面壁一年

約一年ぶりにブログを再開して、パソコンに向かう時間が増えたせいだ。風邪を引いた。久しぶりに言語野が活性化して、調子が出てきたと思った矢先のことである。

整体の臨床で必要な力は感覚、感性だ。脳科学的にいうと大脳辺縁系より内側の中枢神経系の領域だと思うのだが、こちらを専一に使っていくと言葉はだんだんうざったくなってくる。というか自分の場合は喋れなくなるのだ。それと反比例して勘は冴えてくる。それで昨年はほぼインプットだけに費やした、「黙」の一年であった。

因みに不立文字を説く禅が現代ではもっとも出版書籍が多いそうな。禅を端的に表現するには「黙」が一番間違いないものだが、その一方で言葉による空想は事実を正確に示す上で有効だ。冷静に見れば、「不立文字」も「黙」も文字ではないか。だが文字は、月を指し示す指であって、どこまでいっても月そのものではない。こうやってパチパチ文字を打っている(或いは読んでいる)間は永遠に〔気づく〕ことはないと言える。それでも果敢に書くのだが。

だいたい昔から「沈黙は金、雄弁は銀」と決め込んだ例があるが、その弁も、時には沈黙に勝るとも劣らない「金言」となるから侮れない。また黙には黙の弊害もあって、黙っていると果たしてモノが判っているのか、さっぱりなのか、その辺が曖昧になるという難点がある。言語的思考だけで深奥まで触れていただくのは無理だとしても、やっぱり入口まで案内するためには文字の利便性は欠かせない。さらにトンチンカンな誤解があれば、それを明らかにし、正すのにも有効である。

いろいろ屁理屈をこねてみたが、畢竟また喋りたくなったという話だ。黙っているというのは文字通り「黒い犬」の態度で、強者の手段であると言える。黙のレコード保持者はおそらく面壁九年の達磨さんだと思うのだが、こちとら理解者が現れるまで九年も坐ってられない。結局面壁は一年で終わった。まあ実際は喋るも黙るも同じことだが。ただあんまり文字とにらめっこは風邪の経過にはよくない。今日は液晶の光りが目にくるのでこの辺で。また明日お会いしましょう。ちーん。