心 技 体

小学校2年の時にほんの少しだけ剣道を習った。その当時がはじまりだったと思うが、「心技体」という言葉をあっちでもこっちでも見たり聞いたりしてきたと思う。

当然の事ながら、心も大事、技も大事、体も大事である。ところがこの1~2年をふり返ると、精神論(心)に偏っていたのではないかと反省している。精神が向上すれば、技も体も進歩すると疑いもなく考えていたが、本当にそうだろうか。

もっと端的に言えば、「技ってナンだ!?」ということに突き当たっている。「愉気」ということ一つとっても、「ここに触れてください」と言えば、誰でも、初めてでも、取り敢えずそういう形にはなる。触れていれば、ゆるむし、身体は活性化して良くなっていくのだ。

ではそれを「プロ」として行うとなると、何が違うのだろうか。何か違うのだろうけど、その違うものが判然とはしない。逆に素人の方が見て、すぐに判るようなものではその程度なのかもしれない。

もう10年以上前だったと思うが星野仙一さんがNHKの番組で「心技体」を「体心技」と言い替えていた。「先ず最初に体なんだ」ということだったが、「スポーツマン」だなと思った。プロスポーツというのは、非常に解りやすい身体能力の(主に素質的な)競い合いである。ところが職能的な「技術」というものは、後天的な訓練次第で無限の伸びしろを持ったモノだと思うのだ。

個人的には、心技体に序列というのは感じない。ただ読んで字の如く、技というのは心と体をつなぐものだ。そういうものを体型的に学べるようにした行為が「型」と呼ばれるものだが、整体自体がそれほど充分に型が練られた世界かというと、そこまでの歴史はないのが実状だ。

この辺のところにまだまだ参究の余地があると踏んで、改めて技術を練っていこうと思っている。「技」も「術」もみんな身体の中に埋まっている。それを掘り起こすだけの直観力はまさに心によるものだ。

やっぱり心・技・体なのだ。

「やさしく」教えよう

昨夜は月イチ恒例の禅会へ行った。坐禅が終わってから質疑応答を兼ねた茶話会があるのだが、会の主旨としては各々がやっている修行の点検が目的だ。

昨日の質疑はちょっと毛色が変わって、一人の参加者から「托鉢」とか「戒名」にどんな意味があるのかと矢継ぎ早に質問が飛んだ。一つ一つ和尚さんがやさしく諭してくれたのだが、改めて説明を聞くと大本はちゃんと仏の教えに因んだ行為であった。横で聞いていて「なるほどな、そうだったのか」と心の中で唸った。

みだりに書くと余計な誤解がうまれそうなのでその説明までは割愛するが、いわゆる宗教的行為というのは経済社会の常識に照らすと「何でだ?」と思うものは少なくないだろう。

またひと口に「宗教」と括ってしまうにはこの手のジャンルはあまりに雑多すぎる。まさに玉石金剛そのものだ。

話は戻るが、「禅」というとお寺でバシバシ叩かれながら足のしびれを我慢するようなイメージも根強いのではないだろうか。「棒喝」という言葉もあるくらいに、指導者は時として過激な手段として暴力も辞さない。

その一方で、先のようにごくごく平易な言葉で、やさしく「真理」を説くこともできるようだ。「殴る」という行為も時には「迷いを断つ」ために有効な方法と成り得るが、大切なのは「手段」の押し売りではなく、「目的」の達成である。落ち着いて世の中の現象を見渡してみると、この「手段と目的」は到る所でひっくり返っていることに気づく。「何のために坐るのか」は各自が責任を持って参究すべきところだ。

自分自身の仕事を振り返って見ると、むずしい「技術」や「言葉」を覚え込んでは使うことに拘り過ぎていた時期がある。この仕事で一番大切なことは、相手がほっとなってゆるむことなのだ。

今の年齢から「まろやかさ」などと言いたくないのだが、その一方で「やさしさ」とか「やわらかさ」というのは余裕の象徴だとも思うのだ。やさしさを自在に使うために「ちから」を上げていくことは不変のテーマである。いつかはマギー司郎さんのようになれるだろうか。

虹色タロチャン

昼間の水遊びから一コマ。

虹1

冷静に見えますが、実際は大はしゃぎです。

虹3

写真じゃ伝わりにくいね。

お家に入ってお風呂で温まりました。

(・▽・)おしまい♪

ドンスィンク ジャスツフィール

ホームページに「ココロとカラダ」と表記しているので、来院される方はある程度心の準備をして個人指導に臨まれる。ところがお会いしてみると、「心の定義」は個人個人みなバラバラなのだということをいつもいつも思い知らされるのだ。

特に、心理療法やカウンセリング、ヒーリング・セッションなどを受けてから来院される方は、ある程度「自分で自分の分析は済んでいる」と思っていることが多い。ところが〔身体〕を媒体としてやり取りしていくと、自分のことを「考え」ては来たけれども、「感じる」方はサッパリなのだ。つまり「分析」といったって遊びみたいなもので、何にもなっていないのである。

誤解のないように補足するが、心理療法や精神分析を否定する気は全くない。しかし実際にカウンセラーがこれらの技術をプロのレベルまで身に付けるには多くの時間と体験を必要とし、またクライエントにとっても大変な心的エネルギーを要するものであることを知っている。それだけに、そう簡単に「解りました、治りました」などといったものの大半は「にわか」なのである。

話を戻すと、「心」というのはおおまかには「理性」と「感情」に大別されるが、実際の心にはそういう境目がないから厄介だ。例えば、「ごはんが旨いか不味いか」、というのは本人が主観的に「感じる」働きだ。ところが「不味い」と感じても、直後にその栄養価とか、値段の高い安い、あるいは会食の席であるとか、そういう理由から合理的に「考えて」食べ出すと、最初に不味いと感じたモノがぼやけてくる。

つまり、この場合は理性が感覚を磨滅させたのだ。ではそれによってすっかり感覚上の問題が解決したのかというと、最初に感じた不快(不味い)というのはやはり心のどこかで生きている。そして身体上には、その感じた方が現れるようにできているのだ。疾患や怪我というものは、みんなそういう系統の現象といえる。

仮に「泣こう」ということをいくら考えても、泣きたくなるような情動が起こらなければ、本物の涙は出ない。このように「考え(理性)」というものの生理機能に対する影響力というのはほとんど0(ゼロ)なのだ。

だから整体指導で取り組むべき「心」というのは、常に感情を中心とした精神の動きである。全般に身体の調子がすぐれない、という方は理性に偏り過ぎて、感性の方が眠っている。いくら「心、心、」と謳っても、その定義が正確に共有されなければ一向に仕事が始まらないのだ。

最初に「感じる」という出発点があって、そこから思い、考えることが出てくる。感じることを主体として生きる手段というのは、分析ではなく、内観であり、言葉ではなく、沈黙である。ただし、その内観とか沈黙に誘うために「言葉」は有効な手段として使われるべきなのだ。

つまり「考えないで、感じよう」、と。それをさらに雄弁にしようとするとやっぱり、「黙」になるんだけどね。

生き物を観る眼

赤ちゃんの観方で一番大切なのは、他から抱きとったときの重さの感じである。異常のおこる前は、その重さの感じがフワッと軽いし、充実してズシリとした感じのするときは調子がいいときである。これは物理できな目方の問題ではない。「留守にして帰って、まず子供を抱きとる。その瞬間の重さの感じで留守中どんなに扱われたか判る。また皮膚のつやと張り、眼の色と光とちから、便の量と色、及び掌心発現の状況などから、観る眼を養うことが大切である。そういう生き物を観る勘は、生き物に注意を集めて。興味をもって観ることによって育つ」と(野口)先生は言う(野口昭子著『子育ての記』全生社 p.7)

先月太郎丸をつれて一歳半検診に行ってきた。診るものと言えば、身長・体重、歯科検診、それから言葉がどれくらいわかるのか、である。「言葉の遅れ」がないかどうかを確認したいようだ。

それはいいとして、歯の検査の時に無理やり口をこじ開けられたみたいで太郎はかなりショックを受けてしまった。顔が小さくなってしまって、翌日は熱も出した。結局調子が正常に帰るのに三日はかかったのだった。

診察室に入っては泣き出す子供の集団を見ると、やっぱり人情的には憤懣やる方ない気持ちにはなる。申し訳ないのだが、こういうものが「人間」の健全な発育を点検するものとは到底思えない。ただし、それは極々少数派の主観的な価値観で、ふだん我々が職能的に使っているような「生き物を観る眼」の方が相当「異質」なのだということも知っているつもりだ。

簡単に言うと、「動いている物を動いているまま、全体性を観る」というのがこちらの仕事で、一般医療(科学)では「動いているものを一時的に止めて、部分的に測り」たいわけである。

もちろん、こういう風に部分的に専門性を高めることで解ることもあるのだ。それはそうなのだが、部分的になることで観えなくなることも沢山ある。そして我々はいつだって、その専門分化によって「見えなくなる」ものに用があるのだ。具体的には先に引用した、「皮膚のつやと張り、眼の色と光とちから」というものがそうだし、もっと端的に言えば「いのち」というものが「それ」である。

整体というのは発生当初から、近代医療の見地で「見落とされるもの」を相手に仕事をしてきたのだ。科学的な分析は生命活動から出てくる燃えカスを調べているだけで、「いのち」そのものを捉えることは絶対にできない。

だから「人間の健康生活を指導する」といったときには、やはり整体の独壇場というのが実状ではないかと思う。我田引水も甚だしいのだけど、本当のところそうだとしか思えないのだからしょうがない。縁のあった人たちと向き合って、一人一人、直にこの価値を伝えていくより他ない。多勢に無勢なのだが、それは職業としての存在意義とセットなので複雑な気分だ。

健康のための軽い運動

先週までは指導室で時おりストーブを付けていたのにすっかり初夏の陽気になった。春先につづいて身体を動かしたくなる時だ。

整体ではよく「鬱散の要求」という言い方をするけど、人間は体力が余るとそれぞれの身体的特性に合った運動でエネルギーを消化したくなる。それというのも現代人は食事の栄養価に対して運動量が足りないからだ。

「栄養はできるだけ多くとるほうがいいだろう」という考えの方も依然として多いのだが、栄養を多くとりすぎても病気とかケンカの材料になるだけなので、身体に対して「中庸」という感覚を育てることは大切だ。

整体を一定期間つづけていくとほとんどの方に食欲の安定が見られる。それだけでなく余剰エネルギーの解消法も上手くなってくるから鬱散目的のケガや病気も減ってくる。具体的には趣味でスポーツをはじめたり、山歩きに行くようになったり、自分で自分を快活に使う欲求が開いてくるのだ。

内科のお医者さんが「健康のために何か運動をしましょう」ということがあるが、じゃあその「何かって何?」というとまったく曖昧なのが実情だ。自然と自分に合った運動をしたくなるように「身体感覚」を目覚めさせることも整体の仕事だったりする。

裡の自律性 躾は必要か

以下は、昨日の活元会で使用した資料です。

躾は必要か

この間広島へ講習に行った時、その講習中に若い人達の座談会が行われた。その座談会の録音テープを昨日聞いてみたら、共通してみんなの心配していることは、人間を自由に放り出しておいたら始末におえないものになってしまうのではなかろうか、人間にはどうしても躾ということが必要なのではなかろうか、第一、食事でも自分の食べたい時に食べるようにしたら家中バラバラになって困る、みんながやりたいことをやり出したら統制がとれなくなって困るだろうというようなことから、子供を叱らなかったら悪いところだけ伸びてゆくというような心配まで出ていた。出席者の中には学校の先生も大分おられ、家庭のお母さん方ならそういう考え方をしてもしようがないが、人の子供を預かって心を導こうとする人達がそれくらい人間の心に無理解な態度を示すということは、私は考えてもいなかった。

私達は別に誰に習わなくても、心臓は一分間に七十八の脈を打ち、体温は三十六度五分を保っている。そういう自然の規律を、体は意識しないうちに守っている。大脳の細胞の並び方から、食べるとそれを消化して体が必要とする部分に栄養を運ぶことに至るまでそうである。栄養をたくさんにとれば、それがみんな栄養として吸収されるかというと、体は余分なものは捨ててしまう。そうして自然のバランスを保とうとする。

体は非常に緻密で、繊細な統制のもとに行われているが、その体のはたらきの現れとして心があるということを忘れているのではなかろうか。煙だって気流に対し気圧に対して一定の動きがあって、それ以外に乱れるということはない。風に逆らって風上に流れてゆくことがないように、自然律の現れである以上、心にも統制があり宇宙全体としての調和を保っているのである。人間自体、そういう調和を保つための自律的な統制の上に息をしているのである。

人間の心というものは本来自由なもので、圧迫すればそれに対してどうかして自由であろうとする余分な反発が起こるが、やはり自由な本来の方向に向かって進んでゆく。川水を堰止めれば安全だと、ダムなどをつくって安心していると洪水になることがあるように、余分な堰止めをしなければ水は自然に流れてゆく。心も同じで、堰止めたとしても流れてゆく、あらゆる隙間から流れてゆく。だから心が自由に流れるという裏には、そういう規律正しい体の動きがあるということで、その反映として心が動くものである以上、そこに自然の規律、自然の統制が常に行われていることを見逃せない。

だから食べたい時に食べたとしても、みんなのお腹の空く時間はそうは違わない。もし何時に食べたければならないと決めておくことがなかったならば、その日の温度、湿度、気圧に従がって、みんなのお腹の空く時間ははなはだしくは違わない。自然に統制されてゆく。食べたものがご馳走だったかそうでなかったとか、みんなで非常に忙しい思いをしたかどうかどか、頭の疲れ具合とかで自然に調整されて、食べたくなる時間はそう違わない。食べ遅れた人は、人の食べているのを見ると途端にお腹が空いてくる。そういう規律から外れるということは非常に少ない。ところが何時に食べなくてはならないと決めておくために、自由に食べるということはわざわざその時間を外すことなんだと、まず考える。そう考えることが体に実現してくるだけで、はじめから何時に食べなくてはならないということがなかったならば、そういう何時に食べるということに対する反抗が、自由という名を借りて現れる理由がない。やはり同じにお腹がすく。だから空腹になったら食べるということが、何か非常の生活の混乱を増すように考えられているが、おそらくそういうことはない。あるとすれば、何時に食べなくてはならないという、“ならない”という規則に対する反抗である。水の流れは堰止めると、その時は従がっても、その勢いがだんだん増していって、それを乗り越え、隙間からでも溢れてゆく。堰止めることさえしなければ、水はその流れに従って淀みなく流れる流れる。だからもし心が反動を持ち、反抗を持ち、人に迷惑をかけ、自分の体を壊すようなことがあったとしたら、それはこうしなければならないという規則をつくった、或いは何とか抑えようとした、そういうことに対する反動であって、本来は人間は自由のものである。

私は新潟県に疎開していた時に、日本が敗けたというニュースを聞いた。そうして特高警察が解体になった。これはアメリカに敗けたからなんだと頭では思いながら、何か体の中が軽くなった。どこかでホッとしている。話し合ってみると、ホッとした感じがみんな共通している。人間の体と心の中には、そういったように自由を欲する分子が本来ある。それを抑えれば反動が生ずる。その反動は何だろうかというと、それが放縦というものである。人の迷惑なんか考えないで何でもやる。子供がお隣の柿が美味しそうだったから取って食べた。これは統制をしないからだというように考えるが、統制をしないからではない。統制したために、それに対する反抗の表現として、抑えられた反動がやりたいところに溢れただけで、川は堰止めさえしなければ、川筋以外のところを外れないように流れ、放縦に走ることはない。堰止めたために横に流れてゆく。洪水が出たのは堰止めるものがあったからである。叱言を言い、いろいろの行為を抑制して、躾たと思っていると、それは洪水を招くことになりかねない。(野口晴哉著『潜在意識教育』全生社 pp.55-58)

人間の心の構造、中でも反発や反抗心について触れられています。ここにありますように、人の潜在意識は「右に行くな、左に行け」と言われると、途端に「右に行きたくなる」というような習性があります。ところが自分から「左に行きたい」と空想するように導いておいて、最後に「実は左に行くとちょっと困るんだけどね・・」と僅かに抵抗をかけると、そちらにざーっと動いていってしまう。おしるこを甘くしておいて、最後にちょっと塩を聞かせるようなことをするのと同じです。整体「指導」と言った場合にはこういう技術が自在に使えないと技としては生きません。

ときどき「自分は生まれつき体が弱い」と思っているような人もいますが、人間も含めて動物は弱いのは生まれてこないのです。受胎して、尚且つお腹の中で成熟して生まれてきた、ということはそういう生き物としての丈夫さがあるのですけれど、人間の場合は生まれてからうっかり「弱いと思い込む」ようなこともあるのですね。最初に無かったものを、どこかでそう思わされたのです。そういう人に、「あなたは強いんですよ」といくらいっても自分が弱いせいで励まされたような気がするだけで、はじめに「弱い」と思たことは打ち消せない。それよりも、自分から「自分は丈夫だ」と空想してしまうような方向で刺戟を与えると、心も体も同時にすっと変わってきます。

最初にこれさえ出来てしまえば、不整脈でも、胃弱でも、逆子でも、何でも正常な方へ動いていってしまう。精緻な心の誘導ということです。誘導が正確に行われるためには、その構造を先ず知らなければなりません。ですけれども、そういう人間を方向付けることが仕事の中心である「親」とか「教育者」において、その出発点として人間の感受性や心の構造を知らないから問題が尽きないのではないでしょうか。身体の生理的働きを起点として、そこから生まれる精神の動きを観察しなければ、真に丈夫な人間は育てられないでしょう。こういうところが本当に見直される必要性を感じます。少なくとも「教育=知識の詰め込み」と考えられている間は、掛け違えた最後のボタンは止められません。

どこから間違えたのかわかりませんが、少なくとも理屈と強制では動かせないというごく基本的なことが、先ずもって多くの方に理解されるべきでしょう。知識を増やすだけの教育や、心のみを切り出して扱う心理学ではなく、身体の生理的働きの理解を含めた潜在識教育の必要性をもっと知っていただきたいと思っています。