久しぶりに河合隼雄の『こころの読書教室』を読み返した。
本を読むと「こころ」にとってこんなにいいことがある、だから是非みなさん、もっと本を読んでくださいという本である。
この前書いたファンタジーが生まれるためにはどうのこうの…というのはどうもここに元ネタがあったような気がする。
全体で四部から構成されている本書の第一部が「私と“それ”」という見出しから始まるのだ。
“それ”というのはフロイトが用いた無意識を指す言葉「es」に相当するもので、日本語に訳すと文字通り「それ」に該当するそうだ。
私たちが普段的に「わたし、わたし…」と言っているとき、それはこころの全体の中のごく一部分である「自我(ego)」のことを表している場合が多い。
その自我の領域内から承認を得られず排斥されたこころの働き(受け入れがたい感情など)が“それ”の中にはたくさん貯蔵されているという考え方をまずフロイトが打ち出した。
いわゆるノイローゼ、というのは普段固く閉ざされているはずの“それ”(無意識)の扉がふいに開いてしまい、自我の安定性がおびやかされている状態だと考えられている。
こうなってしまうと本人も日常生活がままならなくなるし、周囲もその病状に巻き込まれて様々な苦労を強いられることが多い。
そうなると当然本人も周囲も、「こころの病気だから一日も早く元の安定した状態へ治したい」と考えやすい。
ところがユング派に至ってから無意識に対する見方が変わってきて、むしろこの状態こそがこころに具わっている補償的な動きではないかと考えるようになった。
つまりこのような煩悶自体が何らかの「治癒」的な働きであると仮定し、「早く治そう」とは考えずに、むしろいかにこの時期を「創造的に」過ごすかということに注力するのである。
ノイローゼや鬱と言われる状態はときに命を脅かすこともある。これらの病症だけにフォーカスすると、こころの中の無意識という領域は何を引き起こすかわからない恐ろしいブラックボックスにしか見えない。
しかしながらそこをもう少し視野を広げて巨視的に見ていくと、こうした煩悶の時期をじっくり経過したことで非常に安定的且つ個性的な人格を形成していくケースが少なくないのである。言ってみれば、無意識はその人の人生全体においては想定外の実りをもたらすトレジャーボックスにも成り得るのである。
この場合、何が良いか悪いかというのは見る人の主観にゆだねられると思っていいだろう。古くから「万事塞翁が馬」などというように、一見して不幸にしか見えないような体験でも、それを中長期的にじーっと見ていく習慣が身に付くと、思わぬ「好転」につながっていくような事象は少なくないのである。そう考えてみると、どのような事でもうかつに幸・不幸などと断定的な物言いはしずらくなるものである。
何にせよ、こころの深奥には我々の意識でははかり知れない「何らかの創造性」が内包されているいう仮説はそうそう否定はできないだろう。
「病の創造性」ともいわれるこうした側面はもとを辿ればアンリ・エレンベルガーという一人の精神科医による着想まで遡るの。個人の病症体験に「ある種」の有益性を見い出そうとするこのような見方は実は整体法(野口整体)とも親和性が高いのだ。
整体法とは生命に対する絶対的ともとれる信頼から生まれたもので、後天的な訓練によって健康を増進するような類のものではなく、いかにして「いのち」に元から具わる力と可能性を喚起させるかが主眼なのである。
無意識というのは換言すれば身体そのものである。その中でも生命活動の根本を担う中枢神経系(脊椎)を観察することで、“それ”の動きや訴えが如実に現れていることが解る。
野口晴哉先生が「(人間は)背中がオモテである」と言ったのはこのような事情によるもので、整体指導とは言わば“それ”の力を開放するために身体を通じて無意識の訴えを「訊く」のがその本領である。
ついでに言えば「治療」という行為には浅い深いがあると思っている。それらを最終的なところまで煎じ詰めていくと、「私と“それ”」の関係性を如何に調停するか、というのが根源にあるのではないだろうか。
このような回答に至るまでなかなかの時間と体験を有したが、河合さんの本にはずいぶん助けられたように思う。本書の有益性を上げていくときりがなくなりそうだが、そういう訳でやはりみなさんにもお勧めしたい一冊なのだ。