一つ息に生きている

今日の午後はミツコが姉弟子さんの活元会に出かけたので、太郎丸と留守番になった。ミツコを横浜駅まで見送ったあとそごうに寄った。8階をうろうろしていたらベビー用品売り場を見つけて、タロマルが生まれたばかりの時にここで粉ミルクを買ったのを思い出した。もう1年以上前の話で、乳児期などあっという間に過ぎてしまった。

その当時はいろいろな方から、「今だけよ、今の時期を大切に過してね」というアドバイスをいただいていたのに、「そうなの・・?」と思っていた。のんきにしていたら、ホントに「そう」であった。歳月人を待たずとはよく言ったもので、「今」は獲って置けない。だからいいんだけどね。

気がつくと4月1日に開花した栗田谷の桜も、新緑が芽生えていた。今日は初夏の気配を感じたのだが、二十四節気でいうと昨日から「清明」ということになるそうな。昔の人の身体感覚では一年の中に沢山の季節を体感していたし、またその変化の頭を捉えて、春だ、夏だと感じていたと思うのだ。

かつて野口先生が育てた内弟子の中に、開花直前の梅の蕾を観て「梅が咲きました」と言って卒業を許された方がいたそうである。「見えて」からでは遅いということだろうか。「感じる」ということは認識のうんと手前にある世界で、整体指導ではもっぱらそちらの方に用がある。語録にはこんな言葉がある。

感ずる者の心では、感じない者の見る死んだ石もお月さまとして映る。
太陽も花も自分も、一つ息に生きている。
道ばたの石も匂い、鳥も唱っている。
感ずることによってある世界はいつも活き活き生きている。
見えないものも見える。動けないものも動いている。
そしてみんな元気だ。空には音楽が満ちている。
(『晴風抄』より)

命の世界は感じたことが全てで、考えた時にはもう死んだ物だ。最初から「一つ」であることが判れば、いつも活き活きしている方で生きられる。タロマルを見てると、この世界がどうなっているかがよく解る。この世に一つでないものは無いのだが、人の認識が対立を生む。但しこちらが対立して視ていても、おかまいなしで「一つ」なのが救いだ。これから「なる」のではなく、いつも一つだからそこがいい。寝ぼけていても目覚めていても、みんな〔今〕という同次元の世界に、同じ「一つの息」で生きているではないか。

これでいいのだ。

葉桜2

南泉斬猫にみる「いのちの真相」

南泉斬猫(なんせんざんみょう)
猫でなければ、公平に等分であろうに、猫だったため、猫を失った。死体だけ分けたことになる。
猫だと何故、二つにすると猫が居なくなるのか、分けられないのか。
生命とは何ぞや。
何が猫なるか。
(野口晴哉著 『碧巖ところどころ』 全生社 p.111 )

前項で書いた「分けてしまったら判らないもの」という話は、野口整体の思想の根底を貫く生命線である。この「判らないもの」は漠としているが、〔今〕という次元には必ず在る、〈いのち〉とか「宇宙」とか呼ばれるものがそれにあたる。

上に挙げた引用文は禅の有名な公案からきている。「公案」というのは仏道修行者に対して指導者が与える、答えのない無理難題のことである。理詰めていったら絶対に解答のない「問い」を投げかけ、行住坐臥の修行中にひたすら工夫(考え)させて古今無二の独自の答えを持って来させようとする。これによって修行者の段階や力量を図るのである。

先の引用だけでは内容不充分なので、さらにもう少し本筋を下に引いてみることにする。

南泉和尚は、たまたま東西の禅堂に起居している門人たちが、一匹の猫をめぐってトラブルを起こしているところに出くわされた。彼は直ちにその猫をつまみ上げると、「さあお前たち、何とか言ってみよ。うまく言えたらこの猫を救うことが出来るのだが、それが出来なければ、この猫を斬り捨ててくれようぞ」と言われた。皆は何も言うことが出来なかった。南泉は仕方なく猫を斬り捨ててしまった。晩になって、高弟の趙州が外から道場へ帰ってきたので、南泉はこの出来事を趙州に話された。話を聞くと趙州は、履いていた草履を脱いで自分の頭に載せて部屋を出ていってしまった。南泉は、「お前があの場にいてくれたら、文句なしにあの猫を救うことができたものを」と言われた。(西村恵信訳注 『無門関』 岩波文庫 pp.71-72 ‐十四 南泉斬猫)

これが一通りの内容である。余談だがこの公案を海外(欧米)でそのまま話すと場が凍るのだという。もちろん動物愛護とかそういう観点から見たらこれは大変な話な訳で、それ以前に「仏教の不殺生戒は何処へ行ったか!」と言われそうである。

こんな時「殺すとは何か?」ということまで徹見している和尚でなければ、東洋宗教に目の肥えた外人を相手にお茶を濁して逃げ帰るしかあるまい。もちろんこれは「公案」として、象徴的に読むべきである。

原典には猫トラブルの理由までは書かれていないから詳しい事は判らない。おそらく東西どちらの飼い猫なのかとか、エサやり、糞尿の始末の事とか、いろいろ考えられるがここでは「理由」にさほどの意味はない。それ以前に真理に目覚めて涅槃寂静の生活を営むはずの僧たちが、子猫を間に挟んで寺を二分し争っているのだからこれは問題である。その晩に趙州が草履(サンダル)を頭の上に乗せたのは、本末転倒を暗に指摘し痛罵したとも取れる。

南泉和尚はその争っている渦中にツカツカ出ていって、いきなり「何か(法にかなった一句を)言って見よ」という。当然こちらは「間違いのないモノ」をはっきり掴んでいる。片一方は迷っている。迷っている者はいつでも「自分の」言葉を発せられないように出来ているのだ。そこで南泉は一閃、刀を振るって迷いの元である「猫」を斬ってしまった。その瞬間「猫」と一緒に、イザコザも消えてしまった。折角の公案に蛇足を継ぎ足せば、概ねこういう注釈になるだろうか。

簡単な話だが、もしここに一人出でて、「猫を斬らないでください!」と言えばどうなったか。言葉というものは使いようである。使い方を知らずに発し、知らずに受け取るものは、いつも言葉に迷うから頭の休まる暇がない。追わない、探らない、そのことがその通りに発し、聞こえればいつも自由なのだ。

さて、ここで話を最初の引用の方に戻すと、野口先生は二つに分けたら「猫」が消えたという。物体以前の無形の力としての「生命」を追い続けた師ならではの切り口である。それほど多くは知らないが、この南泉斬猫の公案をこういう読み方をした人はあまりいないのではないだろうか。

それまでは活き活きとピチピチとそこに活動しているそれそのものは確かに「猫」であった。二つになった途端、肉だけが残って活動体としての「猫」は消え失せたのである。それでは猫を「猫」にしていたモノはいったい「何」だったのか。

それが「分けてしまったら判らないもの」の正体である。猫という存在は、生きている「猫」の方にあったのか、それともこちら側の「認識」の方にあったのか。そもそも我を中心に展開するこの名もなきこの一大活動体は、果たして主体と客体、「あちら」と「こちら」に分けることなどできるのか。

分けて知ろうとするのは要素還元主義という科学の芸当だが、そういう我他彼此(ガタピシ)根性を禅は徹底的に嫌う。まさしく、単(ひとつ)を示す、と書いて禅である。我々はいつだって分ける前の〔今〕に用があるのだ。

斯く如くいのちの真相はぶっ通しの〔今〕だけに在る。〔今〕は「今」として認識すると途端に消えてしまう。〔今〕は捕まえてはならない。捕まえればたちまち悟りに迷う。

だから〈いのち〉は確かにここに在って、同時に何処にも無いのである。盤珪禅師はそれを「不生」と言い斬った。〈いのち〉は最初から生きてなどいなかったのである。だからこれから取り立てて死ぬこともない。

〈いのち〉は追うものに非ず、また、眺めるものにも非ず。自分が生きていることを自覚したら、そこに安住することなく直ちに動くことだ。そうすればいつでも我は失われることなく「ここ」にいる。降雪片片、別所に落ちずだ。

公案では、自分で動けなかった者が南泉に「そこ」を斬られた。そして「迷い」と一緒に「猫」を失った。そして失ったと同時に得たものが「いのちの真相」である。

こういうように、一つの事実にはいつも二つの見方が用意されている。「認識」か「実体」か、「知る」ことか「在る」ことか。確かなのはいつも事実の方なのだが、自分が望めば世界を好きなように飾り、色々な世の中を生きることができるのもまた人間の能力の一つであろう。

この能力に縛られるものは生きていても死んでいる。使いこなせば随所に主となることもできる。いつでも〔今〕この瞬間の〈いのち〉に目覚め、この自在性を自分の力としたいものである。

分けてしまったら判らないもの

健康生活の原理と言っても、栄養をどう摂れとか、睡眠は何時間とれとか、ということではありません。体と体の使い方の問題だけであります。体の問題と言っても、胃袋がどうなるとか、肺がどうなるとか、心臓がどう脈をうつとか、というようなことではありません。そういうような医学的な面での体のことは、皆さんの方がよくご存知だと思うからであります。

 私がお話するのは、いままでの学問的な考え方だけでは考えきれない体の問題なのであります。私たちの胸の中に肺臓と心臓があるということはどなたもご存じですが、それを動かしているある働きがあることには気がつかないでいる。例えば、恋愛をすれば食事がおいしくなるし、好きな人に出会えば心臓が高鳴ってくるが、借金をしていると食事もまずいし、顔色も悪くなってくる。このように恋愛とか借金とかいうものによって生じてくるある働きと、肺臓とか心臓とかいうものが関係ないとはいえない。ところが胸の中を解剖してみても、レントゲンでいくら探してみても、そういうものは出てこない。だから人間の生活の中には解剖してしまったら判らない、また胃袋とか心臓とかいうように分けてしまったら判らないものがある。電報一本で、途端に酒の酔いが醒めてしまうこともありますが、どういうわけで醒めるのか判らない。その判らないもののほうが、却って人間が健康に生きて行くということに大きな働きを持っているのです。(野口晴哉著 『健康生活の原理』全生社 pp.3-4)

これは野口先生が最後に出されたご本、『健康生活の原理 活元運動のすすめ』の冒頭です。

かつて心理学者の河合隼雄さんは欧米人に「魂とは何ですか?」と問われた時に、「本来分けられないものを無理やり分けた時に消えてしまうもの」と答えたそうなのだ。ああ、成る程なと思う。そう言う風に、分けてしまったら判らないものが確かに実在して、それが絶えず命を保っている。そしてどんなに発達した治療技術でも、その「ある働き」という大前提の上に成り立っているのだ。具体的に言うと、血が出れば、その血が固まって止血する。その下に皮膚ができると、あとは何もしなくてもぽろぽろ落ちる。また、水をかぶれば、体温が上がる。暑ければ汗が出る。一体「何」がそうしているのか判らないけれども、生命にはそうやって平衡を保つ力が絶えず働いている。そしてこの力は生きている限り働き続けて、また誰にも止められないものだ。

現代の多くの治療法や健康法の中には、この平衡の力を無視したものが含まれている。健康法という言葉の影には「不健康」という健康の失われた状態を匂わせているのだ。ところがよく見ると、その不健康とか病気とか言われる状態の中にもその「ある働き」は厳然として失われていない。野口先生が徹頭徹尾説いたのは、その「ある働き」の自覚と発揚であった。先覚者とは斯くいうものである。時にそれを「気」と言い、またある時は「錐体外路系」とも言い、また「命」と言ったり、「天行健」と言ったりと言葉にして切り出すと、日本語だけでも複数ある。ただそういう言葉で掴まえるずっと以前から、人間もその他の生命もこのある働きに依拠して活動してきた。「不変を以て万変に応ず」という言葉もあるが、物の世界がどんなに移り変わっても、この生命の平衡要求というのは変わらないのだ。

さて、ではこのある働きの自覚と言うにはどうすればいいのか。経験的にこれを人に感得していただくことの難しさを味わってきた。いわゆる多勢に無勢で、健康や病気と言うものに対する情報量が圧倒的に違うのだ。ほとんどのものは外から補ったり、付け足したり、庇ったり、鍛えたりするものばかりで、最初から命に対する不信を育てることに余念がない。スタートにもう「一線」が引かれているものだから、どうしてもその線を跨いで、「現在地から目的地に向かう」という気配が抜けきらないのだ。そういう人は「今」と「健康」の間に必ず距離がある。これが多い。だけれども、一人一人を丁寧に見ると、誰一人そんな風にはなっていない。本人が何をどう考えていようと、生きているものは命を保つ方向だけに働いている。保つということが順に行われれば、やがて自然に死に至るのだ。本来なら「そのまま」とか「あたりまえ」ということには、苦を伴わないものである。

その「あたりまえ」の王様みたいなのは、「生きているものが死ぬ」ということだろう。その生老病死ということが肯えないことから、自然に背こうとし、その背くことが「治療」としてまかり通る。そしてその結果無益な煩労は増すばかりだ。野口整体をやると言った時には、先ず最初にこの着眼を正さなければならないのだ。愉気法、活元運動、整体操法と、形として整体であっても、内容を見るとまったく整体になっていないということが沢山ある。何ごとも「初心」、あるいは「着手」というものは後々の結果を決定づける大切なものである。「自分のいのちは今どうなっているのか?」、この近過ぎて見えない「健康生活の原理」を示すのが、こちらの最初の仕事であると同時に最後の目的とも言える。偏界曽て蔵さず。

2016桜

エリアーデ

夜は禅寺に出かけた。大学生の時に手塚治虫の『ブッダ』を読んで以来、お坊さんオタクを公称している。いつまでたっても凡俗の趣味の域を脱しないのだが。若い時分に最初に通ったのが臨済宗のお寺で、今は曹洞宗の方が縁が深い。

極々個人的偏見だが、臨済系は「喝」のイメージが強い。「白なんだか黒なんだかはっきりせー!」という印象だったが、曹洞宗は「一切追わない」という黙の一字を色濃く感じる。派手さはないが、白でも黒でもない「実体」の方に生身で触れていく禅風が今はしっくりいっている。

野口先生は岩波文庫の『臨済録』を何冊もボロボロになるまで読み倒したという記録が残っている。臨済と言えば、「即今・目前・聴法底(そっこん・もくぜん・ちょうぼうてい)」という風に悟りを表現した。解り易くいうと「いま・わたしが・ここで」という話である。

昨年のことだが、「朝比奈さんは最近何か俗っぽさが消えましたね」と言われたのだが、その時ばかりは「これはマズではないか」と思ったものだ。当り前だが人の生活に「俗」もなければ、「聖」もない。俗がケガレなら聖もケガレである。じゃあその聖・俗の両方が消えたら「空」とか「無」になるんですかと言うと、そんな馬鹿げたことがあるわけない。必ずいつだって「残る」ものがある。それがさっきの「いま・わたしが・ここで」というこの三つで、これは誰もが最初っから与えられている、不滅の三宝である。

野口先生はもう亡くなられているのでいくら気張っても訊けないのだが、おそらくは「禅」も「健」も同一に観ておられたのではないかと思っている。健康と言うのはこれから「なる」ような手続きは一切いらない。いずれも絶対性を帯びたもので、人は死なない限り健康からは生涯逃れられないのだ。ところが一念そこに疑いが起こると、不滅のはずのものが瞬く間に消失してしまう。そして探すのやめるとまた見える。だから何もしない時の「自然の健康」を保持しよう、という結論に帰着されたのではないだろうか。

探すのをやめたとき見つかることはよくある話で、悟っても悟らなくても同じ阿呆ならさっさと踊った方が良いではないか。ということで今日も活元運動をやってみる。失われないものが「今」もちゃんとあるかという点検作業なのである。

PMS(月経前症候群)と骨盤の関係

「PMS」のご相談はよく受けますが、症状を伺うと「イライラする」とか「頭が痛くな」るとか多様すぎて何のことを言っているのかずっとわからなかった。何かわからなくても、女の人はは骨盤の可動性を見て、弾力が戻るように刺激すればやがて体調は良くなる。女性の身体はそういう点で良く出来ていて、頭が痛くてもお腹が痛くても、骨盤の可動性さえ見ていればほとんど治ってしまう。

最近になってようやく「PMSってなに?」ということが気になって定義を調べてみた。そうすると「月経前3~10日の間続く精神的あるいは身体的症状で、月経発来とともに減退ないし消失するもの」ということになっている。(日本産科婦人科学会産婦人科用語集より)

だから文字通り「月経前症候群」、なんですね・・。一般には頭痛だったら内科に行って頭痛薬を出されるし、イライラが激しければ精神科の安定剤ということになってしまう。ただ、薬を飲んでも解決しないから、整体にご相談に見えるのでしょうけど。。

対応としては最初に書いたとおり、生理痛や生理不順のような婦人科系の疾患などもみんな骨盤の弾力と直結しています。とくに両側のヘリの部分(腸骨の上)が硬くなっている。本来なら脇腹と骨盤の間には「溝」があるのですが、ここの間が硬張るとまるで粘土が詰まったように腸骨(骨盤)が動かなくなってしまう。

PMSを訴える方は最初は皆さんそうなっています。この両腸骨の上の部分を整体では「呼吸活点」といって横隔膜の動きをリードする急所と見ています。深い呼吸は自律神経の働きを正常にしますので、生理機能の疾患には一定の高い効果がある。この呼吸活点を跨ってぎゅーっと押さえ、ある所でぽっと離すとさーっとやわらかい息が入って来る。これを何回か繰り返して、あとは家で体操をやってもらうと早い人は3週間くらいで変化を自覚されます。他に自分でケアするなら、やっぱり呼吸活点を蒸しタオルで温めるのが良いですね。

やり方は、まず両手の親指が背中側に来るように自然に腰に手を当てます。そして親指を上から下にすべらせていくと、骨盤の上端で止まります。右と左を触り比べて、より冷たい感じとか、硬い感じのする方に蒸しタオルを当てる(どちらか一方です)。5分位やって皮膚が赤くなっていればOKです。色が変わってなければもう2、3分足してみましょう。朝晩一回ずつ。まずは一ヵ月やってみてください。効果はあると思います。

パソコンが原因の生理不順対策

事務仕事の女性は液晶画面の見過ぎでよく生理不順になられます。特に夕方以降も目に強い光を浴びていると、生理不順や生理痛になり易い。

一般に「生理」のような身体の波は「自律神経」のバランス作用によって整っています。自律神経は朝日を浴びることで交感神経優位になって「起きる」モードとなり、日が落ちる(辺りが暗くなる)ことで副交感神経優位の「寝るモード」になります。現代は夜でも目や身体全体に光を浴びすぎているので、寝つきが悪かったり朝スパッと起きられなかったりしています。

そうかといって、今時パソコンを見ない仕事なんかほとんどありませんね。ということで、当院に通われる方にお教えするやり方をご紹介します。

先ず基本的なところで、「画面を暗くする」ということ。実行している方も多いと思いますが、液晶画面の設定、「明るさの調整」で変えられますね。これを必要最小限にします。

次にf.luxという無料ソフトで対応します。これも今やご存知の方が多いかもしれません。設定方法などは検索するといろいろ出てきますので、サイトを観ながらトライしてみてください。ただしこのソフトをダウンロードしたら「動作がおそくなった」という方が一人いました。そのあたりは自己責任でお願いします。。

最後に、知られているようで意外とみんなやっていない方法が、「表示文字を白くする」。ディスプレイの「個人設定」でハイコントラストを選択すると、黒い画面に白い文字で表示することができます。

これらを上手く活用すると、目の疲労が軽減されて生理不順も改善されることがあります。全部が「無料」かつ、いつでも元に戻せますので、お悩みの方は一度試してみてください。

定休日だったのでミツコと太郎丸と3人で六本木アクシスビルの中にあるサボア・ヴィーブルに行ってきた。知人の個展を観に伺ったのだけど、ふだんは反町・横浜からめったに離れることがないので、完全にお登りさんの心境である。

roppongi

ギャラリー内は質にこだわった作品が整然と並んでいた。芸術作品はどれも一点ものなので、やっぱり普通の「お店」とは気の密度が違う。一点一点が独特の雰囲気を醸し出しているので、良いモノに触れたい方にとっては格別の空間だ。ミツコがいなかったらおそらく自分には縁のない世界だろうけど。

仕事の面から言うと、業種を問わず質の高いものに触れることはいい刺激になる。悪くすると独善に陥りやすい立場なので、今日のような体験は有り難い時間なのだ。野口先生がカザルスのチェロを聞いて自分の仕事の質を点検したという話が有名だが、これは同等の感性があって成立する話だろう。

余談になるが、職能的な「知識」とか「技術」というものは後天的に補えても、「質」というのは天分かも知れないなと思うことがある。瓦をいくら磨いたって鏡にはならないし、ガラスにダイヤモンドの変わりは務まらない。ただダイヤにはダイヤの稀少性があって、ガラスにはガラスの有用性があるのだ。素質自体には本来優劣はないわけで、どんなものであっても磨けば磨いたなりの姿にはなる。

8尺ほどの布に描かれた人物画を前に、自分の仕事の本分についてポツネンと考えていた。ミツコは作家さん(知人)の大ファンだという女性客に熱心に話しかけられて、ゆっくり作品を観るどころではなかった。太郎丸は背中で熟睡していた。

生理周期と月齢(満月・新月)の関連性について

昨日は愉気法講習会だったのですが、いつものお茶室が借りられず6畳のせい氣院の指導室で行いました。参加者5名で、かるくスシ詰め状態・・。

教室で実習しながら思ったのですが、愉気に関してはプロもアマチュアも関係ないなーということ。(むしろプロの方がちょっと荒かったりするのです・・)とにかく「相手の命を大事に、丁寧にやる」ということが大切。ぴた!と手が当てられればお互いが感応して、お腹からぐ~・・って音が聞こえてきます。ゆるむと副交感神経優位となり、消化器は活発になるのだ。
愉気の本質は集中力であるとつくづく感じる今日この頃。次回の教室は24日です。

さて今日は生理周期にまつわる話です。
昨年のことですが、生理周期が3週(21日)という方が2名ほどいらしてました。

そのうちの一人は、同僚の子が生理周期が3週間だったそうで、気が付いたら自分の生理周期がその子に同調してしまったそうです。人の身体はこんな風にお互いに影響しあうんですね。

ここまで極端でなくても、現代は生理周期が短いという方が少なくない。
流れとしては周期は段々短くなってきているのが事実、のようで、大正時代は32日、そして戦時中は30日、と段々短くなってきた経緯があって現代は28日、26日位が多いそうです。

満月とか新月とかに月経や排卵が重なる人がいますが、現実的に月の運行との関連性があるのかどうか?、は今まで僕が身体を観てきた限りでは不明です。(満月に月経、新月に排卵という方が多いそうなのですけどね・・)

生理周期が短いと何かいけないの??と思われる方もいるかもしれませんが、、、
具体的には何も支障がないようにも見えますけど、整体指導を受けて本来の女性らしさが表れてくると生理周期は月齢と同じ28日になるんです。

ですから、やはり生理は身体が整体であるということの一つの目安にはなります。
そして生理不順や、周期が短い人は目を酷使していることが多いです。(それ以外にもいろいろ原因はありますが・・)

とはいっても、パソコンもスマホも使わない生活というのは現実味がないですし、そういう今の生活環境のままでも身体の機能を正常に保てるようでなければ役に立ちません。

野口整体であれば活元運動を定期的に行うことです。これが身体の自然を発揮する一番の近道ですから。活元運動が学べない方は、夜寝るときに子宮や卵巣に手を当てていると3ヶ月から半年位で生理痛や生理不順が安定します。
これはとってもカンタン。^^寝る前に下腹部に手を当てるだけですからね。
気になった方はお試しください。

今日はあっさりめな終わり方ですが、こんなところで。
でわまた。

お家にいながら自分でひどい生理痛を和らげるには・・

今日はお家にいながらひどい生理痛を和らげる、
という話です。

いつもながらこの話をするときって、
「男なのにこんな話してもな・・」って思うんですけど、事実、整体指導を一定期間うけていると生理痛は和らぎます。
なぜか、って説明を求められるとわからないんですけど・・。とにかくそうなんです。とにかくそうなんです!!(・_・)ウン!

なんででしょうね?

で、
生理痛、
これもですね、
ひとりひとり違いますよね。原因は・・・。
ですが、共通項みたいのはあるんです。
たとえば、携帯電話。 (^^*)ニン!

これを通勤の間中ずーーっと見ている、なんていう人には生理痛がツラい人が多い。

「眼精疲労」の系統ですね。

そこで、お家で生理痛を和らげるには、
お腹をカイロで温めるという人はわりといらっしゃいますね。
これはたしかに有効です。

で、意外と効果的なのに知られていないのは・・・

「鼻を温める」

・・・です。 (^^*)ニン!

鼻は子宮とつながりが深いですからね。
ここを生理の二日目に蒸しタオルで温めると、骨盤の開きがさーっとよくなります。
なにより、やってみると気持ちいいです。^^
ぜひ今度試してみてくださいね。

今日はあっさりめに。
でわまたー。

野口整体 『風邪の効用』

今ちょっとだけ風邪が流行ってるみたいです。横浜は二日前からの冷え込みで、反応のいい人はさっさと熱を出したりしてるんですね。(・_・)イイネそして今日はまた少し暖かい。こういうのが意外と身体にこたえるので調整を測るための変動を起こします。今日は野口整体のおハコ、 『風邪の効用』の話です。^^

今頃の風邪はまさしく春の風邪。捻じれの風邪です。(・_・)ギュンギュン!この三寒四温の季節に冷えることで腰の捻じれを起こして、泌尿器系統と喉に影響が行きます。おしっこが近くなるのもみんな冷えた影響によるものです。あなたのまわりに喉を腫らしている人がいませんか?^^こういう時は内側のくるぶしを温めるのも有効ですが、捻じれを調整するともっと経過が早くなります。正座をして自分の背骨を見るように左右に身体を捻じってみます。そして右か左か、やりにくい方を2、3回くっ!くっ!と捻じっておくと身体が適切な刺激に反応して翌日には経過する・・かも。^^もし近くに喉がイタイー(><;)っていう人がいたらこのブログを教えてあげてくださいね^^でわ