個人の健康

「集団免疫」という言葉を最近よく耳にするようになった。

わかっているようで曖昧な語句なので調べてみたところ、どうもこれは「社会」とか「国民」みたいな言葉と同じで、概念だけがあって実体はないようである。

社会学者や経済学者が便宜で用いる観念語で、医学的には定義がシッカリとは確立していないのかもしれない。

おおよその意味としたら、特定の病気に対する抵抗力を具えた人の割合が一定に達っした状態を指しているようだ。

この集団免疫なるものが具わる過程では、個体生命はそれぞれの運命をたどる。大別すれば、細菌もしくはウィルスに感染しても発症しない人、感染したのち病症経過に耐えて免疫を獲得する人、耐えきれずに絶命する人、とおよそこの三通りである。

こういう自然の「はたらき」のことを日本語では「淘汰」という。地球上の生き物は誰もこの自然淘汰の摂理から逃れることはできない。だから極論を言えば、個人も全体も遅かれ早かれその方向に流れていくもので、ことさら集団に向けて免疫を付けようと頭を熱くする必要はない。

コロナに関して個人的に気になるのは「どういう身体の人が罹っているのか」という、これにつきる。また重症化するのはどういう身体なのか。

同じ型のウィルスが接触、侵入しても、A氏とB氏の体内では全く異なった動きをする。このときA氏のことはA氏からしか学べないし、B氏についてもまた同様である。

こういうことは現代科学の視野からはもれているから、一生懸命研究しても「ウィルスに対する薬」という枠組みの中に収まる。これはこれでもちろん「社会」の役に立っている。

ただこの線で行くとどうしても新種の病気を前にしては薬がないので対応できない。研究がある程度進んで「標準医療」が制定されるまでは現場はただ見ているより他ない。

ただし病気の実態がわからなくても、個人としてできることがある。それは自分の身体の弾力を保つように心掛け生活をすることである。

筋肉は裏切らないという標語は浮薄な世相を象徴する空念仏のようなもので、本当に裏切らないのは「弾力」なのである。

どんな生き物でも生まれたての赤ん坊がもっとも柔らかく、老衰するとほうぼうが固くなっていく。身体に問題や悩みを持つ人は必ずどこかに偏った固さがある。

死は全身の麻痺であり物化なのだから、弾力を失うことはそれだけ死に近づいたことを意味するのだ。これはどんな場合でも良いことではない。

ところが病気にかかった時にこれを徹底的に使いこなして経過すると、身体に偏在する部分的麻痺状態が快癒する。野口晴哉が『風邪の効用』で訴えた核心はこれである。

つまりは病気そのものがこわばった身体に弾力を取り戻す回復作用になっている。だから肺炎が流行るには肺炎を必要とする身体が先に流行っている、という見方もここに生じてくる。

社会や集団について漠然と思いをめぐらすよりも、個人の身体を丁寧に観察していくことの方が結果的に社会を健やかに導くはずだ。一見遠回りにみえるこの道は健康生活の基礎として案外着実でないだろうか。

コロナ禍をきっかけに個人の健康、個人の身体を丁寧に見るようになったら禍も転じて福となるだろうが、現状を見る限りそういう気配はまだない。

時期が早いだけなのか、どうなのか。わからないけれども自分は整体法と活元運動の種を撒く。

臨済は法を伝えるたえに松を栽え、ルターは人間の未来を信じてリンゴの木を植えた。それらは巨木とは言えないまでも、何世紀もの風雪に耐えて深く強く根を張っている。物の興廃はまったく人に由る。

いつの世も嘘は好まれ、真実はなぜか歓迎されない。嘘で物質的な飢えは満たせても、精神的な飢えを満たせるのは真実だけである。知った以上は世に問い続ける責任があると思っている。

「科学的」であるために

息子(6歳)が保育園で友達とケンカしたという。6歳児ならケンカぐらい毎日するだろうと思ったが、問題の焦点は石鹸で手を洗うべきか否かだったそうで、これでは先生も報告せざるを得ない。

息子が「ばい菌はちょっと残しといたほうが(体のバランスとして)いいから石鹸は使わない」というのに対して、相手のAクン(仮)は「ばい菌はキタナイから石鹸でしっかり洗い落とさなければならない」と言う。

そのままお互い譲らずワー!となったそうだが、先生が間に入って「いろいろな考えの人がいていいんだよ」と収められたそうである。

後で息子には「うちの考え方は少数派なのだ、(ばい菌を)怖がっている人たちの前では石鹸を使うという気遣いも必要なんだよ」と釈明したが、時節がら私がもう少し配慮しなければならなかった。

さて、この話を取り上げたのは「どちらが正しいか」を後から追求するためではなく、別な角度からこのやり取りが気になったからである。

それは「科学的」という視点についてである。「科学的に正しい」ということは言うまでもなく現代においては錦の御旗である。

一般にはAクンの主張は「科学的に正しい」とみなされがちである。免疫学による人体の抵抗作用の考え方よりも細菌学の感染症恐怖の主張が優勢なためにぱっと見正論に見えるのだ。

しかし事実に即して考えるなら、洗わない手でお菓子のつまみ食いをした人たちが毎回お腹が痛くなるわけでもなく、またほとんどの病気にもかからない。

石鹸で手を洗うのは人間の中でも一部で、それ以外の人間やもっと「不衛生な」環境下にいるネズミとかゴキブリがいつの世もあふれているのは野生が衛生知識に勝ることの実証であり、生命の恒常性(錐体外路系)の力を認めざるを得ない。

だからといって息子の態度がより「科学的である」という考えには当然至らない。

そもそもこれだけ科学の大好きな先進文明国の人間が、「科学的とは何か?」ということをどれだけ明確に答えられるかとなると、だいぶ怪しいように思われる。

「科学的」ということの定義をどんどん科学的に突き詰めていくと最後は大分あいまいになるそうだが、私流に言わせれば「それは本当だろうか?」という思考態度になる。

おそらくだが息子もAクンも「ばい菌」など肉眼でも顕微鏡でも見たことはないのだ。

息子は親の言葉を鵜吞みにし、Aクンにも世間一般の論理に対する鵜呑みがある。

お互いが「人がこう言っているからこうなのだ」という考え方を持ち寄り、それを比較してお互いの非をつっ突き合う。人間の争いのひな型がここにある。俗人の神学論争、宗教戦争といえどこの域を出ない。

もしAクンにジェンナーの種痘の話を聞かせて、「予防接種の注射器の中身にはばい菌も使うんだ」と教えたらどうなるだろうか。「鵜呑み」という態度の問題点に気づき、人の話を聞くときにもっと慎重になるかもしれない。

「毒をもって毒を制する」というのは古人の観念論ではなく、毒も薬も同じ物質の二つの側面であることを感覚的に掴んでいたことを匂わせる。

生活に直結しない知識の押し売りよりも、自発的に沸いた興味を丁寧に見つめ「事実に学ぶ」という意欲を育てることはもっと重要ではないだろうか。

息子にもコッホやパスツールの細菌学の話をしたら、ばい菌の怖しい面を理解するだろう。

一人の人間の身体には数えきれない微生物が共存しているが、その数はそれぞれが拮抗し、均衡を保ち、お互いの個体生命の全うに向かって動いている。

このはたらきがなくなったらいくら全身を消毒液で洗おうとも、予防接種を毎日打っても追いつかない。亡くなった人を一週間も放置した姿を思い浮かべればそれは明白である。

生きている間はその個体を腐乱させない「何か」がある。しかし腐乱と言ってもその腐って乱れている中にもやはり「いのち」は在る。

だから一つの微生物を取り上げればやはりそこにも生滅があり、個々が生まれたり死んだりしながら「全体が生きている」という事実が、我々には絶えず死角になりやすい。

これを禅の方では「万法一に帰す(ばんぽういちにきす)」と言ったりするが、その帰る「一(イチ)」というのが私であったりなかったりするから、結局この世は捉え処が無いということになる。

果せるかな、ばい菌を生かすもよし、殺すもよしということになろうか。ばい菌を自らの免疫活性の糧とするか、これを過剰繁殖せしめて死に至るかは宿主の「勢い」ということにかかっている。

畢竟いまの衛生観は人間からこの勢いを削ぐようにも見えるが、確かに先行きの不安に怯え委縮する人もあるかと思えば、苦境に負けないよう自分を鼓舞して働く人もある。またストレスを感じておらぬ人もある。

氷雨に濡れて風邪をひく人、冷水をかぶって丈夫になろうとする人、何もせずに平気に生きる人の違いはここにもあると見え、社会情勢がどうであろうと人間の傾向は変わらない。

「意欲」と「勢い」、この二つは依然として科学で取り扱うまでに至っていない。

結局この世界はよくわからないものがいつも無限の活動をしているだけである。科学はその中から一個を取り上げて、分析により理解させてくれる貴重な道具だが、その道具の使い手は何なのかを一人一人が自覚する必要があるのではないか。

その答えを「外に求めてはならぬ」といった臨済は、一体人々の目をどこに向けさせようとしたのか。頭が大きくなり過ぎた現代の人間こそ、この事を本当に見極めねば自分で自分の始末がつかない、納得がいかないということになりはしまいか。

出だしから話しの論点が大分ずれてきたが、科学を好む好まざるにかかわらず、現代人と呼ばれる我々は自然科学を基盤に思考していることをもっと意識する必要性を感じる。

科学的であるために科学の性質(利点と限界、問題点)を理解し、そのうえで活用すれば、やはり便利なものだのだ。このような冷静かつ公平な態度は次代を生きる子どもたちの思考態度をより上質に導くはずである。

人間の進歩とは、膨大な知識の上にさらに知識を積み上げていくことではなく、自己に対する信頼を代々分厚くして、惑わされない人間を作る術を磨くことにある。

これは「本当にそうだろうか?」という自分自身の眼で真理を求める本当の科学的態度と矛盾しない。人間のものの見方は依然として進歩が要求されている。

「コロナ禍」だって冷静に数字を観れば、他の病気に比して飛び抜けて恐れる必要のないものであることが解る。今までも病原菌は飛散していたし、口も鼻も肺もそれ自身がマスクの役目を果たしていた。泰山鳴動してネズミ一匹とはよく言ったものだが、現代的にはネズミ一匹に大のおとなが右往左往しているようなものである。これが果たして万物の霊長なのだろうか。

最初に戻って子供の問題行動と呼ばれるものを丁寧に観ていくと、それが大人の世界の不自然さや不均衡を代弁していることが多い。大人はうっかり見落としがちだが、よくある「子供のケンカ」と看過してはならに面はいろいろな所にある。

子供の無智を大人の無知と混同してはならない。子供の自然を守ることは次代の自然保護に直結する。真の冷静さや客観性が人間を愛する情熱によって支えられることも矛盾しないのだ。

冷たい試験管の中で展開される科学の世界に、温かい人間の血を通わせることも可能だろう。そうすれば真理を求める意欲はいよいよ増し、巷に横行するにわか科学でも、より科学的になるべく錬磨されていくのではないだろうか。

相変わらず

新年最初のネタを考えながら窓の外を眺めたら、今日は春一番を思わせる強風に、突き抜けるような快晴だった。

ふいに「青天白日」という『碧巌録』第四則の冒頭が頭に浮かんだ。

『碧巌録』は禅の愛好者なら誰もが知る宋代中国禅の指南書である。青天白日とは雲一つない青空のような禅の世界を表す一語だ。

人間の感覚を取り除けば、元々この世界には西もなければ東もない。加えて天地もなければ、過去も未来もない。どこにもとどまらない掴まえようのない世界である。

人間の世界からゴタゴタが尽きることはないけれども、その「人間の世界」とは何かを丁寧に突き詰めていくと、それは取りも直さず「自分の世界」である事がわかる。

世相がゴタゴタしているのではなく、そこに思いを巡らせている自分の頭の中が妄想しているだけなのだ。

妄やめば、寂生ず。自分自身のいろいろな想念に捉われなければ、誰もがそのままで、静かな世界に住めるのだ。自分の本当の世界は最初から何もない、澄み切った空の如しである。

達磨の廓然無聖(かくねんむしょう)も、このいのちの真相を武帝に示すために仕方なく吐いた言葉だ。

はたして武帝は達磨を見誤ったが、我々はこの事がわかれば相手にするのはいつも自分一人でいい。そしてその自分の母体である身体を整えることは何よりも尊い行為である。整った体は鏡の如くこの世界の真実をそのまま映す。

だからといって整えるために何かをする必要もない。むしろ「何かしなければ」という焦りはかえって自然の息を乱す。

「何もしなくても健康だ」ということが自覚されるためには人間の場合周到な訓練がいるが、整体法はそうした訓練法の集積であり総称だと考えたらよいと思う。

その基本となるのが活元運動なのだから、これを自ら実践して人の興味を刺激し伝播させることが整体指導者の役目だろう。

こうやって縷々考えていくと、年が変わっても結局自分の願いは変わらない。従来からずっと今を生きているのだから、以前の念から続く現在のこころはいくらでも進歩するし、また進歩などしない。

親の生まれぬ前から、相変わらず自分はずっと自分のままだ。

どうも「相変わらず」ということはすべての人間の出発地点であり、終着地点であるようだ。窓の外は変わらず日が差している。自分はやはりここにいる。

二元対立を超えた活動

…前回のナウシカの記事からの続き。

分解や分析によって自然界の法則を明らかにして、人間に有益な文明を作り出そうというのが今日まで科学を発展させてきた大きな動機であった。

しかし部分の解釈にこだわりすぎると全体が見えづらくなる、というのが分析知につきまとう最大の陥穽である。

我々の理性はどうしても物事を是非、善悪、優劣…といった具合に、二つに分けて理解しようとする習性がある。「分かる」とはまさに「あれ」と「これ」を頭の中で別にする、ということだ。

これは思量分別(しりょうふんべつ)とも言われる認識作用であり、この分別のために自分にとって不都合なものを見つけるとすぐにそれをコントロールし、修正したくなる。

『風の谷のナウシカ』の世界では腐海や虫が「負」のものとして捉えられている。これらが人間の生活を脅かす存在であるため、知恵と力で抑えつけようと考えるのは人間的な理性のなせる業(わざ)であろう。

しかしながら自然界はどこかに圧力が加わると即座に反動が起こる。これを大自然の平衡要求と考えていいのかもしれないが、それすらも人間の一見解にすぎない。

このように人間の理性に主体をおいて自然をコントロールしようとし過ぎると、このバランスをとるはたらきによって反動が絶えず起こる。これは歴史の証明とともに多くの人の知るところである。

かつて高度経済成長期に多発した公害などはその一例として考えられるだろう。また近年では東日本大震災における原発事故においても、自然というものが質、量ともに人間の統制下には収まらない規模の一大活動体であることを改めて痛感させられた。

さらに加えれば2020年12月現在、新型コロナウィルスの発覚に付帯して生じてきた諸問題を見逃すことはできない。

除菌、手洗い、マスク、ソーシャルディスタンス、外出自粛といった数々の対応が短期的には感染拡大を抑止したとも言えそうだが、少し冷静に視野を広げて見れば人間の打ち出した抑制行為を跳ね飛ばすかのように現在罹患者の数はうなぎ登りである。

どう足掻いても人間の視点が切り替わらない限りこの世界から「病気」という現象はなくならない。病気とはそれそのものが生命活動の一側面であり、そのものがすでに健康という全き活動の一部なのである。

この健康とは現代流の、いわゆる病気と対置された相対的な「健康」ではなく、宇宙に遍満する不滅の「健」である。『易経』の冒頭、天行健の一句であらわされた絶対の健、そのものを指す。

その健やかなるはたらきから一部を切り出して「病気」と見立てたのだから、人間の二元論で見るかぎりはこの世界から病気はなくならない。

天然痘が姿を消すと間もなく結核が増えた。結核を減らすと癌が増え、脳炎が減ると精神を病む、というように身体の平衡作用は無くならないのである。

人間の生み出す善悪や正負といった二元対立概念は、どれも固定された視座から生ずる偏見に過ぎない。

『風の谷のナウシカ』にはこれを戒めるセリフとして次のようなものがある。

「永い間の疑問でした」「世界を清浄と汚濁に分けてしまっては何も見えないのではないかと…」(『風の谷のナウシカ 7』p.130)

「その人達はなぜ気づかなかったのだろう/清浄と汚濁こそが生命だということに」「苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない/それは人間の一部だから……」(同書 p.200)

これに対して1000年前の人間が人工的浄化活動の守護者として作り上げた生命体であるヒドラは「お前は危険な闇だ/生命は光だ!!」とナウシカを恫喝する。

このヒドラは自らを古代の人々が「善意」によって生み出した「完全な」生命体であることを疑わない。そこに落とし穴がある。闇は負であり悪である、これに対して「自分は光」という片岸に立ち、自らが人間の二元論という陥穽に嵌まり込んだ片輪の生命体であることを、ヒドラは気が付かないのである。

ナウシカはこれに動じることなく「ちがう/いのちは闇の中にまたたく光だ!!」と喝破する。

言うまでもないが、ここのやり取りが本作の圧巻だろう。

「闇」とは一つの活動から「光」を切り出したために生じる概念である。仮に「昼夜」などといった場合も、「一日」という概念から「昼」、もしくは「夜」を抜き出すと、抜き出された元のほうに夜もしくは昼、という概念が残る。

我々が「夜」という概念を打ち消せば「昼」もなくなり、また元々の「一日」という概念にたち還るのである。

これと全く同じ構図で、生も死よって支えられている。生と死は「いのち」というこの世の一大活動体の中に浮かぶ二つの面である。

『ナウシカ』の世界の人々は我々の現実と同じように病を恐れ、自然を恐れ、死を恐れ、これを回避せんがためにあらゆる手段を講じる。その結果科学技術の発展は言うに及ばず、強大な軍事力を背景に闘争と搾取に奔走する者もいるかと思えば、土俗的な信仰裡に自我を埋没させて仏教的空見に逃避せんとする者、または政治権力の濁流の中で浮き沈み、喘ぐ者たち、などを次々と生み出した。

ヒドラはこうした人間存在から切り離すことのできない宿業の数々を「光」によって断ち切り、永遠の救いと安楽への道を切り開く目的で作られた人工の生命体だったのである。

しかし先ほども述べたように、この企てがすでに古代の人間の作為から出発していることを見逃してはならない。いかに高尚な思想を持ってきても人間的な考え方や計らいをもってこの世界を完全に救い切ることはできないのである。思想でも行為でも、人為的に何かを成せばそこには必ずほころびや対立が生じる。

ところがこの世界の真相は、人間的な活動、思想、価値観、評価とは一切関係せずして、最初からみな一人残らず救われているのである。

「いのち」とは、いま目の前に展開している純粋無垢な活動体のことである。しかし、誰もがこの事実に気が付かない。いやすでに覚知はなされているのに、人間はこれを疑い、あるいは知らずに自らの足元で真理をぐしゃぐしゃに踏み散らかして歩いていく。

仮に気が付いたとしても、うっかりすれば今度は「悟り」に捉われて身動きが取れなくなる。

人間の見解というものはいつでも人間から自由を奪い、時に死に至るまで苦悩せしめる。人を救わんと思えば、その見解が生ずる前の「今」に目を向けるより他はない。

古来から多くの宗教家が骨を折ったのも、最終的にはここである。一言でいえば「真理に目覚める」ということであり、次いでこの妙薬をどうやって人々に飲んでいただくか、ということだ。

劇中の神聖皇帝なる人物は、この世界の仕組みを解き明かして生命を救おうと東奔西走するナウシカに向かって、罵りとも嘲りともつかない次のような次の言葉を浴びせかける。

「巨神兵をくれてやろう/ヒドラもお供につけてやる」「みんな清浄の地とへやらに連れていくがいい」「腐った土鬼(ドルク)の地も土民共もみんなくれてやる」「全部しょって/はいずりまわって世界を救ってみせろ!!」(『風の谷のナウシカ 6』p.154)

「救い」、また「救う」ということを煎じ詰めると、ついには自らを生死のぎりぎりのところに投じ、苦しみの真っ只中にありながら活き活きと躍動する自己に一切を委ねる行為に至る。

地獄の業火の中にありながら、その苦しみの中に自己を滅却し、ひたすら隣人に手を差し伸べる、言わば大乗の精神である。

人間におけるこの至難の業(わざ)を一人の「風使いの少女」に任せた、という本作の設定がまさに神がかりなのである。

ナウシカは先の神聖皇帝の言葉に呼応するかのように、最後のセリフをこう結んでいる。

「さあみんな/出発しましょう/どんなに苦しくとも」「生きねば………/………」(『風の谷のナウシカ 7』p.223)

ここに至って「救い」というものなどこの世にはないのだ、という諦めと希望を包括したようなナウシカの一句が吐き出された。

これは追い詰められた人間の最後の手段としての、「それでも生きていく」という全身全霊をかけた決断のようにも聞こえる。

たとえ二元対立を超越した活動に目覚めたとしても、それで「苦しみが消える」ことなどないのである。ナウシカの旅の執着地点はついに元々居た所、解決など望めない、原初の混沌へと帰ってきた。脚踏実地そのままに、人間が苦しみ、のたうち回って生きる元の世界に回帰したのである。

しかしながらその苦しみの真っ只中に居ながらにして、生きる歓喜を見い出せる強さを身に着け、彼女は虚無の深淵から生還した。この全身心をなげうって行われた大いなる旅路がここに至ってようやく終焉を匂わせる。

そして「語り残したことは多いがひとまずここで、物語を終わることにする。…」という末文へと繋がっていく。

今さら言うまでもないが、この物語は決して古くはならない。人間存在の矛盾と苦悩の生ずるメカニズム、そして厳粛であるべき救済の在り方が随所に余すことなく暗示されているからだ。

コロナ禍と言われた本年、私はいろいろなことを考えさせられたが期せずして『ナウシカ』を再読し、多くの示唆に富むこの物語からいろいろなことを考えさせられた。この無限の物語『ナウシカ』をもってすれば、ここから先いくらでも駄弁を弄することもできそうだが一応は今回で結びとしたい。

とか言いつつも、自分のブログは一貫性がないという点で終始一貫してきたのでまたふいに続きを書くかもしれない。その際は読者諸兄のご寛恕を請う次第である。

ナウシカの目的論的自然観

人間によって汚染された地球を如何にすべきか、というテーマはSFではお馴染みである。

ナウシカの舞台における汚染の象徴は「腐海」であり、この腐海に如何に対処して生きるか、というのが作品全体を包み込む大きな難題である。

腐海の植物は1日の中のある決まった時間に一斉に胞子を飛ばす。この胞子には強い毒性があり、腐海に立ち行った人間は特殊なマスクをしなければ五分で肺が腐ってしまうという。

腐海が生まれてより1000年、これまで人間たちは腐海の拡大を阻止しようといくたびも試行錯誤と行動を繰り返してきた。

そしてついには1000年前に起きた「火の七日間」で世界を焼き尽くしたと言われる旧世界の怪物、「巨神兵」をも復活させて腐海を一気に焼き払おうと試みる。

この目論見は失敗に終わるのだが、このように自然の猛威に正面から対立し制圧しようとする態度は、人間と自然界の断絶を前提とした非・連続的自然観を起点とするところに注目したい。

確かに人間の世界の理屈から出発して、腐海やそれを守護するように共生する蟲たちの世界を眺めれば、それらは人間的秩序を脅かす混沌でしかない。

その混沌を統制べく、洞察と分析によって自然をコントロールしようとして発達してきた一つの思想体系が「自然科学」である。

たとえその分析がどれほど融和的に行われようと、そこには「観るもの」と「観られるもの」という二元対立の構図から出発していることに変わりはない。

現代の日本を生きる私たちが落ち込みやすい最大の陥穽は、この「カガク的な」ものの見方を唯一絶対として世界を眺め、それ以外の見方を「非・カガク的」と断じて最初から検証の余地を切り捨ててしまうことである。

ここまでくると、これは一つの信仰といってもよさそうである。信仰の極まった状態が「当たり前」とうもので、そこにはもはや「私は、信じています」という手続きすらも消え失せ、信仰の気配というものは存在しない。

こうなると人はそれ以外のものは在り得ないと見なし、はなから分析・検証の対象から除外てしまうのである。

本来ならば「事実→認識→仮説→検証」という流れこそ、科学的であるための重要な導入プロセスでなければならない。

しかしながら多くの現実を見渡せば、昨日までに実証されてきた既存の理論を鵜呑みにすることが「カガク的である」という風にすり替わってしまっているのである。

言わばカガク的なものしか信奉しないというのは非科学的態度であり、真の科学者たらんとする者ならば、これは最も忌むべき偏狭な心の在り方なのである。

更に続けて「科学とは何か…」を語り始めると軽く数千字を越えそうなのでここまでにするが、この辺りのことは石川光男著『西と東の生命観』(三信図書)に詳しい。「科学とは…」が気になられた方には一読をおすすしたい。

上掲書の60ページから始まる「二 科学を支える文化と思想」を読んでいくと、「科学的」という思考態度が長い人類史上に現れた一つのパラダイムにすぎないことがよく解る。

前置きが長くなったが、風の谷の族長ジルの娘(姫)である風使いの少女ナウシカは、こうした態度とは全く違う角度で腐海や蟲たちと接していく。

彼女の心は自然に対して常に開かれている。のみならず、自己の内面に対して、より大きく開かれているようである。

タイトルにもなっている「風の谷」は問題の腐海のほとりに位置し、風車を主な動力として生活に活用するなど、自然界との融和に基づいた共生が営まれている。

そのような環境下でナウシカは、人々の心配を他所に腐海にもよく出入りをする。そして蟲たちとも親しみ、腐海を構成する様々な菌類の胞子を採取しては自分の「秘密の部屋」に持ち帰り密かに栽培していたのである。

こうした行動をただの興味本位からくるお姫様の奇行と見る者もあったが、実のところ彼女の行動の元には「自然を守りつつ人間たちを救いたい」という強い願心があった。そのために腐海のできた本当の「理由(わけ)」を自分の目で解き明かしたかったのである。

言うまでもなく、ナウシカは蟲や腐海の植物たちを研究して、自分たちの都合のいいようにコントロールしようとか、況や駆逐すべき敵として見ることは絶対にない。

谷に住む人たちと接するのと同じように木々や蟲たちに話しかけ、積極的に心の疎通を図ろうとする。このような態度は、自然と人間を分断する、近代以降に始まった西洋科学文明のパラダイムとは明らかに異なるものである。

つまり自分と外界、あるいは人間と自然の間に垣根がなく、滑らかな繋がりを感じさせる連続的自然観の中に彼女は生きているのである。いわば文化人類学から派生したフィールド・ワークという主観主義的な研究方法と同質の手法を彼女は取っていたと言えよう。

何がそうさせたのかはわからないが、一つには自然との共生がしやすい「風の谷」の風土も無関係ではないかもしれない。それより何より、彼女の胸の内に万物に対する博愛の精神が常に息づいていることは見逃せない要素だろう。

何であれナウシカの在り方は自然を支配の対象ではなく、何故そうなのか、どうしてそうなっているのかを学ばせていただく共生の相手として、敬意を持って接しているのである。

そして、そこにはきっと何か自然界の合目的的な「意味」や「意志」があるはずだ、という見えざる確信が彼女の中には当初からあったようである。

このことから彼女は「目的論的自然観」というパラダイムの中に生きていることを物語る。

元を辿ればアリストテレスによって提唱された目的論的自然観は一度デカルト によって排斥された。つまりこの世界には「意味」などなく、あたかも機械仕掛けの時計のように何かが「カチ…カチ…」と無機的な音を立てているだけだと彼は主張したのである。

その結果我々はその機械の一構成要素と見做され、「分析」によって個々の部品の性質は明らかになる。

そして全ての構成要素を明らかにすることで、元の「全体(総体)」をより深く理解できる(はずである)、という考えが定着していったのである。このような思考態度は自然科学を支える主要概念の一つとして「要素還元主義」と呼ばれる。

この考え方は人間の生活をより豊に、より安全なものにする、という点ではかなりの面で功を奏したのである。

事実分析によって様々のことがわかった。

例えば、それまでは病気は悪魔の仕業と考えられていた。そのために治療者は多くの場合宗教的な指導者や聖職者をかねており、目に見えぬものを目に見えない力によって統制しようと試みてきたのである(これはこれで「一定の」効果が認められていたのだが)。

ところが細菌学の発生によって、病原菌なるものが発見されてこれが梅毒や結核の治療にどれほど奏功したかは歴史が実証している。

しかし人間が生み出したどのような考え方や方法論も万能ということはあり得ない。

「分解・分析によって全てが分かるのでは」という考えすら芽生え始めたときに、そこに欠陥が認められたのである。

…長くなったのでまた次回以降へ。

ポケモンにみる「窮すれば変ず」

もうすぐ6歳になる子どもが今Amazonプライムで『ポケモン』を観ている。

よく考えれば、これもなかなかのロングヒットだと思うのだが、一緒に観ていると気がついたら親の目に涙が出てたりするのだから幼児アニメはあなどれない。

世代的に少しズレていたのでピカチュウ以外ほとんど知識はなかったのだが、ポケモンは「進化」することがわかった。

進化は大体バトルの最中ポケモンが追い詰められたときに発動するのもので、その時は何故だか知らないが毎回うるうるクルのだ。毎日座ってばっかりなので、ただ単に身体にエネルギーが余っているだけかもしれないが…

これに因んでNHK 100分de名著の河合隼雄スペシャルの回を思い出した。

そこに隼雄氏のご子息である河合俊雄さんが案内役として出ていたのだが、番組の中で「残念ながら人間は計画的には変われない。何らかの形で今までの安定が破綻したために仕方なく人は変わるのだ。」ということをお話しされていたのである。

世間を見渡せば、人生の苦境に陥ったような人に対して「そんなになるまでなぜ放っておいたのか」ということはよくある話である。

「わかっちゃいるけどやめられない」は植木等の名文句だが、「このままじゃまずいよなぁ…」とわかっていながら、「でも案外何とかなるかもしれないし…」とついつい昨日の惰性で、僥倖頼みに生きてしまうのが人間の悲しい性(さが)でもあるのだ。

以前はそうした性分を「だらしがない」と思っていたのだが自分自身の生活を振り返り、また色々な人の悩みを聞いていくうちに、最近では「環境が変わってから再適応するのが生命本来の在り方ではないか」と思うようになった。

よく考えれば人生は毎日がぶっつけ本番なのである。したがって「何かに備える」という態度自体に土台無理があるではなかろうか。

「地震に備えて」「老後に備えて」という話はよく聞くけれども、地震に備えていたら電車で携帯電話を落とし、老後に備えていたら嫁いだ娘が子供を連れて帰ってきたりするのだから「問題事」はいつどこから飛んで来るかわからないのである。

いくら合理的な思考を積み重ねても、複雑無軌道な人生の予測などできはしない。

野口整体では養生の秘訣の一つに「その時そのように」という態度を挙げている。

その時そのように処せる人がいつも安心して生きられる、ということだ。

一言でいえば「臨機応変」ということだが、色々な事態を想定していちいち準備しなくても、たった一つ、これができればそれでいいという話だ。

だが、存外これが難しいのである。

大半の人は、自分でもよくわからない潜在意識内の観念に縛られて生命本来の自在性を失っているのだ。

何が来たって太刀先三寸で躱せば何でもないものを、「でも…、いや待てよ…」と逡巡しているから気がついた時にはズンバラリンと両断されてしまう。

そんな時、自分を縛っている見えない縄を断ち切る刃となり得るのが、苦境とか艱難と呼ばれるストレス体験である。

古語に「窮すれば変じ、変ずれば通ず」というのがあるけれども、生命は困った時が変わるチャンスであり、昨日までの鬱滞した生活を刷新する契機なのである。

もう一つ野口整体の言葉に「安全無事を壊せ」というのがある。

言うまでもなく、新陳代謝は生命の基本活動である。健康である、と言うことはいつもどこかが壊れていて、いつもどこかが治っている動的平衡状態なのだ。

1日の中に昼と夜、日没と日の出があるように、破壊と建設は別個の作用ではなくて一つの活動の二つの側面でしかない。

これが円滑になされていればいいのだが、先に挙げたような理由からしばしば滞るのである。

そこに何らかのストレスがかかることで、変化を余儀なくされ、自我を新たにして再適応すると、心身ともに活性化して元気になるのである。

歩けば足が太くなり、悩むことで頭が良くなる。ストレスがあってこそ人間は潜在体力を発揮し、成長もするのである。

そのためには今の能力内でできることだけをやっていてはだめで、自ら安定を脅かすものに近づき、一見不可能と思えることに挑戦することも必要だ。

これは意識しなくても、実はみんな知らないうちにやっていることなのだ。

体力があるうちは常に能力以上のことをやりたくなるもので、子どもが進んで危ないことをやり、いくら失敗しても失敗と思わずにやり続ける行為の中には、要求実現に向かってひたすら伸びようとする若さがある。

ポケモンもしょっちゅうバトルしているわけだが、これあって互いに切磋琢磨し潜在生命力を喚起しているのだ。

ポケモンの進化シーンもなかなかエキサイトするが、そのポケモン以上に大化けするのが「人間」なのである。

人間ほど「可能性」を有した生き物も珍しい。

『碧眼録』の第七則に鯉が三段の滝を登って龍にメガ進化する話が載っているけれども、これは苦心惨憺の末に到達する人格の大成と読むこともできるし、白隠禅師の「衆生本来仏なり」に倣って、魚はそのまま龍の素質を持っており最初から龍と何ら変わらないものだ、と読むこともできる。

何にせよ龍である本体に気づくから魚がそのまま龍にもなる訳で、「そこ」に気がつかなければ生まれながらの仏も一生凡夫のままある。

だから「成長」も「気付き」も、そう大差はないのかもしれない。

いずれにしても「窮すれば変ず」である。追い詰められて一切の逃げ道がなくなった時こそ、進化が起こる大きなチャンスであることを忘れずにいたい。

二元的世界観の行末

前の記事で『風の谷のナウシカ』のことを書き始めたが、この『ナウシカ』を含めたスタジオジブリの4作品が現在東宝シネマで上映されているそうだ。単なる偶然だが勝手な共時性を感じる。

実質的にはみんなの無意識が『ナウシカ』の世界を必要としたのかもしれない。個人の〈こころ〉は深層部で世界全体とつながっている、というユングの仮説は折に触れて実感させられる。

今回の新型コロナウィルスにまつわる各種社会現象の方は小康状態を迎えている訳だが、冷静に見れば現在の落ち着きは台風一過となんら変わらない。時勢の移り変わりで自然現象的に物事が「流れて」いっただけである。

言い換えれば一時的に問題が消失したかのように見えるだけで、「病気」と「健康」の二元対立(病健二元論)を根底に残留する本件は、その根本に於いて問題が解消される動きは全く無いのである。

具体的に言えば、新しく感染症が発覚するたびに人間を分断し、物流・経済の部分的運休は言うに及ばず、気や心の流通までも萎縮せしめ心理的・物理的孤立を余儀なくされるのである。

ひとことで言えば、これは科学文明の自壊現象だ。

欧州近代より起こった文明の自壊現象は第一次世界大戦より始まったと考えられる。今日まで自然科学を絶対的真理の追究手段と信じて疑わずに来たいわゆる先進国の構造的矛盾は、定期的にその姿形を変えて、手を替え品を替え、人類に艱難辛苦を味合わせてきた。

いま語ろうとする『ナウシカ』はそのような科学文明における「人間」と「自然」の二元対立構造の矛盾をディフォルメし、如何にしてこれを超克すべきかを示唆する神話的側面を持つ。

劇中には人類を滅亡の危機へと追いやらんとする「腐海」という森が登場する。腐海は猛毒の瘴気を発する菌類を主とした死の森として人々に恐れられ、さらにその森には人間の進入(攻撃)から守護するかのように大型の蟲(むし)類が無数に共生しているのである。

かくして人間と自然は非連続的な棲み分けによる併存を余儀なくされており、そのような人類の窮地から脱すべく物語の中では人間が腐海の一大焼却を試みる動きまで描かれている。

しかしその目論見は達せられず、むしろ自然(蟲たち)の反発をはじめ、粘菌なども含めた生命全体の抵抗作用の前に人間たちはなす術なく、幾重にも打ちひしがれる羽目になる。

「自然は人間の問いかけた方法で答えを返す」と言うゲーテの言葉を実証するかのように、力ずくの支配を行えば自然から同量の反発が生ずる。そのような方法で恒久的な共生は無理が生ずるのである。

原作となる漫画版では、物語が進むにつれてさらに驚くべき事実が明らかになる。それは腐海が自然に形成されたものではなく、1000年前の荒廃した世界を生きた人々が知恵をふりしぼって作り出した、人工的浄化システムであったのだ。

旧世界の人々が当時の高度産業文明によって汚染されたこの星をいかに清浄に戻すかを思案した末、人類によって排出された汚染物質を取り込み自ら朽ちて土に還っていく腐海の木々とそれを守護する蟲類、そしてこの腐海の発する瘴気に耐え共生できるように変えられた人間(旧世界の人間は「人間」をも造り変えたのである!)、という人工的な疑似生態系を作り出し、数百年、数千年単位でその星を清浄な状態へ戻そうとする一大計画だったのだ。

そして世界から汚染物質がなくなったあかつきには人間を清浄な世界に再適応させるための技術までが「シュワの墓地」という旧世界より遺された建造物の中に文字によって伝承されていたのである。

このように周到に「仕組まれた」世界は依然として旧世界となんら変わらない苦しみに満ちており、その中で苦悩と歓喜にまみれながらも力強く生きていく人間の実態に肉薄しながら物語は多面的に展開されていく。

物語の終盤で主人公である風使いの少女「ナウシカ」は上に記したこの世界の真実に感付き、そこに強い疑問を抱き始め、多くの犠牲に心を苛まれつつさらに前進を続け、ついには人間の生み出した欺瞞を喝破するに至る。

少し長くなったのでまた次項へ

風の谷のナウシカ

自粛期間中のGWにはナウシカを観よう、もしくは漫画を読んでみよう、という記事を書こうと思っていたのにずるずると間延びして、もはや緊急事態宣言も解除されてしまった。

そうは言いつつ今からでも遅くはない、興味のある方は是非ナウシカを再体験して欲しい。また、これまで体験したことのない人には原作を手に取り、読んでいただきたいと思っている。

言わずもがなだが『風の谷のナウシカ』とは宮崎駿原作の長編漫画と、そこから生まれた劇場用アニメのことである。これは宮崎アニメと呼ばれる独自の世界観が開花した最初の作品ではないだろうか。

物語の舞台となる世界の状況や時代背景は以下の引用部に簡潔にまとめられている。

ユーラシア大陸の西のはずれに発生した産業文明は

数百年のうちに全世界に広まり 巨大産業社会を形成するに至った

大地の富をうばいとり大気をけがし 生命体をも意のままに造り変える巨大産業文明は

1000年後に絶頂期に達し やがて急激な衰退をむかえることになった

「火の7日間」と呼ばれる戦争によって都市群は有毒物質をまき散らして崩壊し

複雑高度化した技術体系は失われ地表のほどんどは不毛の地と化したのである。

その後産業文明は再建されることなく 永いたそがれの時代を人類は生きることになった

近未来を舞台としたSF作品は巷に数多くあるけれども、この作品の場合「おそらくこうなるだろう」という悲観主義的な未来予想図ではない。

連載当時の社会情勢とそこに潜在するさまざまな問題(民族、国家、思想、宗教、科学技術、等々)をモチーフにして、高度産業文明の興亡を背景に「人間は如何に生きるべきか」、いやそもそも「人間とは何か」、「生命とは何かという大きな疑問を作品全体を通して投げかけてくる。

こういった人間存在につきまとう根源的な矛盾に対し正面から考察していくには、既存の学問や宗教を捏ねくりまわすよりも、無意識の淵から生まれる「物語」のほうがはるかに豊潤で自由な創造性を刺激しやすい。と、思う。

そもそも文明とは人間の暮らしを「安全」かつ「豊か」にすべく生成されるものである。

その中でも科学を基盤とする西洋文明は、自然というものをコントロールしその恩恵を効率よく利用すべく発展してきたのである。そのために文明の発展に伴って、人間を自然から分離、乖離させる結果を招いた来たのだ。

そもそもが「自然科学」というものが自然と人間との対立構造を基盤に置くキリスト教文化を祖とするために、産業文明は時間とともに自然をじりじりと圧迫し、やがては大きな反発を招きついには文明そのものに破綻の影を匂わせている。

かつて様々な産業活動から起こった「公害」はこの科学文明の構造的ひずみが具現化したものと考えていいはずである。しかし公害が発覚した時にはすでに科学産業文明はのっぴきならない域まで複雑に社会機構へと組み込まれていたために、公害に関与する部分だけを社会からていよく切除することは困難であった。

ナウシカが生きた舞台は、そのようなニッチもサッチもいかなくなった高度産業文明が勃興してから1000年以上後の衰退した世界ということになる。

当然のことながらその時代になっても人間存在につきまとう矛盾もひずみを解決されてなどいない。

いやむしろ崩壊したのちに一定の時間が経ったことにより、その構造的な不調和が発酵腐敗して、文字通り「腐海」という名の死の森まで生み出していたのである。

今回のコロナにまつわる諸問題を目の当たりにすると、『風の谷のナウシカ』で示唆されていた「人間とは何か」、「人間は如何に生きるべか」という問いかけがいよいよ肉薄してきたように思われてならない。

劇中では腐海の毒を避けるべく瘴気マスクをつけるシーンが頻繁に出てくるが、主要先進国と呼ばれる国々の人々がみなマスクを着けて歩く姿と重なって見えてくるあたり、不思議な一致である。

ただそうした外観とはうらはらに内実はだいぶ異なる。我々の現実の方は腐海のような毒はどこにも浮いてないわけで、実際は目に見えないユーレイを相手に防毒マスクを装備して闇鉄砲を乱射しているようなものだ。この滑稽さが判らないというところが疑似科学文明の喜劇性であり、また悲劇なのである。

まあとにかく、この宮崎氏の先見性と言うか、本質を見抜く目は凄まじい。ナウシカの原作を丁寧に読んでいくと、そのことがつくづくわかるのである。これに因んで思うところ考えたことが諸々あるので、次回以降に分けて書いていければと思う。

ええじゃないか

初夏の陽気に伴い世相も若干だが落ち着いてきたような気がする。スーパーにはトイレットペーパーの姿が戻り、おもてを歩いても公園に行ってもマスクの着用率がわずかだが減ってきている。

そろそろ今回の騒動も終わりが近づいているのかもしれない。こうなってみると一緒になってわたわた騒いだ自分自身も恥ずかしく思えてくる。

そもそもが木の芽時は病気が出やすい。寒さでこわばっていた身体が動き出し、身の内外と再適応を図り始めるのが春という季節の特徴である。だからここまで暖かくなってしまえばもろもろ病気の発症率が下がるのは自明の理である。これから身心共に快活に動ける季節だ。

ところで整体法では肺炎は14日という。

つまり14日かけて病症を順々に経過することができれば、肺炎の必要のない身体にまできちっと整うということだ。これは演繹的な観念論ではなく、膨大かつ精緻な臨床経験によって得られた主観的事実として説かれている。

実のところ私自身が肺炎にかかった記憶もなければ、肺炎を発症している身体を観たことがないので、その点あまり語気をつよくして主張することはできないのだが‥。

ともかく先の整体法の論に拠って立つなら、その14日間を如何に心静かに過ごすかが鍵となる。そうすれば身心は本来の弾力を取り戻すと考えてよいと思う。

ただし自然経過とは野放図にしておくことではない。身体の要求に静かに耳を傾け、食するべくして食し、動くべくして動き、眠るべくして眠る、という無為自然の生活を心がけ、平素から訓練を積んでおく必要がある。錐体外路系の訓練法として活元運動の必要性もここにある。

もとより病気は苦しいものである。苦しいから病気としての意義もあり、治ろうとする働きもその苦しさと供にある。

そして今後そのような身体にはしまいとする心の態度も、その病気の苦しいことによって養われる。したがって主体的養生の生活も病苦によって支えられているのだ。

病気は衆生の良薬と釈迦は言ったそうだが、病症とは健康の中に包括される身心の自浄作用なのである。

ところが現代のように病症を健康と対立させ、これを駆逐しようと頭を熱くしているうちは病気の方もその宿主の頭を冷やすべくますます活性化するばかりだ。

西洋発祥の科学的医療は、その原点に於いて自他分離の二元対立を基礎として構築されている。分離はさらなる分離を繰り返し、ついには自分と身体を分離させ、身体の自己防衛の働きである病気と対立し、闘病などと言って自分の身体の正常な働きを相手に喧嘩をしているのである。

一般にはそれを「治療」と称しているのだが、つまるところ科学的な医療行為は病症・病巣と医薬との戦いという構図に落ち着く。その結果、治療自体が戦場となる身体を荒廃させる暴力になり下がっている。対立と闘争は必ず無限の連鎖を生む。この世のどこを探したって平和を創造するための聖戦なぞ存在しないのだ。

それにしても今回改めて目についたのは現代人および現代社会のエネルギーの余り様である。

マスクの取り合いで乱闘などまさに噴飯ものだが、それとは別にいま相当数の方が(正確な割合は把握していないけれども)在宅勤務という名の休暇を強いられている聞く。ところが、かれこれ一か月以上このような状態が続いているというのに往来で餓死者に出遭うこともない。

もちろん経済的に困窮している方も決して少なくないことを忘れてはならないが、一連の政策によって生じた個人の負債はそれなりに政府が受け持つ姿勢を示している。

全面的には依拠できないにしても、物質的豊かさを求めて邁進してきた社会も知らぬ間に大変な余剰を抱えるようになったものである。

余剰は鬱滞を生み、鬱滞は速やかに鬱散を要求する。

鬱散行為のもっとも単純化した形態は破壊である。

例えば、胸の内に不平を忍ばせている人は知らずに物を壊す。物を壊さなければ他人を攻撃し、そのような行為に抵抗感のつよい人は一番身近な自分を壊す。

自分で自分の顔を壊す「ふくれっツラ」などは自己破壊のなかでもっとも可愛いものだろう。

そこから発展して意識的になされる自傷行為などはまだわかりやすいが、無意識に行われる病気や怪我の大半はこうした自壊現象として行われるものが存外多いのである。

そうした生体エネルギーの鬱散が集団で行われた場合、その端的は戦争である。しかし大国間の直接的な大戦がなくなった今、エネルギーの噴出口が閉ざされた結果、ネチネチとしたいがみ合いや不信の増大へと変態している。それでも隣国に毒ガスを撒いたり爆弾を落とすよりははるかにマシだが、やはり人間の自然の美しさが現れているとはいえまい。

俗にいう先進国(もはや何が先進なのかわからないが)の文明生活とは、全般に餓死者、病死者を出さないように、怪我人を減らすように、すなわち「死」をできるだけ遠ざけるべく発展してきたと考えられる。それに付随して労働時間の短縮と生産性の向上を図り、なるだけ時間と体力を余らせるべく成長してきたとも言えるだろう。

労働から解放された時間と体力で「自由にやりたいことをやる」という心算だったのかもしれないが、蓋を開けてみればその余った体力で病気を増やし、さらに治療法を巡って身心を疲弊させ、国家の財源を蝕んでいる。それでなくても元々人間は先の理由から、他の動物よりも余分にイライラしたりクヨクヨしながら生活する方向へと文明を成長させてきた。

私見としては、今回の感染症に因んだ一連の騒動もそうした余剰体力と金余りに対する生理的な鬱散要求だと思っている。言ってみれば、近代以前まで盛んに催された土俗的な「祭り」のようなものである。

古来より祭りとは人間に内在する野性的衝動を、時間と場を区切りるなど一定のルールを敷いた上で効率的に噴出させ、事後に生理的な平衡に向かわせる文化的行為である。そのようなある種の健全さに向かう貴重な行為も、近年は人間が「利口」になったせいか概ね縮小傾向にある。

そうして行き場を失ったエネルギーは様々な排出口を見つけては、千変万化して昇華噴出を繰り返しているのが現代社会の特徴の一つと言える。

いわゆる先進国の文化に浸った人ほど、神様や悪魔、仏様や鬼といった前近代的な漠然とした概念では、強い情動を引き起こし噴出に向かわせることは難しい。

そこはやはり「カガク的」という、現在もっとも強力に信仰を集めている理念に沿う形式である程に、その扇動効果は絶大となる。このカガク的と言うのはなかなか曲者で、科学を真に理解する専門家に言わせれば極めて論理性の低い観念主義なのだが、この際そのようなことはどうでもいいのである。

いわばゾウでもクジラでも通れるようなザルの理屈でも、民をしてその鬱屈した野生の噴出を可能とするだけの「それらしい理由」さえ確立すればいい。これによって集団心理というものはいともたやすく生理的噴出エネルギーの発露に向かって驀進していくのである。

科学と言うのは本来の性質からいえば上質な理性をその思想展開の基盤とし、尚且つ動物的な感情や生理的な欲求を下位に置いた上で、極めて冷静に自然生命に秩序をもたらし人間社会にとって有効活用に導くものだと思っていた。

しかしその科学を扱う人間もやはり感情と情動をその思考活動の基底に置き、エネルギーの集中と分散の波に支配される自然の生命体であることには変わりはなかったのである。今回の感染症騒動はそれを雄弁に語っているように思われる。

改めて先の主張に立ち返るが、かような人間の生理構造に照らすことで本件を現代式のお祭りと直感した次第である。特に江戸末期、日本各地においてほぼ無目的的、同時多発的に起こったといわれる「ええじゃないか」を彷彿とさせる。それが情報伝達技術の進化と相まって、勢いワールドワイドになるのは已むをえまい。

余剰エネルギーの分散が済めば自ずと勢いは収束し、やがて分散のエネルギーは流転して集中の波へと回帰する。だから体力の余った人はこの機に乗じて騒げるだけ騒いだらよかろうし、もとから集中分散の平衡がとれている人は静かな自分の世界から悠々と事の成り行きを眺めることだろう。

話はそれるが教育も医療もそうした根源的な生理的エネルギーの存在を無視し続ける限り、人間を自在に導く術を実現することは難しい。それは個人においても公においても、である。

フィットネスジムの増加も人間の自然の心が生んだものにはちがいないが、もっと身近なところで自分の要求したことをさらりとやってのける人間を育てていく、そういう方法はないだろうかと思いを巡らせる。

整体法はその一翼を担う立場にあるけれども、その完成された理論とはうらはらに実践も普及も全く追い付いていないのが現状である。

原因はさまざまに考えられるが、もともとが創始者である野口晴哉という傑出した人物によって構築されたものだけに、属人化のつよい一代限りの名人芸になりつつある感は否めない。

それに加え「自分の健康は自分で保つ」「自然の生命へ還れ」といった理念もきわめて単純明快だが、それだけに安易な誤解へと流れやすいようである。まあそれは他のメソッドや宗教的な教義でも同じことは言えるかもしれない。親鸞の念仏とて同様、その死後はすぐさま法が乱れた。

理解というのは個人の知性に委ねられるもので、教える側にばかり責任を負わせるには無理がある。いわば教化とは他力と自力の相乗効果といえそうだが、それでも提供する側は自分の役割を果たすべく、最大の努力を惜しんではならない。

何であれ人間の生理的な構造と言うのは人類発生から現在に至るまで、そして今後何万年経ってもおそらく変わらない。

仏の掌上で飛び廻った孫悟空と同様に、いかなる生命も自然の法則からは逃れられないのである。その大自然の一部である人間の非や欠陥を一々あげつらうより、もう一つその構造を冷静な眼で観察し理解を深め、情熱をもって使いこなす道を開拓していく方がずっと生産的である。

そういう意味で課題は山積みなのである。当面は病気に対する捉え方の見直しが早期に図られることを願ってやまない。それに加えて心は心、体は体、という風にほうぼう別々に研究が進む中で、この二つを統合しつつ生きた人間を包括的に理解していく学問の必要性をつよく感じる次第である。

実のところ既存の科学の欠点を補完すべく、既にニューサイエンスという潮流が生まれてから久しい。医療の領域でも心身医学の発生など、既存の科学的見識を超えた形で行われる、生きた人間を生身の目で探求する動きが活発である(真に科学的とはこのような態度であると信じる)。

一方で整体法は主観主義に基づいた経験的な総合人間学と言える。それだけに科学的な客観性や再現性を求めることに困難を余儀なくされ、なおかつ一定の質を保持しつつ普及・存続させるにも様々な障害がある。

今後は可能な限り客観性を保持しながら、そのメカニズムと教義の普遍性を論証していくことが整体法を実践する者の使命だと考える。何より自分自身が整体法の質的低下に加担しないよう、客観性と同等に主観の練磨を怠らぬことが何よりも大事だろう。偏りのない純粋な主観をもって、事実を公正に見つめることが真理に至る唯一の道だ。

野口晴哉は整体法の源泉となる心を説くために近代医術の祖であるヒポクラテスの理論を引いている。その一つは、「事実以外に権威はない」という一節に要約される。整体法とはいかなるものか、その答えはやはり事実の集積と体現による実証に勝るものはないようである。

ごまめの歯ぎしり

いまだに緊急事態という実感はないけれど、イレギュラーな生活はつづいているのでやっぱり手持無沙汰である。

状況に応じて何か変わったことでもしようか、それともいつもと同じことをつづけようか、などとどうも気持ちが定まらないので久しぶりに易を立ててみた。

ここで急に易とか言い始めると引かれるかもしれないので一応説明をすると、「易」とは中国古典の『易経』にまとめられたごく原始的な占いである。

名前は有名だけどその内容まで知っている人となるとなかなか少ないかもしれない。しかし実用のために初歩的な仕組みを理解するだけなら意外と簡単なのだ。

陰と陽、つまりはマイナスとプラスという二つの概念の六つの組み合わせによって対象の相を観るのである。

このとき陰は「--」陽は「」であらわされる。これを下から六つ積み上げることで2の6乗、つまり64パターンの卦(け)が表現される。

当たるも八卦、のあの卦である。

本来は筮竹(ぜいちく)という竹ひごみたいな棒をバラバラもってやるのがお馴染みだが、実はその略式があってこれはコインでもサイコロでもできるのだ。

要は理性のコントロールを離れた方法で現象化した事物を、いずれかの卦に当てはめれば占いは成立する。

コインで行うやり方は3枚の硬貨をパッと撒いて手前から順に並べる。表なら陽、裏なら陰である。

これを続けて二回やると六段の層ができあがる。今回は下から陰が四つ、上に陽二つの「風地観」という卦が出た。

ぱっと見「悪い卦だ」思った。悪い卦という言い方は易にはふさわしくないが、直感的に「ん…なんかよくないのかなぁ‥」という感じ。

ちなみに講本には「大地を吹き抜ける風」とある。

東洋思想には上虚下実という概念がある。あるいは頭寒足熱という言葉もあるけれど、つまるところ上部は涼しく軽くし、下方を温かくズシリと重厚な形をとれば万事安泰と考える。

それに照らせば下方に陰が4つも固まっている。まああんまりいい気はしない。

そしてこれがさらにどう動くか、これからどう変化するかという変卦を観る。あらかじめ交ぜておいた一枚だけ種類の違う硬貨をひっくり返すのである。

すると、ハイ‥

「山地剥(さんちはく)」。「くずれいく山」って…陰がまた一っこ増えた。

これはやっぱり順境とは言えない。首から下がスカスカだ‥。

易経によって定められた読み方もあるだけど、それ以前にまず思い浮かんだのは頭デッカチになっていませんか、ということだ。

まずそのカッカした頭を冷やせ、と。もしくは軽挙妄動を慎んで足元を固るべし、と言う風にも読めるかもしれない。

見方を変えれば最上部にたった一つだけ陽のエネルギーが残されている。慎み深い態度でこれを大事に保てばやがて陰陽のバランスも戻るだろう。

こういう時は、待つことだ。

とまあ、あれやこれや思索している最中になぜか大学時代の恩師より小包が送られてきた。

先生は長年お勤めされた大学をおととし退職されたのだが、小包の中身はその退職の記念として発刊された論文集であった。

少しタイムラグがあるけれど、この外出自粛期間を有益に過ごせるようにとの先生のご配慮かもしれない。

その真意まではわからなけれども、さっそく開いてページをめくってみる。すると中から「ごまめの歯ぎしり」という一語が目に飛び込んできた。

調べてみると「ごまめ」とはおせちに入っているカタクチイワシの稚魚を甘辛く炒め煮したものだそう。

それが歯ぎしり、とは‥すなわち、、

実力のない者・とるに足りない者が、いくら批判をしたところで何も変わるものではないということのたとえ、またそういうことをするものではないという戒め。(ウィクショナリー日本語版 より)

わー‥

ということで自粛期間中はおとなしく自重しよう。勉強して自分の実力を養う方がずっと建設的だ。