自己実現の前に

久しぶりにせい氣院のサイトにページを追加した。「自我と自己」。

もとを正せば「自己実現」に関するページを作りたかったのだが、それを書くためにはその実現する「自己とは何か」を説明しないといけないことに気づき、さらに自己を説明するには「自我」について書かないと、と縷々必要性が生じてきて「自我と自己」を先に書くことにした。

河合隼雄先生の『ユング心理学入門』や『影の現象学』で使用されている図をもとに、まあまあいい感じの作図もできたのでまずまずの解りやすさに仕上がったと思う、……と思います。

ともあれ自己実現の方も早晩アップしたいので妻とこつこつ作業を続けている。

自己実現という言葉には一つ思い出がある。まだこの仕事をはじめたばかりの時に相談に来られた方が、問診票の〔希望欄〕に「自己実現」と書かれたことがあった。

内心「ああ、それはすばらしいな」と思ったけど、その当時はそれが何だかわからなかったのだ。わからないけれども一所懸命やってればなんとかなるだろうという素人の情熱頼みで(今考えると怖ろしいが)、とにかく頑張ったのを覚えている。

自己実現と言った場合一般的には「夢がかなう」といったようなニュアンスが濃いように思うけれども、これがユング派の心理学の中に留まった場合、その意味はだいぶ異なる。

もとを正せば「個性化の過程(process of individuation)」という、個人が他の誰でもない「自分自身になっていくこころのプロセス」を指した言葉であった。それがアメリカに渡っていつの頃からか「自己実現(self realization)」という言葉に成り代わり、やがて日本語としても定着したようだ。

これはアメリカン・ドリームというような直線的な成功主義とでも言ったらいいようなアメリカらしい語彙の変質と思える。先にも述べたように原初的な意味での「自己、実現」とは、意識的な努力によって富や名声を勝ち取るといったたぐいのものとは一線を画する概念である。

元にかえって個性化の過程といった場合、それは本当の意味での「個性」を確立するために、危険を顧みないでこころの深層に向かって掘り進んでいく、という極めて内的な修養的活動を意味する。

これは生を充実させることで死を豊かにしようとする、宗教行為の原型にも通じるものである。さらに言えばこころの奥底から湧出する純度の高い生命の要求に従って自分自身になっていく、「人格の変容と成長の途上」に重きを置く厳粛な態度とも言える。

ここで留意すべき点は個人が人格の変容と成長に向かって行くこころの動きは、必ずしも現状の社会に認知されるような普遍的価値観に則しているとは限らない、ということである。というよりは、むしろ一般に共有される成功の概念や社会的価値観に離反する形で「個性化」は現れることの方がずっと多いように思う。

現代的には「不登校」などがその典型ともいえそうだが、またこれを安易な見立てで「不登校=個性化」とみなして、無条件に「よしよし、」と容認するような態度は戒めるできである

多くの場合、個性化には長い道のりと独特の苦痛を伴う。子供が真の個性化の道を歩むには当然のことながら周囲の関係者(多くは保護者や養育者といった親族や教師、あるいは級友など)を巻き込みつつ、その葛藤を共有する人たちの惜しみない共感と協力が不可欠だからである。

少し脱線したが、よく考えれば現世で財を成すことや社会的な成功を収めるという行為はそもそもが他人の作った価値観に依拠するものである。生まれてきた子供が「俺は大臣になるぞ」とか「他を押しのけてでも成功するのだ」などとは言わないもので、野口整体でいうところの「裡の要求」に即した子供の生活というのは極めて恬澹としたものである。大人はこうした子供の在り様から学べることは多い。

人間といえど一生物である以上、本源的には「ただ生きる」という要求が在るのみなのである。それも分解すると種族保存の要求と自己保存の要求にわけられるが、要約すればそれは子孫を創造することと、そのために毎日食べていくことになる。

さまざまな欲求をずっと根本まで遡っていくと、究極的には花と団子しかないのが人間なのである。

そこに個人的な(個体独自の)感受性傾向というものが反映されて、まさしく独自の人生が展開されていくことが「自然な」生の営みではないだろうか。

ところが実際問題人として生きていくためには、個人的な感受性や欲求に基づいた生き方「だけ」を前面に押し出していく訳にもいかず、必ず外界(当世の価値観や宗教的な教義、政治思想など)との親和性を要求される。そうして当人は自身の内的な欲求と外的価値観の狭間で呻吟しながら生きることを強いられるのが常である。

そこで自分の裡から湧き上がってくる情動とすっぱり縁を切って(そのようなことはできないのだが、そのような「つもり」で)、外界適応に徹して生きる道を選べば一面的には安定を実感することだでき、まっとうに生きることができるかのようにも思われる。

しかしながら生きた人間というのは科学者が論じる非人間的な人間とは異なるものである。実際は感情をはじめ多様なこころをもった生体であるために、外界適応に徹し過ぎたあまり、意識との連絡を絶たれたことで積りに積もった「裡なる声」の反逆ともいえるような(ある意味で治癒的なはたらきとも考えられる)症状が現れることがある。

ノイローゼなどはこうした内的な無声の声が自我を圧迫して起こる、非自覚的な葛藤状態といってよいように思う。

いわば自己実現がはじまる一歩手前で逡巡している「待ち」の時期であり、自身の無意識の活動に畏れ、足踏みしているような体勢ともとれる。

俗にいう「生みの苦しみ」などという言葉もこのようなこころの性質に照らし合わせて考えると、そのメカニズムとの整合性と相まって味わい深く理解されるのではないだろうか。

少し長くなったが以上の内容をもってしても、世間で期待されるほどに自己実現が全面的に「善い」ものではないことが想像できるのではないだろうか。

もちろん巨視的には善としての顔も持ち合わせてはいるだろうが、その実体は善悪を超越した破壊的創造性を発現するダイナミックな精神活動であることを心に留め置く必要はあるだろう。

さもなくば無意識の強大な力を前にした途端、急激に自我の安定性が脅かされて精神疾患の様相を呈するやもしれないし、あるいはそうした危険性をそれこそ無意識的に避けようとした結果、意識の枠内で浅薄な理想主義や成功哲学をあれこれ論じるだけの「自己実現ごっこ」に興じて終わる例も少なくはないのである。

後者の場合は比較的安全な自我の防衛手段ともいえそうだが、このようなものが真の自己啓発や心理療法としてひろく世間に認知されることは、現在苦悩の淵にある多くのクライエントの可能性を摩滅させることになりかねず、大変に惜しいことである(かといって、あまり「本モノ」が流布するのも問題かもしれないが)。

ホームページには上に書いた内容も踏まえつつ、もう少し射程を広げて書こうと模索している。自分の体験や臨床経験も織り交ぜて書くことになると思うので、少々客観性や信憑性は犠牲になるかもしれないが、人間のこころの成長モデルについて少し踏み込んだ内容にできたら面白いと思っている。

私と“それ”

久しぶりに河合隼雄の『こころの読書教室』を読み返した。

本を読むと「こころ」にとってこんなにいいことがある、だから是非みなさん、もっと本を読んでくださいという本である。

この前書いたファンタジーが生まれるためにはどうのこうの…というのはどうもここに元ネタがあったような気がする。

全体で四部から構成されている本書の第一部が「私と“それ”」という見出しから始まるのだ。

“それ”というのはフロイトが用いた無意識を指す言葉「es」に相当するもので、日本語に訳すと文字通り「それ」に該当するそうだ。

私たちが普段的に「わたし、わたし…」と言っているとき、それはこころの全体の中のごく一部分である「自我(ego)」のことを表している場合が多い。

その自我の領域内から承認を得られず排斥されたこころの働き(受け入れがたい感情など)が“それ”の中にはたくさん貯蔵されているという考え方をまずフロイトが打ち出した。

いわゆるノイローゼ、というのは普段固く閉ざされているはずの“それ”(無意識)の扉がふいに開いてしまい、自我の安定性がおびやかされている状態だと考えられている。

こうなってしまうと本人も日常生活がままならなくなるし、周囲もその病状に巻き込まれて様々な苦労を強いられることが多い。

そうなると当然本人も周囲も、「こころの病気だから一日も早く元の安定した状態へ治したい」と考えやすい。

ところがユング派に至ってから無意識に対する見方が変わってきて、むしろこの状態こそがこころに具わっている補償的な動きではないかと考えるようになった。

つまりこのような煩悶自体が何らかの「治癒」的な働きであると仮定し、「早く治そう」とは考えずに、むしろいかにこの時期を「創造的に」過ごすかということに注力するのである。

ノイローゼや鬱と言われる状態はときに命を脅かすこともある。これらの病症だけにフォーカスすると、こころの中の無意識という領域は何を引き起こすかわからない恐ろしいブラックボックスにしか見えない。

しかしながらそこをもう少し視野を広げて巨視的に見ていくと、こうした煩悶の時期をじっくり経過したことで非常に安定的且つ個性的な人格を形成していくケースが少なくないのである。言ってみれば、無意識はその人の人生全体においては想定外の実りをもたらすトレジャーボックスにも成り得るのである。

この場合、何が良いか悪いかというのは見る人の主観にゆだねられると思っていいだろう。古くから「万事塞翁が馬」などというように、一見して不幸にしか見えないような体験でも、それを中長期的にじーっと見ていく習慣が身に付くと、思わぬ「好転」につながっていくような事象は少なくないのである。そう考えてみると、どのような事でもうかつに幸・不幸などと断定的な物言いはしずらくなるものである。

何にせよ、こころの深奥には我々の意識でははかり知れない「何らかの創造性」が内包されているいう仮説はそうそう否定はできないだろう。

「病の創造性」ともいわれるこうした側面はもとを辿ればアンリ・エレンベルガーという一人の精神科医による着想まで遡るの。個人の病症体験に「ある種」の有益性を見い出そうとするこのような見方は実は整体法(野口整体)とも親和性が高いのだ。

整体法とは生命に対する絶対的ともとれる信頼から生まれたもので、後天的な訓練によって健康を増進するような類のものではなく、いかにして「いのち」に元から具わる力と可能性を喚起させるかが主眼なのである。

無意識というのは換言すれば身体そのものである。その中でも生命活動の根本を担う中枢神経系(脊椎)を観察することで、“それ”の動きや訴えが如実に現れていることが解る。

野口晴哉先生が「(人間は)背中がオモテである」と言ったのはこのような事情によるもので、整体指導とは言わば“それ”の力を開放するために身体を通じて無意識の訴えを「訊く」のがその本領である。

ついでに言えば「治療」という行為には浅い深いがあると思っている。それらを最終的なところまで煎じ詰めていくと、「私と“それ”」の関係性を如何に調停するか、というのが根源にあるのではないだろうか。

このような回答に至るまでなかなかの時間と体験を有したが、河合さんの本にはずいぶん助けられたように思う。本書の有益性を上げていくときりがなくなりそうだが、そういう訳でやはりみなさんにもお勧めしたい一冊なのだ。

無意識の発見

ひと月ほど前からエレンベルガーの『無意識の発見』を読んでいる。

本の概要を簡単にいえば、心理学及び精神医学の原点を祈祷や祈りといった原初的なシャーマニズムのレベルまでさかのぼり、その実態をあきらかにしようと試みた良書である。

またフロイト以降に排出される個性豊かな治療者たちのパーソナリティや個人的体験を通じて、様々に枝分かれしていった精神医学の各学派を冷静かつ公正な目で人間の心や精神に迫まろうとした大著と言っていいだろう。

そうした古今東西の精神療法がおよぼす身体への影響とその後の人格の変化、さらには人生全般の創造性にまで目を向けて考察していくのだ。

この本を手にして自分の頭に最初に浮かんだ言葉は「ああ、これでやっと〈野口整体〉から離れられる」だった。

わざわざ〈〉カッコ付になっているのは概念としての〈野口整体〉のことを指すためで、無形のものとしての「ソレ」はもはや離れたり辞めたりできるようなものではなく、もはや自分の血肉となって埋め込まれている。

また、「離れる」ということと「辞める」ということまた違う意味である。

これまでは「整体法を主体的に実践する」ということに偏っていたけれども、では一体これがどのようなものなのか、ということをもう少し巨視的な目でその個性や特徴、現代における存在価値等々を客観的に明らかにするためには一旦「離れ」なければならない。

そういう意味で自分と整体との間に距離を作ってくれる本になってくれそうだ。

上下巻合わせて900頁を超えるので、なかなかのボリュームである。

全部読み終わってから感想を、となると中々とんでもないことになりそうなので読みながら「これは」と思うことに出会ったら小出しに所感を述べてみたい。

すでに序章、第一章の段階でいろいろ思うところあるので、近々文章化できるかと思う。

夢の言い分

夢は眠ってから見るものではない、起きている時に見るのが本当の夢である。

出典元は知らないが、どこかでこういうフレーズを聞いたことのある方は多いのではないだろうか。

この場合の「夢」とは目標であったり、人生の抱負のようなものを語っている場合がほとんどである。

たしかに自分で自覚できる「意識」の中で「こうなったらいいだろう」、「これをやるゾ」と思索し、これに沿って行動していくことは一見してやる気や活力のもとになりそうだ。

しかし努力や勤勉がウリの仕事人間のような人が、突如として「うつ」になったり徐々にやる気を失いやがて会社に行けなくなるような場合もある。

このような事例を丁寧に考えると、意思の努力や理性で命令する力というのは期待に反して意外とその限界値は低そうである。

心理学では一様にこころの広大さを説く。その中でも実際に人を動かしていく「意欲」のようなエネルギーは「眠る」ことによって無意識から意識の方へと充填されていくと現代では考えられている。

つまり本当の意味で自分に活力をもたらし、現実化しやすいのはやはり眠っているときに見ている夢(無意識のヴィジョン)の方だと思われる。

整体法では起きているときに思い浮かんだことをどしどし行動していけば、眠ってから夢など見ないのだと説いているが、何かと制約の多い現代社会においてその様な生活を実現することはなかなか困難である。

現実的にはやはり睡眠時に見る夢(覚醒時に覚えているその断片)から自分の要求や願望をうかがうように洞察し、その時のヴィジョンやそこから湧き上がる心のエネルギーを微量に生活の中に融け込ましていく方がより自然で賢明な態度ではないだろうか。

昨年くらいからこんな風に「夢」に関心を持ち始めたせいか、臨床の場でクライエントさんが夢について話してくださる機会が増えてきた。

中には「夢占い」などで事前に情報収集をしてからカウンセリングにのぞまれる方もいらっしゃるくらい、ツボにはまると夢の分析はなかなか面白いものである。

「夢分析」は心理療法の分野ですでにその有効性が認めれて久しい。しかし実際の治療に活かすには援助者(カウンセラー)の力量はもちろん、クライエントの「洞察」の態度がミソだろうと思う。

「夢を分析する」といった場合に、「今朝見た夢は‥」などとあれこれ思案して「意識的に」探っていくよりも、覚醒時にあえて半睡状態のような「ぼんやり意識」を再現して、夢の続きを見るような態度になってみた方がむしろ心のエネルギーの対流がはかどるようである。

インターネットの夢占いや、夢に現れた事物が象徴するもの‥、といった情報もわりに有益なのだが、これらをさらに有効活用するには上に書いたような「夢うつつ」な心もちになって、「〈わたし〉は『私』に何を訴えたがっているのか‥」に傾聴するとよいと思う。

夢の中には昼間の覚醒時に意識によって切り捨てられた思念や様々なヴィジョンが浮かび上がり、自我意識の強固な外壁によって隔絶された『私』の偏りを取り除こうとする。

これにより幼児のような円満で自然のこころへと回帰させようとはたらきかけてくるのである。

つまり『私』にもっとも適したカウンセラーは「夢」として現れてくる〈わたし〉自身なのだ。

このように夢によって行われるこころの自然治癒はときにはやさしく、ときには戦慄をともなってなされるので、その迫力に『私』はときどきびっくりされられる。

しかしその(夢の)言い分をじっと聞いてやると、そういう戦慄を生んだ原因も過去の自分の体験や行動に起因することに気づかされることもある。

雨降って地固まるという古語が示すように、つよい動揺をともなう「気づき」を通過すると、やがて心の対流の波は静まり落ち着きへと向かう。

そしてこの落ち着きが安定し、安定が固定となりってやがて鈍りへと移行する頃にまたこころの内面や外界への適応がむずかしくなってくる。

するとまた夢は自我の再適応を図ろうとして、睡眠時のような意識の活動水準が下がったところを見計らい『私』に語りかけてくるだろう。

このような破壊と再生の繰り返しが滞りなく、円滑に行なわれていればその人は健康、と言えるのかもしれない。

夢はあなたの中にいるよく知らない〈あなた〉との貴重な通信手段なのである。

そして夢から覚めたときのあなたは時々その内容にびっくりして思わず着信拒否したくなるかもしれない。

しかし夢におどろいたいうことは、それだけ現在の生活様式とこころの深層が求めている生き方との間にギャップがあることを物語っている。

そのような場合、もしも余裕があればばそのままもう一度ぼんやりと「夢うつつ」になって、その訴えにじっと耳を傾けてみてはどうだろうか。

うまくいけば、現実の行き詰まりや意識の閉塞感を拓くためのヒントを夢のメッセージから汲み取ることができるかもしれない。

それでも「努力」は必要か

「子どもの集中力が続かない」

「ものごとが継続できない」

「〈努力する〉というのは不自然なことでしょうか」

先週はなぜか努力というテーマでよく質問をいただいた気がする。

わたしがさも努力家に見えるのか、それとも努力もせずにぼーっと生きているように見えるのかはわからないけれども、職業がら何か面白い答えを言ってくれそうな気がするのかもしれない。

しかしあらためて考えると、みなさん「努力」は好きだろうか。

公の場でうっかり「わたしは努力は嫌いです」などと言えば、ヘタをすると怠け者のレッテルを張られかねない。

しかし一人きりになったとき、自分自身に「本当に努力は好きか?」と正直に問うたら、「できればそんなことはしたくない」という声をまったく無視することなどできないのではないだろうか。

それ以前に、そもそも「努力」とは一体どんな行為をさすのだろうか。

一般的には目標に向かって、心身の力を奮い努めることが「努力」の意味だろう。

ただし日常生活でこの言葉が使われる場合、「嫌なことでも無理をして」とか、「少々体をこわしても、精神的に辛くとも、目標に向かってひたすら努めていく」ような態度が求められることもある。

果たしてこのような態度で、本当に人間の力が最大限に奮えるのかどうかは怪しいものである。

孔子の言葉に「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず」というのがあるが、これなどすでに「面白がってやっている者にはかなわない」と言っているのである。

つまり「興味」と「関心」、そしてこれらに裏付けられた「意欲」というものが人間の行動の元、真の原動力なのだ。

これに則して動いている場合、ハタから見てとてつもない「努力」をしているような者でも、本人からすれば欲も得もなくただ夢中になって取り組んでいるだけなのである。

またこんなとき、怪我をしたり病気をしたりというようなことはほぼない。

ところが世間で「努力」といった時には、子どもが友達と遊びたい欲求を「意識的に」抑えて、家にこもり机に向かって勉強をしているような場合がある。

あるいは少年野球などでコーチや先輩の睨みに抗せず、休みたい要求を押し殺してバットを振りをつづけたり、ノックを受けつづけるようなケースもあるだろう。

いまだにこのような前近代的「努力」がすばらしいと賞賛される向きもあるが、本人がいっさい興味を失っているにもかかわらず外からの圧力でやり続けているとしたら、そこにはすでに葛藤という心の摩擦が生じているのだ。

言うまでもなく摩擦というのはエネルギーを喰うものである。

この様な場合「そこそこの結果」くらいは出せるだろうが、「持てる力を最大限に発揮する」などということは不可能だろう。

もちろん心は物ではないがこれをもう少し「物理的に」考えてみれば、上の例の場合「勉強をしたくない」「練習をやめたい」という心に対し、意思の力によって「それでも勉強をしなければ‥」「練習しないと怒られる‥」などとやっているわけである。

これは自分自身の心の中で真逆のエネルギーがぶつかり、すでに相当なパワーを衝突によってロスしていることになる。

このような葛藤状態に翻弄されつつ、かろうじて行為しているような状態が「努力」だとすれば、その行為者は遅かれ早かれどこかで破綻するのではないだろうか。

「わたしは努力がつづかない」

「努力しているのに報われない」

もしもあなたがこんな境遇に見舞われた場合、まず自分のしている「努力」の中に葛藤による心の摩擦や衝突が生じていないかを点検してみた方がよさそうである。

さらに自分が遮二無二取り組んでいるその行為の背後には、どのような心象風景があるのかを冷静に内省することを勧めたい。

ところで最初の質問に「努力は不自然か」というものがあったが、わたしは少なくとも自然界には努力という態度はないと思っている。

人間でも少なくとも3、4才くらいまでの子どもなら努力などしないだろう。しかし夢中になって行うその「遊び」という行為によって周囲の大人が感動させられることもしばしばである。

そこには先に述べたような葛藤によるエネルギーのロスもなく、また失敗してもそれを失敗と思わずに、次々と最初にあった要求実現に向かって動いていく。

その姿をみると「努力」の是非など考えるのは、まったくもって大人の雑念ではないかと反省させられる。

それならばむしろ動物や子どもたちの素直な心に我が心を照らし、自分の中にある真の要求を見究めることに「努力」した方が、後々になってずっと大きな実りを得られるのではないだろうか。

そうはいっても、自分の心の深層を整理し、明らかにしていくことはなかなか手ごわい仕事である。このような心の仕事に取りかかる場合には、それこそ相当な努力が必要であることを事前に覚悟しておいた方がよいように思われる。

整体の臨床を考える

ここしばらく野口整体とユング心理学の統合を謳っているけれども、改めて何をどうするのか訊かれるとなかなか上手く答えられない。

一つ言えるのは、ユングの提唱した「個性化」ということを整体指導の臨床で実現したいというのは大きなテーマである。

ユングの言う「個性化(individuation)」というのは、俗にいう「個性『的』に生きる」ということとは別物である。その真意は、自分の原初的な〈こころ〉につよい関心を寄せることで「本当の意味で、私らしく生きていこう」という態度なのだ。

整体流にいえば「裡の要求に目覚める」という表現がこれに近いように思われる。これは身体の中心(深層意識)にある純粋な〈思い〉に目を向けることで、自分が芯から望んでいる生き方を真摯に考える、という極めて敬虔な態度なのである。

この両者のプロセスにおいて共通しているのは、いずれも顕在意識の活動水準をひたすら下げていく、ということだ。

これについて野口整体ではよく「ポカンとする」という表現を使うけれども、このポカンというのが顕在意識の活動水準が充分に下がった状態を指しているのである。

現代的にはどうしても「思考力をいかに高めるか」という方に価値が置かれやすいのに対して、敢えてそのウラをかく行き方ともいえるだろう。

深く考えたり内省したりするような「意識的な」活動を積極的に放棄することで、自身の行き詰まりに対する「打開策」や「活路」を見い出そうというのである。

イメージとしてはアニメの一休さんが頓智をはたらかせる際に、坐って目を瞑りポクポク‥チーンとやるのが典型的と言える。いってみれば目覚めた意識の統制下において、大脳の活動を休ませる状態を作り出したい。

そこで鍵となるのが「身体」なのである。

一般的に「意識」とは脳の活動状態のみに従属するものと考えられやすいが、実際は「全身これ意識」といった方が正しい。特に幸福感や心の余裕度といった面においては、もっぱら脳よりも下腹部や腰周辺の「姿勢」や「体勢」といったものが大きく影響するようである。

特に腰椎部(ヘソの裏側あたり)に生理的な正しい湾曲(反り)が現れると、余計な心配事や不安感は消失する。いわゆる「大丈夫」とか「大安心」の境地というのは、下腹部を中心とした「修養」を正しく積むことで得られる「身体能力」と考えていいようである。

換言すれば整体指導というのは個々人においてこの「大丈夫」を顕現するためにある、といっても過言ではない。

それは頭のはたらきを一定に鎮めることで、腹脳と呼ばれる二次的な(より高尚な)意識の覚醒を試みることである。東洋的な身体観において「上虚下実」という状態が好まれるのは、上記のような理由によるものと考えられる。

そしてこれこそが最初に書いた「個性化のプロセス」や「裡の要求に目覚める」ために必要な心身の構えとなっていく。

これに因んで、ユングは自身の精神的危機を乗り越える際にヨーガをやったと言われているけれども、クライエントに対して身体的な「行」を勧めたというような記録は今のところ目にしたことがない。

実際はそういうこともあったかもしれないが、やはり当時の西洋社会においては「身体」の中に精神を開拓できるほどの可能性を見出してはいなかったのではないかと思われる。

その辺りを現代日本人の心と体の教育に適用して成果を上げようというのが、現行の整体指導のねらいなのだ。開業して9年ほど経つけれども、多少なりとも概要がまとまってきた感がある。

一方で、自分の職業の可能性があまり小さくまとまってしまうのもつまらない。だから「整体指導とはこういうもの」という概念の固定化はできるだけ避けるようにも心掛けている。

実際の臨床においては、よくわからないけれども会っている内に「なんとなく」元気になっていく、というようなことは数多く経験するものである。そういう余裕というか含みのある態度は大切に残しておきたい。そのためにも人間的な大きさとか、徳性を養うことはライフワークといえる。

そういえばむかし手相鑑定士に「あなたは哲学や宗教学のような『正解』のない学問をやり続けるのが性に合っている」と言われたことがある。ふと気がつけば大体そんな人生になってきているの気がするのだが、はたして鑑定士の見立てが当たっていたのだろうか。

何にせよ人生の導き手たらんとする者は、自分の人生、つまり「私の道」を日々創造し続けることが一つの責務である。坐禅と活元運動の励行は無意識からのエネルギーの流れを生み出して、自我の再構築を進めてくれる貴重な行法なのだ。

そうやって自身の自由性を充分に発揮していくことが、他者の自由度を拓く力になる。そういう意味で「整体」という生き方は、生の終着地点としての死を最良の状態に仕上げるための指針のようなものである。

ひたすら死に抵抗し続ける「自然科学」に対して、死を積極的に迎え入れることで生を輝かそうとする「宗教」としての位置に、ユング心理学と野口整体は鎮座しているのだ。

あとは洋の東西を越えた視点に立って、「現代」という同次元の中を生きる「人間」に対しどう向き合うか。その術を生み出す過程において、先の両者の思想の統合が非常に有効な手立てになると考えている。

いずれにしても「個人」に真正面から向き合うことは原則である。臨床における術(すべ)に普遍的な方法論はない。

それだけ「生きた個人」ほど解らないものはないのである。人間は策を弄するほど〈いのち〉の原形からは遠ざかる。

この無限の不思議さに有限の生を以て追い続けた先達に範を求め、自分自身のいのちの真相を解き明かすことが自ずと両者の「統合」に至る道ではないかと思っている。

体癖論とタイプ論

野口整体に加えてユング心理学の本も読んでいるので、どうしても体癖論とタイプ論の共通性が気になる。

体癖とは全部で5つある腰の骨に対してそれぞれ、思考(上下型)・感情(左右型)・闘争(捻れ型)・愛憎(開閉型)・理性(前後型)といった気質を適合させ、さらにそれをエネルギーの集中と分散の2つに分けた。

そして5×2で計10種類の体癖素質(その人なりの気質や感受性傾向)に分類される。

これに対してユングのタイプ論ははるかに知名度は高いと思われるが、思考・感情、直観・感覚の4つの機能に対して外向的・内向的の×2であるから合計は8になる。

細かい組み合わせについては割愛するが、一つ一つ当てはめて考えていくと10引く8で結果、体癖のほうが2つが余る。

体癖はその名の通り身体性から出発した分類法なのに対して、タイプ論はユングの臨床経験と自身のヨーガ(瞑想)体験による無意識の探索から紡ぎ出された理論である(ユングはそれほど身体には着目していないと思われる)。

この二つをお互いを組み合わせていくと意外に整合性が取れる面があって興味深い。

しかしユングの場合は思考・感情、直観・感覚この4つすべての機能をバランスよく発達させることで人格の円満な成長を推奨するのに対し、野口整体の体癖では特定のものが際立っていてその偏りは生涯変わらないという。

「欠点を克服するよりも長所を伸ばす、そうすることで欠点は気ならなくなる」といった見解である。

どちらも個人の特性を如何に成長させ、どう活かすか、という目標に向かう態度ではあるが、これこそ両氏の「個性」が際立つ結果となっているのは面白い。

また、よく考えてみれば「人格の成長」とひと口に言っても、具体的には一体どのような変化をもって成長と呼ぶべきかはむずかしい問題である。

そこに解答の多様性と人間探求の奥深さが見て取れる。

整体も心理学もゴールや正解のない学問だけに、その答えも個人感受性によって多様性を帯びてくる。いずれにしても自分の資質を見究めることは大切だ。

そこで身体というのが重要な鍵になる。近年「身体性」という言葉が用いられるようになったけれども、野口整体はだいぶ先駆けに位置していたものと思われる。

長くなったが野口整体もユング心理学も本気で勉強しようと思ったらとても50年100年では学びきれないスケールである。それでも自分なりの人間理解を構築していきたいなと思っている。

 

夢分析ー表出化する無意識の動き

妻が面白い夢を見た。

自宅の前の住宅がなくなってサラ地になっている。そこへ私と妻が見に行くと黒い岩のような塊が二つ、地面から顔を出していた。邪魔なので掘り返そうかと思ったが、想定したよりも土中の体積が大きいようである。私がその場ですぐに掘り返すのはあきらめ「これはほうっておいて、またいずれやろう」といって引き返し、妻もそれに従がう。

内容は以上である。妻の夢はいつも抽象性と複雑性に富んでいるのだが、これは比較的解釈をつけやすいのではないだろうか。

というのも最近は私がもっぱら無意識とか個性化の話ばかりをしていたことが遠因と思われる。つまりこの黒い二つの岩というのは顕在意識に表出し始めた私たちの二人の無意識のようである。

しかし無意識が意識の領域に登ってきたからといって、「意識的」にそのすべてを顕在意識の俎上に上げられるかといったら、それは不可能である。

無意識と顕在意識の交流が活発になるということは、取りも直さず心理的な「治癒」を意味している。

しかし無意識というのは劇薬なのだ。無意識の力に急激に飲み込まれると、治癒どころか社会生活そのものが一時的におぼつかなくなる。

だから夢の中の「私」は土中の岩を掘り起こさずに、「自然に任せる」ことにしたのだと思われる。

この夢のように無意識像が黒い大きな岩のような塊として現れる例を、過去にクライエントから何度か聞かされたことがある。

また今回の例のように、その大岩は夢の中でも「これ」といった仕事や役割を果たすわけではないし、さして邪魔にもならないということがほとんどである。

一方で夢を見ている当人に理由のない安堵感をもたらしたり、何か「意味ありげ」な中心的存在として登場することが共通している。

こういう夢を見た(覚えている)からどうなのかと問われると答えに窮するが、自身の心の成長プロセス(個性化の過程)を客観的に査定する結果にはなりそうである。

何にせよ意識的には活性化する無意識の動きを邪魔しないで、むしろ保護するような立ち位置で「見ている」他はないのが常である。

経験上、中年期というのは顕在意識と無意識の力がちょうど均衡した後、入れ替わるときだと思っている。この時期に体から余分な力みを抜けば抜くほど、心のエネルギーの流れはスムーズになるから、より体を整えることが要となるのだ。

野口整体流にいえば「ポカンとする」という一言につきるが、日に一度は全身をゆるめて意識の統制力を弱めてやることが、自分なりの人生を豊かに創造していくための要訣である。

このときに土中から顔を出した無意識が示唆的にはたらく。もちろん何か目に見える「はたらき」をするわけではないが、生命の進むべき方向を暗に示して、気がつけば自分の歩んだ後ろにいかにも自分らしい道が出来ているものである。

そこで夢の中の「私」のように「そのうちなんとかなるだろう」と成り行き任せでいられるかが鍵だ。禅の方では「任運自在」という言葉があるが、運を味方につけるために努力は無用なのである。

もちろん努力そのものはしても構わないが、努力「だけ」で人生が構築されていると思っているとしたらそれは視野狭窄である。

大抵は意識できる思考の部分だけを指して、「これが自分だ」と思っているが本当は顕在化していない広大で漠とした心の領域に主体はある。

おそらく昔の人はこういう「サムシング・グレート」のような存在に手を着けることは「祟り・障り」の元であると考えて、「それ」から一定の距離を保って畏れ敬う態度を心得ていたものと思われる。

実際は「そのようなことはすっかり忘れて」目の前のことに努めるのが賢明である。「人事を尽くして天命を待つ」とはこのことで、「精神的なこと」に取り組もうとしてそちらに偏るとかえって精神性は堕ちる。

具体的に言えば、神社に行って合格祈願や商売繁盛を祈願する暇があったら、その時間を受験勉強や仕事に精進した方がずっと効果的に運を引き寄せられるのである。

話が飛躍したが、元来何もしなくても無意識はその生活に反映されていくものである。我々にできることは、「それ」が見えやすいように時折り意識の波を鎮めて心の中にサラ地を作り出すことぐらいだろうか。

私の中にいる私ならざる〈わたし〉が一体どのように生きようとしているのか、これを〈わたし自身〉に頭を垂れて問いつづける態度のことを私は「敬虔」、と呼んでいる。

そういう意味からも、夢は私が〈わたし〉へと通じる、貴重な連絡経路なのである。夢を軽視することなく、その訴えのもとに照準を絞って傾聴してみると意外な声を拾い出して、その内容にしばしば驚かされる。

人生最大のミステリーは〈自分〉なのである。決して全てを見せない土の下に一体全体何があるのか、それを見究めるために今日のいのちがあるのだ。

そのためには、ただ一つ一つ行動していくだけでいい。見えないものが一つ一つ現象化していくその全てにドラマがあり、一寸先は闇もまた楽しみである。

夢は時折りその先の光を垣間見せてくれる、案内人のような役割を果たすものなのだ。

メンタルは弱めでいい

何ごともメンタルは強いに越したことはない。

こういう考え方が一般的だが、いろいろな人にお会いしてみるとメンタルが弱い(と思っている)人の方が身体は健全だ。

健全だ、というのは病気をしないという意味ではなくて、身体感覚が正常にはたいている、ということである。

逆にいうとメンタルが強い、とか精神が不安定になりにくいタイプの人というのは大きく二通りに分かれる。

自分の心の全体性をしっかり把握したうえで安定している人と、心の大部分が蓋をされたように閉じられており、狭い自我意識の世界だけが固定的になっている人である。

やっかいなのは後者のタイプで、自分の病的な部分に光があたりにくいので心身症的に体の不調だけは訴えるが、メンタルが「強い」ために深層の問題が明るみに出にくいのだ。

心理カウンセリングや整体指導を受けるとこうした「仮」の安定性はやぶられ、文字通り不安になる。あるいは出どころのわからない不快情動に自我が脅かされ、メンタルの弱さを感じはじめるようになる。

こうなると、心の「治癒」がはじまった、とみていい。

心でも体でも異常を異常と感じれば治るのだ。

このとき当然「苦痛」を伴うのだが、擦り傷でも心の傷でも本当に治るときというのは痛みや苦しさを伴うものである。

メンタルが弱い、と思っている人はこうした心の治癒と自我の再構築が常に行われている場合が多く、不安にさいなまれて心がぐらぐらと揺れているのは生命の平衡要求の現れだと言っていいだろう。

だからメンタルの弱い人というのは、当人的にはつらいが客観的にそのメカニズムを解読してみれば、ある種の健全さが理解されるはずだ。

しかし「弱いことがだめだ」と思ってそれを隠したり強くなろうと足搔いているうちは、その健全な面が死角になりやすい。

忘れてはならないのは病気を治すことや心の欠陥を補償するためにあくせくしすぎて、自分の立ち位置を忘れてしまわないことである。大事なことは「将来に向けて治す」ことではなく「今日をしっかり生きていく」ことなのだ。

自分の欠点や弱さを認め、弱いまま平気で生きられるようなったらそれこそが本当の「強さ」ではないだろうか。

自己実現までの距離

「自己実現」は心理治療を行なう上で最も重要なタームである。

自己実現(self realization)の原型は個性化(individuation)という、クライエント自身が本来の自分らしさを求めて変容成長していく動きのことだ。

言いかえるならその人に内在する、生命が要求実現に向かう心のダイナミズムのこといっている。

〈私〉が〈わたし自身〉になる、ということから目を背けたままで「治療」を完成させるのは片手落ちだし、それ以上に不可能なのだ。

「個性化」という言葉を精神療法の中心に打ち出したのはユングだが、それがいつのまにか彼の手を離れていって「自己実現」に表現がすり替わり、その後だんだんと時間の経過とともに意味内容まで変化していった。

もともとの「個性化」は、一切の社会的価値観や道義的制約から離れた「本来の自分らしさ」へと向かう無目的な動きである。

それが徐々に一般社会の需要に引きずられるように「富と幸福」の追求みたいなステレオタイプの成功学に堕ちてしまった。

さらに巷ではそのような「自己実現」の歳末大安売りが跋扈して、一日30分の瞑想で「自己が目覚め」たり、三泊四日の集中セミナーで「本当の私に出会え」たりするから、これらに引っかかって余計な浪費と引き換えに「道草」を食う人もあとをたたない。

もっともこういう道草すらも中・長期的、大局的視点に立てばその人也の個性化へつづく布石だったりもするのだけどね‥。

しかし実際問題、真の「自己実現」はそこらで販売しているようなものではないのである(もちろん価格の大小も関係なく)。

本来はたった一人になって、自問自答する「自分」すらもそこから締め出して、無意識の活性化をじっと待つことなのだ。

知ってる人はわかってるけど、これはけっこうしんどい。

いわゆる「瞑想」の必要もここにあって、これも現代的には猫も杓子も瞑想ブームで、質の高低において雲泥の差があるということも知らない人が多いのではないだろうか。

ひとつのキーワード、というか「鍵」となるのは「身体」だ。

これを有効に使う方法から着手することが近道なんだな、本当は。

何をモデルにするかで得られる結果も変わるけれども、そこは個人の勘と好み次第だ。

何が言いたいのかというと、昨今、「自己実現」が日常から遠く離れたお月様の世界にあると歌って、地球人を謎のツアーに連れて行こうとする人たちが多いのが気になったのだ。

数多あるガイドラインから何を選び、そして誰を信じて行動するかはその人の質によるのだが、いつだっていまここで生命の光が身体上に現れるようにすれば万事おーけーなのだ。

身体から遊離した、あるいは身体を誤用・悪用する精神論ほど恐ろしいものはない。

100年経っても1000経っても、「整、体」の価値は失われない。真理というものは、一切の時間的・空間的制約から解放されているから真理と呼ばれるのだ。

身体上に自然の秩序を顕すことが、自己実現の必要条件であってそれ以外の何ものでもない。実は今ここで、しっかり自己実現している。