裡の自律性 躾は必要か

以下は、昨日の活元会で使用した資料です。

躾は必要か

この間広島へ講習に行った時、その講習中に若い人達の座談会が行われた。その座談会の録音テープを昨日聞いてみたら、共通してみんなの心配していることは、人間を自由に放り出しておいたら始末におえないものになってしまうのではなかろうか、人間にはどうしても躾ということが必要なのではなかろうか、第一、食事でも自分の食べたい時に食べるようにしたら家中バラバラになって困る、みんながやりたいことをやり出したら統制がとれなくなって困るだろうというようなことから、子供を叱らなかったら悪いところだけ伸びてゆくというような心配まで出ていた。出席者の中には学校の先生も大分おられ、家庭のお母さん方ならそういう考え方をしてもしようがないが、人の子供を預かって心を導こうとする人達がそれくらい人間の心に無理解な態度を示すということは、私は考えてもいなかった。

私達は別に誰に習わなくても、心臓は一分間に七十八の脈を打ち、体温は三十六度五分を保っている。そういう自然の規律を、体は意識しないうちに守っている。大脳の細胞の並び方から、食べるとそれを消化して体が必要とする部分に栄養を運ぶことに至るまでそうである。栄養をたくさんにとれば、それがみんな栄養として吸収されるかというと、体は余分なものは捨ててしまう。そうして自然のバランスを保とうとする。

体は非常に緻密で、繊細な統制のもとに行われているが、その体のはたらきの現れとして心があるということを忘れているのではなかろうか。煙だって気流に対し気圧に対して一定の動きがあって、それ以外に乱れるということはない。風に逆らって風上に流れてゆくことがないように、自然律の現れである以上、心にも統制があり宇宙全体としての調和を保っているのである。人間自体、そういう調和を保つための自律的な統制の上に息をしているのである。

人間の心というものは本来自由なもので、圧迫すればそれに対してどうかして自由であろうとする余分な反発が起こるが、やはり自由な本来の方向に向かって進んでゆく。川水を堰止めれば安全だと、ダムなどをつくって安心していると洪水になることがあるように、余分な堰止めをしなければ水は自然に流れてゆく。心も同じで、堰止めたとしても流れてゆく、あらゆる隙間から流れてゆく。だから心が自由に流れるという裏には、そういう規律正しい体の動きがあるということで、その反映として心が動くものである以上、そこに自然の規律、自然の統制が常に行われていることを見逃せない。

だから食べたい時に食べたとしても、みんなのお腹の空く時間はそうは違わない。もし何時に食べたければならないと決めておくことがなかったならば、その日の温度、湿度、気圧に従がって、みんなのお腹の空く時間ははなはだしくは違わない。自然に統制されてゆく。食べたものがご馳走だったかそうでなかったとか、みんなで非常に忙しい思いをしたかどうかどか、頭の疲れ具合とかで自然に調整されて、食べたくなる時間はそう違わない。食べ遅れた人は、人の食べているのを見ると途端にお腹が空いてくる。そういう規律から外れるということは非常に少ない。ところが何時に食べなくてはならないと決めておくために、自由に食べるということはわざわざその時間を外すことなんだと、まず考える。そう考えることが体に実現してくるだけで、はじめから何時に食べなくてはならないということがなかったならば、そういう何時に食べるということに対する反抗が、自由という名を借りて現れる理由がない。やはり同じにお腹がすく。だから空腹になったら食べるということが、何か非常の生活の混乱を増すように考えられているが、おそらくそういうことはない。あるとすれば、何時に食べなくてはならないという、“ならない”という規則に対する反抗である。水の流れは堰止めると、その時は従がっても、その勢いがだんだん増していって、それを乗り越え、隙間からでも溢れてゆく。堰止めることさえしなければ、水はその流れに従って淀みなく流れる流れる。だからもし心が反動を持ち、反抗を持ち、人に迷惑をかけ、自分の体を壊すようなことがあったとしたら、それはこうしなければならないという規則をつくった、或いは何とか抑えようとした、そういうことに対する反動であって、本来は人間は自由のものである。

私は新潟県に疎開していた時に、日本が敗けたというニュースを聞いた。そうして特高警察が解体になった。これはアメリカに敗けたからなんだと頭では思いながら、何か体の中が軽くなった。どこかでホッとしている。話し合ってみると、ホッとした感じがみんな共通している。人間の体と心の中には、そういったように自由を欲する分子が本来ある。それを抑えれば反動が生ずる。その反動は何だろうかというと、それが放縦というものである。人の迷惑なんか考えないで何でもやる。子供がお隣の柿が美味しそうだったから取って食べた。これは統制をしないからだというように考えるが、統制をしないからではない。統制したために、それに対する反抗の表現として、抑えられた反動がやりたいところに溢れただけで、川は堰止めさえしなければ、川筋以外のところを外れないように流れ、放縦に走ることはない。堰止めたために横に流れてゆく。洪水が出たのは堰止めるものがあったからである。叱言を言い、いろいろの行為を抑制して、躾たと思っていると、それは洪水を招くことになりかねない。(野口晴哉著『潜在意識教育』全生社 pp.55-58)

人間の心の構造、中でも反発や反抗心について触れられています。ここにありますように、人の潜在意識は「右に行くな、左に行け」と言われると、途端に「右に行きたくなる」というような習性があります。ところが自分から「左に行きたい」と空想するように導いておいて、最後に「実は左に行くとちょっと困るんだけどね・・」と僅かに抵抗をかけると、そちらにざーっと動いていってしまう。おしるこを甘くしておいて、最後にちょっと塩を聞かせるようなことをするのと同じです。整体「指導」と言った場合にはこういう技術が自在に使えないと技としては生きません。

ときどき「自分は生まれつき体が弱い」と思っているような人もいますが、人間も含めて動物は弱いのは生まれてこないのです。受胎して、尚且つお腹の中で成熟して生まれてきた、ということはそういう生き物としての丈夫さがあるのですけれど、人間の場合は生まれてからうっかり「弱いと思い込む」ようなこともあるのですね。最初に無かったものを、どこかでそう思わされたのです。そういう人に、「あなたは強いんですよ」といくらいっても自分が弱いせいで励まされたような気がするだけで、はじめに「弱い」と思たことは打ち消せない。それよりも、自分から「自分は丈夫だ」と空想してしまうような方向で刺戟を与えると、心も体も同時にすっと変わってきます。

最初にこれさえ出来てしまえば、不整脈でも、胃弱でも、逆子でも、何でも正常な方へ動いていってしまう。精緻な心の誘導ということです。誘導が正確に行われるためには、その構造を先ず知らなければなりません。ですけれども、そういう人間を方向付けることが仕事の中心である「親」とか「教育者」において、その出発点として人間の感受性や心の構造を知らないから問題が尽きないのではないでしょうか。身体の生理的働きを起点として、そこから生まれる精神の動きを観察しなければ、真に丈夫な人間は育てられないでしょう。こういうところが本当に見直される必要性を感じます。少なくとも「教育=知識の詰め込み」と考えられている間は、掛け違えた最後のボタンは止められません。

どこから間違えたのかわかりませんが、少なくとも理屈と強制では動かせないというごく基本的なことが、先ずもって多くの方に理解されるべきでしょう。知識を増やすだけの教育や、心のみを切り出して扱う心理学ではなく、身体の生理的働きの理解を含めた潜在識教育の必要性をもっと知っていただきたいと思っています。

学ぶ力 要求する力

野口 人間が生きているというのは、自分の裡の力で生きているんです。健康を保つのも自分の力、人に治して貰っているように見えても自分の力、だからその一番最終に、丈夫に生きたい要求がなければ丈夫にならないんです。自分の感じた要求を実現しようとしている時は、体の中に力が入っているんです。

中川 そう、そういう風にして僕なんかも勉強してきましたね。僕はもう、教わったということないんです。学校に行って教わったり、先生について教わったことがないんです。教わるということは、目を塞がれちゃうんですよ、下手な教わり方したら。自分の要求でもって、人から取ることがあれば取ればいい。人から与えられていたんじゃ駄目なんです。こっちから取ればいいんです。そういう考えでやってきたのはよかったと思うんです。(『月刊全生 増刊号』 中川一政×野口晴哉 対談より)

いま一歳半の子供の活動をみながら、人間の「学び」に因んでつらつら書いています。昔から「まねる」、「まねぶ」、「まなぶ」と言い替えたりします。だから学びの根本は「模倣」なんですね。だから、最初に自分が「どうありたいか」という方向性のもとに、「必要なモノ」だけを身に付けて行けばいいと思うのです。要らないものまで、「あれもいるかもしれない」、「これもあったほうがいい」、とやっていくとだんだん「自分」が重たくなってくる。それは不安から出発して持ち物を増やしているだけで、無駄な重量でしょうから。また、他人の老婆心でいろいろ教えられることも多いから、「これは何のためにやっているのか」、「どこで役に立つのか」、という感受性がくもらないように気を付けなければならないでしょうね。

それこそ現代型の教育で「目を塞がれて」しまって、それからから学ぼうとするとどうしても与えられたものを鵜呑みにしてしまったり、今現実に困っているのに誰かが教えてくれるまで待ってしまったり、そういう受け身の学びになってしまう。最初に自発性を削がれてしまうと、やっぱり自然の力として伸びていく「勢い」を失ってしまうのかもしれない。

そうすると、学びや教育の「要」というのは如何に潜在的な自発性を煥発できるか、ということになるのでしょうか。人間ですから、誰でも最初に要求があるんです。必ず。それが良いとか悪いとかって言うのは、その後の持っていきようでどうにでもなるんです。また、「要求」そのものは教われません。ただし自然に要求が現れる「身体性」を育てていくのは、ある面で他動的にやれなくもない。整体指導というのは本来、個人の要求の発動、実現のためだけに行うもの、といっていいのでしょう。

やはり整体の仕事をしていてやりずらいなと思うのは、「何に向かって全力発揮したらいいのかがわからない人」です。だから要求が現れる身体というのをまず考える必要があるのでしょうね。脱力して、頭もゆるめば、「狭い合理性」から自由になったその人本来の感受性が出て来ますから。そちらの方がしっかりしてくれば「元気」とか、「体力」というのは、もうどうにでもなるとも言えなくもない。だからそちらの方をもっと研鑚していく必要があるのでしょう。こうやって考えていくと、ますます「治療」なんていらないんじゃないかと思うんですね。

学ばない技術

昨日の話の種には出典があって、原ひろ子著『極北のインディアン』で紹介されている「ヘヤー・インディアン」という狩猟民族の文化に因んでいます。このヘヤー・インディアンは、「教える」、「教わる」、「学ぶ」という概念がないそうなのだ。

現代型の「教育」は、必ず「教える」ということとセットです。「教える、育てる」ですから。でもね、野口先生の時代にはすでに、「いまの教育は、〈育〉が抜けていて、教教だ。」と仰っていたそうです。教えてばっかりだということです。さらにすすんでくると、「教えられてないことを勝手にするな」とか言ったりもしますね。

そうすると良い面もあると思うんです。まず教えれば一定のところまでは「早く」行きますから。何より教育する側にとって都合がいいのでしょう。指導する側から言えば「扱いやすい人間」ができるので、特に戦後そうなったんじゃないでしょうか。ただそれが個人個人にとって良いかというと、利便性の影には当然、弊害もあるでしょう。

教わったということは「自分で考える」というプロセスが抜けるわけですから。ちょっとちがう角度から攻められたら、もうそれで対応ができなくなってしまう。

ところが、最初のヘヤー・インディアンのような覚え方で行くと、自分で「できた」と同時に「どうしてか」も判る、そういう根っこのある理解になります。だから指導者というのは、相手がどうしたら「気づける」かだけを考えて、そのための最高の環境を作ることが仕事と言えるのかもしれません。場を作るのが仕事ということですね。ちょっと今日は短めで。

良寛さんにみる潜在意識教育

今日は潜在意識教育に因んで、良寛和尚の逸話から考えてみようと思います。その前に「良寛さんて誰?」ということもあると思いますので、そちらの説明を先に少し。

良寛和尚は江戸時代後期のお坊さんです。もともとは庄屋の跡取りになる予定だったのですがこれを辞して、厳しい僧侶の道に入って修行をされたそうです。晩年はやさしい和尚さんとしてとくに子供たちに慕われ、日が暮れるまでかくれんぼをしたり手まりで遊ぶこともあったと言われています。

その良寛さんが、あるとき弟の長男(甥)の放蕩を正して欲しいと頼まれた際に、本当に「自然」な方法でそれを行ったというエピソードがありますので、この話を引いてみましょう。

佐渡を望む出雲崎の生家は弟の由之が継いでいましたが、その長男(良寛の甥)の馬之助は大変な放蕩息子で、思い余った由之の妻、安子は、良寛さんに「馬之助に厳しいお諭しを」と頼み込みました。

安子の願いを引き受けた良寛さん、久しぶりに生家を訪れました。その夜、和尚を交えて久々の家族団欒となりました。次の日も次の日も馬之助も伯父(良寛)と酒を酌み交わし托鉢や子供達の話に花が咲きましたが、弟夫婦が期待していた肝心のご意見は一言もありません。

四日目の朝「やっかいになったな、それではおいとましますわ」

呆気にとられている由之夫婦を尻目に、玄関の上り段に足をおろし、「すまんがこの紐を結んでくれんかのう」老僧が腰を屈めるのに難渋している姿を見ていた馬之助は、「ハイ」と一言のもとにとび降り、良寛さんの足元にかがみ込み、良寛さんの細い足首に草鞋の紐を結び終えようとする時、馬之助は首筋に熱いものを感じました。驚いて顔を上げると、良寛さんの目に涙が一杯たまっています。

「ありがとう」ひとこと礼を言って、良寛さんは生家の玄関を出て行きました。不思議なことに馬之助の放蕩は、その日を限りぷっつりと止んだそうです。(『井上義衍提唱語録 併般若心経講説』より)

はい、心情的にはよく解る話ですね。ですけれどもこんなことが本当にあるのかというと、あり得るけれどむずかしいだろうなとも思う。やっぱり修行というのはこういう力を生むのかな、とも思います。

昨日まで、「人間は変われるのか」を書いてきましたが、河合隼雄さんの見解もお借りして、「とにかくガラ!っとは変わらないけど、でもやっぱり変わっていく。」そんな話でした。

今日の話はそれとは真逆のような逸話です。

あることをきっかけに心象がぐーっと変わってしまう。人間にはこういうこともやっぱりありますね。多くの場合は「偶発的」に起こるけれど、整体指導ということになるとこれを「必然的」に引き起こすのが職能的な「技」ということになると思います。おそらくこれに近い職業として「コーチング」などが少し共通しているかもしれませんけど。それでも整体ではこれが百発百中であることが求められるんですね。感情の基本的な性質や方向性がわかれば、ある程度の所まではできると思いますが・・。

野口先生の言葉には「心の角度をフッと変えると、人間はその全部が変わってくる」というものがあります。さらに、「相手に押しつけてはならない、相手自身が自発的に、自分の考えで行動するようにしむけることだ」と、こういう風に説かれています。一般に躾や努力で矯正的にやっていることは、どうしても反対の要求や空想を生むようになっていますから。強く押さえれば押さえるほど、圧縮されたエネルギーは噴出の場を探すようになってしまう。噴出されないものは、自分を中から「壊す」働き(病気)に変性するものもあります。

ですから、そういった方向ではなく相手の「中身」がさっと変わってしまう方が、お互いに心理的な負担がないのですね。教育や躾の現場ではありがちですが、最初に「悪い」ところを掴まえたうえで「良くしよう」とすると相手は自分の根本に「悪い」があると空想してしまう。元々人間の中には善も悪もないのですけれど、「ちゃんとしようね」という言葉を聞くと、やはり自分の中にだらしのないものを連想してしまう。

良寛さんの例では、相手の悪態を対象にしなかったことが一番の功徳になったということになるのでしょうか。「善悪を思わず、是非をかんすることなかれ」という禅的な態度は、人に最初に具わっている「天心」という心、生命の無為的な「秩序」へと向かわせるのかもしれない。これはまた「相手に対する無条件の肯定的関心」を説いたカール・ロジャースの来談者中心主義も彷彿とさせます。

ただしこれが、いわゆる指導する側の「テクニック」のようなものでないことは明らかです。人を良きに導くということは、自分自身の潜在意識が簡潔になっていないと、他者の中に清浄な力があることが信じられない、という事がここで出てくるわけですね。実は良寛さん自身が出家をされる前は、名家の跡取りとして教育を受けるかたわら遊蕩にふけったこともあったと言われています。ですからそういう所を自分自身で越えてきた力が、無暗に人を処罰しないような寛容さをもたらすのかもしれません。

ですからとにかく丁寧に自分の心に取り組んだということが、結果的に人を癒す力を生んだと言っていいと思うのです。宗教家の仕事としてよく「世界平和」を求められる節がありますが、最終的には自分を修め、後に他者も治め、ということに落ち着くのかもしれません。整体を行っていると、つい「相手の問題」に取り組む方へ流れやすいのですが、「潜在意識教育」といったときに一体「誰が、誰を」教育するのか、という所はよく考える必要があるのですね。それでは今日はこの辺で。

人は変われる(続き)

今日も河合隼雄さんの『心理療法序説』の続きです。

ただ、ここで注意を要することは、成長の過程ということを、一直線の段階的進歩のイメージのみで把握してはならない、ということである。成長を一直線の過程として見ることはわかりやすい。自分はどこまできていて、それに比して誰はどのあたりであるのか、などと考える。それはともすると到達点の設定ということまで考えることになり、「到達した人」に対する限りない尊敬心を誘発したりする。時には「自己実現した」人などという表現に接して、驚いてしまう。ユングが個性化の過程として、過程であることを強調するのは、そこに「完了」ということはあり得ないと考えるからではなかろうか。

もちろん、成長の過程を、一直線のイメージで描くことは可能であり、それはある程度必要ではある。しかし、それがすべてと思うと、とんでもない誤りを犯すことになる。人間の成長は考える際に、直線のイメージだけではなく、円のイメージで把握することも大切だ。すべてははじめから、全体としてあり、成長するということは、その全き円をめぐることで、言うなれば同じことの繰り返しであったり、、どこまでゆくやらわからなかったり、しかし、全き円の「様相」はそのときどきに変化してゆく。それは成長というより成熟という言葉で考える方がぴったりかも知れない過程である。

一直線の成長イメージで人を見るとき、人間は直線状に配列され、上・下関係が明らかになる。治療者はクライエントよりも高い到達点にいて、後からくる人を指導する。果たしてそうだろうか。遊戯療法の過程で、われわれは子どもから教えられることがある。子どもの知恵がこちらよりはるかにまさっていることを実感することもある。心理療法家というのは、相手から学ぶことによって、相手の成長に貢献していることがよくある。このことは、単純な直線の成長モデルによっては理解し難い現象である。そして、そのような、ことに心が開かれていることが、心理療法家には必要なのである。(『心理療法序説』 岩波書店 pp.283-284)

さて、「人間は果たして、変われるのか、成長できるのか?」という命題を考えています。例えば「適応障害」といわれる疾患(心の病)があります。これを解消するには、「適応」するのが難しい「環境」の方を変えるか、適応できない現在の「自我意識」が変わるのか、といういずれかの対応になると思います(投薬などを除けば)。そして後者の方法からは、「成長しよう」という心の方向性が見えてきます。

では「成長」って何?というと、ここが大事な所で「こうなったら良いのだ」という雛型がないのが心の問題の多様性に繋がっていると思うのです。明らかな「スタート地点」があって、そこから「ゴール」に近づいて行くだけなら比較的カンタンなのです。それは迷いようがない「直線的」な世界ですから。あっちにいけばいい、という。。ところが生きている人間の実相というのはそんな風にはなっていないですね。いつだって〔今〕の自分は完成している。完成しているんだけど、次の瞬間にはもう、あれ程完璧だった自我意識はもう変わってしまう。

例えば小学生の頃の時の自我というのは、確かにあったと言えます。だけど現在同じものを出すことはできない。では何時消えたのかというと、「あの時」という境目がない訳です。過去・現在・未来がずっとつづき通しの〔今〕に生きている。〔今〕は完璧なんだけど、それが絶えず変化している。「完成」と「過程」という、2つ並べると矛盾するようなものが、一つの矛盾もなく併置されているのが〔今〕の心です。

ここで、禅の『臨済録』に出てくる公案、「途中に在って家舎を離れず」というところを思い浮かべます。〔今〕というのはみんな行の途中なんです。途中なんだけれども、一つも「家」から離れない。スタートもない、ゴールもない、向かって行くような目的地がない。ところがそれが次々と相を変えて、一つも後を残さない(無相の相)。邪魔にもならない。そういう切り離された自在性がずっと今の心、ということですね。

そのように考えると引用文の、「人間の成長は考える際に、直線のイメージだけではなく、円のイメージで把握することも大切だ。…」から始まるところが、すらすらと肯えると思います。「変わって、変わらず」、そして「教えていることで、教えられる」という。心の中には、白とか黒とか、そんなはっきりとした「一線」はないんですね。だからそこがいいと言えばいい。整体指導も心理療法もそういう心の自由性と不安定さの間で仕事をしているという気もします。

引用の最後に、「心理療法家というのは、相手から学ぶことによって、相手の成長に貢献していることがよくある。このことは、単純な直線の成長モデルによっては理解し難い現象である。そして、そのような、ことに心が開かれていることが、心理療法家には必要なのである。」と、書かれています。だから単純に、上位の立場にたって、相手を「こちらからあちらに導けばいい」という、二元的な方向性で行なう訳ではないということです。一つ言えることは、とにかく心には「良い方へ、良い方へ」という「向き」はあると思って良いのでしょう。整体指導でも、それがあるからお互いに大変だなと思いながらも「手伝って」いけると思うんです。理論的な落とし所が見つかったので、また実践に戻ろう。河合さんの『心理療法序説』はもうちょっと続くかもしれません。今日はこの辺で。

人は変われる

昨日さらっと取り扱ってしまったけど、「人間は変われるのか」という話は心理療法の急所だった。整体の潜在意識教育でも、「人格の変容・成長」はその人が本当の意味で「治るか治らないか」をわける分岐になる所でもある。今日はまずいろいろしゃべる前に、河合隼雄さんの『心理療法序説』から引用してみます。

4 心理療法家の成長

心理療法を行なう上で、もっとも重要なのは「人間」としての治療者である。従がって、治療者は常に自分の成長ということを心に留めておかねばならないし、またそのようなことを考えざるを得ないように、クライエントがし向けてくれる、と言っていいだろう。クライエントは心理療法家にとっての教師である。

治療者の人間としての在り方といっても、いわゆる「人格高潔」などという理想像を掲げるつもりはない。しかし、ユングの言っている「個性化の過程」ということは参考になるだろう。まず、この世に生きてゆくために必要な強さをもつ自我をつくりあげ、その自我が自分の無意識に対して開かれており、自我と無意識との対決と相互作用を通じて、自分の意識を拡大・強化してゆく。無意識の創造性に身をゆだねつつ生きることは、相当な苦しみを伴うものであるが、それを回避せずに生きるのである。このことをクライエントに期待するのなら、治療者自身がその道を歩んでいなくては話にならない。(『心理療法序説』 岩波書店 p.282)

この先にいくと、心の成長や自己実現の実際について書かれています。長くなるのでそれはまた明日以降に引くことにして、この文脈から言えることはまず「人間は変わる(成長する)」可能性を内在させているということですね。「何をもって成長か」と考えると一言では括るのがむずかしいけれども、この場合は「自我と無意識との対決と相互作用を通じて、自分の意識を拡大・強化してゆく」過程を指す訳です。まちょっとむずかしいので分解してみます。

「自我」というのは生まれてから(あるいは受胎前から)〔今〕までに作られた、かつての環境に適合する意識のことを指します。「無意識」というのはそういう表層的な意識ではなくずっと奥に隠れたようになっていて、全き人格へと向かう要求を備えているものですね。簡単に言うと「成長したい」、とか「もっと良い人格になって存分に生きたい」という意欲の水源みたいなものでしょうか。

ただ考えてみると、人間の活動を広く見渡した時に、成長欲求とか、自己実現の要求を伴っていないものはないと思います。と言うことは、人格の変化というのは「整体指導」とか、「心理療法」とかいう限られた場所だけで行われる「特殊」なものではなくて、多くの方に日々展開されている「日常」の中で絶えず微量に繰り返されていると言っていいのかもしれません。

では「整体指導の役割って何?」というと、その「成長」を、他力を伴ってより積極的に主体性をもって行うということ、と言えるでしょう。整体のとっかかりとしては「病気」、というのが鍵になることが多いのだけど、この病気というのを西洋医療では「命を脅かす可能性をもった活動であり、人体上から速やかに排除すべきもの」としか見ない訳です(大まかに言えば)。ところが野口先生という方は「これは生命の全体性から見れば、むしろ積極的に平衡を保とうとする大切な働きである」と看破した。「病気が生命維持に貢献している」という、いわゆる「コペルニクス的転回」みたいなものですね。それも子供の直観的に、生命活動の真相を徹見した訳です。

そしてこれと同じ見方をユングもしていた。それもほぼ同時代のことです。河合さんは別の著書で「人が治るということは、本来しんどいことなんです。」と言っていますけど、つまりそれは病的な痛みとか、不快感にも広げてみることが出来る考え方です。痛いから、〔今〕治っている、ということですね。さらさらさらと横滑りで話の焦点がずれてしまったが、とにかく「人は変われる」、あるいは良くも悪くも「変わっていってしまう」、ずーっと同じなどとということはありえない、と。こういうところで一応の昨日の疑念に対する着地点までは来た気がする。ここから面白い話になるのだけど、今日は早めにパソコン閉じて休みます。つづきはまた明日。^^

変われるのか 変われないのか

最近の研究テーマというか「人間というのは結局変われるのか、変われないのか」ということを深く考えていた。野口整体の根幹は「潜在意識教育」で、これが抜けてしまうといくら技術で身体を整えてもまた戻ってしまうのだ。だから基本的には自我意識の変容、成長ということが伴わないと、仮に「治った」としてもまた元に戻ってしまう。

それではどの辺まで変わるのか?ということなのだが、当然自分自身の変化の幅でしか他者はリード出来ない。一般に言う「性分」とか「性格」、「気質」など表現は諸々あるとして、自分が整体指導を受けてきた経験からも言えるのだが、「自分で自分をこうだ」と無意識に思っていることはなかなか変わらない。逆に言えば自我がしょっちゅうコロッコロッと変わってしまうようでは、自他ともに社会生活全体がままならなくなるだろう。昨日まで知っていたAさんが、今日になったら全く違うAさんになっていた、というような事が横行したら個人にも公にもさまざまな支障が出る。だから自我というのは生来強固な造りになっていると言えばそうなのだろう。

だからといって、「変わらないのか」と諦めてしまえば心理療法も整体指導も成り立たない。そう言う観点から、「変わる」も「変わらい」もなく続けていると、やはり何かが違ってくるのも事実だろう。実はこの辺りの所は河合隼雄さんの著作からヒントを得ながら、ある時期から熱心に取り組んでいるのだが・・。「人間が少しでも変わるというのは大変な事なのです。」という氏の弁は、実体験から出てきた重みのある言葉だ。

人間は「変わらない」ということと「変わる」ということが両方矛盾なくあるというのが実態かもしれない。臨床ではそう思って見ていくとお互いにとって一番負担がないし、長期にわたって同じ人に粘り強く取り組める心構えにもなる。具体的な方法としては「待つ」という技術になる。治療の方法論で「何かする」ということは沢山あっても、ただ「一緒にいる」ということはなかなかやれない。実際のところ「何もしない」ということが、生命の成長要求を一番シンプルに発現させる方法という気もする。天心で行う愉気というのがその象徴かも知れない。

治療者が相手の「自我」というのを掴んでいるうちは、そこに執らわれてどうにもならないということがやっぱり出てくる。だからその「どうにかしよう」ということがなくなれば、元来自然の相というのは次々を変わっていくものだから、その力をそのまま使えるようになるのではなかろうか。そう言えばこの辺りのことは河合さんの『心理療法序説』という本の中に、「自然モデル」という表現で著されていた。また復習してみようかな。いつもながら書いていると、どこからともなく答えが出てくるから不思議だ。誰だか知らないけど、「無意識」はありがたい。

久しぶりに愉気のこと

天心の愉気

それなら陰気を退けて、陽気な活発な気を送り込んだらどうなるだろう。そこで愉気ということをやってみました。実際は触らなくてもいい。気が感応すればいい。愉気して気を送ると、どこが変わるか判らないが元気になる。けれども不安や闘争心はいけないのです。平静な気持ち、天心をいいますか、自然のままの心でスッと手を当てるとよくなる。

良くしようと思うのは人間の作った心です。使えば減るなんて思うのも、人間が作った心です。体の自然は腕を使うと太くなる。足を使うと足が太くなってくる。頭を使うと深く考えられるようになってくる。使って減るようなものでない。気だって、陽気を愉気すれば、いよいよ陽気が増えてくる。活気を送れば、いよいよ活気が増えてくる。使って減るということはない。

ただ、伝えても相手に伝わったのか伝わらないのかが判らない、しかし愉気をして心を集中すると変わってくるのです。体が変わるのか、心が変わるのか、気が変わるのか、それは判らない。判らないが、その人も、相手も感じる。障子越しの明かりのように気持ちがいいという程度です。けれども、いろいろと変化を起こしてくるのです。怪我をしたらそこへ愉気すると、外側の怪我でも内側の怪我でも簡単に治る。やってみると妙なもので、私はそういうことを、触手療法として教えたことがありました。みんな手を当てているとよくなる。手を当てたくらいでよくなるわけがないと言う人がたくさんいました。やるまでは不安であっても、自分でやってみると信じないわけにはいかなくなる。そしてだんだん熱心になります。(野口晴哉著 『愉気法1』 全生社 pp,38-39)

気がつくと、最近「気」のことを語らなくなっていた。整体をはじめたばかりの頃は「気の感応」というのが面白くてしょうがなかったけど、それはもう「あたりまえのこと」になってしまったのかもしれない。身体は触れても変わるし、触れなくても変わる。死ぬまで一時も留まることなく、生命は生命に反応して動いていく。

骨盤矯正などということでも、やっぱり気があるから骨も自然に動いていくのだ。だから物理的な力だけで骨を動かそうとしても変わらないし、うっかりすると毀してしまう。特に仙腸関節などは、「関節」とはいうものの可動性はほとんど目には見えない程度の作りになっている。それでもただ触れていると身体にとって自然な方向へ動いていくから「気」というのは便利だ。身体を整えるためには細かな技術をあれこれ覚えるよりも、気の誘導法としての「愉気」を覚える方がずっと役に立つ。

もとより整体は気を重んじる世界だけど、改めて考えてみるとやはり気は目に見えないし、どこまでもぼんやりしたものだ。探し回るととまったく見つからないのに、何もしないで放っているとあちらこちらに「気」は感じる。次の活元会でまた愉気の実習をするので、しばらくぶりに文献に目を通したら初心の頃を思い出して懐かしく感じた。「自然のままの心でスッと手を当てるとよくなる。」というのだから、特に「初心」の頃の愉気は素直で通りやすい。教室で学んだ人から「愉気したら色々なものが良くなった」という報告をよく聞く。技術はたいてい時間とともに向上するものだけど、「素直な心」とか「無邪気さ」というのは時間とともに隠れてしまいやすい。そういう観点からも初心は天心にも通じる純粋さを備えている。教えようと思っている人から教えていただくことは存外に多いのだ。

インフルエンザに関する一考察

野口整体には『風邪の効用』という名著がある。実際にこの一冊から整体に関心を持たれたという方は多い。著者の「風邪が体の掃除になり、安全弁としてのはたらきをもっている」という見解は、実際にそういう角度から自身の身体を見て風邪を数回経過することで、だんだんと自身に肯えるようになる話だ。知識が確信に昇華するまでには一定の年月を要するが、整体(活元運動)を専一にやっていけばやがてはそこに落ち切る。

ただ、仕事をしていると「インフルエンザのワクチンは打っていいんですか?」という質問を年に2、3回はいただく。現代に至ってインフルエンザワクチンが効く、効かないという論争は枚挙にいとまがない。病気は悪いものとしか聞いていなければ、「予防接種は打った方がいいに決まっている」となるのだが、もう一方で「病気は身体の自然良能(病症そのものが身心のバランス作用)である」という見方を知ると、迷いが生じるのも判らないでもない。

ワクチンの是非ということで言えば、実際は効果が無いばかりかワクチンを打った人の方がかえって罹患しているという話もある。これはうわさレベルの情報だが、自分の経験ではタミフルを飲んで「治した」人が、間を空けずにまたインフルエンザに罹った例を見たことがある。身体が固いとそうなり易い。

生きた身体を観ている立場から言えば、風邪でもインフルエンザでも、「自然に」経過した身体はうしろ姿がやわらかい。一方、薬で経過を中断させたものはそういう有機的な「流れ」がないのだ。バツン!と打ち切られたような感じだから、症状と一緒に身体から美が失せる。プロセスを無視して結果だけを求めると、造り事のような身体になってくるのだ。例えはよくないけれども、生け花と造花のような違いといったら判り易いだろうか。

結論を言えばインフルエンザでも風邪でも身体に弾力があれば罹らない。生きた身体は偏り疲労があると身心のバランス回復機能が働き、あらゆるものの力を借りて「生命の全体性」を回復しようとする。病気はそのもっとも手近な秩序回復機能なのだ。

だから最初のような質問をされるという事は、事の真偽以前に生命に対する態度が露呈する。西洋医療は信用できない、では東洋医学だ、いや代替医療だと、色々な知識に踊らされている人は、自分の「息」に気がつかない。騒がしい意識の運転を停め、身体の感覚が良い意味でむき出しになることで初めて命の力に「信」が生ずる。仏道には「妙法一乗」という教えがあるが、「一つ」に乗り切れないものはいつも危うい。自身の命以外に一体どんな乗り物があるのか、あれば聞いてみたいと思う。

一乗

病気は怖いモノ

半年から一年くらい指導に通うと、「風邪を引きました」、「下痢をしました」といっても平然としている人が増えてくる。さらに少々の病気にはビクつかなくなる。それはそれである面進歩と言えるが、このくらいになると今度は逆の注意がいる。例えば「風邪の経過」一つとっても、それを理解し善用しようとすると、病気の複雑性がよく解るのだ。

実際は風邪くらい厄介なものはない。また操法しだして一番難しい病気は何かというと風邪です。今でも風邪というと体中を丁寧に調べて、それだけでは足りなくて、今度は過去の記録から何から全部調べて、それからこの風邪はどう経過するかということになるのです。それが判ってピタッと考えている通りに行くと、やっとその人の体に得心ができる。風邪で見間違えるようなうちは、まだその人の体を理解していない。
風邪を引くとたいてい体が整うのです。そうかといって高を括っていると悪くなる。けれども体をよく知っていくと、この風邪はこれこれこういうコースでここへ残るとか、ここに残ったものはこれを処理すれば治るとか、これこれこういうコースで体のこういう場所が良くなるというように予想して、ピッタリと間違いない。それもここ十年くらいのことで、それまではやはり掴まえ難かった。(野口晴哉著 『風邪の効用』 ちくま文庫 p.17-18)

一般に病気は怖い、また悪いものという固定観念でみているのが「常識」である。ところが「そうではない」、というのが野口整体の見識で、大抵はその独自の切り口に驚きと感銘を抱くところが整体の入り口だろう。そして最初は半信半疑のものも、しばらくして病気を自然経過した時の爽快感や体調の良さを味わうと、「なるほど」と思うのだ。野口晴哉の言った事は本当であると自身に確証を得る。

ところが先の引用のように「高を括っている」とやはり悪くなる面がある。初心の罠というか、ここを見落としやすい。下痢でも熱でもそうなのだが、時として体を整える働きとみなすが、その本質はやはり「処置を誤れば生命に関わる」破壊性を秘めているのだ。斯様に生兵法はおそろしい。

畢竟、病気は「怖さ」を内在しており、そしてその怖い中にも「有用性がある」と言うべきであろう。だからその病気という働きが「どうなっているのか?」と観つづけることで、その活かしようも見えてくるという話だ。「怖い」という見方も偏見なら、「怖くないのだ」というのもまた執らわれなのだ。野口整体は一切の依りかかりを奪い、本来の自由性の発現を促す。その依りかかるものが「思想」や「観念」であっても、それをお守り札として持っている以上は縛られ、自由性が減じる。

もとより「生命活動」とは無色・無臭、人間的な「はからい」から見たら何も意味などないのだ。ただ、そのことが、そのことして、ただその通りに働いている。それだけである。時に「精妙だ」などというのも一種の「見解」で、もともと息にも脈にも精妙など付いていない。本当に「何もない」のだ。野口整体では「その純粋な生命活動をそのまま味わう」という態度で身体感覚の発揚を謳う。「妄想を除かず真を求めず」で、求めなければまるごとそのままの自分である。病気だけを切り離して、「こちら」から「あちら」を見ている内は、怖い、怖くない、とっては絶えず自分に騙されるのだ。

実際「自分がどうなっているのか」。その見極めがつけば、病気がそのまま治癒である。〔今〕を見破ることだけが救いとなる。ただすごいのは、「病気は良いモノ、悪いモノ」などと何を考えていようがいのちはお構いなしなのだ。人類創生以来病気は病気として、生を全うさせ、消滅さることを繰り返してきた。もとより生命とは底が抜けているのだ。「人間的な」はからいで汲みつくせるようなものではない。だが頭の良い人はその知によって愚に陥り、「どうにかしよう」といっては、どうにもならない自身の命を右へやり、左へやっては喜んでいる。真に聡明な人はまさしく「任運自在」の境で、自身の生命に悠然とまたがり、ただ息をし、飯をくい、大小便をして、眠るのだ。

整体はこれから学ぶものでも、知るものでもない。自身の身心をもって、命の完全無欠を実証するのみである。ただの一度でいいから、「確かにそうだ、間違いない」ということを肯えれば、もう迷いの世界には戻れない。その瞬間から大安心の生活者であり、絶学無為の閑道人である。

水面の木