今日は活元会でした。ご参加の皆さまおつかれさまでした。
2009年の開業からこの活元会はこつこつとやってきました。月日とともに変わったと言えば変わったし、変わらないと言えば何も変わっていません。
野口整体に興味を持たれる方のおかげで、淡々と続いてきました。これからもこつこつやって行こう、ということで来月もやります。
日時)5月28日(土) 10時30分~13時00分
よろしくお願いします。
野口整体 ユング心理学 禅仏教などを中心に学んだことや日常の雑感など
1歳半になった太郎丸は、坂の多い栗田谷をずんずん歩いてます。
胸突き八丁に挑む太郎丸。
栄養がよかったのか、足がおっきーってよく言われるのだ。
さ、明日は活元会だ。
教材は結局、野口晴哉著 『潜在意識教育』からの抜粋になりました。あしからず。
今日はもう寝よう。
開業して2年くらい経った頃からずっと、仕事の前に食べる物をあれこれ模索している。当然の事ながら、指導が始まった時に一番意識が醒めているようにコンディションを持っていきたい。基本的にはあるものを食べることが殆どだけど、重要なのは味の濃淡と穀類の量だったりする。
お米を食べるといい意味では気持ちがゆるむが、一口でも余分に摂ればお腹に血が下がり過ぎてぼんやりしてくる。お腹がコテーっとしていると、まず「目」がぼやっとしてくる。ピントがぼやけるという感じではなくって、「目」がきちっと働かないのだ。それなら空腹状態がいいのかとも考えたが、そうすると自分の場合はどうも「食べていない」という空想に負けてしまう。落としどころとしては、重湯やおじやのようなものがいいのかなと今は思っている。
実際ここまでこだわって仕事の精度にどの程度影響があるかというと、本当に微々たるものなのだが。ところが「神は細部に宿る」という言葉もあるように、100%と99%の違いというのはやっぱり結果の成否を分ける。100%というのが百発百中なのに対して、99%だと「外れる可能性」が出てくるのだから。出来るかどうかやってみなければ判らないというようなものは、職能的な「技」とはいえないと思うのだ。
これが例えば野球の打者みたいな仕事だったら、「打率」とか「打てた・打てない」という成績として白黒はっきりするけれども、整体の場合は「効いた」か「効かない」かというのはお互いの主観が決めている。しかも健康とか幸せとかいうものは、マルかバツかという二分法のものではないので、下手をすると安易なところで妥協に流れやすいので注意が要るのだ。
最終的には仕事の前に、自分で自分が「いま目が醒めているのか?」と問い続けることになる。事に臨んで自分の意識さえ明瞭なら、仕事はすでに完成したに等しい。大鵬幸喜の言葉で、「土俵に上がった時には、すでに勝ち負けは決まっている」というの目にした事があって、年々歳々身に染みている。
言葉では潜在意識教育を説きながら、自分自身の心の全体性をどれくらい自由に使ているかというと疑問に思うことが増えてきた。整体指導の場ではよく対話をするけど、仕事として行う以上は日常会話と同じようなものではだめだなと思う。あたりまえなんだけど・・。
「説明」とか「説得」で促されたものは意識的に「そうですよね」と納得できても、腹の底では「でもやっぱり・・」と言っていたりするので身体が変わっていかないのだ。ましてや押しつけられたような考えでは反発しか生まれない。だからお腹の底まで変わっていくように心も体もを誘導する力が必要なのだろうな。
人間の潜在意識は、抑えられると飛び出したくなる。認められて、受け入れられるとその要求は消えてしまう。大まかにいえばたったこれだけの構造なのだ。ここが公に理解されるだけでも、世の中に遍満する余分な軋轢は相当に減るだろうなと思う。「理解」まで行かなくても、「そうなんだよ」と知らされるだけても、人間を無駄に縛るような枷は大分減るんじゃなかろうか。
自分で自分の中に「悪」とか「不善」を作りだして、それを縛り付けている間は本当の全力発揮はできないのだ。ブレーキを踏みながらアクセルを踏むことの非合理性は誰もがわかるのだけど、こういうことを「努力」と表現されるだけで、ちょうど杖か浮袋にでもしがみ付くようにそれを掴んで手放せなくなることもままある。
人間が本当に力を発揮できるのは、「自発的に興味をもったこと」なのだ。自分自身の「氣」の集中・分散の波にうまく乗ればそれが一番自然に物事が運ぶ。早くもなく、遅くもなく、早くても、遅くても、それぞれが中庸という波の間に流れていってどこにもぶつからない。「任運自在」という言葉があるけれど、人間がその身体上に自然の相を現すには、やはり人為とも無為ともつかない、その両方が混ざり合ったような訓練がいると思う。
活元運動はそういう人間と自然を矛盾なくつないでいける方法だ。「ポカンとする=理性の完全休止=自然との親和」という図式なんだけど、自分にとってもこれは仮説なので、これを見極めるために自分自身の生き方で確かめて行きたい。もとより人にやってもらって納得いくよう世界ではないので、用のある人だけが実践して、自分の中の「自然」を見極めればそれでいいのだ。
整体は人間に内在する「自然」を紡ぎ出していくような行為で、簡単なように見えるけど人間にとっての自然てどんな状態か考えると容易でない気もする。でもどんなに時代が変わっても、生きている間に自分の心の力を掘り起こせるような「体育」が必要なのだ。人間の全力発揮を可能にしよう、というのが本当に役に立つ「教育」だと思う。内在する力をいかに発揮させるか、という所にの人間生命の醍醐味はあるのだ。
野口 人間が生きているというのは、自分の裡の力で生きているんです。健康を保つのも自分の力、人に治して貰っているように見えても自分の力、だからその一番最終に、丈夫に生きたい要求がなければ丈夫にならないんです。自分の感じた要求を実現しようとしている時は、体の中に力が入っているんです。
中川 そう、そういう風にして僕なんかも勉強してきましたね。僕はもう、教わったということないんです。学校に行って教わったり、先生について教わったことがないんです。教わるということは、目を塞がれちゃうんですよ、下手な教わり方したら。自分の要求でもって、人から取ることがあれば取ればいい。人から与えられていたんじゃ駄目なんです。こっちから取ればいいんです。そういう考えでやってきたのはよかったと思うんです。(『月刊全生 増刊号』 中川一政×野口晴哉 対談より)
いま一歳半の子供の活動をみながら、人間の「学び」に因んでつらつら書いています。昔から「まねる」、「まねぶ」、「まなぶ」と言い替えたりします。だから学びの根本は「模倣」なんですね。だから、最初に自分が「どうありたいか」という方向性のもとに、「必要なモノ」だけを身に付けて行けばいいと思うのです。要らないものまで、「あれもいるかもしれない」、「これもあったほうがいい」、とやっていくとだんだん「自分」が重たくなってくる。それは不安から出発して持ち物を増やしているだけで、無駄な重量でしょうから。また、他人の老婆心でいろいろ教えられることも多いから、「これは何のためにやっているのか」、「どこで役に立つのか」、という感受性がくもらないように気を付けなければならないでしょうね。
それこそ現代型の教育で「目を塞がれて」しまって、それからから学ぼうとするとどうしても与えられたものを鵜呑みにしてしまったり、今現実に困っているのに誰かが教えてくれるまで待ってしまったり、そういう受け身の学びになってしまう。最初に自発性を削がれてしまうと、やっぱり自然の力として伸びていく「勢い」を失ってしまうのかもしれない。
そうすると、学びや教育の「要」というのは如何に潜在的な自発性を煥発できるか、ということになるのでしょうか。人間ですから、誰でも最初に要求があるんです。必ず。それが良いとか悪いとかって言うのは、その後の持っていきようでどうにでもなるんです。また、「要求」そのものは教われません。ただし自然に要求が現れる「身体性」を育てていくのは、ある面で他動的にやれなくもない。整体指導というのは本来、個人の要求の発動、実現のためだけに行うもの、といっていいのでしょう。
やはり整体の仕事をしていてやりずらいなと思うのは、「何に向かって全力発揮したらいいのかがわからない人」です。だから要求が現れる身体というのをまず考える必要があるのでしょうね。脱力して、頭もゆるめば、「狭い合理性」から自由になったその人本来の感受性が出て来ますから。そちらの方がしっかりしてくれば「元気」とか、「体力」というのは、もうどうにでもなるとも言えなくもない。だからそちらの方をもっと研鑚していく必要があるのでしょう。こうやって考えていくと、ますます「治療」なんていらないんじゃないかと思うんですね。
昨日の話の種には出典があって、原ひろ子著『極北のインディアン』で紹介されている「ヘヤー・インディアン」という狩猟民族の文化に因んでいます。このヘヤー・インディアンは、「教える」、「教わる」、「学ぶ」という概念がないそうなのだ。
現代型の「教育」は、必ず「教える」ということとセットです。「教える、育てる」ですから。でもね、野口先生の時代にはすでに、「いまの教育は、〈育〉が抜けていて、教教だ。」と仰っていたそうです。教えてばっかりだということです。さらにすすんでくると、「教えられてないことを勝手にするな」とか言ったりもしますね。
そうすると良い面もあると思うんです。まず教えれば一定のところまでは「早く」行きますから。何より教育する側にとって都合がいいのでしょう。指導する側から言えば「扱いやすい人間」ができるので、特に戦後そうなったんじゃないでしょうか。ただそれが個人個人にとって良いかというと、利便性の影には当然、弊害もあるでしょう。
教わったということは「自分で考える」というプロセスが抜けるわけですから。ちょっとちがう角度から攻められたら、もうそれで対応ができなくなってしまう。
ところが、最初のヘヤー・インディアンのような覚え方で行くと、自分で「できた」と同時に「どうしてか」も判る、そういう根っこのある理解になります。だから指導者というのは、相手がどうしたら「気づける」かだけを考えて、そのための最高の環境を作ることが仕事と言えるのかもしれません。場を作るのが仕事ということですね。ちょっと今日は短めで。
保育園に太郎丸をお迎えに行ったら、園長先生から「今日はこんなの画いたのよ♪」といって、わたされました。
何だかわからないけど込み上がてくる・・・。なにコレ。(;Д;)親心?
じーっと観ていたら、自分が23歳の時に一度だけ絵画教室に通って絵を習ったことを思いだした。子どもの頃から絵を描くことは好きだったけど、「こういう風に画く」ということを習ったのは本当にこのときが初めてのことだったのです。
そこで「習う」ってどういうことなのか、を、すごく考えたんですね。先生とも議論したし。
「こういう風に画けばいい、なんておかしい」
「じゃあキミは何しにここに来てるの?」
「・・・・・・?」(それもそーですね。。)
大筋としてこんな感じだった。先生は楽しそうだったけど。
例えば、算数を習うっていう時には、「九九」を覚えれば、一桁の掛け算はさっさとこなせますね。その結果は・・・覚えただけ・・、です。
算数は日常のいろんな場面で役に立ちます。けれども、先人の知恵を学ぶことは、それと引き換えにそこに新しいアイデアが生まれる可能性は減じるのかもしれません。自分の頭で「考える力」っていうのかな・・。
ここが難しいところですね。
せっかく昔の人が、「こうだよ」ということを遺してくれているだから、その知恵を使わない手はない。だけども、「習って」しまったら、やっぱりそこに縛られる要素も出てくる。「不自由」っていうことが出てくるんですね。
絵を画くのでもそうかなと思う。
うちの子はまだ、「絵を描いた」と思ってないだろうけど。まあとにかく、巧いとか下手だとか、そういうものが一切ないだろうし。
何が何をやっているのか、わからないような「からっぽ」の活動体です。
版画家の棟方志功は晩年になって、「ようやく自分は自分の作品に責任を負わないで済むようになった。」と言ったそうです。つまり「私」が彫っているんではない、ということです。何がどうなって、誰が彫っているのかもわからない。だからそれが人の心をうつのかもしれない。
直近の話では「整体操法」を身に付けるときにも、「まなび」ということの本質を何度も考えたものです。
今も考えています。
「教える」ってどういうことなのか。
「教わる」ってどういうことなのか。
・・・ちょっと、これは長くなりそうなので、またつづき物にします。
心理学の話から急に身体の話になった。よく考えれば体とか心という分類は「科学的分析」の産物であって、生きた身体というのはこれらの境界があいまいなのだ。あいまいというか、もともとそんな風には分かれていないのが実状で、「心」も「体」も同じ一つの活動体の別称と考えた方がいい。言葉というのはその時々で都合の良いところを切り出すだけで、良い悪いではなくそういう道具なのだ。
さて、タイトル通り「腰の反り」ということが論点なんだけど、これについては毎日の整体(個人指導)の最後に、大体8割以上の人に正坐で坐っていただきます。それ以外の方は高齢であったり、その他もろもろの事情で腰が充分に伸びないのでそんなに無理はしません。見た目的には腰骨は「反って」いるのだけど、一人一人みると腰を「反らせて」いたり、脱力して自然に「入って(伸びて)」いたり、形は同じでも内側で起こっている現象はちがう。
かれこれ2~3年くらいは、この坐り方を仕上げとしていたけど、自分で点検してみるとどうもこの坐り方ばかりが固定的に「正しい」かというと、「一概には言い切れないな」という気がしてきた。今にして思うと「考える」姿勢を失っていたのだ。
「進歩」というのは常識の延長線上に見ることが出来るのに対して、「飛躍」や「革新」というものは常識を否定することから生じる。身体の問題を扱ううえでも、直線的に「悪い」から「良い」に向かわせるだけなら話は簡単だけど、人間の身体も含めて「自然界」というのは異なる状態や方法論がどっちも「正解である」ということが起こりうる。客観的数値を基準として再現性と普遍性を追求する科学は前者で、宗教というのは後者の不確実性をあつかうための感覚的行為である。整体も非科学に類するもので固定的な良い悪いという答えはない。突き詰めると「治療とはなにか?」を考え続ける態度ともいえるかな。
前置きが長くなったけど、健康指導するうえで最終的に「コレ」という固定的概念があることは便利な反面、不自由さもあるなと思ったのだ。こちらが絶対的な答えを持っていて、一方的に「教える」という構図では生きた「人間」に対応しきれない。よく「患者さんが一番の師です」という治療家さんは多いのだけど、今さらながら、自分自身もご多分に漏れずそういうことなのだと一人うなったのだった。
タイトルからしたら期待に沿えない内容かも知れないけど、考えてみた結果、否定も肯定もない、「考え続ける」という着地点を見つけられたことで意識の広がりを感じた。また「自由性」というのはいつも知らぬまに減じるものだと再確認したのだった。実は腰の柔軟性は思考の融通性と一つだったりする。