衣は医なり

だいぶ温かくなったので久しぶりにYシャツで仕事をしようとしたら、妙に違和感があったのですぐに脱いでしまった。ボタンダウンの白シャツだったのだけど、着て数分もしないで首が緊張してきたのでこれでは整体操法が使えないと判断したのだ。それでふっと思い出したのは、知り合いの和裁の先生から聞いた「衣は医なり」という言葉だった。

因みに原典は「医は意なり」、だと思う。その意味するところは、「治療の成否は、その方法論や技術内容よりも治療者の精神性がもっとも大切なんだよ」ということらしい。なにやら訝しげな説だけど実際のところそうなのだ。プラシーボというか、「この先生は信頼できる」と思い込んだら最後、同じ病気を温めても冷やしても良くなってしまうことはよくある話である。実際、治療行為の99.9%はプラシーボなんだけど・・その辺は今日は置いといて・・。

それでうちでは普段和装とも洋服ともつかない格好で仕事をしてる。自分の感覚としては肩の力が抜けて、歩いたり坐ったりしやすいのだ。ところが今日カチッとしたシャツを着たら、最初に書いたように先ず首がシャキッとなった。その次に「肩」という身体意識が現れた。ご存知の通り和装には裄丈(ゆきたけ)という概念があるのに対して、「肩幅」という寸法はない(ですよね、確か・・)。裄丈というのは首根っこから袖口までを測った長さだから、つまり背骨が起点になる。そこから「肩」という意識を素通りして、手首まで行ってしまう訳だ。

何が言いたいのかというと、東西の身体文化の違いを実地で再確認したという話なのだ。襟のあるシャツを着ると脳は分析的に働く(自分の感覚的に・・)。だから数値の処理とか、言われたことを言われた通りにシャキシャキ「こなす」には適した身体になるなと思った。ところが和装ではそうはいかない。部分的な理解よりも、物事を包括的にとらえる直観が冴えてくる。それを「勘」といってもいいのだろうけど、無論、整体の仕事で必要なのは後者である。

そもそも「衣・食・住」と言われるように、衣類は文化の「イ」の一番に来るものだ。「衣は医なり」と言っても別段シャツが体にわるいという話ではなく、着衣は防寒や装飾のみならず、脳の働きや人格陶冶にまで影響が及ぶものだと知っておいて損はないと思う。今のところ袴をはいて仕事をしたことがないので、どうなるのかは知らないのだが、将来的には試してみたいなと考えている。ただ自分のメンタリティーからいくと「七五三」みたいになりはしまいかと躊躇もしている。我ながら冷静な視点だと思うのだが。