人間によって汚染された地球を如何にすべきか、というテーマはSFではお馴染みである。
ナウシカの舞台における汚染の象徴は「腐海」であり、この腐海に如何に対処して生きるか、というのが作品全体を包み込む大きな難題である。
腐海の植物は1日の中のある決まった時間に一斉に胞子を飛ばす。この胞子には強い毒性があり、腐海に立ち行った人間は特殊なマスクをしなければ五分で肺が腐ってしまうという。
腐海が生まれてより1000年、これまで人間たちは腐海の拡大を阻止しようといくたびも試行錯誤と行動を繰り返してきた。
そしてついには1000年前に起きた「火の七日間」で世界を焼き尽くしたと言われる旧世界の怪物、「巨神兵」をも復活させて腐海を一気に焼き払おうと試みる。
この目論見は失敗に終わるのだが、このように自然の猛威に正面から対立し制圧しようとする態度は、人間と自然界の断絶を前提とした非・連続的自然観を起点とするところに注目したい。
確かに人間の世界の理屈から出発して、腐海やそれを守護するように共生する蟲たちの世界を眺めれば、それらは人間的秩序を脅かす混沌でしかない。
その混沌を統制べく、洞察と分析によって自然をコントロールしようとして発達してきた一つの思想体系が「自然科学」である。
たとえその分析がどれほど融和的に行われようと、そこには「観るもの」と「観られるもの」という二元対立の構図から出発していることに変わりはない。
現代の日本を生きる私たちが落ち込みやすい最大の陥穽は、この「カガク的な」ものの見方を唯一絶対として世界を眺め、それ以外の見方を「非・カガク的」と断じて最初から検証の余地を切り捨ててしまうことである。
ここまでくると、これは一つの信仰といってもよさそうである。信仰の極まった状態が「当たり前」とうもので、そこにはもはや「私は、信じています」という手続きすらも消え失せ、信仰の気配というものは存在しない。
こうなると人はそれ以外のものは在り得ないと見なし、はなから分析・検証の対象から除外てしまうのである。
本来ならば「事実→認識→仮説→検証」という流れこそ、科学的であるための重要な導入プロセスでなければならない。
しかしながら多くの現実を見渡せば、昨日までに実証されてきた既存の理論を鵜呑みにすることが「カガク的である」という風にすり替わってしまっているのである。
言わばカガク的なものしか信奉しないというのは非科学的態度であり、真の科学者たらんとする者ならば、これは最も忌むべき偏狭な心の在り方なのである。
更に続けて「科学とは何か…」を語り始めると軽く数千字を越えそうなのでここまでにするが、この辺りのことは石川光男著『西と東の生命観』(三信図書)に詳しい。「科学とは…」が気になられた方には一読をおすすしたい。
上掲書の60ページから始まる「二 科学を支える文化と思想」を読んでいくと、「科学的」という思考態度が長い人類史上に現れた一つのパラダイムにすぎないことがよく解る。
前置きが長くなったが、風の谷の族長ジルの娘(姫)である風使いの少女ナウシカは、こうした態度とは全く違う角度で腐海や蟲たちと接していく。
彼女の心は自然に対して常に開かれている。のみならず、自己の内面に対して、より大きく開かれているようである。
タイトルにもなっている「風の谷」は問題の腐海のほとりに位置し、風車を主な動力として生活に活用するなど、自然界との融和に基づいた共生が営まれている。
そのような環境下でナウシカは、人々の心配を他所に腐海にもよく出入りをする。そして蟲たちとも親しみ、腐海を構成する様々な菌類の胞子を採取しては自分の「秘密の部屋」に持ち帰り密かに栽培していたのである。
こうした行動をただの興味本位からくるお姫様の奇行と見る者もあったが、実のところ彼女の行動の元には「自然を守りつつ人間たちを救いたい」という強い願心があった。そのために腐海のできた本当の「理由(わけ)」を自分の目で解き明かしたかったのである。
言うまでもなく、ナウシカは蟲や腐海の植物たちを研究して、自分たちの都合のいいようにコントロールしようとか、況や駆逐すべき敵として見ることは絶対にない。
谷に住む人たちと接するのと同じように木々や蟲たちに話しかけ、積極的に心の疎通を図ろうとする。このような態度は、自然と人間を分断する、近代以降に始まった西洋科学文明のパラダイムとは明らかに異なるものである。
つまり自分と外界、あるいは人間と自然の間に垣根がなく、滑らかな繋がりを感じさせる連続的自然観の中に彼女は生きているのである。いわば文化人類学から派生したフィールド・ワークという主観主義的な研究方法と同質の手法を彼女は取っていたと言えよう。
何がそうさせたのかはわからないが、一つには自然との共生がしやすい「風の谷」の風土も無関係ではないかもしれない。それより何より、彼女の胸の内に万物に対する博愛の精神が常に息づいていることは見逃せない要素だろう。
何であれナウシカの在り方は自然を支配の対象ではなく、何故そうなのか、どうしてそうなっているのかを学ばせていただく共生の相手として、敬意を持って接しているのである。
そして、そこにはきっと何か自然界の合目的的な「意味」や「意志」があるはずだ、という見えざる確信が彼女の中には当初からあったようである。
このことから彼女は「目的論的自然観」というパラダイムの中に生きていることを物語る。
元を辿ればアリストテレスによって提唱された目的論的自然観は一度デカルト によって排斥された。つまりこの世界には「意味」などなく、あたかも機械仕掛けの時計のように何かが「カチ…カチ…」と無機的な音を立てているだけだと彼は主張したのである。
その結果我々はその機械の一構成要素と見做され、「分析」によって個々の部品の性質は明らかになる。
そして全ての構成要素を明らかにすることで、元の「全体(総体)」をより深く理解できる(はずである)、という考えが定着していったのである。このような思考態度は自然科学を支える主要概念の一つとして「要素還元主義」と呼ばれる。
この考え方は人間の生活をより豊に、より安全なものにする、という点ではかなりの面で功を奏したのである。
事実分析によって様々のことがわかった。
例えば、それまでは病気は悪魔の仕業と考えられていた。そのために治療者は多くの場合宗教的な指導者や聖職者をかねており、目に見えぬものを目に見えない力によって統制しようと試みてきたのである(これはこれで「一定の」効果が認められていたのだが)。
ところが細菌学の発生によって、病原菌なるものが発見されてこれが梅毒や結核の治療にどれほど奏功したかは歴史が実証している。
しかし人間が生み出したどのような考え方や方法論も万能ということはあり得ない。
「分解・分析によって全てが分かるのでは」という考えすら芽生え始めたときに、そこに欠陥が認められたのである。
…長くなったのでまた次回以降へ。