野口整体

以前テレビで人形師の辻村ジュサブローさんが「平安時代の貴族が陰陽道のような自然科学や呪術を信奉したのは政治の乱れによる不安感からではないか。国が乱れた結果スピリッチュアルが注目される現代はその相似形だ。」と語っていらした。

野口先生は平安の絵巻をご覧になって「腰が抜けてる。」と著して、そのことと戦後になって正坐をしなくなった身体文化の荒廃を重ねて憂国の思いを綴っていらした。晩年には「これから氣の時代に入ります・・。」とおっしゃたそうだが、整体の価値をご自身の命よりも先の時代に見い出していらした。

現在の整体は創始者の下を離れて一人歩きをしているわけだが、原初的な整体操法は氣という目に見えないエネルギーを媒介する。そのせいか巷における『野口整体』はフィジカルサイエンスとスピリチュアリズムのカテゴリーの間を行き来している。時折り整体に開運効果のような健康保持以上のことを期待してご相談にみえる方がいらっしゃるのはそんな風潮を裏付けるものだ。

僕としてはそのどちらということでもなく自存自律のための生命哲学として整体に取り組んできたつもりだ。端的に言うと肉体の形、即、人生の形というスタンスだから、身体が整ったことで話す言葉が変わり、発想が変わり、行動が変わり、そして人生が好転することだってあるだろう。野口先生の著作には易経の中の一節、天行健が散見するが、自然こそが健康の必要条件であり十分条件といえる。

尽き詰めると健康とは自然に生きて自然に死ぬというそれだけだが、そのメソッドは自分の肉体の中にちゃんと刻まれている。僕にとっての整体の愉氣や活元運動は鍛錬して後天的に身に付けるものではなかった。太古から受け継がれた生命の記憶が肉体に表出しただけのものだと思っている。

知識をどんなに集めても白飯が体内で大小の黄色い便と、赤い血に変わるメカニズムを意識して行うことはできない。健康を保つ働きというものも全て斯くの如しだ。合掌行氣はそんな自然の摂理に相対して、そっと手を合わせて感謝の祈りをささげる行為でもある。人の身体、命は神秘だ。わからない。わからないことをさとると大股でゆうゆう歩いていゆけるのだ。