もうすぐ6歳になる子どもが今Amazonプライムで『ポケモン』を観ている。
よく考えれば、これもなかなかのロングヒットだと思うのだが、一緒に観ていると気がついたら親の目に涙が出てたりするのだから幼児アニメはあなどれない。
世代的に少しズレていたのでピカチュウ以外ほとんど知識はなかったのだが、ポケモンは「進化」することがわかった。
進化は大体バトルの最中ポケモンが追い詰められたときに発動するのもので、その時は何故だか知らないが毎回うるうるクルのだ。毎日座ってばっかりなので、ただ単に身体にエネルギーが余っているだけかもしれないが…
これに因んでNHK 100分de名著の河合隼雄スペシャルの回を思い出した。
そこに隼雄氏のご子息である河合俊雄さんが案内役として出ていたのだが、番組の中で「残念ながら人間は計画的には変われない。何らかの形で今までの安定が破綻したために仕方なく人は変わるのだ。」ということをお話しされていたのである。
世間を見渡せば、人生の苦境に陥ったような人に対して「そんなになるまでなぜ放っておいたのか」ということはよくある話である。
「わかっちゃいるけどやめられない」は植木等の名文句だが、「このままじゃまずいよなぁ…」とわかっていながら、「でも案外何とかなるかもしれないし…」とついつい昨日の惰性で、僥倖頼みに生きてしまうのが人間の悲しい性(さが)でもあるのだ。
以前はそうした性分を「だらしがない」と思っていたのだが自分自身の生活を振り返り、また色々な人の悩みを聞いていくうちに、最近では「環境が変わってから再適応するのが生命本来の在り方ではないか」と思うようになった。
よく考えれば人生は毎日がぶっつけ本番なのである。したがって「何かに備える」という態度自体に土台無理があるではなかろうか。
「地震に備えて」「老後に備えて」という話はよく聞くけれども、地震に備えていたら電車で携帯電話を落とし、老後に備えていたら嫁いだ娘が子供を連れて帰ってきたりするのだから「問題事」はいつどこから飛んで来るかわからないのである。
いくら合理的な思考を積み重ねても、複雑無軌道な人生の予測などできはしない。
野口整体では養生の秘訣の一つに「その時そのように」という態度を挙げている。
その時そのように処せる人がいつも安心して生きられる、ということだ。
一言でいえば「臨機応変」ということだが、色々な事態を想定していちいち準備しなくても、たった一つ、これができればそれでいいという話だ。
だが、存外これが難しいのである。
大半の人は、自分でもよくわからない潜在意識内の観念に縛られて生命本来の自在性を失っているのだ。
何が来たって太刀先三寸で躱せば何でもないものを、「でも…、いや待てよ…」と逡巡しているから気がついた時にはズンバラリンと両断されてしまう。
そんな時、自分を縛っている見えない縄を断ち切る刃となり得るのが、苦境とか艱難と呼ばれるストレス体験である。
古語に「窮すれば変じ、変ずれば通ず」というのがあるけれども、生命は困った時が変わるチャンスであり、昨日までの鬱滞した生活を刷新する契機なのである。
もう一つ野口整体の言葉に「安全無事を壊せ」というのがある。
言うまでもなく、新陳代謝は生命の基本活動である。健康である、と言うことはいつもどこかが壊れていて、いつもどこかが治っている動的平衡状態なのだ。
1日の中に昼と夜、日没と日の出があるように、破壊と建設は別個の作用ではなくて一つの活動の二つの側面でしかない。
これが円滑になされていればいいのだが、先に挙げたような理由からしばしば滞るのである。
そこに何らかのストレスがかかることで、変化を余儀なくされ、自我を新たにして再適応すると、心身ともに活性化して元気になるのである。
歩けば足が太くなり、悩むことで頭が良くなる。ストレスがあってこそ人間は潜在体力を発揮し、成長もするのである。
そのためには今の能力内でできることだけをやっていてはだめで、自ら安定を脅かすものに近づき、一見不可能と思えることに挑戦することも必要だ。
これは意識しなくても、実はみんな知らないうちにやっていることなのだ。
体力があるうちは常に能力以上のことをやりたくなるもので、子どもが進んで危ないことをやり、いくら失敗しても失敗と思わずにやり続ける行為の中には、要求実現に向かってひたすら伸びようとする若さがある。
ポケモンもしょっちゅうバトルしているわけだが、これあって互いに切磋琢磨し潜在生命力を喚起しているのだ。
ポケモンの進化シーンもなかなかエキサイトするが、そのポケモン以上に大化けするのが「人間」なのである。
人間ほど「可能性」を有した生き物も珍しい。
『碧眼録』の第七則に鯉が三段の滝を登って龍にメガ進化する話が載っているけれども、これは苦心惨憺の末に到達する人格の大成と読むこともできるし、白隠禅師の「衆生本来仏なり」に倣って、魚はそのまま龍の素質を持っており最初から龍と何ら変わらないものだ、と読むこともできる。
何にせよ龍である本体に気づくから魚がそのまま龍にもなる訳で、「そこ」に気がつかなければ生まれながらの仏も一生凡夫のままある。
だから「成長」も「気付き」も、そう大差はないのかもしれない。
いずれにしても「窮すれば変ず」である。追い詰められて一切の逃げ道がなくなった時こそ、進化が起こる大きなチャンスであることを忘れずにいたい。