不安定という安定性

生きている人間というのは絶えずゆれているものである

この、いわゆる「ゆらぎ」によって生命の平衡は保たれている

健康指導や精神論などを説く際に、ともすればその微妙なゆれによって安定が保たれているという事実を忘れがちになるので気を付けねばらない

例えば整体操法を施した後でも、重心が定まり気持ちが一定に纏まる感覚は大切なのだが、相手の中にある「ゆらぎ」を完全に奪ってはならないと思う

「個性化」という、自己のアイデンティティを日々新たにして行くプロセスは、不安や不満という見えない心の炎に炙られることで蒸留され活性化していくものである

ともすれば世の中の「強力な指導者」というのはこうした「ゆれ」をピタリと止めてしまう力があるために、個性化の自然な流れを止めてしまいかねないのである

ヒトラーの演説を聴いているドイツ国民などはその典型だと思うが、そこまで烈しいものでなくても俗にいう「カリスマ」的な人に就き従いたくなる裏には自己変革に伴う不安定さ、という見えない苦痛から忌避したい要求が隠れている

つまり「ゆれ」の不安に耐えられない人ほど、特定の団体やドグマの中に自己を没却し、一過性に心の安定を図ろうとしやすい

しかし、このとき自己は「固定的」になっているのであって、これは言葉の響きとしては「安定的」と似ているようだが実際は異なる状態である

整体指導という技術はこの「ゆらぎ」を止めるものではなく、身体を整えることで自分を取り巻いているゆれのレベルを明瞭にすることを目的としている

例えば船旅の最中に海が時化(シケ)になった場合、先ず船体に破損なく、船長を中心に乗組員の意識がしっかりしていなければならない

この時に、風向きやその強さ、海の荒れ具合に加え、時刻や現在地が正確に捉えられるので各々適切な対処ができるのである

整体と言うのは、この船体を正常に保ち、船員をノーマルな意識に導いていく行為といえる

この時に自分の置かれている「状況」と言うのが非常によく見えるからだ

体が整うことで精神が落ち着き、「不安定である」という現象に対する漠然とした恐れや焦燥が消え、その不安定さを逆に有効利用して「安定的」な状況を生み出すことができる

こうして考えてみると安定的と言うのは、先ほどの固定的というあり方とは対極に位置することが判るはずだ

人間が身心ともに安定するためには不安定さを内包しなければならない、といういわゆるパラドックスだが、このような視点を持つことで自身の不安やゆれに対して、一定の関心とある種の歓迎的な態度を持てるのではないだろうか

動的平衡とか動中の静などという言葉は、こうした逆説の妙を上手く言い表した古語であると言えよう

いかにも東洋的な思想だがこれを具現化した状態の一例が野口整体の活元運動である

まさにゆらぎの中に安定を見出すためには秀逸な方法と言えるだろう

名前はない

愉気って何だという質問だが、人間の気力を対象に集注する方法だ、と考えたら良かろう。人間の精神集注は、その密度が濃くなると、いろいろと、意識では妙だと思われることが実現する。穏やかな太陽の光でも、集注すると物を焼く。光はレンズで捉えられるのだが、気は精神集注によってちからとなる。それ故、愉気するには高度な精神集注の行えること、恨みや嫉妬で思いつめるような心ではない、雲のない空のような天心が必要である。(野口晴哉著『健康の自然法』より)

ときどき愉気はレイキヒーリングとどのように違うのですか?と訊ねられるが、そもそもレイキのことをよく知らない

と思ったら、よく考えると愉気が何だかもわかっていないではないか

しかしもう一つ踏み込んで考えてみると人間が生きていること自体が、何がどうなって生きているのか解ってやっている人などいないのだ

特にこういう生命原理に近いようなものは、探ったり追っかけたりしているうちはそれらしい理屈に掴まるだけで実態そのものに突き当たることは無い

ただ、手を当てると何かが起こるのであって、それに名前を付けたのは人間である

そしてどう使うかを決めるのも人間なのだ

流派や方法論、名称は気になるところだが核心はそこにはない

人間の位(くらい)というのがちからの根源であり、その上で精神の平衡を保つことが全て

名前はどうでもいい

健康の自然法とは流石言い得て妙である

愉気と活元

先日の活元会は教材(レジュメ)なしの、実践重視で行こうと思ったけど、いつもの癖で結局「お話」が長引いてしまった。

そもそも治療というのは「思想の共有」が前提で、これがないと行えない。

だから巷で「野口整体」と呼ばれているものが一体「どんなことを考えているのか」をある程度わかってやっていただかないと、愉気(気の手当て)とか活元運動(自然の運動)とかを一生懸命やろうと思ってもやがては行き詰ってしまう。

ともかく〔いのち〕がどれくらいシッカリと、完璧に機能しているか、ということを自覚したうえで、その絶対性がそのまま発現するようにもっていくのが整体の基本理念だ。

だから愉気も活元運動もこちらからは「何もしないことで、すべてが整っていく」ということの、具体的な方法論である。

この二つを体得しておけば、まあおそらく他の健康法はいらない。もちろん好きならば食事療法も、体操法も、何でも取り入れてやったらいい。きっと相乗的に良い効果があがるはずだ。

それでも人間が考えたものは、枠と限度がつきまとう。ところが本能とか野生とか直観というものは、思想を乗り越えていつも超然としている。大体において、そっちでいった方がずっとラクだし、確かなのだ。

健康法に時間を割くのも、本来ならもったいない。本当は「野口整体」なんかすっかり忘れて、バンバン生きるのが一番いいだろう。

と言ってまた自分で矛盾を生んでしまったけど、愉気も活元も「覚えて→忘れる」ところまでがワンセット。そういうところは、サトリと一緒かもしれない。

一応の「ひと区切り」、というところはあるので、そこまでは一息でやってしまうと面白い。わかった後はそれこそ気ままに、仏道の方では「聖胎長養」っていう言葉があるけど、とにかく「何にもしないで健康」なのがなによりだ。

実践していくといつか必ずわかる、というそういう話。〔いのち〕というのは知っても知らなくても、最初から救われている。でも知ってみると、やっぱり安定感が違うかな。そんな気がする。

体癖理解までの果てしない道のり

活元会のあと「体癖」の話になった。野口整体に興味を持たれると体癖は誰もが気になるのではないだろうか。

見ようによっては「動物占い」みたいで面白い。何故あの人はああなのか、自分はこうなのか、ということについて少しでも原因らしきものが解るとなるほど、ということがある。

ただ体癖を知ることと理解することには距離がある。

身体、特に腰椎を観て、触れて「〇〇種」である、ということがきちっと解るには歳月を要する。

仮にある程度分かるようになってからでも、今度はそれを「何のためにどう使うか」ということになるとさらに難しい。

整体指導ではこの体癖を「相手をよくする」ために活かそうと考えるけれども、人間の複雑性がわかってくるとその「よくする」ということがどのようなことなのか悩む。

ただこういうものが全くないよりはあった方がはるかに指針にはなる。最初にこの法則性を見つけ出し、体系立てた野口先生はやはりと呼ぶにふさわしい。

今の自分では体を見ても体癖も波もわからないことばかりであるが、自分なりに捉えられているところもある。慌てないで丁寧に学んでいこうと思っている。

1月 活元会のお知らせ

1月の活元運動の会を下記の日程で行います。

■日程

1/4(木)10:00-12:30

1/13 (土)10:00-12:30

1/18(木)10:00-12:30

1/27(土)10:00-12:30

※12:30-13:00頃まで茶話会

■内容

前半は野口整体やユング心理学の資料を使っての心と体の勉強会です。後半は活元運動を丁寧に実習いたします。

終了後はお茶の時間があります。(13:00くらいまでの自由参加です)

■参加費

2,000円

■その他のご案内

着衣は天然素材で白系の落ち着いたものが適しています(色柄も可です)。お部屋は暖めておきますが、冬場ですので羽織るものなどお持ちになるとよいかもしれません。

ご参加を希望される方は前々日までにメールフォームよりお申し込みください。

活元会 2017.12.23:意識以前の心の育て方2

12月23日活元会は前回に引きつづき野口晴哉著『潜在意識教育』全生社 を使いました。

どんな自分をつくらせるか

子どもの心の中にどういう自分をつくらせるかということは、空想を方向づけることによって可能である。お前は嘘つきだ、お前は悪い子だ、お前は強情だ、そんな風に不用意に言った親の言葉が、自分というイメージを歪めているかもしれない。或いは「そうじゃない」という反撥する心を起こしているかもしれない。しっかりしろと言うとがっかりするように、弱虫だと言われたことによって、強くあろうとする心が起こっているかもしれない。けれども、方向づけるために行っているのではないのだから、歪める度合は普通より大きい。不用意に言った親の言葉というものは、意外な結果を招くもので、親自身が心の中でどういうことに一番抵抗があったか、それを考えてみれば分かる。不親切だと言われたために、人に親切にすることが何となく晴れがましくて、親切にしたいと思いながら親切ができない。往来に倒れている人を見ても、他の人が助けてやるのなら親切だと思えるのに、自分がやろうとすると何か晴れがましくてできない。そういうことが、子供の時分に不用意に言われた不親切だとか、或いは親切だとか言われたそういう言葉のために、或いはその言葉に抵抗があったためにできないということがよくある。たいていの人は気がつかないで通っているけれども、子供の行為が率直にサッと出ない時には、何らかのそういう心の中に起こった観念というものが邪魔をしている。(前掲書 pp.86-87 太字は引用者)

 

ちなみに前回が今年最後の活元会です。

気がついたら下半期の座学は、無意識や潜在意識関連の教材を野口整体・ユング心理学という2つの畑から持ってきての勉強会になっていました。

21世紀は「こころの時代」と言われていたものの、フタを開けてみれば「身体」の時代になっています。或いは、もしかしたら「たましい」の時代なのかもしれません。

なんにせよ呼び方が違うだけでその意味するところ、求めているところは同じではないかと思います。

つまり一人ひとりが独自の「生き方を考える」ことが求められていて、自分だけの「神話」とか「宗教観」を作り上げなければならないのが現代の日本である、と言えそうです。

例えば大型の書店に入ると「自己啓発コーナー」のようなものがあって、潜在意識をコントロールしようという切り口のものが沢山出ています。

良書もけっこうありそうですが、人は本を1冊2冊読んだくらいではなかなか変われないのも実状です。人間の心をほんのわずかでも「変える」ということはなかなか大変なことです。

親は子供を「教育する」という目的で、物心がつく前からいろいろな観念を入れていきます。入れていくけれども、それがなかなか思ったようには功を奏さないで、大抵は親が「こうしよう」と目論んだ場合、健全な子供ほどその反対の方向にむかって走る。

あらぬ方向に走るから「非行」と呼んだりするけれども、これは心の平衡要求というもので、いわばバランス作用です。正常な、体力のある子どもなら「右に行くな」と強く言われるほど、どうしたってもそちらに行きたくなる。

こういう単純な仕組みからはじまって、これに加えて心理学の「影」とか「投影」といった心や感受性の仕組みを理解する人が少しずつでも増えていくことによって、人と人との関係性をいくらかでも上質なものに変わっていけるかもしれない。

その結果、家庭や教育の現場でも子どもの心をできるだけノーマルに保って、世の中から余分ないざこざを減らすことになるのではないか。

私見ですけれども、野口先生の、特に晩年の活動にはこういった願いがあったのではないかと思うのです。

心をいかに育てるか、心と体の関係をどのようにして良好に保つか、という学びは今後もますます需要が高まる分野でしょう。そうしたことも踏まえて、来年以降も活元会はしばらく現行の形で続けていこうと思っています。

活元会の日程はこちら

活元会 2017.12.14:意識以前の心の育て方

12月14日の活元会では野口晴哉著『潜在意識教育』全生社 を資料に座学を行ないました。(以下資料より抜粋)

…親は子供をよりよく育てるとかで、自分の理想を托したり、自分に都合のよいようなことを上手に押しつけたりしてそれを教育だと言うが、子供の方は教育の必要を感じていないばかりか、植木や盆栽みたいに親の勝手な形に整えられることは迷惑である。それ故中には反感を抱き反対の方向へ走る要求すら持つようになる。それが実現できなければ、反抗として他のいろいろのことに逆らうことが生じ、時にその実現の衝動に駆られることさえある。だから教育熱心な親の子供ほどそういうようになることが多いのは、心の生理的現象といっても差支えないことである。お互いに選べない、選りどれないという宿命のためである。どちらの罪でもない。それ故教育の専門家でない私が教育のことを語るのである。選べない、選りどれないその宿命の中で楽しく生くる道を見つける方法として、意識以前の心の在り方や方向を教育する方法を考えようというのである。

私は四十数年に亘る指導ということの経験から、同じような教育を受けながらみな異なったことを考えたりするのは、教育を受け入れる意識以前の心の方向によるのであり、人間は意識で考えているようには行えず、咄嗟の際に本当のことがヒョッコリ出てしまうのは、意識以前の心によって為されるからであるということを知っている。そこで教育ということを、意識以前の心の在り方を方向づける方法として筋道をつけたいと思って、整体協会の本部道場に「潜在意識教育法講座」を設け、語ったことを記録したのがこの書である。同志の人を得れば幸せと思う。 昭和四十一年十二月(前掲書「序」より pp.3-4 太字は引用者)

ここでは親子関係の問題が焦点になっていますが、この『潜在意識教育』の中にはこうした家庭内での人間関係論のみならず、人が病気になったり、またその病気が自然に治っていくという動きの根本にも意識以前の心の在り方ということが密接にかかわっている、ということが綴られています。

最近ではこのような潜在意識関連の情報が少しずつ一般化しているようですが、この本が出版された昭和30年、40年といった時期に、「意識以前の教育法を講義していた」ということはかなり前衛的だったと思われます。

さて、改めて人間の体の健全さということを考えたときに、どうしてもその人の心の在り方という問題にぶつかることになります。

現在のような体になるのにどのような心の状態があったのか、そしてその心はどのような経緯で形成されたのか、ということをずっと辿っていくと必ず胎教までを含めた「成育歴」が深くかかわっている、ということがわかるのです。

ここまでは多くの臨床家が比較的早い段階で辿り着く結論ですが、そういう成育歴、平たく言えば「生まれや育ち」というものからくる現在への影響をいかにして作り変えていくか、ということになるとこれは非常にむずかしい面があります。

同じような心のクセからくる悩みでも比較的容易に解消できる問題もあれば、解消するまでに3年、5年、ときには10年以上かかるようなものもあるわけです。

そもそも人間の心というのは外部からの刺激によってたえず変性していくものですが、例えばカウンセリング(対話精神療法)ならば主に言語(話す・聴く)による刺戟を主体に治療を進めていきます。

整体法の場合はというと、一般には身体の刺戟(触覚)がメインあろうと思われがちですが、実際はやはり「言葉」も同じくらい重要なのです。

その方法はといえば意識ではなく意識以前、とか無意識などと呼ばれる沈潜化した心の領域にはたらきかけるように語りかける、と

説明するとこのようなことになりますが、これを実地で行なうとなると相当な勘と豊かな経験が要求されるわけです。

ところが家庭においては「お母さん」という立場の人ははじめから子どもたちに対する影響力がとてもつよいのです。なのにこういう心の構造などよく知らないまま「お母さん」になってしまうのだから親も子もお互いにいろいろ悩むことが出てくるのは必然だと思います。

この問題は本当にどちらが悪いということではないだけに(一見して「親が悪い」という風にみえがちですが…)、改めてこういう心と体のつながりや心の深層部の動きについて勉強する場が必要であろうと考えられた、ということですね。

ユング派の治療者などは心を勉強するにはまず何を置いても、自分の心を知ることからはじめます。そうすることで人間の「心」というものがどれくらい「わからない」ものかということがだんだんとわかります。ここがまずスタート地点です。

せい氣院の活元会は座学と活元運動の実習を通じて、みなさんがそれぞれのペースで自分の身体を通じて心の在り方を探求していける場になれば、と思っています。

今年は次回12月22日(土)で最後です

活元会 2017.12.9:暗示からの解放

12月9日の活元会では野口昭子著『回想の野口晴哉』ちくま文庫 から資料を抜き出して(下はその一部)使いました。


……「或る日、包丁を持った男が玄関に上がり込んで、

“ここは俺達の縄張りだ、何で挨拶に来ないのか!”と怒鳴っていた。弟子がオロオロして飛んで来たので、僕が出て行くと、男はもっと凄んで、畳に包丁をグサリと突き立てた。僕は咄嗟に

“この手が離れない、離そうとすると、ギューッと握ってしまう、離して見給え”

と言ったら、ほんとうに離れなくなってしまった。

“この尻も畳にくっついてしまう。立とうとすればするほど、ピタッと畳にくっついてしまう。さあ、立って見給え”

と言うと、歯を喰いしばって立とうとするが、どうしても立てない、そこで、

“警察でも呼ぼうかな”

というと、泣き出しそうになって、

“何とか、カンベンしてくれ”

と言うんだ。可哀想になって、

“二度と来るな”

と、ポンと手を叩くと、ふっと元に戻り、コソコソ帰って行った」

私はびっくりして、「それは催眠術の一種なの?」と訊いた。

「不動金縛りの術っていうんだ」

と何でもないように言う。一体、何時、何処で、こんな術を習得したのだろう。

“私も修行してできるようになりたい”と言うと、先生はまったく意外な返事をした。

「修行なんて無駄なことさ。みんなお互いに暗示し合って、相手を金縛りにしているじゃないか、自分もまた自分を金縛りにしているじゃないか。

人間はもっと自由は筈なんだ。だから僕のやってきたことは、人を金縛りにすることではない。すでに金縛りになっているものを、どうやって解くかということだ。

暗示からの解放だよ」

そのころ先生は講習会を開き、「全生」というパンフレットも出したが、その説くところは、生を萎縮せしめるすべての既成概念を打破することであった。……(野口昭子著『回想の野口晴哉』全生社 pp.45-46 太字は引用者による)

すでに金縛りになっているものを、どうやって解くか

小説調にサラサラサラと綴られていますが、わたしはこれこそがいわゆる野口整体の「核心」だと思えてなりません。

人間の健康や幸福というものをずっと突き詰めていくと、早晩「根本の原因は何か」ということを考えさせられるはめになります。

そうすると、本来自在であるはずのその人の自由性を制限しているモノは何なのか?それは潜在化した「もろもろの観念」ではないか、ということがだんだんと浮かび上がってくるものです。

その潜在しているものを掴み出し、言語化することで形を与えて、意識の俎上に挙げてしまうとその時点で力を失わせることができるのです。

これが「整体指導」とか「精神療法」と言われているものの実体、正体だと思うのです。

それはいってみれば「鍵」のようなもの。

心の中にある観念の中で、その人の「枷」になっているものをはずしていくための鍵を見つけたいのです。

そもそも鍵というものは鍵穴から入っていける大きさで、中の構造にぴったり合う形を取り、そして右か左か正確に回す力を加えることで、小さな力でも開けることができます。

逆にこうした条件をすべて満たさなければ、どんなにつよい力を使っても鍵は開きません。無理やりこじ開けようとすれば、扉は開くどころかこわれてしまいます。

だから心の病でも体の問題でも、その「鍵」が見つからなければ本当には治らないのです。

ところが実際は鍵が見つからないままに、あれもこれもと色々なことをやって結果的に心や体をこわしているものが「治療」、としてまかり通っているようなことも少なくありません。

本来であれば、治療とはその人の身心全体に起こっている問題の構造をよく理解し、固有の正しい方法を見つけ出して適用する、ということが求められているのです。

面白いのは、ふつうの鍵はたいてい一つですが、生きた人間の臨床における「鍵(刺戟方法)」はいろいろにあって良いところです。

例えばそれが言葉(対話や催眠術)であったり、また手技による身体への刺戟であったり、他にも味や香り音楽、などなどなど‥、その気になれば五官を通して感知されるすべての刺戟を鍵として活かすことができます。

このことを精神科医の神田橋條治氏は「一木一草、これ治療である」という風に表現されています。

とにもかくにも、そうやって「生を萎縮せしめるすべての既成概念を打破すること」がその人の治癒力を最大限に活かす「鍵」たり得るのです。

つまり「暗示からの解放」というたったひと言、それだけのことなのですが、臨床の場ではそこに至るまでにものすごいドラマが生まれることがある反面、時にはお互い知らぬ間に「自由になっていた(=治ってしまった)」、何ていうこともあります。

いってみれば「病気」というのは「観念の化けたもの」と言っても相違ありません。

おそろしいのは、どんな人の「言葉」にも生殺与奪のちからがあるということです。知らないうちに余分な観念を植え付けてしまうことも沢山ありますし(これが多い‥)、その観念を取り除き自由にするちからもある(こちらは技術が要る‥)。

「コトバ」というものは、良くも悪くも「劇薬」なのです。

それだけに使い方を正しく学んでいくことで、すばらしい「治療薬」にもなりえます。

一方で「こころの構造」というのはとても複雑でわからないことだらけ。それだけに暗示をかける時はみんな知らずにポンポンかけているものが、いざそれを解こうとするとプロの専門家であってもむずかしい場合があるのですね。

「敵を知り己を知れば‥」という諺がありますが、〔人間〕に取り組む者はまず自分を知らなければ話にならず、いやそれ以前に人と「お話(対話)」ができないのです。だからいまのわたしは、人の鍵に取り組むまえに、まず自分のこころに掛かった鍵を見つけよう!と日々精進している次第(つもり?)です。

次回の活元会は12月14日(木)です

(この記事の参考図書)

活元会 2017.11.30:人生の前半・後半それぞれの役割―人格成長としての「個性化」の過程

11月30日の活元会ではひきつづき『ユング心理学と現代の危機』を教材として使いました。


人生前半の目標

一日の太陽の運行にもたとえられる人間の一生は、その前半と後半では目指す目標が異なってくる。

人生前半の目標は、まず成人としての「自我」を確立することであるが、この自我とは「自分である」、「私」という意識であり、外部の世界や内的な情動を感じ取り、自らの行動を決定する一貫性を持った主体である。自我には能動性があり、現実に適応しつつ、積極的に自分の欲望を実現させていこうとする傾向がある。まず第一にこの「能動的自我」を確立することが先決である。……

人生後半の目標としての「個性化」
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活元会 2017.11.25:マジメも休み休み言え

11月25日(土)活元会では河合隼雄『こころの処方箋』を使いました。


13 マジメも休み休み言え

…マジメな人は自分の限定した世界のなかで、絶対にマジメなので、確かにそれ以上のことを考える必要もないし、反省する必要もない。マジメな人の無反省さは、鈍感や傲慢にさえ通じるところがある。自分の限定している世界を開いて他と通じること、自分の思いがけない世界を開いて他と通じること、自分の思いがけない世界が存在するのを認めること、これが怖くて仕方がないので、笑いのない世界に閉じこもる。笑いというものは、常に「開く」ことに通じるものである。

「マジメも休み休み言え」、というときの「休み」が大切なのである。休んでいる間に人間は何か他のことを考える。休みという余裕が、一本筋の自分の行き方以外に多くの他の筋があることを見せてくれるのである。こんなことを考えてくると、日本人がユーモア感覚に欠けると批判されることと、日本人が休みを取りたがらないということが深く関連していることがわかってくる。「マジメ人間」の日本人が、休みなしにマジメにやるので、国際社会で嫌われものになり勝ちなのである。…(河合隼雄著『こころの処方箋』より 太字は引用者)

真面目な人は不真面目な人を見るとついイライラしてしまう。

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