世界の中心は

そのむかし蒋介石を相手にせずといった政治家がいたが、コロナの相手もそろそろ飽きてきた。

いやもとより相手にはしてないんだけど、世相が右往左往するもんだから何をするにも不便である。

余談になるけども、この状況に小さいころ雪の日に父の車で出かけた時のことを思い出す。その当時たまたま車が4WDだったので自分たちは雪の弊を受けないのだが、次第に前後の車が動けなくなり結局坂道で立ち往生したのであった。その時母が「ウチだけ四駆でも周りが動けなきゃしょうがないね‥」と言ったのが妙に印象に残っている。

これと同じ原理で誤った衛生観念が盤踞するかぎり、自分一人楽土を歩むことはゆるされないことを今更ながらに痛感した。

与えられた状況で困る困らないは依然自分の勝手なのだが、現実問題、周辺の施設は閉鎖するし、マスクと手洗いを無言で迫る風潮にもそろそろ飽きてきた。

見ているとこうした社会倫理に疑念と違和感を持つ人は少なくないようだ。その証拠に某夫人が外で会食をしたというだけで批難が殺到した。民間でも休日にあそこの公園に大勢人がいた、不謹慎だ病気が蔓延したらどうするのか、と直接言うならまだしも後でポータルサイトのコメント欄やSNSに匿名で告げ口をしあう始末である。

言わずもがなだがこれらは「私だって我慢しているのに」という不満の投影に他ならない。雨の日に閉じ込められた子供が、体力を持て余したあげく陰気になって「○○ちゃんが○○してたよ!」と告げ口をしあうのと同じ原理で、これはこれで健全な生理現象と見るべきである。

したがってそういう行為に走る個人をいちいち取り上げても益なく、非効率である。もう少し因果的な視点で問題の根幹に目を向けると、そもそもが人間をそんな卑小で陰惨な姿におとしめているのは何かということになる。それは取りも直さず、現代の誤った衛生知識じゃないか。

ではその衛生を生み出したものは何か。それは外界探求を根本的欲求に据える自然科学のパラダイムである。さらにその科学を生み出したのは西洋思想の源泉ともいえる、自他分離の観念、我と彼とを真っ二つに分ける二元論である。

俺が俺が、という我。その「我」の境界線をどこに引くか。それこそが大問題なのである。その線をちょっと引き間違えただけで、時に何万という人間を一瞬で死に至らしめる蛮行まで生ずる。まあこの話は少々長くなるのでまた機会をあらためるとして‥。

本来健康に生きる道というのは本人も周りも楽しく生きて、元気よく互いの生の発展を感じさせるもの、お互いが生きているということに快を感じさせるものでなければならないはずである。

ところが現状は真逆であり、ちりぢりに分断された個人が憤懣やるかたなく息を詰まらせている。そうして遠くからお互いの自由でありたい要求を監視し合い、にらみ合い、突つき合う始末である。屈辱だ。むろん全ての人がこうでないことはわかっているけれども、少なからずこういう不健康な衛生観念が巾をきかせるような行き方が本当に人間の進歩なのだろうかと問いたい。

誰も彼もが何か妙だ、おかしい、と無意識では今の衛生観念の欺瞞を看破しているのに、もう一つそこに信が持てないのだろう。もしくは他に良案が思い浮かばないので、仕方なく現状の在り方につき従っているのかもしれない。そこは「カガク的」という言葉の魔力である。

無論中には長いものには巻かれろ式、事なかれ主義もあるだろう。加えて全体の意向を尊重し和を乱さないようにする日本的美徳とも相まって、多くの人が「今」という自由性を見失っている。

そもそもが病菌なんて人類発生以前からいたるところにいる。それをマスクをした、手を洗った、換気をしたからどうなるというのか。今だって無数に体に付着し、鼻からも口からもどしどし侵入しているのが真実である。無菌状態なんてどこの自然界のどこにも存在しない。

それこそ団子を一つ、刺身を一切れ食べたってそこに何万という雑菌がいる。そう考えていくと煮炊きしないものをそのまま口に入れるのは恐ろしいことである。それなら煮沸・滅菌という観念に囚われて、饅頭を茶漬けにしないと食えなくなった医者に範を求めるべきではないか。

しかし真実はいつも事実に現れるもので、その雑菌だらけの中で生活しながらケロッと生きているのが人間の実態である。たとえ当人が頭の中で病菌よウィルスよと震え上がっていても、残念ながら体の方にその必要がなければ何ら発症しない。錐体外路系の働きによるものである。

よしんば発症したところで、人々が病気よ、病魔よと怖れるそのはたらきは何のことはない単なる人体の抵抗作用なのである。咳くしゃみに始まり、発熱から下痢にいたるまで、病症とはすなわち身体の偏りを正し、正常な状態に返ろうとする生体の安全弁であることをおのおのが自覚せねばならない。

この大宇宙の生命は須らく一蓮托生であり、それはある一つの合目的性を有している。身体に必要があるときに周辺の生命体と協力して、鬱滞したエネルギーを振作し抵抗作用を発症する。これが病気と呼ばれる現象の正体である。

このはたらきによって古くなった組織は破壊され、偏った骨格もその発熱によって暫時正される。のみならず、体内に残留する不要な老廃物は下痢、小便、発汗、鼻水といったもろもろの排泄作用によってみんな体外に出されてしまう。

言わばこの新陳代謝の作用によって生きた体は絶えず刷新され、生を全うする道もこのはたらきによってはじめて開かれるのである。たった今もそうやって内外の環境に適合する身心を創造しつづけているではないか。破壊と創造とは別々に存在する真逆の作用ではなく、健全に生きようとする生命現象の両側面に過ぎなかったのである。

ところが全体から分断された局所的知識に囚われると、病症は死を近づけるだけの破壊作用にしか見えなくなっていく。そうしてこれを駆逐することが人類が生き延びるための唯一の道と錯覚し、カガク者を旗手として人類はあらぬ方向に驀進してきたのである。

やがて人間を活かすために追い続けた医学の知識は、気づけば病気を地球の主人とし、人間を病気の機嫌を伺いながら息を殺して生活する召使いにしてしまった。そうして病気の隙間を見つけては、人間がこそこそ怯えて歩く世界に染まりつつある。

ある人は言う。「でも現実に病気で死ぬではないか」と。確かに人は病気で死ぬのかもしれない。なるほど癌も怖いかもしれない。風邪も肺炎も怖いものかもしれない。しかしその人は病気にならなかったら死ななかったのだろうか。

そもそも病気を乗り越える体力や気力がなかったとは言えないだろうか。もしかしたら、病気を怖れる余りもちまえの抵抗力が委縮し、その恐怖心のために死んだのではないだろうか。

あるいは病気を治そうと焦り、処置を誤ったがために自然の経過を乱し、死ななくていいものを人為的に死に至らしめたのではないと、どうして言い切れるだろうか。もしそうだとすれば、果たしてそれは「病気で死んだ」と言えるだろうか。

また別な視点で考えても、風邪をこじらせて重症化するような鈍った体を作ったのは一体誰か。癌を作るような冷たい体のまま放置して鈍重な生活を繰り返していたのは一体誰の責任であろうか。

本来病気を必要とする体というものは、甲の病気を避ければすぐさま乙の病気に罹るようにできている。そういう偏り鈍った身体を正すことをまず考えるべきではないだろうか。

生まれたときはみな敏感で弾力のある身体をしていたのである。それをせっせと50年かけて、癌を作るような冷たく固い身体を育ててしまうずさんな態度や文明の在り方をわずかでもいいから正して行く、そういう道を開拓することはできないだろうか。

またある人は「病気を怖れず人々の接触を再開させろ」という。その論は結構だが、理由を問うと経済を回すためだという。

これもやはり金が主人になって人間を生かしているようである。病菌に追われて生きているのも妙だが、金に人間が生かされているような考えもやはりおかしい。人間が活発に生きているからこそ金も金としての価値が生ずるのであって、人間に力がなくば金もただの紙切れと数字になってしまう。だからこの論にもやはり主格顛倒は否めない。

経済のためではなく人間が主体を取り戻し元気よく生きるために、ありもしない不安を生み出し流行らせる行為はもうやめよと言いたい。

生命はみな一つの宇宙秩序ともいえる合目的性に向かって共存共栄しているのである。この事実を一人一人が本当に覚らねばならない時代がもう既に近づきつつある。

そのために何をすべきか。それは先ずもってみんな自分のいのちに自信を持たなきゃいけない。自分のいのちとは何か。それをまさか5、6尺の肉体と、せいぜい7、80年の寿命をもって我が「いのち」と思ったら大間違いである。

「自分」とは皮膚の皮一枚で外界と分断され、孤立した生命体と思っては誤りである。実際その自分を保っていくためには体内に水も米も魚も野菜も通過させなければならない。いやオレは魚は食わん、肉を食ったら残酷だという者もいるかもしれないが、そんな者でも息をしなければ5分と命が持たない。

現実に自分の肉体以外のものと絶えず接触し、流通を続けなければ何も為すことができないのがこの個体生命というものである。

しかしいのちとは、そんな卑小なものではない。一体自分のいのちとはいつから始まったのか。オギャアと生まれ出た時か、それともへその緒を切ったときか、はたまた母の体に入ったときか、父の体内に精子ができたときか、いやその父母のそのまた両親の中にすでに自分のいのちはあったのか。それはカガク的な追及手段では永久に掴み得ないのである。自己の生命の本体は、自分で覚る以外に絶対に分からないのである。

そういう内なる教養を育む教えが今何よりも必要だ。本当に身体が整い、意識が静止したとき、そこに現前するいのち。それを悟らなければ眼前の不安が去ってもまた新たな材料を見つけては不安になる。その不安だ、不安だ、という意識をまず止めなきゃいけない。「妄止めば、寂生ず」である。

意識の活動水準を下げるためには頭で「意識を止めろ」といくら考えていたって埒が開かない。身体の筋という筋が全部緩まなければ、筋紡錘から絶えず脳へ信号が送られその働きを停止しないからである。そのために身体から余分な緊張を抜き去り、自ずから整うように誘い、その本来の働きに任せきって生きられるよう新たに訓練をする必要がある。

少し論に飛躍があったけれども、兎に角一人一人が意志をもって、自分というものがこの世界の中心であることを自覚すれば、その生命に対する信は今この瞬間から強固なものとなる。

この信を得ればいたずらに恐病の風潮に惑わされることもなく、世間に横行するあまたの世迷い事にももはや流されない、万難不屈の大丈夫に至る道もかくて開かれるのである。

答えはいつも我が身の内に在り、である。一人一人がそういう幸運に恵まれていることを自覚し、たゆまず参究すればやがて必ず流れ着く処がある。そこが世界の中心だ。

臨在は「赤肉団上に一無位の真人あり」と言い、永嘉は「絶学無為の閑道人」と言った。またトルストイは物質現象以前の存在、未来永劫に失われない内なる霊を悟り、その不滅を説いた。

どれも言葉が違うだけで意味する所は同じである。物質の世界がどう変化しようとも不滅の健全さと共にある自分、いや歪みようのない、侵されようのない自分というものが本来の自己である。

なるほど誰も彼もがひょこひょこ得られる心境ではないかもしれないが、一方では誰も彼もが今この瞬間に自覚しさえすれば、そこにそのまま現れる健康の人がある。

外の世界のあくたもくたに追われるあまり、くれぐれも掌中の珠を見逃さないでもらいたいと願う。かくいう自分もよくこれを見失うので、是非ともそのような生き方をという願心を日々新たにする今日この頃である。

そう考えれば目下の時勢も事上磨錬にちょうどいいかもしれない。今日もぼちぼち歩いて行こう。

情報の価値

つい先ごろまでyoutubeのゲーム実況を観るのが唯一の楽しみだったのに、年明けぐらいからいろんな発信者が急に増えだしてなんだか一気につまらなくなった。つまらないだけならいいが、さすがに昨今のウィルス情報の氾濫には気分が滅入るのでしかたなくサイトを開くのを控えている。

いまの世の中は誰もかれもが情報を欲しているようだ。仏教では貪・瞋・痴を苦しみの根本原因として戒めるが、その最初にあるのが貪、すなわち貪りである。

何も服が欲しいとか車が欲しいとかいう物欲だけが貪りではない。どっかに面白いニュースはないか、誰か気の利いたことを言わないか、あの人はこー言った、だがこっちの人はこう言っている、はたしてどっちが本当なんだと延々やっている。

そうやって自分のいまの実生活を自ら捨てて絶えず駆けずり回っていたらそれは立派な貪りである。そうこうする間に自分の目の前の現実の方がほったらかしになり、ぐしゃぐしゃになっていくではないか。洗濯か掃除でもしてた方が近所迷惑にもならないし、はるかに生産性がある。

はっきり言えば「情報」など最初からどれも偽物である。群盲が象を撫でる例え話があるけども、人間というのは誰も彼もが自分の立ち位置から見たものに勝手な見解をつけて語るようにできているのだ。

例えば試しに茶を飲んでみればわかる。茶を飲むと飲んだ時だけ茶の味がする。そこでどんな味がしたか?と聞いたらある者は旨かったと言うかもしれないし、あるいは渋かったというかもしれない、あるいは甘かったという者もいるかもしれない。しかしここで改めてもう一度飲んでもらいたい。

はたしてその「旨い」ということはどこにあったろうか。「渋い」とか「甘い」などという現象が本当にあったろうか。そう考えていくと言葉による現実描写の限界にすぐ気づくはずだ。実体の現象の方は時間にしても規模にしても言語をはるかに超えている。

だからといってがっかりすることもない。真実・真理というものは誰一人として見捨てることなく、いつだってどこにも隠されていない。むき出しになって今も自分の目の前に展開されているじゃないか。そういう観点からいえば世界はいつも平穏であり、平等なのである。

いつの世もそうだろうが、何か事が起こった時に一緒になって騒ぐ人間にはまあ事欠かない。いくらでも、どっからともなく野次馬は沸いてくる。文明生活というのは基本的にエネルギーが余るようにできているもんだから、退屈しのぎがあればすかさず飛び付くようになる。

それも余剰エネルギーの鬱散をはかる生理現象だろうし、人間もまた自然の動物であったことを認めざるをない。そんな人間でも訓練次第では境遇に左右されずに静かな世界を生きられるようになるのだから面白い。

頭ではくだらない話にすぐだまされるような輩でも、いのちの方は絶対にだまされない。降っても照ってもその通りのことがその通りに、そのまま展開するだけだ。愚かな頭というのはあっても愚かな生命はない。いのちは太古の昔から未来永劫、完全無欠である。

それ故意識の活動水準を極限まで下げて、いのちとの深いつながりを自覚している者はいつだって事の真偽を正確に見分けることができるのだ。

そういう開かれた目のことを慧眼とか心眼とかいう。

臨済宗の禅僧である大森曹玄老師の『心眼』という本にはそういうことが書いてある。老師がまだお若い時分に関東大震災に遭われた。そのところを少し長くなるが引用してみよう。

それは関東大震災のときでした。私は従兄弟の安否を気づかって、下谷の彼の家を見舞ったのですが、そこは猛火に包まれていて寄りつけるものではありませんでした。やむなく上野公園を迂廻して帰りかけると、偶然にも寛永寺坂付近で避難中の従兄弟の一家と逢いました。彼らとともに一夜をそこで野宿して、翌朝、彼と一緒に焼け跡に行き、焼け残った釜を拾って戻りかけた時のことです。

突如、どこからともなく「津波だッ」という叫び声が起こり、群衆はワーッとばかり、われ先に上野の山を目がけて走り出しました。私も釜を投げ出して、群衆とともに一目散に走りました。

空は雲煙に覆われて夕方のように暗いし、鷗でしょうか白い鳥の集団が上野の森を目指して飛んで行きます。たしかに津波の来そうな不気味な状景でした。

そのとき一人の壮年が立ちはだかって、大声で群衆を叱咤するように、

「馬鹿ッ、この近くに海はないぞッ!どこから津波が来るんだい!」

と怒鳴りました。この一声で冷静になってみると、なるほど津波の押し寄せる条件は上野の山下には何一つありません。群衆は悪夢から目覚めたように、ぞろぞろと焼け跡へ引き返して行くのでした。私の徴兵検査の前の年でした。

そのとき、私はしみじみと目覚めた一人の真実の叫びの力づよさを感じました。…

これは現代でも変わらず言えることだろう。東日本大震災の折にも大小さまざまなデマが飛び交ったことを記憶している人はまだ多いはずだ。私の知る限りでも、もうすぐにでも東京に直下型の大地震が来る、などといって地方に転居してしまった人までいた。

当然だがどこに行ったって地震もあれば雷もある。疫病も流行るし不況もくる。それで困るか困らないかは、自分の力量次第なのである。例え火星に行って住んだって、自分に煩悶があればその自分自身からは逃げられない。

これほどしっかりとした自分といういのちを与えられていながら、本来の自己というものに目覚めない限りは一向に主体というものが現れない。そういう者は絶えず時流に流され、人間に生まれながら風に舞う紙屑のように右往左往してしまうのである。

『臨済録』の中でもっとも有名な「随所に主となれば、立つ処みな真」という一句が千年の風雪に耐えたという事実からも、優秀な頭を持つ人間が外境に惑わされずにいることの難しさを理解できる。

私の整体の師匠が言っていたけれども、何か事が起こった時でも昔なら「まあちょっと落ち着け」とか「まず座れ」とかいう人が必ずいたという。兎に角、ひと呼吸おいて冷静になれ、という「できた」人物がそこにもここにもいたというのだ。しかしながら今はみんな動いてしまっているので、周囲の動揺に冷静に気づける人物が少なくなったことを憂いておられた。

野口先生も生前「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」とか「気のしっかりした人がいなくなった」とおっしゃっていたそうである。またある所には「どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る」とも記してある。これが判らなければ「鈍っている」と言うべきで、体を整え、心を静めれば自ずから判るのだと続け、身心の感受性を鋭敏に保つことの重要性を繰り返し説いている。

引用にあった「壮年」氏も、右往左往する群衆の中から必死に情報をかき集め、考え抜いたあげくに声を上げたわけでないことは明白である。いのちの根源から突き上げてくる「直感」より発せられた一声であり、まさしく魂の叫びである。

これに類するものとしてキリスト教文化圏にはスティル・スモール・ボイスという概念があるそうだが、理性の過剰亢進によって意識が混濁しやすい現代人からしたら、こうした幽かな「魂の声」や「神の声」を聴くことは困難を極める。

逆に言えば、多忙な現代を生きる今だからこそ、自主的に意識の鎮静化に努める時間を持つことが求められるのではないか。野口晴哉も「意識がつっかえたら、意識を閉じて無心(無意識)に訊く」と言い、ここでも瞑想の必要性を暗に示唆しているように思われる。

「落ち着く」というのは一見すると体とは別個にはたらく精神力のように思われるが、その実、精神を支える土台となるものは身体に他ならない。換言すれば落ち着きとは即ち身体能力なのである。

話を病気の方にシフトすると、結核でも克服して丈夫になっていく身体もあれば、風邪を乗り越えられずに死ぬ身体もある。これは学説ではなく事実である。

つまり生きた人間が持つ抵抗力ということを度外視したまま健康も治病も語れないはずなのだが、現実は無機的な研究室の試験管の中で病原菌の研究ばかりが盛んである。その結果病気に怯える知識は蔓延したかもしれないが、個人を如何に理解し丈夫に導くかという人間探求の道は頓挫したままである。

忘れないで欲しい。生きた人間は外境という風に吹かれて漂うだけの木の葉ではない。訓練と修行のやり方次第では、強い意志と主体性を確立して世界を幾重にも塗り替える力を持つ、可能性に満ちた稀有な生命体なのである。そういう人間に生まれたという僥倖に気づかないまま、真剣に悩むことも心底苦しむこともしないでただ飯を食って生きているようならこんな馬鹿な話はない。

先ほどの落ち着きの話と重ね合わせても、本当におそるべきは環境や外的ストレスではなく我が身体である。身体性の低下こそが諸悪の根源であり、身体性の再考、再構築こそが全人類を上げて取り組むべき焦眉の急なのだ。

いま横行する過剰な情報も発信者の身体性以上のものは出てこないだろうし、受信する方だって身体性が低ければその低い程度の情報に飛びついて延々と踊らされるはめになる。

そう考えると九年間も壁の前に座り続けただけで名前が残った達磨大師はやはり偉かったのだ。外界からの一切の刺激をそのまま享受し、またこちらかは無駄な言葉を一切発しない。禅の象徴ともいえる黙の精神の峻烈な体現である。

意図的に一切の情報発信をしなかったということが逆に強力な主張に化けて、それが1500年も語り継がれるというパラドックス。それこそ水疱の如く出たと同時に消えていくSNSのつぶやきの対極ではないか。ありがたいことに答えはいつも優秀な先駆者たちによって示されている。その教えを受け取れるかどうは個人の資質と努力に委ねられるのだが。

ここまでくれば何もあくせく出かけて行って世界を取り変える必要はない。自分を治めれば万事収まるのだから。ただちに馳求を止め、正坐し深い息をしよう。そして茶でも飲んで、無用な買いだめと動画のアップのをやめてくれ。いやだから俺も黙って深い息をすればいいのか。自分の掘った穴に落っこちてしまった‥。

結局いのちの真相は

しばらく前からタイトルに「いのちの真相を求めて」とか書いてあるが、実のところもう求めていない。気がついたら知りたいと思っていた自分は何処かへ行っていた。

この世界がどうなっているのか、自分とは何か、こころとは何か、四苦八苦しながら奮闘しているうちに、「そうか」という体験をいつのまにか通過して、その体験したことももうどこにもない。

30歳の頃だったか当時は整体道場と太極拳の教室に並行して通っていた。その太極拳の練習中にお世話になっていた先生に「お前は心はないのか!?」と詰め寄られ、数秒考えた挙句「‥わかりません‥」と答えた。するとそこにいた古いお弟子さんも交えて「コイツ心があるかわかんないんだって!」と嘲笑されたことを思い出す。

自分としては慎重に答えたつもりである。こころとは一体何か、それがあるのかないのかもわからない、わからなかったのだ。だが今は答えられるようになった。ありがたいことである。

断っておくと、心理学で扱う「心のしくみ」は現在もさまざまなロジックが構築されているので、すべての学派の説を体感的に理解するにはもっと時間がかかるだろう。

しかしそれとは別の次元で、生命の源泉としてのこころなら確信があるのだ。人にどういわれようと、自分の中には疑いようのない実感がある。だからもういのちの真相は求めていない。自分は。

しかしこれを人に伝えるとなるとむずかしい。たいていは現象化した実体の方に掴まって、実体以前の本体であるこころの方になかなか辿り着けない。

しかしこういうこともよく考えてみれば、理解者を求めようという心がすでに捉われているのかもしれない。苦労して美味しいものをようやく見つけたのだから、自分一人で味わっておけばいいではないか、と思わないでもない。

しかしながら、例えば仏教でいえばお釈迦さまもそこで本当に苦労された。36歳で自己の真相を明らかにされた。そこから何の苦労もなく平穏な世界を生きられたか、というとむしろそこからが本当につらい修行の連続だった。人々の苦しみをぬぐおうとして、その道の途上で肉体の方が尽きてしまった。

以来仏教は数えるほどのきちっとした指導者が実人生の責め苦に負けずに生ききってこられたからこそ、かろうじて種切れしないで現在までつながってきた。これは理想主義の観念論ではなく、まぎれもない事実である。

もちろん途中で変質したもの、道から外れたものも傍系直系を含めてあまたあったろうけど、そういう中に本当にわずかだけども立派な修行者が出たおかげで、現在でも我々がその教えの恩恵に預かれる。だったら、凡人が同じことをやろうとするならよほど気を付けないといけない、とか思ったりもする。

こころを明らかにすれば世界を覆っていた無明の蓋は消失する。いわゆる「漆桶の底を打破する」とか言うものだけれども、するとどうなるか。あれほどどうにかしなければ、と思っていた世界は整然と本来の姿を現す。最初から世界は泣きも笑いもしない、平凡そのものである。平凡を乱すものがあれば、それは自分の意識が作り出した雑音に自分が踊っているだけである。

このことを心底感得すれば先ずはひと区切りである。ようやく自分の人生のスタート地点に立てたと言っていいと思う。本当の答えは意識以前の感覚にこそある。

何も科学の進歩を放棄しろとは言わない。科学は進歩すればいい。物質を駆使して、いのちの要求を満たすための道具なのだから。

しかし科学の進歩の先に「幸福」があると信じたら、これまでの歴史が示したように何度でも失意のどん底に落ち込まねばならないだろう。

事実といわれる現象、その物体をうごかしているこころと呼ばれるエネルギーは分析知を土台とする科学の俎上に登ることは絶対にない。認識以前の「何か」、それがいのちの真相だからである。それを誰にもやさしく説ける人があれば、その人は本当の宗教者である。

先に仏教だけを取り上げたけれども、別に他宗と呼ばれるところにだって、いや宗教というフィールド以外にだってしっかりした人はいくらでもいる。いのちの真相に目覚めると衆に溶け込んでしまうので、その光はむしろ見えずらくなる。

一方でそれは当人がよほど強く求めなければ得られない。自分で自分のルートを見つけ着実に歩まなければ、たとえ手にしても本来の輝きに気づくこともないだろう。やはり生を受けた以上一度でも疑念を抱いたなら、誰もがいのちの真相を求めるべきではないか。それこそが本当の人類進歩の道だと思う。

自己実現の前に

久しぶりにせい氣院のサイトにページを追加した。「自我と自己」。

もとを正せば「自己実現」に関するページを作りたかったのだが、それを書くためにはその実現する「自己とは何か」を説明しないといけないことに気づき、さらに自己を説明するには「自我」について書かないと、と縷々必要性が生じてきて「自我と自己」を先に書くことにした。

河合隼雄先生の『ユング心理学入門』や『影の現象学』で使用されている図をもとに、まあまあいい感じの作図もできたのでまずまずの解りやすさに仕上がったと思う、……と思います。

ともあれ自己実現の方も早晩アップしたいので妻とこつこつ作業を続けている。

自己実現という言葉には一つ思い出がある。まだこの仕事をはじめたばかりの時に相談に来られた方が、問診票の〔希望欄〕に「自己実現」と書かれたことがあった。

内心「ああ、それはすばらしいな」と思ったけど、その当時はそれが何だかわからなかったのだ。わからないけれども一所懸命やってればなんとかなるだろうという素人の情熱頼みで(今考えると怖ろしいが)、とにかく頑張ったのを覚えている。

自己実現と言った場合一般的には「夢がかなう」といったようなニュアンスが濃いように思うけれども、これがユング派の心理学の中に留まった場合、その意味はだいぶ異なる。

もとを正せば「個性化の過程(process of individuation)」という、個人が他の誰でもない「自分自身になっていくこころのプロセス」を指した言葉であった。それがアメリカに渡っていつの頃からか「自己実現(self realization)」という言葉に成り代わり、やがて日本語としても定着したようだ。

これはアメリカン・ドリームというような直線的な成功主義とでも言ったらいいようなアメリカらしい語彙の変質と思える。先にも述べたように原初的な意味での「自己、実現」とは、意識的な努力によって富や名声を勝ち取るといったたぐいのものとは一線を画する概念である。

元にかえって個性化の過程といった場合、それは本当の意味での「個性」を確立するために、危険を顧みないでこころの深層に向かって掘り進んでいく、という極めて内的な修養的活動を意味する。

これは生を充実させることで死を豊かにしようとする、宗教行為の原型にも通じるものである。さらに言えばこころの奥底から湧出する純度の高い生命の要求に従って自分自身になっていく、「人格の変容と成長の途上」に重きを置く厳粛な態度とも言える。

ここで留意すべき点は個人が人格の変容と成長に向かって行くこころの動きは、必ずしも現状の社会に認知されるような普遍的価値観に則しているとは限らない、ということである。というよりは、むしろ一般に共有される成功の概念や社会的価値観に離反する形で「個性化」は現れることの方がずっと多いように思う。

現代的には「不登校」などがその典型ともいえそうだが、またこれを安易な見立てで「不登校=個性化」とみなして、無条件に「よしよし、」と容認するような態度は戒めるできである

多くの場合、個性化には長い道のりと独特の苦痛を伴う。子供が真の個性化の道を歩むには当然のことながら周囲の関係者(多くは保護者や養育者といった親族や教師、あるいは級友など)を巻き込みつつ、その葛藤を共有する人たちの惜しみない共感と協力が不可欠だからである。

少し脱線したが、よく考えれば現世で財を成すことや社会的な成功を収めるという行為はそもそもが他人の作った価値観に依拠するものである。生まれてきた子供が「俺は大臣になるぞ」とか「他を押しのけてでも成功するのだ」などとは言わないもので、野口整体でいうところの「裡の要求」に即した子供の生活というのは極めて恬澹としたものである。大人はこうした子供の在り様から学べることは多い。

人間といえど一生物である以上、本源的には「ただ生きる」という要求が在るのみなのである。それも分解すると種族保存の要求と自己保存の要求にわけられるが、要約すればそれは子孫を創造することと、そのために毎日食べていくことになる。

さまざまな欲求をずっと根本まで遡っていくと、究極的には花と団子しかないのが人間なのである。

そこに個人的な(個体独自の)感受性傾向というものが反映されて、まさしく独自の人生が展開されていくことが「自然な」生の営みではないだろうか。

ところが実際問題人として生きていくためには、個人的な感受性や欲求に基づいた生き方「だけ」を前面に押し出していく訳にもいかず、必ず外界(当世の価値観や宗教的な教義、政治思想など)との親和性を要求される。そうして当人は自身の内的な欲求と外的価値観の狭間で呻吟しながら生きることを強いられるのが常である。

そこで自分の裡から湧き上がってくる情動とすっぱり縁を切って(そのようなことはできないのだが、そのような「つもり」で)、外界適応に徹して生きる道を選べば一面的には安定を実感することだでき、まっとうに生きることができるかのようにも思われる。

しかしながら生きた人間というのは科学者が論じる非人間的な人間とは異なるものである。実際は感情をはじめ多様なこころをもった生体であるために、外界適応に徹し過ぎたあまり、意識との連絡を絶たれたことで積りに積もった「裡なる声」の反逆ともいえるような(ある意味で治癒的なはたらきとも考えられる)症状が現れることがある。

ノイローゼなどはこうした内的な無声の声が自我を圧迫して起こる、非自覚的な葛藤状態といってよいように思う。

いわば自己実現がはじまる一歩手前で逡巡している「待ち」の時期であり、自身の無意識の活動に畏れ、足踏みしているような体勢ともとれる。

俗にいう「生みの苦しみ」などという言葉もこのようなこころの性質に照らし合わせて考えると、そのメカニズムとの整合性と相まって味わい深く理解されるのではないだろうか。

少し長くなったが以上の内容をもってしても、世間で期待されるほどに自己実現が全面的に「善い」ものではないことが想像できるのではないだろうか。

もちろん巨視的には善としての顔も持ち合わせてはいるだろうが、その実体は善悪を超越した破壊的創造性を発現するダイナミックな精神活動であることを心に留め置く必要はあるだろう。

さもなくば無意識の強大な力を前にした途端、急激に自我の安定性が脅かされて精神疾患の様相を呈するやもしれないし、あるいはそうした危険性をそれこそ無意識的に避けようとした結果、意識の枠内で浅薄な理想主義や成功哲学をあれこれ論じるだけの「自己実現ごっこ」に興じて終わる例も少なくはないのである。

後者の場合は比較的安全な自我の防衛手段ともいえそうだが、このようなものが真の自己啓発や心理療法としてひろく世間に認知されることは、現在苦悩の淵にある多くのクライエントの可能性を摩滅させることになりかねず、大変に惜しいことである(かといって、あまり「本モノ」が流布するのも問題かもしれないが)。

ホームページには上に書いた内容も踏まえつつ、もう少し射程を広げて書こうと模索している。自分の体験や臨床経験も織り交ぜて書くことになると思うので、少々客観性や信憑性は犠牲になるかもしれないが、人間のこころの成長モデルについて少し踏み込んだ内容にできたら面白いと思っている。

フランクル『夜と霧』

ようやくフランクルの『夜と霧』を読んだ。

知らない方もいると思うので一応概要を書いておくと、これは一人の心理学者(医師)によるナチス強制収容所の体験記である。そしてそこから醸成された人間心理に対する一大省察によって全章が結ばれている。

ちなみに『夜と霧』というタイトルは日本の翻訳者の手によるもので(なんという名訳‥)、原題は『強制収容所における一心理学者の体験』というものだそう。

最近では東日本大震災の折に被災された地域の方々にも多く読まれたらしい。生死の際から奇跡的に生還した人の体験記録が、静かでありながらも力強いこころの灯になったのかもしれない。

当然ながらかなり深刻な内容だが「高校生の時に読んだ」なんていう方も結構な割合でいるみたいで、40過ぎてから手にした自分に向かって「今さらですか‥」と思ったりなんだり‥。

まあとにかく、人間の心理、というか「人」に直接たずさわる職業についている人ならば、できるだけ早い段階で読んだ方がいいなと思った。

何しろ人類史上最悪級と言われる境遇の中で、「普通の人々」がどのように変貌し、いかに振舞ったかという貴重な体験記録なのだ。

本書にちなんでいろんなことが書けそうだが、何よりもまだ読んだことがない方には是非読んでください、と言いたい。

読みながら終始いろんなことを考えたので、所感についてはまた改めて書いてみようと思う。ひとまず今日はここまでで。

病気は体の自然良能

2003年に『風邪の効用』がちくま文庫に入ってから今年ですでに17年経っている。

10年ひと昔という言葉に照らせばもうふた昔は前になろうかという話だが、当時は大手書店では平済みの状態が続き、まあまあのセンセーションをもたらしたようである。そこから比べれば「野口整体ブーム」も今はやや小康状態になったとみるべきだろうか。

それにしても野口先生の存命中は「病症が身体を整えている」というだけで、かなりのトンデモ説として非難されたそうである。

考えてみれば往時の日本はペニシリンやストマイを西洋から流入したおかげでようやく死病を克服できそうだと安堵していたさ中であった。

一見して高度な合理性を示す科学的医療の威力に目がくらんで、科学を絶対的に信じている人が大半の時代だったのだ。

その時にいち早く西洋医療の限界と問題点を指摘した先見性はもっと評価されるべきだと思う。

現代はそこからまた少し科学の方が進んだので、例えば熱が出るとその熱で症状を引き起こしている病原菌が死滅するのだ、という解釈も場所によっては受け入れられるようにはなってきた。

ただ注意がいるのは「病菌さえなくなればいいのだ」という見方に引っかかると、やはりそれは善悪の二元対立の世界に留まることになってしまうことだ。そうであるうちはどうしても是非と善悪の間でうろうろしてしまう。

病菌自体の存在も地球規模というか、宇宙的視野でとらえようとすると、善も悪もない「ただそのようにある」という一大活動体の中から一部を切り出して悪しと見ているだけである。

だから苦しければ苦しい、痛ければ痛い、というそのことで終わっておけば、それも宇宙全体の健やかな動きとして自覚できる時が必ず来る。

科学を基盤とする近代的な価値基準に生きる人たちに対して、ある種のコスモロジーの転換を迫ろうとするのが野口晴哉の説いた整体法という世界である。

こういう視点はそもそも東洋では昔からあるもので、例えば禅という世界がまずそうだし、天行健を冒頭に掲げる「易」もはるか昔から同じことを言っている。

是非、善悪、上下、苦楽といった二元的な対立概念はよくみればそれを見る人が与えた評価なのである。そして同じ人でも昨日と今日ではもう変わってしまう。

そういう不確実な考え方をもとに世界を理解し、コントロールしようとあくせくするより、「ただそのようにある」実態のほうに自分のいのちをそっくり浮かべて漂うな気持ちになってみたらどうであろうか。

法然の南無阿弥陀仏とか親鸞の自然法爾というのはこれだろう。キリスト教の方では「神のみ心のままに」というきれいな言葉があるけれども、キリストの宗教者としての強さをよく表していると思う。

人間には最初から拠り所などない。

もしも「唯一絶対」というものがこの世にあるとすれば、それは今こうして展開するいのちだけである。

頭の中を虚しくポカンとさせて、今を十全に生きようというのが整体法の説いた道である。

良し悪しを思う心がやめば、病気も一つの健康の働きであり、体の自然良能であることがわかる。

健全な動きの中にある一つの状態を人間が切り出して、「良い」とか「悪い」とか言っているにすぎない。

そういう観点で『風邪の効用』にもう一度目を通していくと、整体法が事実に即した生命観であり不易のものであることが実感できる。

とりわけ巻末の「愉気について」は圧巻である。風邪やその他の病名に拘泥して、不安に駆られたままあくせく治そうとするのではなく、先ず「病気しているその心を正す」ことが肝要であると説いている。

この辺りのところが整体法の精髄といっていいのかもしれない。

ただしここからが難しいのだが、これをさらっと信じられる人と、どうにも受け入れられない人がいる。

後者のような人を「常識の豊かな人」というのだが、実のところこういう人たちのおかげで整体がこの世に生まれたと言えなくもない。

考えてみれば信仰とかドグマというのは「受け入れられない人」がいるからその存在価値もあるわけで、みんなが「そうだ」と信じていたら、今さら改めて説く必要もない。

キリスト教も仏教もいつまでもなくならないのは、その愛も慈悲も悟りもなかなか受諾されないからに他ならない。

『整体入門』も『風邪の効用』も一般書の中に紛れ込んでいるのでうっかりすると見過ごしてしまいそうだが、その内容は教育、医療、宗教を分け隔てすることなく人間を全一的に導くための示唆に富んだもので、その功徳は計り知れない。

折に触れて読むといつも偏りかけた自分の心の姿勢を正される気がする。一冊の本の中に整体の技術としての潜在意識教育が盛り込まれているのだ。

私と“それ”

久しぶりに河合隼雄の『こころの読書教室』を読み返した。

本を読むと「こころ」にとってこんなにいいことがある、だから是非みなさん、もっと本を読んでくださいという本である。

この前書いたファンタジーが生まれるためにはどうのこうの…というのはどうもここに元ネタがあったような気がする。

全体で四部から構成されている本書の第一部が「私と“それ”」という見出しから始まるのだ。

“それ”というのはフロイトが用いた無意識を指す言葉「es」に相当するもので、日本語に訳すと文字通り「それ」に該当するそうだ。

私たちが普段的に「わたし、わたし…」と言っているとき、それはこころの全体の中のごく一部分である「自我(ego)」のことを表している場合が多い。

その自我の領域内から承認を得られず排斥されたこころの働き(受け入れがたい感情など)が“それ”の中にはたくさん貯蔵されているという考え方をまずフロイトが打ち出した。

いわゆるノイローゼ、というのは普段固く閉ざされているはずの“それ”(無意識)の扉がふいに開いてしまい、自我の安定性がおびやかされている状態だと考えられている。

こうなってしまうと本人も日常生活がままならなくなるし、周囲もその病状に巻き込まれて様々な苦労を強いられることが多い。

そうなると当然本人も周囲も、「こころの病気だから一日も早く元の安定した状態へ治したい」と考えやすい。

ところがユング派に至ってから無意識に対する見方が変わってきて、むしろこの状態こそがこころに具わっている補償的な動きではないかと考えるようになった。

つまりこのような煩悶自体が何らかの「治癒」的な働きであると仮定し、「早く治そう」とは考えずに、むしろいかにこの時期を「創造的に」過ごすかということに注力するのである。

ノイローゼや鬱と言われる状態はときに命を脅かすこともある。これらの病症だけにフォーカスすると、こころの中の無意識という領域は何を引き起こすかわからない恐ろしいブラックボックスにしか見えない。

しかしながらそこをもう少し視野を広げて巨視的に見ていくと、こうした煩悶の時期をじっくり経過したことで非常に安定的且つ個性的な人格を形成していくケースが少なくないのである。言ってみれば、無意識はその人の人生全体においては想定外の実りをもたらすトレジャーボックスにも成り得るのである。

この場合、何が良いか悪いかというのは見る人の主観にゆだねられると思っていいだろう。古くから「万事塞翁が馬」などというように、一見して不幸にしか見えないような体験でも、それを中長期的にじーっと見ていく習慣が身に付くと、思わぬ「好転」につながっていくような事象は少なくないのである。そう考えてみると、どのような事でもうかつに幸・不幸などと断定的な物言いはしずらくなるものである。

何にせよ、こころの深奥には我々の意識でははかり知れない「何らかの創造性」が内包されているいう仮説はそうそう否定はできないだろう。

「病の創造性」ともいわれるこうした側面はもとを辿ればアンリ・エレンベルガーという一人の精神科医による着想まで遡るの。個人の病症体験に「ある種」の有益性を見い出そうとするこのような見方は実は整体法(野口整体)とも親和性が高いのだ。

整体法とは生命に対する絶対的ともとれる信頼から生まれたもので、後天的な訓練によって健康を増進するような類のものではなく、いかにして「いのち」に元から具わる力と可能性を喚起させるかが主眼なのである。

無意識というのは換言すれば身体そのものである。その中でも生命活動の根本を担う中枢神経系(脊椎)を観察することで、“それ”の動きや訴えが如実に現れていることが解る。

野口晴哉先生が「(人間は)背中がオモテである」と言ったのはこのような事情によるもので、整体指導とは言わば“それ”の力を開放するために身体を通じて無意識の訴えを「訊く」のがその本領である。

ついでに言えば「治療」という行為には浅い深いがあると思っている。それらを最終的なところまで煎じ詰めていくと、「私と“それ”」の関係性を如何に調停するか、というのが根源にあるのではないだろうか。

このような回答に至るまでなかなかの時間と体験を有したが、河合さんの本にはずいぶん助けられたように思う。本書の有益性を上げていくときりがなくなりそうだが、そういう訳でやはりみなさんにもお勧めしたい一冊なのだ。

ファンタジーの生まれるところ

いきおい子供向けの映画シンカリオンに辛い評価をしてしまったが、そもそも商業ベースのアニメというのはこのぐらいで合格点なのかもしれない。

あとで調べてみるとテレビ放映も打ち切りという形で終わってしまったらしいので、それから頑張って映画を作ると言っても、モチベーションから何からクオリティを保つのは難しかったと予想される。

いや、シンカリオンは子供がアマゾンプライムで観ているのを横で観ていて、ところどころ「よくできているなぁ」と思っていたのだ。それだけにもったいなくも感じた次第である。

もとより利益を最優先に大所帯で作っていく映画と、一人の作家が死にかけながら生み出していく物語はまったく別物と思うべきかもしれない。

ところで最近手に取った『三つの鏡』という本の中に、ファンタジー作家のミヒャエル・エンデと心理療法家である河合隼雄先生の対談が収められている。その中で「ファンタジー」ということについて興味深いかたちで言及されている箇所があったので以下に引用する。

河合 意味を与えるというのはファンタジーですよね。

エンデ その通りです。で、その場合、批判するつもりはありませんが、私は日本のファンタジー作家と呼ばれている人たちと、何人か知り合いました。その印象でいうと、ファンタジーと言うにはちょっと軽率で、ただの作り物、愉快な遊びに過ぎないような事柄をファンタジーと言ってしまっている。「楽しければ結構だ」というにすぎないような気がします。

という、一見してなかなか厳しい見解に聞こえるが、プロの作家が下した素直な評価と思う。

考えてみれば日本は豊かになったとはいえ、物を作る際に費やされるこころの方はどうだろうか。

貧しい小説家が食うや食わずで書き上げた作品が、現代の衣食足りて知的教育が行き渡った作家のものと比べて劣るとは言えないはずだ。

もちろんハングリーならそれだけで良作が生まれるとも言えないだろうが、かつては全身心を振り絞って生み出していたものが、現代の作品の多くは頭だけが過剰に働いた結果生じる思考の沈殿物のように感じられる。

それだけでなく最近の漫画やおもちゃを観ていると、どうも金に使われ過ぎて「子供に夢を見させる」という制作サイドのゆとりやふところの深さ、温かみのようなものが私には感じられない。

ガチャとかゲームにしても、「こんなもん渡されてホントに子どもが喜ぶと思ってるのだろうか?」と疑いたくなるような(中にはだましとも呼べそうな)ものが平気で散乱している。

何を作るにも金に追われ過ぎて「絶対に外してはいけない」「失敗だけはゆるされない」という空気感の中で、結局当たり障りのない、当たりともハズレともつかないような商品が大量生産されているのではないだろうか。

それこそ「売れさえすれば結構だ」と言わんばかりに‥。いや、その結果売れなくなるのだが‥。

よく考えればさっき紹介した『三つの鏡』が出版されたのが1989年だから、こうした風潮は今に始まったことではないのだろう。

ともかく、少なくともファンタジーと呼べるもの、本当の「物語」を生み出す行為には相当な心的エネルギーが費やされるようである。場合によっては命にかかわるほどに。

ともすれば大袈裟に聞こえるかもしれないが、現実問題小説家をはじめ有名無名に限らずクリエイターに自殺者が多いのはこのような事情と無関係ではないと私は思う。

人間心理の深みに張られた琴線にふれる物語は、作者自身がそれ相応のこころの深みにまで到達してはじめて汲み取ることができるのではないだろうか。

無意識の扉をおそるおそる開いたのち慎重かつ大胆に歩を進め、七転八倒しながら「たましい」のぎりぎりのところまで迫る行為が「創作活動」の真の姿である。さらにそこから無事生還できた者だけがかろうじてファンタジーと呼ぶに値する物語を語れるのかもしれない。

そうでないものはわずか数ヶ月の風雪にも耐えきれずに淘汰の運命を辿るわけだが、こうして書いてみるとそれはそれで存在意義があるような気もしてきた。

右を見ても左を観ても本物の「ファンタジー」ではこころの休まる暇がないし、成長期にある子供からしたらアイデンティティの確立がむずかしくなるかもしれない。

そして何より「いいもの」は、少ないから「いい」のである。

食事に例えればお母さんの作ったご飯もあればポテチもあるというようなもので、どっちかがあれば片方がいらないという話ではない。最初から「別の物なのだよ」という話である。

ただあまりにもイミテーションが多過ぎて、はじめて世界に触れる子供たちが駄菓子ばかり食べて、つまり「まあ世の中のものは大体こんなものだ」と誤認してしまうのはよくないぁとは思う。

そこも子供なりの純粋さと直観で大人の手抜きや欺瞞は案外見破れそうな気がするが、提供する側としては少なくともそこに真があるかどうかの区別だけは自分自身ではっきりしておくべきだと思う。

ジャンクフードばかりでまともな発育は望めないわけで、当然自分の味覚だけは狂わないよう舌はいつも肥えさせておくべきだ。まあ死なない程度にファンタジーには親しんでおこうと思う。

おじさんはついていけませんでした

大晦日は太郎丸(5才)と劇場版シンカリオンを観に行った。あとミツコもいっしょに。

内容はまーとにかく、ついていけなかった‥。orz

話が読めん。。

頭からおしりまでロボットの変形シーンばっかりで、疲れたなぁ。

好きか嫌いかでいったら好きだけど、観に行ってよかった、とも思うけど。

エヴァも出てくるし、発音ミクもいるし、ゴジラとかもはやなんでコラボかわからないし、いろいろ詰め込みすぎて観てる方はかなり精神的体力が削られた。

しかしまぁ、なんていうか最近のアニメってあんまりギスギスした感じは好まれないのかなぁとか思ったりなんだり。そこに関してはホントにいいと思う。

昔のアニメみたいに「いじめっ子」とか「いやな奴」というキャラはほぼ存在しない。

それとは別に「暗い子」とか「周りと打ち解けられない子」、そして「感情表現のとぼしい子(できない子・わからない子)」というキャラクターは今や定番なのかもしれない。

そして最終的にはこころを開いて「仲間は協力し合う」という構図になる訳だけど(今回の映画の筋とは外れるが)、これが(日本の)「現代だ」といわれればそんな気がしないでもない。

ごく主観的なものだけど、さっきも言ったように現代っ子にはギスギスしたものや殺伐とした感じを受けることはあまりない。

まあネット上でのいじめとか暴力はむしろ上昇傾向になるのかもしれないけど、顔を見て話すとそういう暴力性みたいのものは裏側に隠れてしまうのか、直接的に感じることはそれほどないのだ。

だいたい自分らの世代から「過保護」とか「温室育ち」なんていう言葉が横行したように思うが、当時は「だからだめなんだ」という角度の物言いが多かった気がする。

しかし「衣食足りて礼節を知る」と古語にもある通り、餓えればそれなりに荒れることもあろうし、満腹ならゆたっとするのが動物の性(さが)である。

そういう意味である面非常にゆったりした所があるのが「今時の子」の特徴なのかと思ったりなんだり。

一方で「最近の子どもは」とか「今の若者は」と言った時点でもう自分は淘汰の対象になってるらしいではないか。

だから単に「私が古くなった」という事実も受け止めなければいけないのかなとも思う。

とかまあなんだかんだ考えさせられることはあって、一応は楽しませてもらいました。

でもストーリーとかに関してはいろいろ思うところはあったなあ。まあそれはちょっとまた別の記事にしようと思う。

無意識の発見

ひと月ほど前からエレンベルガーの『無意識の発見』を読んでいる。

本の概要を簡単にいえば、心理学及び精神医学の原点を祈祷や祈りといった原初的なシャーマニズムのレベルまでさかのぼり、その実態をあきらかにしようと試みた良書である。

またフロイト以降に排出される個性豊かな治療者たちのパーソナリティや個人的体験を通じて、様々に枝分かれしていった精神医学の各学派を冷静かつ公正な目で人間の心や精神に迫まろうとした大著と言っていいだろう。

そうした古今東西の精神療法がおよぼす身体への影響とその後の人格の変化、さらには人生全般の創造性にまで目を向けて考察していくのだ。

この本を手にして自分の頭に最初に浮かんだ言葉は「ああ、これでやっと〈野口整体〉から離れられる」だった。

わざわざ〈〉カッコ付になっているのは概念としての〈野口整体〉のことを指すためで、無形のものとしての「ソレ」はもはや離れたり辞めたりできるようなものではなく、もはや自分の血肉となって埋め込まれている。

また、「離れる」ということと「辞める」ということまた違う意味である。

これまでは「整体法を主体的に実践する」ということに偏っていたけれども、では一体これがどのようなものなのか、ということをもう少し巨視的な目でその個性や特徴、現代における存在価値等々を客観的に明らかにするためには一旦「離れ」なければならない。

そういう意味で自分と整体との間に距離を作ってくれる本になってくれそうだ。

上下巻合わせて900頁を超えるので、なかなかのボリュームである。

全部読み終わってから感想を、となると中々とんでもないことになりそうなので読みながら「これは」と思うことに出会ったら小出しに所感を述べてみたい。

すでに序章、第一章の段階でいろいろ思うところあるので、近々文章化できるかと思う。