3月の整体教室は下記の日程で行います。
■日程・場所
3/2 (木) 坐学・活元運動 反町 せい氣院
3/11(土) 坐学・活元運動 大口
3/16(木) 坐学・活元運動 反町 せい氣院
3/25(土) 坐学・活元運動 大口
■時間
9時45分~12時15分
■参加費
2,000円
■初めての方へ
ご参加を希望される方は前々日までにメールフォームにてお申し込みください。内容について詳しくお知りになりたい場合もメールにてお問い合わせくださいますようお願いいたします。
野口整体 ユング心理学 禅仏教などを中心に学んだことや日常の雑感など
3月の整体教室は下記の日程で行います。
■日程・場所
3/2 (木) 坐学・活元運動 反町 せい氣院
3/11(土) 坐学・活元運動 大口
3/16(木) 坐学・活元運動 反町 せい氣院
3/25(土) 坐学・活元運動 大口
■時間
9時45分~12時15分
■参加費
2,000円
■初めての方へ
ご参加を希望される方は前々日までにメールフォームにてお申し込みください。内容について詳しくお知りになりたい場合もメールにてお問い合わせくださいますようお願いいたします。
気が付けば整体という生き方に出会ってから10年余り経った。今にいたって一般の方の病気観・健康観との乖離を味うこと甚だ多くなったと思う。「整体」と言った場合も、その概念をなかなか共有できず難渋する。
今もってなお「治療」を求めて来院される方はいらっしゃるので、やはり「整体」とは身体を外部から刺戟することで「護り・庇い・治すもの」という印象が根強いことに間違いはないのだろう。
しかし身体をずっと諦観していくと、「生命」というものは最初から良くなる方向へしか動いていないことが見えてくる。むしろそれ以外の動きは一切ないと言ってもいい。この辺りが自覚されるまでに多くは一定の歳月を要するのだが、逆に言えばそれさえ自分自身に実証できればあと後は何も要らないだろう。
つまりは「この活動体」に対する絶対的な信頼こそが整体の入り口であり基本となる。そして、同時にゴールでもあるのだ。だからともかく指導する側は「目を覚ます」ことが仕事の核心であるし、技術を磨き、修め、その使用を慎むのもそのためである。
そこで手技の精妙さ以上に大切なのは人間心理に対する関心と深い理解なのだと最近つくづく思うようになった。理屈をたくさん並べて説得してもそれで人の「心」は動かない。「気づく」、「気づかせる」、そして「自ずから空想する」という方向でリードしていくことができないと、生きた人間を導くことは難しい。
しかし何を信じ、考えていても、生命はそうした個人の思惑とは離れ切っている。その観点に気づくと、真理からは離れて生きる人などいないことがはっきりする。
よってすべての訓練は「もともとの力」に気づくために行なわれる可きである。鍛錬もそのためにあるのだが、健康も幸福も求めれば必ず背く。鍛錬するその動きの中に、すでに生命の絶対性が生きている。矛盾するようだが今あるものに気づくために鍛え、そしてその鍛錬を忘れた時に確実に手に入るものがある。しかし掴んではいけない。この辺が「妙」と言われる所以だろう。
頭を虚にすればそれだけ身体の実は濃くなる。やはりその案内役としては活元運動は誰もが行える親切な道だと思うのだ。「道」はいつでも「今」と一つとなって動いている。そういう意味では「平等な世界」だとも思っている。
2月の整体教室をご案内いたします。内容は引きつづき「整体という生き方」を学ぶための坐学と、活元運動の実修を行います。
■日程・場所
2/2 (木) 坐学・活元 大口
2/11(土) 坐学・活元 白楽
2/16(木) 坐学・活元 反町 せい氣院
2/25(土) 坐学・活元 白楽
■時間
9時45分~12時15分
■参加費
2,000円
■初めての方へ
詳しい場所についてはお申し込みの際にお教えいたします(横浜市神奈川区内の公共施設)。ご参加を希望される方は前々日までにメールフォームにてお申し込みください。内容について詳しくお知りになりたい場合もメールにてお問い合わせください。
※3月以降も原則的に、第1・3木曜日、第2・4土曜日の月4回を予定しております。但しブログ・HPに掲載するまでは変更の可能性がございますので、必ず事前にお申し込みの上ご確認いただきますようお願い申し上げます。
1月の教室を下記の日程で開催いたします。内容は坐禅と活元運動の実践と、「整体という生き方」を学ぶための坐学を行ないます。
■日程・場所
○1/5 (木) 坐学・活元 大口
○1/10(火) 坐禅・活元 せい氣院
○1/14(土) 坐学・活元 白楽
○1/19(木) 坐学・活元 大口
○1/24(火) 坐禅・活元 せい氣院
○1/28(土) 坐学・活元 白楽
9時45分~12時15分
■参加費
2,000円
■初めての方へ
詳しい場所についてはお申し込みの際にお教えいたします(すべて神奈川区内)。ご参加を希望される方は前々日までにメールフォームにてお申し込みください。内容について詳しくお知りになりたい場合もメールでお問い合わせください。
12月の活元会を下記の日程・内容で行います。
■日程・場所
○12/10(土) 坐学・活元運動 9:30-12:30 反町(せい氣院内)
○12/20(火) 坐禅・活元運動 9:30-12:30 反町(せい氣院内)
○12/24(土) 坐学・活元運動 9:30-12:30 白楽(公共の和室)
■参加費
2,000円
■服装
シャツは白系を基本といたします。ズボンは色柄可。できるだけ柔らかくてゆるいものが坐禅・活元運動に適しています。
■内容
<坐禅>
禅の組み方(形)をご指導いたします。また姿勢や形式以上に、「坐っている時間に何をするか」が大切です(坐禅は瞑想とは異なります)。
出来るだけ実践の時間を多く取るよう予定しておりますが、時間が余りましたら岩波文庫『無門関』を読み解きます。
<活元運動>
例月通り活元運動の前に野口整体の資料を使って音読による坐学を行います。知的理解と実践による体認の両方を重んじます。
参加を希望される方は各開催日の前々日までにメールにてお申し込みください。
先週の土曜日は久しぶりに家の外に出て活元会を行った。白楽駅から程近い16畳の和室は明かりの調整が自在で利用しやすかった。
今回は初めての方にご参加いただいたのだが、いつも新しい方がお見えになると活元運動の効能をつぶさに感じることができる。続けていると一種独特の身体になってくるのだ。自然は自然なのだが、そこにもう一つ「秩序」を感じられるようになってくると、少し成果が上がったと見ていいだろう。
それともう一つ、整体では「弾力」という概念を重視するが、これを養うにもやはり活元運動は近道である。最終的にはやわらかい身体が一番長持ちする。
しかし意識的に「ゆるめましょう」といってもこれがなかなか難しい。やはり意識を静めて、無心の働きに任せるという方法が心にも体にも易しい。
月に一回程度、それで1年も続けるとだいぶ変わってくる。何と言うか、自分で自分を扱いやすくなる感覚だ。もっと平たく言えば楽になってくる。苦しいのはみな間違いである。
■日程
12月は24日(土)は同じく白楽で行ないます。10日(土)は場所が確定しておりません。近日中に再アップいたします。参加をご希望の方はこちらからメールをお送りください。
掛け軸は「閑坐聴松風」
昨日は坐禅会だった。10時から13時、つまり3時間で4炷(1炷は線香一本40分)坐る予定で始めた所、ご参加のみなさんが2炷目でだいぶお疲れの様子だったので途中から立禅、活元運動へと差し替えることにした。
こういうものは必要以上に身心を苦しめることはないので、無理は禁物だ。大切なことは「意識の鎮静化」と、これに伴い「本来の自己を見極める」ということであって、俗にいう忍耐力などとは無縁の世界である。
苦しいことに耐えていれば報われるという話ではない。苦しいのは苦しいだけ。それ以上でもそれ以下でもない。この辺りがはっきりしてくると後の話がはやいのだが。
それでも気になる人はとことん苦行的にやってみるのもいいかもしれない。それだってどこまで行っても結果は同じで、苦しいものは苦しいだけなのだ。
とにかく一度鎮まってみなければ判らないものがある。そのためにただひたすら坐っているだけだ。単純な話である。暫くはこのような形で月に2回ほど続けるつもりだ。
と思った矢先、お問い合わせがあってHPの日程更新とブログでの公募を忘れていた事に気がついた。
11月の今後の予定は下記のとおりです。
○11/26(土) 活元 9:30-12:30 神奈川区内公共施設
○11/29(火) 坐禅 10:00-13:00 せい氣院内
内容はいたって真面目なので、特に坐禅の方はお試し・体験目的でご参加されるとなかなか御辛いと思います。本当に坐りたい方のみご参加ください。
事前のご質問はメールにてお願いいたします。
道元禅師が真の仏法を求めて宋に渡った後、日本へ何を持ち帰りましたか?と問われた時に一言、「柔軟心(にゅうなんしん)」と応えられたそうである。禅師の示された柔軟心が「何」を指すかは言明できないが、一応のそれらしいイメージは沸くものだ。
性質は違えど整体でもやはりこの「柔軟心」を大切にしたい。
言い替えると「こだわりがない」ということでもあるし、「執らわれない」と言ってもいいだろう。できればもう一つ、その「こだわらない」とか「執らわれない」という動きすらないことが最良だ。「何もない」ということが根元的自由の源泉なのである。
その「何もない」を、時には「無」とか「空」とか表現されるが、これも「強いていえば・・」という話でとにかく何かしら表現されたらその途端に無も空も失われる。
とにかく目の前の現実に手を着けない、今の自分自身にも手を着けない。そうしてずっとやって行くと、そういう自他の見解から一辺「放れる」時節が必ず来る。そこからが人生の、本当のスタート地点だ。
そこで満足することなく、更にずんずんやっていって、「何もしない」ということを鍛えて行った先に、本来の自由性をそのまま戴ける人になっていけばいい。
人間は年をとれば誰でも固くなるもので、身心の柔らかさを保つには訓練が要るのだ。
そのために自律神経系、そして錐体外路系を的確に刺激する禅と活元運動は近道だ。体育のためにいろいろなスポーツをやることも結構なのだが、そういうことが余分な怪我を誘発したり、また心や体を余計にこわばらせることもあるから、どれも丁寧に観ていく必要がある。
柔らかさを保つためには勝ち負けや体の格好(ポーズ)の追求ではなく、先ず「柔らかさを保つ」ということを第一義的に考え行動していかなければならない。
そういうものが極めて少ないからこそ、改めて人間の生理機能に順じた体育の必要性を考えさせられる。何か特定の信仰や宗教観に浸らなければいけないということでもない。もっと自然で自由なものに気づけばそれでいい。
そのために難しい方法がいるわけでもない。頭を深く休めて、身体の自然の動きに任せるというそれだけだ。活元運動という名前を呈すこと自体もどかしいのだが、月を示すために指がいるように、形のないものを体認するためにまず言葉が要る。
あとは、本当にやってください、というそれだけだ。やってみて「間違いない」ということがわかった人はそれでもう柔らかい。自身の可能性を開くためにはこの柔軟さが不可欠だ。そのように感じる人だけでいいので、あとはただ、本当にやってくださいと言うしかない。そのように思う人たち同士で勧めていけばそれでいいという話でもある。
今日は坐禅と活元運動の日でした。参加者がお一人だったので、マンツーマン指導です。
坐禅会は全国いたるところにありますが、せい氣院は整体院ですから坐相(坐る時の姿勢)をその方に合わせて無理なく作れるように心掛けています。坐禅は苦行ではありませんから、リラックスがとても大切なのです。
なぜかはわかりませんが、坐禅につづいて活元運動を行うとやさしい気持ちになります 。坐る前と坐った後、外の世界は何も変わらないのですから不思議なものです。
禅修行はお一人でも基本的に問題ありませんが、やっぱり2、3名はいらした方が「場」が作りやすいかも、ですね。そういえば今月はブログ告知を忘れていました。Σ(・_・)あかん!
今月は月末にもう一度活元会があります。9月24日(土)10時-13時 次回は活元運動・愉気(手当て)の教室です。先月同様に「つながり」と「関係性」をテーマにした手当ての実習を考えています。
ご参加希望の方は前々日までにメールをお送りください。それでは。
健康な人の自我は、身体と同一視されており、病的な人の自我は、体との確固たる同一視を持っていない。アレキサンダー・ローウェン著 『引き裂かれた心と体』 創元社
上記は少し堅めの学術的な文章の引用だが、いわゆる「うつ」や「がん」のような現代的な病の原因を、肉体から引き離された自我(理性)にあることを看破している。
ここでの「肉体」とは「感情を有する生きた身体」のことで、この肉体から意識が離れることは生活から感情体験が薄れていくことを意味しているのだ。
生命活動の根源はやはり感情エネルギーであるといって相違ないもので、感情が希薄になることは生活からだんだんと温度や勢いがなくなっていき身体も固く冷たくなっていきやすい(凝りや冷えの慢性化)。
整体指導の場ではもっぱら身心の深いリラックスを促して、「感情の気づき」を介助することが主眼である。著作の中ではヨガから着想を得たバイオエナジェティックス・セラピー(生体エネルギー療法)という一種の体操(?)が紹介されている。一方野口整体では、この感情の解放を助ける方法に相当するのが活元運動(自働運動・霊動法)にあたるだろう。
ごく個人的感想として、過去4,5年の読書遍歴の中ではこのA・ローウェンの著作は秀逸である。これほど身体疾患と感情抑圧とのつながりを臨床例と供に学術的に述べた本を知らない(知らないだけで他にもきっとあると思いますが)。
洋の東西などという区分はあくまで思想的概念でしかなく、「人間」というのはある面では万国共通なものである。したがってその人間を探求していくとやはり答えも一つに集約されるのだろう。
こうして見ると病むことも治ることも、本来は難しいことは一つもない。頭を休めて、身体の自然の動きの任せる、というそれだけでいいのだから。
ただ「工夫」に慣れ親しみ過ぎた人は、この何もしないで任せる、ということがやっぱり難しいようだ。本来の自然界からみたら本当に可笑しなことなのだけど、何もしないでいるということが何か手持ち無沙汰で不安に感じるらしい。
今までのものを全部手放せば一挙に救われるのだが、それが中々できないのもまた人情である。やっぱり「これまで作り上げてきた自分」を惜しむ気持ちがあるのかもしれない。まずは思い(を断ち)切って活元運動をやってみていただきたい。身を捨てたとき、一体どのように「浮かぶ」のか。ぜひ自己の身心をもって実証していただきたいところだ。