野生の哲学

今日は往来での派手に転んでしまった。通りがかりの親切な方が「救急車呼びましょうか…?」聞いて下ったのだからきっと結構な勢いだったのでしょうね。。(ありがとうございました。親切な人。)

しばらくたってみるとモーレツに眠い。打撲は体力を消耗するのだ。つづいていま、夜になって打った膝が曲がらなくなってきた。曲がらなくなったということは、これから2日ほどかけて水がたまり膝を保護していく準備だ。こういうときに普段は凡庸としていても、人間の身体にはいつでも治る力という自然が秘蔵されていることを自覚する。

10年ほど前に腓骨を折った時はお医者さんの誤診でギプスをしないまま経過した。人間の身体の働きには「同じ役割のものは二ついらない」という決まりごとがある。通常、四肢を骨折すると折れた周りの筋肉が凝固して骨が繋がるまでその代わりを担う。しかしギプスをすれば筋肉で締める必要がなくなるので骨折周辺が余分に弛緩します。その結果リハビリにも時間がかかる。

自然の経過を乱さず手を施すとすればやっぱり愉氣だろうな。身の上に何が起こっても、整体でやることは手を当てるだけなのだが。これはなにも不思議なことではないのだ。身体の自然の力、野性を信じて生きるということはヒト以外の生き物はみんなそうしているのですから…。

今日の身体は今日でおしまい、明日はまた今日になり新しい身体になっていく。とりあえず必要箇所に触手療法を施して就寝。身体よ治ってくれてありがとう・・。痛いけど・・ありがとう。

花粉症

僕もかつては春先になると花粉に困惑していた。整体の恩恵なのか今ではだいぶ軽症になったが、やはり諸所の理由で油断をするとべしょべしょになってしまう。

今の日本にはいわゆる花粉症も立派な産業の対象になっている。実際花粉症がこの世から消えたら痛手を受ける製薬会社や耳鼻科の先生もいらっしゃるんじゃなかろか。僕も野口整体に出会う前に一旦は医者にかかった口だが、すぐに行くのをやめてしまった。対処法が花粉ばかりに焦点があたっていて発症している体の方はどうなのだという観点があまりないように思ったから。

実際僕はこの花粉症と呼ばれるものの原因が本当に花粉なのか疑問に思うことがある。同じように花粉が飛散している中で発症している人とそうでない人がいるのだから整体師でなくとも身体に原因を求めるべきだと思うのだ。

僕の場合で言うと症状が出る時は腰に圧痛がある。べしょべしょになる時というのはほぼ食べ過ぎているのときなんだな。

米の食べ過ぎその他糖分の取り過ぎとアレルギーの発症は僕の身体においては関係が深い。

そして食べ過ぎの原因は圧縮された心理的エネルギー、端的に言うと「ストレス」や「不安」だったりする。整体の理論では職場や家庭環境などで心的な負担が大きくなると頭の緊張を抜くために多く食べる。それも何故か味の濃いものや糖分の多いものなどを選出して食べてしまう。眼と頭の過労、胃袋や肝臓の疲労、そして花粉、この三つが発症の必要条件なのかなぁと探っている。

ストレス社会という言葉がすんなり受け入れられる昨今だが、花粉症産業は資本主義社会の副産物といえる。めぐりめぐって花粉症といわれる人には頭の緊張を抜く操法や体操が有効ではないかと今のところあたりをつけている。

銀しゃりでもやもや

季節がら日によって花粉の反応がでてしまう。最近氣がついたが目が痒かったり鼻水が出やすい日はどうも米を食い過ぎている時だ。最近は涙や鼻水と一緒に何かを体の外に排出しているのかもしれないと思い始めめた。

以前ある人から白米の食べ過ぎは頭がぼやけるという話を聞いたことがあるが、整体を仕事としている人の中にも現代人の失調の原因の多くは白糖と白米の取りすぎと断じて、せっせと玄米を進めている人がいる。

100年くらい前の日本では銀しゃりは庶民の憧れでもあったが、現在は転じて雑穀米ブームだ。火付け役がいたようだが、ブームの根底には現代人の体の要求というのがあると思うのだ。

白米といえば日露戦争の時に、玄米を食べていた海軍に対し白米を主食として副食(おかず)が乏しかった陸軍は脚気による被害が多かったというお話がある。また食養生の大家 二木謙三氏は玄米を完全食として生涯にわたって食べていたというエピソードある。

ところで僕の信仰する野口整体では「食べ物をよりどる」と言うとあまり誉められない。それは不文律として「食べたい時に食べたいもの食べる」という養生観があるからだが、それがまかり通っていたのも食糧が乏しく、かつ味噌や糠など自然のものが多かった昭和30年代までの話だろう。

白米の大量摂取も体が草臥れるが現代の人の味の好みではどうしても化学調味料なども体に入ってくる。これは定量を超すと確実に頭がもやもやする。こうした現代人の体には絶えざる中毒の問題があるので、食べ過ぎの方が見えた時には排毒の急所、肝臓への愉氣を意識して身体を観ている。食べ物はよりどる、よりどらないというより控えるというのが今日の食養生となりそうだ。

胴体力

空手のプロの方の背中を観させて頂いた。勝負師的な、腰に捻じれ傾向のある方で以前は尿詰まりの体をしていらした。

腰椎の3番が捻じれると泌尿器に影響が出るが、今日は捻じれがなく以前あった残尿感が最近はないとのことだった。

お話を伺うと胴体力というメソッドを本で読みながら研究、実践されたとのことだった。門外漢の僕は胴体力については伊藤昇さんという武術の人が創られたということしか知らない。

10代から空手一筋でやってこられた方なのでもとより背中に一本筋の通った方だが、今日は背骨の一つ一つに弾力があって全体で調和がとれている。長年ご自身の肉体と向き合って生きてこられた方なので、胴体力だけの産物とは言えないと思うが、こういう状態だと生理機能の支障も出にくいし、心理的にも柔和でいられるものだ。

良い身体に出会うことが何より勉強になるのだが、正しく鍛えられた身体に実際に触れて愉氣をしながら自分の身体までが整っていくようだった。

身体のプロとして志ある方はあれやこれや他動的にいじらなくても、自身で身体をみつめて精度が高まっていくのだと諭されたようだった。整体の存在意義についてしみじみ考えた。

近視

昨日目黒の治療家の先生と食事をした折に「整体をやるなら朝比奈さんは自分の近視を克服してみてはどうか。メガネなんかいらないでしょ。」と言われた。

そして今日は以前お世話になっていた空手の先生に用があって電話をしたら、最近お子さんが近視になってメガネを作ったというお話を伺った。また近視の話だった。

野口整体では近視に愉氣をしたら治ったという話を読んだことがあるが、整体に限らずこれまでに近視を克服したという人にはまだお会いしたことがない。ただ野口整体は目に関連する話は多い。

そのひとつに目の疲労は肩に現れるという考え方がある。薬のコマーシャルでも目・肩・腰の疲労回復をセットで謳っているものもあるので目の疲労と肩の疲労が関係があるのは一般にも知られるところと思う。

その他に胸椎10番という処は目と腎臓の変化が現れる。たしかにメガネをかけると後頭部と胸椎の10・11・12あたりの関連を感じることがある。

ただ言わずもがなだが目は動物の急所中の急所だ。僕は、頭の緊張でも胃袋の緊張でも身体を弛める必要がある時は目に愉氣する。それも多くの場合は右目だ。

以前骨折した人を観た時も思わず目に愉氣した。野口整体の本には骨折は目に愉氣するという話が出てくるが、たしかに速度のある打撲などは目にチカッと星が飛ぶことがあるので逆に目から打撲にアプローチする手もあるのかもしれない。

「目玉が飛び出す」「目から火が出る」という言葉もあるし、目は悲しい時も嬉しい時も涙を流す機関だ。身体の中の役割としては感情の波や、肉体的なショックを逃がす場所かもしれない。

元に却って、近視というものは遠視や乱視などと同じ現代医学的には屈折異常に分類されるわけだが、近視の人とそうでない人の腰椎の変化を観ていくとなにか共通するものがあるのだと思う。

ひと口に近視になるといっても原因は千差万別だと思うが、これから身体を観ていく上でテーマの一つとしてみようかと思う。

春の眠りと後頭部

春先は寒さに耐えるため縮まっていた骨や関節が開いて来る。その中で後頭部にも一様に変化が現れる。

整体では頭部の調整は秋にやることが多いのだが、この季節の後頭部の状態もいろいろ個人差があるので場合によっては愉氣をする。

後頭部は眠りの深さと関連が深い。後頭部を触ってブネブネしていると眠りが浅いためによく夢を見る。そして2度寝、3度寝をしてしまうパターンが見受けられるのだ。整体ではこういう状態をエネルギーの余剰とみている。

自然界では春になると骨盤が開くことと食糧が豊富になるということで性の動きが活発になるが、人間の場合一年中食べ物が豊富にあるので春は力が余る。エネルギーが余るとおかしな行動に出るということもあるが、多くの場合は余剰エネルギーを消化するために余分に寝てしまう。

春眠暁を覚えずということも整体学的にみると骨盤の開きと食べ過ぎ、それに随伴する後頭部の変化へと結びつく。

身体の欲求の正常化も整体の大切な仕事ではあるが、この時期は眠りの調整と食事を工夫すれば割合にバランスは保てると思う。端的にいうと朝なかなか起きれないという方は食事の量を少し減らすという方法だ。

足の裏は語る

近頃横綱、元横綱の動向を中心に相撲のニュースが多かった。僕は身体に興味がある人間だがとりわけ相撲の話には喰いつく、なぜか…。その相撲ネタの一つとして前から横綱の土俵入りの型の四股はなぜ左2回・右1回なのか氣になっていた。

整体で左足というとケガとの関連性を思い出す。左足をケガするときは感情のつかえ、情動との関連を斟酌する。重心の右左差という観点で街を歩いている人を観ていくと左重心の人が多い。どうも左足は相撲の型に限らず軸足としての役割が多いらしい。

平沢 弥一郎著『足の裏は語る』という本には右足と左足には機能的役割分担があるということが記されていた。数多の調査によると足の裏の面積比率は左足の方が大きいという。

また左右の重心比の統計をとった結果、排尿の時は無意識に左足に体重が掛っていることが多いとも記されていた。逆に意識的に右足に重心を掛けると小水の出が悪いということだったそうだ。

奇しくも整体操法では排尿の急所は左足の内ももとされている。尿の出が悪い時ここにじっと愉氣をする、またはそこの筋をはじくようにすると利尿作用がある。おしっこを我慢すると内股でもじもじするのもこの辺と関係があるのだろう。

日本の芸道における型とは身体の中の自然が表に現れているものだった。お相撲の型が左右対称でないのもこういった身体感覚に由来するのかと、なんとなく腑に落ちた。

国宝土偶展

上野公園に足を運んだ。10年くらい前はよく洋画を見に美術館に行っていたのだけど、今回の目的は土偶を見ることだった。http://ueno.keizai.biz/headline/459/

会場に展示されているのはつい4~5千年前の日本。現存する造形物としては最古のものに近いのだろうけど、もはや同じ系譜の民族とは思えないな。重心が下がったズシ・・とした安定感、人間の発達起源は足だったことが良くわかる。

会場を周っていくと社会科の教科書で見た『縄文ビーナス』という土偶に遭遇した。

小さい面、細く釣り上がった目、広く発達した骨盤(妊婦さんですけど)、整体学的に見ると10種(骨盤開型)っぽい。この人はきっとモデルがいたはずだ。

渋めの情報なのだけど頭の上(飾り?髪型?)の渦巻き模様がとっても氣になる…。これはつむじなのかなぁ。骨盤と後頭骨の関係性を考えると、いわゆる頭蓋骨がずれた状態、「つむじ曲がり」では難産になりかねない。母体の健やかなることを願って頭頂部にきれいな渦巻きを模したのかな。

土器を見に行ったがやっぱり人形とともに展示場にいる人たちの後ろ姿も氣になる。中学生の集団が来場していたが、今時の日本の子供は腰に勢いというか若々しさが少ない。子供のうちから腰が落ちてしまっているし、成人しても腰のそりが発達していない人も多くなった。

正座をしない、歩かない、とくれば当然の成り行きなのだけど、いわゆる体力の基礎となる「腰」が育たないまま出産、育児と頑張るのだからいろいろと苦労が多いと予想する。土偶を見ながら現代人の身体の変容を目の当たりにして、整体をもっと広めなければなとか、そんなことを考えていた。

何やらここ何日か朝起きにくい。こういうときは自分で骨盤を触ってみる。

そうするといつもは締まり気味の骨盤が開いて下がっている。そして(いつも以上に)良く食べる。念のため脈を診ると「ド…キン」という引く脈だった。すると、ああ低調期だな、とわかる。

体の波ということを知らない時分は「こんなことではいけん!」といって夜中にお寺に行って坂道ダッシュなどしていたけど、今は低調の波に上手く乗るという風に対応が変わった。自炊していっぱい食べて、たくさん眠ればいい。これも整体の智慧なのですが。

低調というと何か調子が悪いと思われがちだけど、整体でいう低調とは休息、弛みの期間のことを指していう。特徴は寝ても寝ても寝足りない、飯を食べるとうまいので太ってくる、空想やヒラメキが湧きにくいなど、とかくアンニュイなわけです。

ここできちんと休めると高調を迎えた時バリバリ働けるようになる。心が静かな時は、こういう自分の波は割合すぐにわかるようになる。が、他人のとなるとこれは難しい。

それでも一つの目安として、体の生理的な波は7日、7日、と動き、気分の波は10日がひと周期と言われている。整体では人間は絶えず揺れているゆらぎの生き物とみている。世の中は常にこういう波が互いに影響しあっているからある意味新鮮でいられる。

下駄

下駄屋さんに行った折に、そのお店に有名な女性歌手が買いに来ているというお話を伺った。その方は自宅で一本歯の下駄を履きながら発声練習をしているとのことだった。

下駄を履くとくるぶしから下が固定されるのでおのずと腰や股関節の可動性が増す。その結果、腰が緩んでツヤのある声が出る。骨盤と横隔膜の関連が深いためだろう。

昔のものは何でも良いというわけではないが、日本の芸道は着物の帯を絞めて、下駄をきちんと履くことでパフォーマンスが向上するものが多い。

整体に因んだ話をすると、ある種の腰痛などには下駄を履くことが効果的だったりする。日本文化の良いものは残ってほしい。