたものだ。探し回るととまったく見つからないのに、何もしないで放っているとあちらこちらに「気」は感じる。次の活元会でまた愉気の実習をするので、しばらくぶりに文献に目を通したら初心の頃を思い出して懐かしく感じた。「自然のままの心でスッと手を当てるとよくなる。」というのだから、特に「初心」の頃の愉気は素直で通りやすい。教室で学んだ人から「愉気したら色々なものが良くなった」という報告をよく聞く。技術はたいてい時間とともに向上するものだけど、「素直な心」とか「無邪気さ」というのは時間とともに隠れてしまいやすい。そういう観点からも初心は天心にも通じる純粋さを備えている。教えようと思っている人から教えていただくことは存外に多いのだ。

慈眼

昨晩お風呂の給湯器が故障したので、今日は太郎丸のお迎えに行きつつラジウム温泉「鷲の湯」へ。最初は反町浴場に行こうとしたら、水曜日はお休みだったのだ。。

とういうことで、かなり久しぶりの鷲の湯です。

夕方に行くと大抵は肉体労働のおじさん、おじいさんが沢山見えます。刺青している人もちらほらいるし、いろんな体の人がいるんだけど、銭湯は一度に大勢の人の勉強が出来るから便利だ。

こうやって見ているといろんな体の人がいて、それでもみんなちゃんと上手く動いているんだとつくづく思う。日々人の身体を観るが、やっぱり命には「是非・善悪」という見解はつけられない。

臨床の場ではこれまでもずっと「どうなっているのかな?」ということだけを淡々と見てきた。「ただ」見ていると、何もしなくてもより良い方向へ伸びていくから面白い。

いのちというのはそういう風にできている。

「自分」が見ると色がつく。自分がいないときは「そのまま」なのだ。だから、それでいいのだ。