結局いのちの真相は

しばらく前からタイトルに「いのちの真相を求めて」とか書いてあるが、実のところもう求めていない。気がついたら知りたいと思っていた自分は何処かへ行っていた。

この世界がどうなっているのか、自分とは何か、こころとは何か、四苦八苦しながら奮闘しているうちに、「そうか」という体験をいつのまにか通過して、その体験したことももうどこにもない。

30歳の頃だったか当時は整体道場と太極拳の教室に並行して通っていた。その太極拳の練習中にお世話になっていた先生に「お前は心はないのか!?」と詰め寄られ、数秒考えた挙句「‥わかりません‥」と答えた。するとそこにいた古いお弟子さんも交えて「コイツ心があるかわかんないんだって!」と嘲笑されたことを思い出す。

自分としては慎重に答えたつもりである。こころとは一体何か、それがあるのかないのかもわからない、わからなかったのだ。だが今は答えられるようになった。ありがたいことである。

断っておくと、心理学で扱う「心のしくみ」は現在もさまざまなロジックが構築されているので、すべての学派の説を体感的に理解するにはもっと時間がかかるだろう。

しかしそれとは別の次元で、生命の源泉としてのこころなら確信があるのだ。人にどういわれようと、自分の中には疑いようのない実感がある。だからもういのちの真相は求めていない。自分は。

しかしこれを人に伝えるとなるとむずかしい。たいていは現象化した実体の方に掴まって、実体以前の本体であるこころの方になかなか辿り着けない。

しかしこういうこともよく考えてみれば、理解者を求めようという心がすでに捉われているのかもしれない。苦労して美味しいものをようやく見つけたのだから、自分一人で味わっておけばいいではないか、と思わないでもない。

しかしながら、例えば仏教でいえばお釈迦さまもそこで本当に苦労された。36歳で自己の真相を明らかにされた。そこから何の苦労もなく平穏な世界を生きられたか、というとむしろそこからが本当につらい修行の連続だった。人々の苦しみをぬぐおうとして、その道の途上で肉体の方が尽きてしまった。

以来仏教は数えるほどのきちっとした指導者が実人生の責め苦に負けずに生ききってこられたからこそ、かろうじて種切れしないで現在までつながってきた。これは理想主義の観念論ではなく、まぎれもない事実である。

もちろん途中で変質したもの、道から外れたものも傍系直系を含めてあまたあったろうけど、そういう中に本当にわずかだけども立派な修行者が出たおかげで、現在でも我々がその教えの恩恵に預かれる。だったら、凡人が同じことをやろうとするならよほど気を付けないといけない、とか思ったりもする。

こころを明らかにすれば世界を覆っていた無明の蓋は消失する。いわゆる「漆桶の底を打破する」とか言うものだけれども、するとどうなるか。あれほどどうにかしなければ、と思っていた世界は整然と本来の姿を現す。最初から世界は泣きも笑いもしない、平凡そのものである。平凡を乱すものがあれば、それは自分の意識が作り出した雑音に自分が踊っているだけである。

このことを心底感得すれば先ずはひと区切りである。ようやく自分の人生のスタート地点に立てたと言っていいと思う。本当の答えは意識以前の感覚にこそある。

何も科学の進歩を放棄しろとは言わない。科学は進歩すればいい。物質を駆使して、いのちの要求を満たすための道具なのだから。

しかし科学の進歩の先に「幸福」があると信じたら、これまでの歴史が示したように何度でも失意のどん底に落ち込まねばならないだろう。

事実といわれる現象、その物体をうごかしているこころと呼ばれるエネルギーは分析知を土台とする科学の俎上に登ることは絶対にない。認識以前の「何か」、それがいのちの真相だからである。それを誰にもやさしく説ける人があれば、その人は本当の宗教者である。

先に仏教だけを取り上げたけれども、別に他宗と呼ばれるところにだって、いや宗教というフィールド以外にだってしっかりした人はいくらでもいる。いのちの真相に目覚めると衆に溶け込んでしまうので、その光はむしろ見えずらくなる。

一方でそれは当人がよほど強く求めなければ得られない。自分で自分のルートを見つけ着実に歩まなければ、たとえ手にしても本来の輝きに気づくこともないだろう。やはり生を受けた以上一度でも疑念を抱いたなら、誰もがいのちの真相を求めるべきではないか。それこそが本当の人類進歩の道だと思う。