迎春

昔の思い出になるが私の実家に父が彫った寅年用の木版画があった。おそらく48年前のものだろう。

細密な虎の画のわきに「迎春」と彫られていたのが記憶に鮮明である。この寒いのに、花も付かないのに、どうして春なのか、とうのが子ども心に疑問だったのだ。

それから幾ばくかの歳月が過ぎた。すると迎春とか新春、あるいは頌春などと、年が切り替わる一月一日に春を見出した昔人の感性に親しみと敬意を覚えるようになってきた。

自然との共生が要であった往時の人々は、田んぼの水引きでも収穫でも、気候や天気と一体になって動かなければならなかったのだ。

自然から切り離された近代的な自我で、「我がまま」に生きるということは許されない。具体的事情をいえば我を通せばそれだけ生存率が下がるのである。

そして自然と共生するためには、先に起こることが予感、直感されなければならない。オーケストラの指揮者のように、演奏者の次なる調子を引き出すためには先を知っていたうえで半歩リードするという技術がいる。遅ければ無論だめだし、早過ぎても意味がない。

翌年の夏が冷夏になると予見して、米ではなくヒエを植えて難を逃れた二宮尊徳の話は有名である。

だから夜が明ければ朝になることは当然としても、その時に雨が降っているのか風が吹くのか、また月が出ているのかわからなければならない。

そして冬が明ければ当然春である。今日が寒いからと言って今日に適応するだけの動きでは次の波に間に合わない。考えて動くものは一つ遅れる。そしてその間に生命の機は去っていくのだ。

ここで「なるほど、昔の人はそれだけ優れていたのだ」といってしまうと、現代人としての学びも創造性もなくなってしまう。

実際的には現代を生きる我々の中にも「先を知る力」は常に働いているのだ。わかりやすい例をあげれば、受胎した人の体は10ヶ月後に何が起こるかを知っている。

たとえ当人がそのことを無自覚であったとしても、また解剖学など何も知らなくても、乳房は将来の赤ん坊のために発達し、腰椎や骨盤も来るべき出産に備えて日々なだらかに可動性が増していく。

また自分の体内だけでなく、外界との感応、外気や気候のようなものとの相関性もある。

例えば日本なら夏末にはもう筋骨が引き締まり、寒さに備え始めているし、そうかと思えば初夏を前にもう皮膚はゆるんでくる。つまりは地球の自転や公転、すなわち太陽系の動きと一つのリズムになって動いている自分というものが最初からあるのだ。

無意識の、こうした絶え間ない働きによって、平素から我々の無事は保たれているのである。

この無意識と親しむ時間が、現代を生きる我々からだいぶ縁遠くなってきている。文学的にはアダムがリンゴをかじった瞬間に「意識」という分別心が生じ、自分が世界から孤立したことになっている。

だからその「自分以外」のものの象徴として神様とか阿弥陀様とかいろいろな名前をつけて、もう一度親しみを取り戻そうとする動きが宗教の行為の中には沢山にある。

しかし意識化されたらそれはもう無意識ではない。多くの人はそれを神様とか仏様とか言っているけれども、客観的に示した人はやはりいない。いのちの真相は私から最も遠くて近い存在なのだ。

この無意識に最も近い認識作用が「感覚」なのである。

最初に感覚されるものがあって、のちに意識の窓を通り理性の検閲を受け、ようやく行動化されるというのが人間の特徴である。

この「感覚する(させられている)」という、生きるうえで重要な工程がだんだんと思考や文字の世界に圧迫され、一路萎縮の道をたどっているのが近代人の特徴といってよいだろう。簡単に言うと生の感覚が鈍っているのである。これによってどうなるかというと、思考が現実から遊離するのだ。「机上の空論」などという言葉は、思考の産物である科学の陥穽を簡潔に言い得た言葉である。

生活に則したところで考えると、天気予報や災害警報のインフラ拡充はこうした鈍麻に拍車をかける要因の一つではないか。いや鈍っているからこそ、そこに需要と供給が生じたのかもしれないし、これは鶏と卵の理論でどちらが先かはわからない。うるさいことをいえば、折りたたみ傘などというのも雨の予知ができなくなった人間には重宝な装備である。

実際、一度ふいの雨に打たれた経験のある人がいつでも傘を持って歩くことがある。羹に懲りてなますを吹くという言葉の通り、頭が記憶に占拠されて、今の現実認識がくもるのである。

その点で感覚という作用は原始的な生き物の方がむき出しに近い。我々は遠い海の海溝で起こった噴火をずいぶん後のなってから他人の作ったニュースで知る訳だが、海亀ならば津波のある年には海浜からずっと上がったところに卵を産むという。また樹木なども干ばつの起こる年はあらかじめ幹の中に水分を余分に蓄えている、という話も聞いたことがある。原始生命に近い両生類のカメや木々にはあたりまえの所作でも、大脳の発達した人間にはなかなか難しい芸当である。

東日本大震災の折には荒れる海をスマホで撮影していた子供がそのまま津波に吞まれてしまったという報道があった。

高度に発達した近代文明の象徴とも言える小型化されたコンピューターを握って水没する人間の姿に、私は人類の末期的症状を見ることを禁じ得ない。それが本来敏感であるはずの子どもであったという事実も傷ましい。

人間の子どもは一人でに大きくなるということはない訳で、高度な感受性を具えて生まれて来る子どもを鈍麻させる環境にこそ本当の災いがある、と思う。一方でその環境を配備した大人は大人の知恵で難を免れているというのだから、古きものが生き残り新しきが死んでいくという構図に、私は種としての未来を感じないのである。

年明け早々暗い話に傾いてきたが、ここからようやく整体愛好者の我田引水がはじまる。

こうして鈍りの一途をたどろうとする人間の生の感覚に活を入れ、再生せよというのが整体法の主張なのである。

無意識、そして錐体外路系のはたらきというのは宇宙の運行と機を一つにするものである。たとえ人間という種が姿を消しても、この世界から平衡運動が消滅することはない。つまり易経の天行健である。

どんなに鈍った鈍ったといっても、体温が10度以下で動いている人もいなければ、43度という熱を出す人もいない(もはや「人工的」には起こりうるかもしれないが)。アナログ体温計のメモリが42度までしないということがこの生命の秩序を黙して語る。

そして一分間の呼吸が18ならば、脈は72である。この一息四脈というリズムは整った体を象徴する数値であり、速くとも遅くとも、この比率からズレると元へ帰ろうとする動きが即座に起こる。熱や発疹などはこの平衡作用の代表的なものの一つである。

だから問題の核心は、この働いている秩序を害悪とみなして矯正または排除に奔走するのか、逆に善なるはたらきとみなして共感と活用へ向かうのかという分岐にある。

換言すると、病症のはたらきを生命を傷つけ死に至らしめる破壊作用としか認めないのか、あるいは破壊の中にある再建という生命の適応作用を観るのかという違いである。

後者であれば自らの病症経過の苦痛の中にも、自然整体作用の快感を見出すことも不可能ではない。

しかし現実は、病気は悪であり無病が善であるという二元論、そして病気の原因をウィルスや菌という外因にしか認ようとしない特定病因説が大勢を占めている。この事実からも近代科学のもたらした偏狭な視点がグローバル化の波と一体となって地球を席巻していることは明らかである。

その要因の一つが現代人の近視眼的視野狭窄があり、そのまた奥の要因として息の浅さ、そして不整体があるというのが整体愛好者による我田引水的視野狭窄である。

繰り返すが天行は健である。天地自然、この世界の全ての運行は最初から健やかさを失わない。この健の見えざるは近代自我の過剰亢進と似非科学の盲信によるものである。

人間の世の中が如何に変わっても、自分を離れていのちは存在しない。だから私は活元運動を通していのちの真相を自覚する人を、今年も一人でも多く増やしたい。それこそが人間の進歩だと考えているからだ。

ここに至って「たとえ、百年かかっても、二百年かかってもよい。一人一人が、整体の考えを実現するよう行動してゆけばよい」という野口晴哉が生前発した言葉に、自らが宇宙の息と一つになって全うした生の荘厳さと息の深さ、そこから生じる視野の遠大さを感じるのである。

真理というものは、世の中が乱れれば乱れるほど、対比の構造によって一層明瞭になっていく。だとすれば、今ほど整体の価値が光る時代もないだろう。晴哉の見い出したいのちの世界に理解と共感を覚える人を増やしながら、着実に歩を進めていきたいと意を新たにする次第である。

病気は体の自然良能

2003年に『風邪の効用』がちくま文庫に入ってから今年ですでに17年経っている。

10年ひと昔という言葉に照らせばもうふた昔は前になろうかという話だが、当時は大手書店では平済みの状態が続き、まあまあのセンセーションをもたらしたようである。そこから比べれば「野口整体ブーム」も今はやや小康状態になったとみるべきだろうか。

それにしても野口先生の存命中は「病症が身体を整えている」というだけで、かなりのトンデモ説として非難されたそうである。

考えてみれば往時の日本はペニシリンやストマイを西洋から流入したおかげでようやく死病を克服できそうだと安堵していたさ中であった。

一見して高度な合理性を示す科学的医療の威力に目がくらんで、科学を絶対的に信じている人が大半の時代だったのだ。

その時にいち早く西洋医療の限界と問題点を指摘した先見性はもっと評価されるべきだと思う。

現代はそこからまた少し科学の方が進んだので、例えば熱が出るとその熱で症状を引き起こしている病原菌が死滅するのだ、という解釈も場所によっては受け入れられるようにはなってきた。

ただ注意がいるのは「病菌さえなくなればいいのだ」という見方に引っかかると、やはりそれは善悪の二元対立の世界に留まることになってしまうことだ。そうであるうちはどうしても是非と善悪の間でうろうろしてしまう。

病菌自体の存在も地球規模というか、宇宙的視野でとらえようとすると、善も悪もない「ただそのようにある」という一大活動体の中から一部を切り出して悪しと見ているだけである。

だから苦しければ苦しい、痛ければ痛い、というそのことで終わっておけば、それも宇宙全体の健やかな動きとして自覚できる時が必ず来る。

科学を基盤とする近代的な価値基準に生きる人たちに対して、ある種のコスモロジーの転換を迫ろうとするのが野口晴哉の説いた整体法という世界である。

こういう視点はそもそも東洋では昔からあるもので、例えば禅という世界がまずそうだし、天行健を冒頭に掲げる「易」もはるか昔から同じことを言っている。

是非、善悪、上下、苦楽といった二元的な対立概念はよくみればそれを見る人が与えた評価なのである。そして同じ人でも昨日と今日ではもう変わってしまう。

そういう不確実な考え方をもとに世界を理解し、コントロールしようとあくせくするより、「ただそのようにある」実態のほうに自分のいのちをそっくり浮かべて漂うな気持ちになってみたらどうであろうか。

法然の南無阿弥陀仏とか親鸞の自然法爾というのはこれだろう。キリスト教の方では「神のみ心のままに」というきれいな言葉があるけれども、キリストの宗教者としての強さをよく表していると思う。

人間には最初から拠り所などない。

もしも「唯一絶対」というものがこの世にあるとすれば、それは今こうして展開するいのちだけである。

頭の中を虚しくポカンとさせて、今を十全に生きようというのが整体法の説いた道である。

良し悪しを思う心がやめば、病気も一つの健康の働きであり、体の自然良能であることがわかる。

健全な動きの中にある一つの状態を人間が切り出して、「良い」とか「悪い」とか言っているにすぎない。

そういう観点で『風邪の効用』にもう一度目を通していくと、整体法が事実に即した生命観であり不易のものであることが実感できる。

とりわけ巻末の「愉気について」は圧巻である。風邪やその他の病名に拘泥して、不安に駆られたままあくせく治そうとするのではなく、先ず「病気しているその心を正す」ことが肝要であると説いている。

この辺りのところが整体法の精髄といっていいのかもしれない。

ただしここからが難しいのだが、これをさらっと信じられる人と、どうにも受け入れられない人がいる。

後者のような人を「常識の豊かな人」というのだが、実のところこういう人たちのおかげで整体がこの世に生まれたと言えなくもない。

考えてみれば信仰とかドグマというのは「受け入れられない人」がいるからその存在価値もあるわけで、みんなが「そうだ」と信じていたら、今さら改めて説く必要もない。

キリスト教も仏教もいつまでもなくならないのは、その愛も慈悲も悟りもなかなか受諾されないからに他ならない。

『整体入門』も『風邪の効用』も一般書の中に紛れ込んでいるのでうっかりすると見過ごしてしまいそうだが、その内容は教育、医療、宗教を分け隔てすることなく人間を全一的に導くための示唆に富んだもので、その功徳は計り知れない。

折に触れて読むといつも偏りかけた自分の心の姿勢を正される気がする。一冊の本の中に整体の技術としての潜在意識教育が盛り込まれているのだ。

うつは心の風邪か

体が風邪を引くように、心も風邪を引く。うつは「こころの風邪」みたいなもの。そういうフレーズをときどき目にする。

だいたいが「風邪」も「うつ」も定義があいまいなのだ。だからそうだといえばそうかもしれない。

おそらく「うつ」という病気が重篤なものになると相当に苦しいから、「今は苦しいけど、ちゃんと養生すれば必ず治りますから」という、心ある人からの励ましではないかと思っている。

野口整体の『風邪の効用』という本があるけれども、これによれば風邪は体の自然良能、すなわち発熱・発汗・下痢等々‥症状はいろいろあるが、その風邪を途中で止めないでしっかり経過すると身体の偏りは消失することを説いている。

もうちょっとわかりやすくいうと、自分の力で自然に体は整うってことを意味しているのだ。

ここでいう「偏り」って具体的にどういうことかと言えば、「骨格の位置」とか「重心バランス」のことである。

つまり発熱と発汗で筋肉がゆるむから骨格が正常な位置に戻るし、筋骨のバランスが整えば内臓機能も正常化し、そして最大化するのだ。

それなら、「うつ」にもそういう自然良能の力があるのか?と問われれば、それは間違いなくある。

「うつ」状態が体と心の偏りを正している、と考えて相違ない。

だいたい人間が治る時、というのは全てにおいて苦しみを伴うものなのだ。

「苦しいから治っている」といっていいだろう。

風邪もそう、そうなのだ。

「うーん…」と寝込んで唸っているときに、必ず身体のどこかが治っている。

共通しているのはうつでも風邪でも必ず、過去に何らかの「不快」を味わっているということだろう。「その時」の情動が消化しきれずに、体の内、あるいは心の中に居座っているのだ。

それを遅ればせながら、1年後でもいい、いや10年、20年後でもいいから身体上に表現して、感じ直して、苦しみ直すことで心身ともにクリアになる。

心でも体でも、きちっと病気をすることが治るためには必要なのである。

ときどき心理カウンセリングを受けた後で「具合が悪くなった」とか、「かえって気分が落ち込んだ」とかいうことが起こるのは、過去に感じ、出しそびれた不快情動が記憶の底から浮かび上がってきたからだと言える。

感じはじめたらそれから何日後か何週間後かはわからなけれども、やがては消えていくのだ。

暗がりに繁殖したカビとかキノコがお陽様にあたると消えてしまうように、心の底にも意識の光が指し込むとクリアになる。

ただまあ、人によってはそういうカビとかキノコみたいな不快な情動体験が「生きがい」とか、「生きるための燃料」みたいになっている人もいるから、心の治療というのはむずかしいのだが‥。

場合によっては、少しくらい偏りがあった方が「人間味」がある、と言えなくもない。

まあでも、せっかく心の風邪を引いたのならこれを上手く使わない手はないだろうと、わたしなら思う。

風邪をきちんと経過したあとは身体がさっぱりする。

これと同じように、うつを経過したあとで、今までとは違った創造的な自分だけの人生の道が拓けた、という例を、日々の臨床でたまさか見させてもらっている。

いずれにせよ病気は外から無理やり治すものではない。

「いのち」という全体性の中でその目的を正しく理解し、善用するべきだ。

苦しいときはその苦しさの中心を見据え、本質を見極めようとする態度を学ぶことである。

やがて必ず、その病の中に「道」が見えてくる。

生きがい

1年ほど前だろうか。たまたまバスで乗り合わせた女性と世間話に花が咲いた。

脳溢血で若くして亡くなった恋人の借金を5年にわたって返し続けているという、なかなか数奇な人生を聞かせていただいた

現象だけをみれば決して笑えるような話ではないのだが、その方があまりに充実した笑みをたたえながら自分の境遇を話されるのでつよく印象に残ったのである。

お話をずっと聞いていると、その男性とは長く付き合ったが結婚したわけではないので、法律的には借金の肩代わりをする必要はないそうなのだ。

その方が言われるには「気持ちがわるいから」返している、との由。

少し考えてみれば想像がつくけれども、その借金は恋人との「つながり」としてその人の人生に大きな意味を持っている。

その借金が無くなってしまうということは、この世界の中でその女性はぽつんと一人生きているような心境になってしまうのかもしれない。

「借金を返す」ということが一つの生きがいとしてそこにある、という風に考えてみると、人間というのは大なり小なり何らかの不足を埋めようとすることでどうにか生きているようにも思えてくる。

不平とか不満、欠乏は生活に活力を与える燃料なのかもしれない。全てが満たされた生活というのは、やはりどこかたるんでくる。

幸福とか不幸という二分法で人生を考え出すといくらでもむずかしく考えることはできるが、今日を元気よく生きることだけが人間の本分であることにまちがいはない。

逞しさも強さもあるに越したことはないが、どれも「元気がある」ということには及ばない。

元気があれば、悲しみも欠乏も生きがいに変えることができる‥のかもしれない。

元気を出そう。今日あるかぎり。

健康への正しい考え方

私は整体操法のお世話になるともに、健康の自己管理とその推進のため、四十年間、前述した自分で行なう健康法である活元運動を毎日やってきた。どこの病院をみても、待合室は、受診者であふれている。人は、自分自身の持つ治癒力をたよらず、すぐに無条件に病院をたよってしまうのであろう。この書が、一人でも多くの方に、健康への正しい考え方を、開眼させる指針となってもらえれば、と、私は祈ってやまない。(野口晴哉著『整体入門』ちくま文庫 pp.226-227 解説 伊藤桂一 潜在する自己治癒力 より 太字は引用者)

おとといの記事に通じる話だが、現代では亡くなる直前まで病院のお世話にならない方、さらに言えば自宅で亡くなられる方などは本当に少ないようである

いかに自分の人生を精力的に生きてきた人でも、こと自分の身体の問題となると本当に具合が悪くなるまで何の自覚もなく、気がついたときには重症か手遅れ、そして「専門家任せ」という流れに何の疑問も持たないことは異常である

自分自身も若い頃は「活元運動をやっている人は最後に寝込んで死なない」などと言われ、何とも消極的な効用を謳っているようでピンとは来なかった

しかし実際に介護とか老いというものの実態を目の当たりにしてみると、非常に価値のあることだと思えるようになった

また開業当初よりも自分の年齢が上がったせいもあって、いわゆる高齢の方もよくお見えになるようになったが、そういう方の中には「死を整えたい」という要求を暗に感じることがある

そういう意味では整体指導とは非常に宗教的でもあり、ある種の厳粛さを内包する職業なのである

これはもちろん受ける側も同じで、その「ある種の厳粛さ」を身の内に備えない人は縁が持てないし、持てたとしてもその縁を保てなかったりする

口先だけで「生命に対する礼」などといってみても、礼の心は一挙手一投足に現れるのでこれもやはり厳しいものである

礼というのは常に権威に対して生じるものだが、この場合は誰が偉いというわけでもなく、ただ一つ、生命に対する畏れを現しているのだ

ともすれば科学的医療に馴れ過ぎるとこの「畏れの心」が失われ、活元運動をみてもそこに潜在する価値を見い出せず、意識が妙な裁定をくだして忌避してしまう

もちろんそれはそれで個人の自由であるが、ある程度心の啓いた人でなければ整体の門をくぐるのは難しいのも事実である

どこにも門は無いのだけれども、自分で閉ざしてしまうのである

だからこそ「健康への正しい考え方」を学ぶためには、まず頭をカラッポにすることが前段階といえる

そうして理解と行い、この両輪が自然の整体への道となる

あとは本当に、みなさんやってくださいという、このひと言に尽きる

いのちの理を学ぶ

私は今年八十五歳になるが、野口先生は、老人と呼ばれてよい年齢は九十代になってからで、それまで老人ではない、齢を数えて老い込むな、と言われる。整体は、生命を励ます健康の哲学だからである。この本には、その原理が、わかりやすく説かれている。整体では、治療とか治病とかいう言葉は使われていない。人間は自分の力で自分の症状を癒すので、整体操法者は、その潜在する自己治癒力の喚起を手伝うのである、と。野口先生の衣鉢と伝統を継承し、実践しつつある操法者は堅実な歩みを展開している。ただ、巷間に整体の名を謳う幾多の療術と、野口晴哉先生の整体法とは、よほどの相違があることは、私のこの小文でも、おわかりいただけるのではないか、と思う。(野口晴哉著『整体入門』ちくま文庫 p.226 解説 伊藤桂一 潜在する自己治癒力 より 太字は引用者)

整体指導を受けるには「自分の力で治る」という意欲がいる

これは理想だけど多くの方は整体に治療を期待してお越しになるのが実状だ

中にはよほどすごい奇跡的な治療法があると思って来院されることもあるけれど、こちらとしては「そのようなものはない」ことを知っていただくのが仕事である

だから本当は「自分の力で治る」という自立心を育てるのが使命なのかもしれない

技術の実体としては「潜在する自己治癒力の喚起を手伝う」ということだが、煎じ詰めればこれは「何もしない」ということに近い

指導者が親切に庇ったり守ったりすることに努めれば、潜在生命力はいつまでも潜在したままである

どのような方法でもいいから、「自分の身体ははじめから自分が保ってきたんだ」ということに気づくことができれば心強い

現代ではこういうことを謳う「整体」も増えてきたけれど、臨床の実際としてはこうした「庇われ癖」とでもい言えそうな医療に対する無自覚な依存体質を払拭することは容易ではないのである

くり返すがそのためには「何もしない」こと、技術らしい技術を振るわないことが技術である

さらに加えると相手にもともと備わっている健康と保つ動きを邪魔している観念を取り払うことだ

そういう意味で整体指導とは心理指導に通じるけど、違うところはそうした心の作り変えを身体の刺激を通じて取り組むところだ

道は違えど目指す所は一つ。

今日も元気よく生きよう。

人生を拓く瞑想法

整体は「全生」という言葉を信条としている。整体的に生きていれば、死ぬ時も苦しまない、という考え方である。死ぬ時なぜ苦しまないかというと、与えられた生命を完全に燃焼し切れば、苦しむ必要がないからである。死の直前まで、生き生きと仕事ができる。何年も、身体不調で寝込んでしまう、という厄から免れたいのは人情である。そのため、整体を知っている人は、つとめて整体的な生き方(つまりは死に方)を心掛けている。(野口晴哉著『整体入門』ちくま文庫 p.225 解説 伊藤桂一 潜在する自己治癒力 より 太字は引用者)

今年はじめに母が体調をくずしてから、整体の存在意義を再認識した

母は70歳、私は40歳、これぐらいになって「ようやく」というか人生をお尻から考えたときの実感が違ってきた にぶいだろうか‥

母の付き添いで久しぶりに病院という所にも行ったが、お年寄りが沢山「暮らして」いたのが感慨深かった

医療管理が行届くということはありがたいとこなのかもしれないが、これが現代日本の実状なのかと思うと素直に喜べない

多くの人が自分の力で生きることを放棄しているように見えてしまう

そこから脱する手段として整体という体育教育が大変有効なのである

ただし、引用にある「整体的に生きていれば」という但し書きが非常に肝腎である

整体的に生きていれば、というのが先ず「どういうことなのか」をよく考えねばらない

こうした一文が一般の人に触れた時に、多くの場合はただ「薬を飲まない、手術をしない」とかそういう次元でしか捉えられないのは本当にさみしいことである

もう一つ踏み込んで、自己の生命活動の要求というものに耳を傾け、その実現に向かう動きが日々の生活に現れることが「整体的に生きる」ということの一つの側面なのである

狭い顕在意識によって頭が支配されている内は、このような生活はままならない

もう少し意識の活動水準を下げて無意識と闊達に交流できる時間が欲しい

整体流に言えばポカンだが、現代人はテレビもスマホを手放して、ぼんやり、ぼーっとする時間をもっと重用すべきである

活元運動の潜在的需要もこういった社会事情にある

野口整体が風変わりな健康法という理解からもう一歩二歩進んで、人生を拓く体育的瞑想法であることを多くの人に知って欲しいと思う

名前はない

愉気って何だという質問だが、人間の気力を対象に集注する方法だ、と考えたら良かろう。人間の精神集注は、その密度が濃くなると、いろいろと、意識では妙だと思われることが実現する。穏やかな太陽の光でも、集注すると物を焼く。光はレンズで捉えられるのだが、気は精神集注によってちからとなる。それ故、愉気するには高度な精神集注の行えること、恨みや嫉妬で思いつめるような心ではない、雲のない空のような天心が必要である。(野口晴哉著『健康の自然法』より)

ときどき愉気はレイキヒーリングとどのように違うのですか?と訊ねられるが、そもそもレイキのことをよく知らない

と思ったら、よく考えると愉気が何だかもわかっていないではないか

しかしもう一つ踏み込んで考えてみると人間が生きていること自体が、何がどうなって生きているのか解ってやっている人などいないのだ

特にこういう生命原理に近いようなものは、探ったり追っかけたりしているうちはそれらしい理屈に掴まるだけで実態そのものに突き当たることは無い

ただ、手を当てると何かが起こるのであって、それに名前を付けたのは人間である

そしてどう使うかを決めるのも人間なのだ

流派や方法論、名称は気になるところだが核心はそこにはない

人間の位(くらい)というのがちからの根源であり、その上で精神の平衡を保つことが全て

名前はどうでもいい

健康の自然法とは流石言い得て妙である

体育と精神医学

心のことだと体と関係が無いように考えている人は沢山いる。心理学と生理学を別箇にしているからであろう。その為に精神身体医学とか、心身一如たれとかいう意見がおこるが、始めから心身が分離している人間などは一人も無い。分離していたのは学者の頭である。体育を土台とした教育ということを教えて主張しなければならないのはこういう考えの人が多いからである。(野口晴哉『叱言以前』全生社 p.61)

現代は心と体のつながり、分離ということが取り沙汰されて久しい。昨今はない心と体が無関係だと言う人はそれほどないかもしれないが、かといって心の問題に対して身体的な導きによって処理のできる人というのはやはり稀有である。

なぜそれができないのかと考えていくと、まず治療者や指導者が自分自身の心理と生理とのつながりが希薄になっているからではないだろうか。

人間は自分の身体感覚を投影して他者を測るために、治療者がいくら心理学や生理学を頭に覚え込ませても、身体がにぶっていればそのにぶさのレベルでしか人間を理解できない。

しかし人間は大昔からお腹が空けばイライラするし、おしっこを我慢していれば落ち着かないのである。

こういうイライラとか落ち着かない感じを「治そう」と思ったら、何か食べるとか排尿することがいちばんピッタリした「治療」である。

それを何かイライラするんだったらちょっとカウンセリングをしてみましょうとか、気持ちが安定する薬を出しましょうといったなら、誰もが「妙だ」と思うはずである。

ところが精神医学の世界では、ときおりこういう妙なことが治療として行われているのが現実である。

気分は身体の生理機能に直結するのと同時に、身体が気分をリードしていることも多々ある。

つまりその実態は不即不離であり、というよりも最初から「一つである」ということだ。

だから対話でも手技でも「その人の全体を掴まえたうえで」行なえばそれは全人間的治療になる。

ところが同じ話を聴くのでも個人から切り離された「話(音声)」だけを聞いていたり、手技療法を行なうのでも関節とか筋肉、内臓だけに触れていたのでは対象者を生命の中心(裡)から動かすことはできない。

そもそもが「病気」と呼ばれるものの大半は心理と生理が乖離しかかっている状態から心身の一体感を取り戻すために起きている。

だからその病気をうまく利用して、身体の自然性を取り戻すことが治療の本義となるべきである。

そういう観点から治療行為の本質を突き詰めていくと、身体を中心に据えた教育、すなわち「体育」ということが自ずと求められるのである。

もちろん整体ばかりがすばらしいといは言えないけれども、身体の生理を度外視した教育や心理を省みない治療はやはり片手落ちではないだろうか。

もっともっとこういう「整体学的」とも言える人間理解の一般化に貢献したいと私は思う。

活元会 2017.12.14:意識以前の心の育て方

12月14日の活元会では野口晴哉著『潜在意識教育』全生社 を資料に座学を行ないました。(以下資料より抜粋)

…親は子供をよりよく育てるとかで、自分の理想を托したり、自分に都合のよいようなことを上手に押しつけたりしてそれを教育だと言うが、子供の方は教育の必要を感じていないばかりか、植木や盆栽みたいに親の勝手な形に整えられることは迷惑である。それ故中には反感を抱き反対の方向へ走る要求すら持つようになる。それが実現できなければ、反抗として他のいろいろのことに逆らうことが生じ、時にその実現の衝動に駆られることさえある。だから教育熱心な親の子供ほどそういうようになることが多いのは、心の生理的現象といっても差支えないことである。お互いに選べない、選りどれないという宿命のためである。どちらの罪でもない。それ故教育の専門家でない私が教育のことを語るのである。選べない、選りどれないその宿命の中で楽しく生くる道を見つける方法として、意識以前の心の在り方や方向を教育する方法を考えようというのである。

私は四十数年に亘る指導ということの経験から、同じような教育を受けながらみな異なったことを考えたりするのは、教育を受け入れる意識以前の心の方向によるのであり、人間は意識で考えているようには行えず、咄嗟の際に本当のことがヒョッコリ出てしまうのは、意識以前の心によって為されるからであるということを知っている。そこで教育ということを、意識以前の心の在り方を方向づける方法として筋道をつけたいと思って、整体協会の本部道場に「潜在意識教育法講座」を設け、語ったことを記録したのがこの書である。同志の人を得れば幸せと思う。 昭和四十一年十二月(前掲書「序」より pp.3-4 太字は引用者)

ここでは親子関係の問題が焦点になっていますが、この『潜在意識教育』の中にはこうした家庭内での人間関係論のみならず、人が病気になったり、またその病気が自然に治っていくという動きの根本にも意識以前の心の在り方ということが密接にかかわっている、ということが綴られています。

最近ではこのような潜在意識関連の情報が少しずつ一般化しているようですが、この本が出版された昭和30年、40年といった時期に、「意識以前の教育法を講義していた」ということはかなり前衛的だったと思われます。

さて、改めて人間の体の健全さということを考えたときに、どうしてもその人の心の在り方という問題にぶつかることになります。

現在のような体になるのにどのような心の状態があったのか、そしてその心はどのような経緯で形成されたのか、ということをずっと辿っていくと必ず胎教までを含めた「成育歴」が深くかかわっている、ということがわかるのです。

ここまでは多くの臨床家が比較的早い段階で辿り着く結論ですが、そういう成育歴、平たく言えば「生まれや育ち」というものからくる現在への影響をいかにして作り変えていくか、ということになるとこれは非常にむずかしい面があります。

同じような心のクセからくる悩みでも比較的容易に解消できる問題もあれば、解消するまでに3年、5年、ときには10年以上かかるようなものもあるわけです。

そもそも人間の心というのは外部からの刺激によってたえず変性していくものですが、例えばカウンセリング(対話精神療法)ならば主に言語(話す・聴く)による刺戟を主体に治療を進めていきます。

整体法の場合はというと、一般には身体の刺戟(触覚)がメインあろうと思われがちですが、実際はやはり「言葉」も同じくらい重要なのです。

その方法はといえば意識ではなく意識以前、とか無意識などと呼ばれる沈潜化した心の領域にはたらきかけるように語りかける、と

説明するとこのようなことになりますが、これを実地で行なうとなると相当な勘と豊かな経験が要求されるわけです。

ところが家庭においては「お母さん」という立場の人ははじめから子どもたちに対する影響力がとてもつよいのです。なのにこういう心の構造などよく知らないまま「お母さん」になってしまうのだから親も子もお互いにいろいろ悩むことが出てくるのは必然だと思います。

この問題は本当にどちらが悪いということではないだけに(一見して「親が悪い」という風にみえがちですが…)、改めてこういう心と体のつながりや心の深層部の動きについて勉強する場が必要であろうと考えられた、ということですね。

ユング派の治療者などは心を勉強するにはまず何を置いても、自分の心を知ることからはじめます。そうすることで人間の「心」というものがどれくらい「わからない」ものかということがだんだんとわかります。ここがまずスタート地点です。

せい氣院の活元会は座学と活元運動の実習を通じて、みなさんがそれぞれのペースで自分の身体を通じて心の在り方を探求していける場になれば、と思っています。

今年は次回12月22日(土)で最後です