友達にもらったしんたま。その友達と半年ぶりくらいに会って一緒にご飯を食べたのだ。久しぶりに元気な姿が見られたのと楽しいお話ができてうれしかった。さらに帰りに自宅によらせてもらったら玉ねぎをくれた。あんがとー。
ん、そういえば最近毎日玉ねぎを食べている。たまたまですけどね。明日はオニオンスープでも作ろか。
野口整体 ユング心理学 禅仏教などを中心に学んだことや日常の雑感など
友達にもらったしんたま。その友達と半年ぶりくらいに会って一緒にご飯を食べたのだ。久しぶりに元気な姿が見られたのと楽しいお話ができてうれしかった。さらに帰りに自宅によらせてもらったら玉ねぎをくれた。あんがとー。
ん、そういえば最近毎日玉ねぎを食べている。たまたまですけどね。明日はオニオンスープでも作ろか。
いつも自転車で素通りする東神奈川の笠のぎ神社に立ち寄った。最近神社づいてるな。するととってもステキな光景に。
うーんキレイ・・
&境内の入り口にはありがとうの文字が
良い言葉に出会えると元気になるね。チャリにまたがり再出発
家に帰って調べた笠のぎ神社↓↓↓ふむ
http://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=133&cd=1202038&scd=&npg=1
以前テレビで人形師の辻村ジュサブローさんが「平安時代の貴族が陰陽道のような自然科学や呪術を信奉したのは政治の乱れによる不安感からではないか。国が乱れた結果スピリッチュアルが注目される現代はその相似形だ。」と語っていらした。
野口先生は平安の絵巻をご覧になって「腰が抜けてる。」と著して、そのことと戦後になって正坐をしなくなった身体文化の荒廃を重ねて憂国の思いを綴っていらした。晩年には「これから氣の時代に入ります・・。」とおっしゃたそうだが、整体の価値をご自身の命よりも先の時代に見い出していらした。
現在の整体は創始者の下を離れて一人歩きをしているわけだが、原初的な整体操法は氣という目に見えないエネルギーを媒介する。そのせいか巷における『野口整体』はフィジカルサイエンスとスピリチュアリズムのカテゴリーの間を行き来している。時折り整体に開運効果のような健康保持以上のことを期待してご相談にみえる方がいらっしゃるのはそんな風潮を裏付けるものだ。
僕としてはそのどちらということでもなく自存自律のための生命哲学として整体に取り組んできたつもりだ。端的に言うと肉体の形、即、人生の形というスタンスだから、身体が整ったことで話す言葉が変わり、発想が変わり、行動が変わり、そして人生が好転することだってあるだろう。野口先生の著作には易経の中の一節、天行健が散見するが、自然こそが健康の必要条件であり十分条件といえる。
尽き詰めると健康とは自然に生きて自然に死ぬというそれだけだが、そのメソッドは自分の肉体の中にちゃんと刻まれている。僕にとっての整体の愉氣や活元運動は鍛錬して後天的に身に付けるものではなかった。太古から受け継がれた生命の記憶が肉体に表出しただけのものだと思っている。
知識をどんなに集めても白飯が体内で大小の黄色い便と、赤い血に変わるメカニズムを意識して行うことはできない。健康を保つ働きというものも全て斯くの如しだ。合掌行氣はそんな自然の摂理に相対して、そっと手を合わせて感謝の祈りをささげる行為でもある。人の身体、命は神秘だ。わからない。わからないことをさとると大股でゆうゆう歩いていゆけるのだ。
朝起きたら首が痛かった。僕は成長期に顎関節に少し癖がついてしまったので時たま寝違える。首が右にたおせなくなる形だ。
こういうときはいつも腕から肩にかけて調律点を順に押さえて、緊張と取るようにしていくと少しずつ動かせるようになることが多い。
今日はなんとなく最近本で読んでる操体法の理論を試したくて、それで体を伸ばしたら一発で解消してしまった。ちょっとセンセーショナルだった。むかしNHKで放映されたドキュメンタリー番組で操体法を受けた人が「狐につままれたようです…」といっていたが「これかぁ」と納得。もうちょっと突っ込んで研究してみようかな。
今朝変な夢で起きた。人に追いかけられる感じの怖い夢だった。こういう襲われるような夢を観る時は胸の厚さが左右で違うのだ。実はきまって左側が薄くなっている。これは肺との関連だが、自分でもさわってみるとわかる。
さらに気をつけてみていくと、こうした夢が常習になるよう場合は後頭部に特徴がある。触ってみて頭がブネブネしている場合は明け方に夢を観るのだが、逆にカチコチに頭蓋に張り付いたようになっている時は寝入りばなに観る。それを確かめるために自分の頭を触ってみたが後頭部はちゃんとしている。だけど胸の厚さを観るとやっぱり左が薄い・・。
それで今日はふと思ったのだが怖い夢で目が覚めるときって大抵両手が布団から投げ出されている。つまり肘を冷しているのだ。整体で肘というのは呼吸器の急所とみているが、肘が冷えたために肺に影響がいっておかしな夢を観るんじゃなかろうか。
整体ではこういうふうに変な夢を観て眠れなかったり、眠りの質が悪い時は肋骨を調整する。それも尾骨の操法を使う。これは元々は尾骨ばっかりを30年観察を続けた宮廻清二さん(指圧末梢療法家)という人の技術だ。肋膜や結核など肺の病を尾骨の操法で治していたそうなのだが、それが後になって整体操法に取り入れられて人間を深く眠らせる技術に転用したのである。
胸の薄い側の尾骨のキワ(宮廻活点)に愉気をするとふわーっと広がってくるという技術である。もちろん自分自身で行なうのは難しいので一人で行う場合は左の肋骨の4・5番目のスキマに手当てしてやる方が確実である。整体は徹底して体からアプローチする技術であるために、「夢」のような精神的な領域を扱う場合でも対処法は明瞭なのである。
渋谷の便利屋さんとランチを食べた時にAKB48の歌が好きだという話がでたら「意外だ…」と言われた。まぁ…そうかも。
厳密に言うと秋元康さんの仕事が好き、というのが正しい。昔、大石静さんと秋元氏の対談形式のやり取りを読んだ時に、この人は愛情の表現がまろやかな人だと思ったのだ。
加えて仕事の幅が広い、というか発想の振幅が大きい。作詞家を看板にしているが、アイデアが資本なんだな。こういう人の背骨はどうなってるんだろうかと思う。野口晴哉の絶筆『健康生活の原理』に「強情な人は腰が弱いのです。」というくだりがあるが、人は腰に弾力があるうちは頭も顔も一蓮托生に柔らかいものだ。逆に腰の硬い人というのは大抵頑張りすぎて失敗する。人生の荒波、逆境には逆らわずに乗るというのが良策なんだろうな。
整体の仕事をしていると「整体で○○は治りますか?」とか「野口整体の愉氣だけで治りますか?」と期待を込めて尋ねていただくことがる。そんな時僕はあまり上手くお話ができないことが多い。最近では整体の手当て、愉氣の本質は人間を自然に帰すための、掴みどころのない愛情のようなものだと思っているからだ。
大学生の時僕はずいぶんと心理学の本を読んでいた時期があった。エーリッヒ・フロムとかいろいろ読んだ中で印象に残っているのは、心理学の究極は愛で、愛の究極は祈りだとかいうそんな言葉があったと思う。じゃあ祈りって何だろうとなったが整体に出会ってから感じるのはそういう祈りを表現したものが整体の愉氣なのかなぁ、という感覚だ。
学生生活を終えてから早10年近くがたった現在、今になって感ずるところ思うところあるわけだが、人間のできる一番尊い行いはやっぱり愛なんだろうな。真面目に・・。僕自身愛情に恵まれて育ってきたというだけかもしれないが、それは自分や他人の命に感謝をして、静かに祈るとこではないかと思うんだな。学生時代の自分には想像できない整体師という仕事をしているが、人の身体に触れるこういう立場にあることは有り難いことだ。若き日の自らの問いに答えるような生活をさせていただいているのだから。天命というものがあるとすればこういうものか。
今日は電車に乗って出かけた。駅の階段を登りながら観ていると背中を固くしている人が多い。この数日間気温が冷えたからだろうな。明日から暖かくなるらしいのであと1~2週間くらいしたら呼吸器系統の風邪が流行るだろうか。
冷たい空気に触れると筋肉が縮み汗が出にくくなってくる。そして小水の量が増えてバランスがとれてくるわけだが、こういうときの尿は色やにおいが濃い。それでも調整が間に合わないと咳をしたり鼻水を出したりしながら身体の弾力を保っていく。
よく自然の前で人間は無力だという、そういう話たまにあるが、それは人間自体が自然だということを忘れてしまったから出てくる言葉だ。健康法だと思いこんで、温めたり冷やしたり無理に押したり引っ張ったりいろいろとその自然に抗うようなことばかりをやって自然にはかなわないなどと言っているのは可笑しい。あまり無理をかけずに自然にかなった生活をすればいいだけなのだが。
整体には身体が冷えた時に足の中指と薬指の間を広げるように愉氣するという方法があるが、これも身体を冷やしている真っ最中にやっても効果はあがらない。暖かくなったのにいつまでも寒いつもりでいる身体にその機を教えるように愉氣すると良いのだ。
身体というのは完成された自然からの授かりものだ。そういう身体というか生命に触れるための整体操法は神事だとすら思う。人間の得た知恵でできることといったら生命に対する無益な摩擦を取り除くことくらいだ。
そういうふうにできている (新潮文庫) 著者:さくら ももこ販売元:新潮社Amazon.co.jpで詳細を確認する |
操法室の廊下にある観葉植物が根ぐされしてしまった。水をやるタイミングが良くなかったたみたいで…。ごめんなさい。。花屋さんに持っていって相談すると葉っぱはまだ生きているので葉の途中で切って水栽培にすればまた再生しますよと教えて頂いた。
整体操法のコツを言い表す「機・度・間」という言葉がある。意訳すると「機会・度合・間合い」となりますが植物の世話もそれは一緒だったということだ。
野口整体の本に野口先生の愛犬の世話をする弟子のエピソードが綴られたものがある。犬の散歩を受け持っていたあるお弟子さんが、散歩をサボって原っぱで昼寝して帰ると犬が運動していないと先生に見破られてしまうという内容だ。ここでは犬の散歩も物言わぬものの訴えを聴くことで機・度・間を掴ませるための修行だったという話だった。
植物も意思を伝える言葉を持っていないが、同じように命があるものだ。氣を集めて毎日観察していれば水をやる時期や度合いももっと良く見えてくるはず。今日から観葉植物にも愉氣をしながら水やりをしてみようと思う。