「子どもの集中力が続かない」
「ものごとが継続できない」
「〈努力する〉というのは不自然なことでしょうか」
先週はなぜか努力というテーマでよく質問をいただいた気がする。
わたしがさも努力家に見えるのか、それとも努力もせずにぼーっと生きているように見えるのかはわからないけれども、職業がら何か面白い答えを言ってくれそうな気がするのかもしれない。
しかしあらためて考えると、みなさん「努力」は好きだろうか。
公の場でうっかり「わたしは努力は嫌いです」などと言えば、ヘタをすると怠け者のレッテルを張られかねない。
しかし一人きりになったとき、自分自身に「本当に努力は好きか?」と正直に問うたら、「できればそんなことはしたくない」という声をまったく無視することなどできないのではないだろうか。
それ以前に、そもそも「努力」とは一体どんな行為をさすのだろうか。
一般的には目標に向かって、心身の力を奮い努めることが「努力」の意味だろう。
ただし日常生活でこの言葉が使われる場合、「嫌なことでも無理をして」とか、「少々体をこわしても、精神的に辛くとも、目標に向かってひたすら努めていく」ような態度が求められることもある。
果たしてこのような態度で、本当に人間の力が最大限に奮えるのかどうかは怪しいものである。
孔子の言葉に「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず」というのがあるが、これなどすでに「面白がってやっている者にはかなわない」と言っているのである。
つまり「興味」と「関心」、そしてこれらに裏付けられた「意欲」というものが人間の行動の元、真の原動力なのだ。
これに則して動いている場合、ハタから見てとてつもない「努力」をしているような者でも、本人からすれば欲も得もなくただ夢中になって取り組んでいるだけなのである。
またこんなとき、怪我をしたり病気をしたりというようなことはほぼない。
ところが世間で「努力」といった時には、子どもが友達と遊びたい欲求を「意識的に」抑えて、家にこもり机に向かって勉強をしているような場合がある。
あるいは少年野球などでコーチや先輩の睨みに抗せず、休みたい要求を押し殺してバットを振りをつづけたり、ノックを受けつづけるようなケースもあるだろう。
いまだにこのような前近代的「努力」がすばらしいと賞賛される向きもあるが、本人がいっさい興味を失っているにもかかわらず外からの圧力でやり続けているとしたら、そこにはすでに葛藤という心の摩擦が生じているのだ。
言うまでもなく摩擦というのはエネルギーを喰うものである。
この様な場合「そこそこの結果」くらいは出せるだろうが、「持てる力を最大限に発揮する」などということは不可能だろう。
もちろん心は物ではないがこれをもう少し「物理的に」考えてみれば、上の例の場合「勉強をしたくない」「練習をやめたい」という心に対し、意思の力によって「それでも勉強をしなければ‥」「練習しないと怒られる‥」などとやっているわけである。
これは自分自身の心の中で真逆のエネルギーがぶつかり、すでに相当なパワーを衝突によってロスしていることになる。
このような葛藤状態に翻弄されつつ、かろうじて行為しているような状態が「努力」だとすれば、その行為者は遅かれ早かれどこかで破綻するのではないだろうか。
「わたしは努力がつづかない」
「努力しているのに報われない」
もしもあなたがこんな境遇に見舞われた場合、まず自分のしている「努力」の中に葛藤による心の摩擦や衝突が生じていないかを点検してみた方がよさそうである。
さらに自分が遮二無二取り組んでいるその行為の背後には、どのような心象風景があるのかを冷静に内省することを勧めたい。
ところで最初の質問に「努力は不自然か」というものがあったが、わたしは少なくとも自然界には努力という態度はないと思っている。
人間でも少なくとも3、4才くらいまでの子どもなら努力などしないだろう。しかし夢中になって行うその「遊び」という行為によって周囲の大人が感動させられることもしばしばである。
そこには先に述べたような葛藤によるエネルギーのロスもなく、また失敗してもそれを失敗と思わずに、次々と最初にあった要求実現に向かって動いていく。
その姿をみると「努力」の是非など考えるのは、まったくもって大人の雑念ではないかと反省させられる。
それならばむしろ動物や子どもたちの素直な心に我が心を照らし、自分の中にある真の要求を見究めることに「努力」した方が、後々になってずっと大きな実りを得られるのではないだろうか。
そうはいっても、自分の心の深層を整理し、明らかにしていくことはなかなか手ごわい仕事である。このような心の仕事に取りかかる場合には、それこそ相当な努力が必要であることを事前に覚悟しておいた方がよいように思われる。