六角橋の古本屋で『メメント・モリ』という本を見かけた。
メメント・モリとは「死を思え」というラテン語らしい。手に取って見ると藤原新也氏という写真家が青年期に外国を旅して撮りためた中から厳選し、それに言葉を添えた写真集である。
例えば、インドとおぼしき国では犬にかじられる遺体がそのまま写しだされている。ショッキングな内容だが、調べてみたらかなりのロングセラー本らしいではないか。
妻にそのことを話したらそれは思い出の本だという。なんでも最初の彼氏にプレゼントしてもらったらしい。どういういきさつからそうなったのか気になるけど、まあ因縁の本だ。
中でも次の内容は印象的である。
死というものは、なしくずしにヒトに訪れるものではなく、死が訪れたその最後のときの何時かの瞬間を、ヒトは決断し、選びとるのです。だから、
生きているあいだに、あなたが死ぬときのための決断力をやしなっておきなさい。
昔から「息を引き取る」というが、人生の最後の息は「ぁー…」と吸ったあとに小さく「ぅん…」と肚にいきんで死ぬ、というのをどこかで聞いたことがある。
はじめてこれを知ったときは、人間最後の一息は自分で決断するのかと感慨深かった。
よく修行を積んだ禅僧などは、「今日の夕方に死ぬ」とか「明日死ぬ」と宣言し、その言葉通りの時刻になると「じゃあこれにて」とばかりに「ぁー…ぅん!」といって遷化したという記録も複数ある。
これなどは「決断力」をやしなった例といえるかもしれない。
ちなみに仙厓というお坊さんは遷化の折、「死にとうない‥」といったという。迷いも悟りもとおに忘れて、元の木阿弥に戻った素晴らしい最後だと思う。
前置きが伸びたが、野口整体のスローガンは「全生」、すなわち「今に全力発揮」である。
男でも女でも老人も子供も、国籍も人種も政治思想も主義・信条・信仰・善悪そういったものも一切関係ない。どこのどういう人でもみんなみんな元気であらねばならないのだ。
そういうことを理想に掲げているけれども、何故かといえば「人はみな死ぬから」という、最初に死を思う視点に支えられている。
人間死ぬ時に余力を残してはならない。生き物はエネルギーを余したまま死を迎えると余分に苦しむのだという。だから生きている間に意欲を奮い、要求を使い果たそうと、そう諭す。
この本を読んで、メメント・モリという言葉を古代に創作した人も、もしかしたら同じ着想だったのではないかと思った。
たしかに現代社会で生活していると、平素死を思うような局面に出くわすことめったない。
現代人の多くの場合死が遠ざかっている状態が「幸せ」であると思うし、何処かに幸せになる方法があるとわかれば走っていって買い求めるよう群がる。
親はできるだけ死を遠ざけて安心を得る方法を身に付けさせようと教育するし、教育現場でも個人の生き方を掘り下げるような仕組みよりも、もっぱら場当たり的な社会適応に徹した「人間作り」に偏しているようにも見える。
その結果、「社会」への適応を遵守してきた人がある時ふと自分の中に息づく「個人」に目覚めるとき、必ずと言っていいほど何らかの苦しみを覚えるのだ。
その「苦しみ」は幸せではないかもしれないが、生きている喜びと表裏一体でもあるから厄介である。
一人の人間が「その人として」自分を生きようとするとき、そこにはじめて苦渋と歓喜の混在する〈今〉が現れる。
「中年の危機」などは象徴的だが、もっと早い人もいるし、老年になってからはじめて自己の問題に突き当たる人は大勢いる。
中にはお墓に入るまでそういう意味での危機に直面しない人もいるかもしれないが、おそらくは「健康であった」とは言えないだろう。この場合、死の意味は知っていても、「自分のこと」として深く掘り下げられなかったのではないか。
とにかく何を考えようと、人間という個体生命なら百年も経てばみんな時間という波の中に飲み込まれてしまう。それを思えばおのずと今日の身の処し方は定まってくる。自分の感性を拠り所とし、自分で決断実行していくより他はない。
整体を説いてその実践を促すのも、行動の出発点である「感性」の純度を保つためだ。自然の感性に従がう生活によって「生」が整えば、その終着点である「死」が整うのも当然の成り行きである。生と死は一つの現象の二つの側面なのだ。
死について少しでも真面目に考えるなら、生の象徴である身体を先ず整えようと願うのが自然ではないだろうか。整体法が生命に対する礼といわれる所以もその辺りにあるはずだ。