自然(じねん)モデル

心理学者の河合隼雄さんはカウンセラーの態度の理想の一つとして、「何もしないということに全力を挙げる」という言葉を残している。

カウンセリングの現場では、カウンセラーが教育的なアドバイスや助言を与えた場合よりも、クライエントの悩みを深く共有しながらも、「何もしないで自然の変化を待ったとき」の方がより豊かな結果にむすび付くことを度々経験されたためである。

このような心理療法の技法、とも言い難いような技法のことを、自らの著書『心理療法序説』の中で「自然(じねん)モデル」と名付けている。

前掲書の中に上のような図が示され、下に行くほど治療者の役割が薄まり、患者(クライエント)の意志や努力が要求されるようになる。そして自然モデルに至ると患者、治療者(クライエント、カウンセラー)としての役目や関係性も消失し、「目に見えない何か」に一切を任せるという宗教的な態度に近づくのだという。

もともと日本には「果報は寝て待て」とか「棚からぼたもち」など、ぼんやりしていたら思わぬ僥倖に巡り合った、といった類のことわざがいくつもある。これは昔の日本人が自然(じねん)であることの恩恵を。生活の知恵的に理解していたからではないだろうか。

これに反して近年は「科学的根拠」が強調される風潮のせいか、効率化や合理性にこだわり過ぎて身動きが取れなくなってしまっていることが多いように思える。

もちろん「人事を尽くして天命を待つ」と古語にもあるように、目の前に置かれた自分の務めを誠実に果たしていくことは大切である。しかしながら物事の全体が円滑に進んでいくためにはこれだけでは不十分であって、やはり「自然の流れ」という目に見えない大きな力による面を無視することはできない。

冒頭の「何もしないことに全力を挙げる」という言葉は、その目に見えない大きな力を最大限に活用するための積極性と受動性を兼ね備えた態度ともいえる。

一方で、野口整体の方では健康に至る方法の一つに「ポカンとして体の要求に任せる」などといって、やはり「自然(じねん)」の力を活用する態度を重んじている。

活元運動も一見すると非合理で前近代的な迷信のようにも思われがちだが、上に述べたような背景をよく理解すると、心理療法の「自然(じねん)モデル」とも相通じる、古今不易の「合理的な」運動であることが理解されるだろう。

心理療法では身体について言及されることはさほどないが、整体法では頭をポカンとさせることは身体全体の条件に支えられた無垢なる精神状態であると捉えている。

整体操法が必要なのもそのためで、全身の筋がゆるんでこないと頭の働きは休まらない。つまり体に凝りがあるうちは「ポカーン」とならないのである。

何であれ、アプローチの仕方が違うだけで生命の最良の状態を自然(じねん)とする考え方は同じである。

一般的な教育現場や治療、臨床の現場において、このような自然(じねん)の果している役割は見えづらい。加えて数値化に代表されるような、可視化や見える化を重視する現代においてはなおさら死角になりやすいのだが、一度この力に目覚めた人は自分自身が見えない大きな流れと繋がりうる可能性に満ちた存在であることが自覚されるだろう。

この自然モデルの具体的な方法論が整体における「愉気」や「活元運動」ともいえる。どちらも効果を疑う人ほど潜在的な需要はある。いずれも努力して身に着けるものではなく、心の目が開らかれると自ずからそのようになっていく。自然はいつも生命と共にあるのだ。

粘菌

粘菌昨年の梅雨のこと、軒先にあるライラックの切り株に見なれぬ光景を発見。粘菌である。

粘菌は寒暑風湿に応じて、文字通り千変万化する原始的な生命体である。植物とも動物とも分類しきれず、キノコのような形から胞子となって舞い飛んだかと思えば、アメーバのようにもなって微生物を捕食することもある。

おそらく朽ちかけたライラックの切り株を見つけて(一体どうやって⁉)飛来してきたものと思われる。

うまくしたもので隣で元気に葉をつけた株には見向きもしない。そして数日の後には雨季の終焉を予期したかのように忽然と姿を消した。

この一連の動きに、ただ無心に活動する生命の秩序を感じた。

二宮尊徳の句に次のようなものがある。

音もなく香もなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくりかへしつつ

これは里山で暮らしながら感得した、自然に対する畏敬の念なのだと私は思う。

その自然はいまも我々の裡に宿っている。だからこそ息も脈も環境に応じて否応なしに変化する。その自然を見失い、ただ生きるということに複雑に悩むのが人間である。

もはやこれ以上の大脳進化の必要はないだろう。むしろ大脳を休め、原始の感覚を呼び覚ますことに、養生の秘訣はあると思うのだ。

ノアの箱舟

ノアのはこ船地球のすべての生き物には「適応」という力が具わっている。これによって必要な力は伸び、不要な力は失われていく。髭が剃るたびに濃くなり、歩けば脚が太くなるのもこの適応の産物である。

病菌を殺せ罹患者を近づけるなと、外から来るストレスを忌避し逃げ惑う間にも、この適応作用は刻々と働いていることを忘れてはならない。病気を遠ざければ、これを活かし共生する力もどんどん委縮退行していく。

一方人間によって過酷な環境にさらされた病菌は、同じくこの適応作用によって変異と強化を繰り返しつつ、逞しくその活動領域を保持していく。

効いていたはずの薬が効かなくなり、常用者の使用量が増え、絶えず新薬の開発が希求される要因は「適応」を見落としているためである。

人間の衛生を目的とした行為が、自ら進んで武装解除し種の弱体化と滅亡への道を歩んでいることに早く気づくべきだ。

コロナ禍という禍(わざわい)が実在するかは定かでないが、これに怯えることなく進んで生命をストレスに晒していけば、禍も転じてノアの箱舟になるやもしれない。

活元運動を真面目に行う人は、箱舟はもともと自分の中にあったことにやがて気がつくだろう。自分の力を自覚すると、洪水のさ中でも平素と変わらず浮かんでいることは決して難しいことではない。

潜在意識と氷山

潜在意識と氷山こころの全体構造はよく氷山に例えられる。
野口整体では海面から出ている部分が現在意識、海中に隠れた部分が潜在意識、そしてそれらの大本となる海水が無意識であると表現する。

ユング心理学では呼び方が変って、先ほどの順番で行くと意識、個人的無意識、集合的無意識になる。

いずれも意識の狭さと限界性を指摘し、無意識の広大さと可能性を説いている。野口整体で「頭をポカンとさせる」というのも、ユングと同じ無意識に対する信頼が基礎にある。

活元運動も坐禅も意識の忙しい現代にこそ潜在需要に満ちている。ただし潜在しているために、その掘り起しから整体指導者の仕事は始まっている。

みんな知識と情報を欲しがっているが、知識では解決しないことを知って欲しい。

木に学べ

宮大工の西岡常一さんの話を一冊の本にした『木に学べ』(小学館)。伝統の職人による木と日本古来の建築、そしてそれにまつわる周辺のお話で、現代文明の在り方を当然と思って生活する我々に内省を促す内容だ。

木に学べ

全編どこを切っても含蓄の深い話ばかりである。その中でもわたしが最も気になったのは下の引用部。

自然の木と、人間に植えられて、だいじに育てられた木では、当然ですが違うんでっせ。

自然に育った木ゆうのは強いでっせ。なぜかゆうたらですな、木から実が落ちますな。それが、すぐに芽出しませんのや。出さないんやなくて、出せないんですな。ヒノキ林みたいなところは、地面までほとんど日が届かんですわな。

こうして、名百年も種ががまんしておりますのや。それが時期がきて、林が切り開かれるか、周囲の木が倒れるかしてスキ間ができるといっせいに芽出すんですな。今年の種も百年前のものも、いっせいにですわ。少しでも早く大きくならな負けですわ。木は日に当たって、合成して栄養つくって大きくなるんですから、早く大きくならんと、となりのやつの日陰になってしまう。日陰になったらおしまいですわ。

何百年もの間の種が競争するんでっせ。それで勝ち抜くんですから、生き残ったやつは強い木ですわ。でも、競争はそれだけやないですよ。大きくなると、少し離れてたとなりのやつが競争相手になりますし、風や雪や雨やえらいこってすわ。ここは雪がふるいからいややいうて、木は逃げませんからな。じっとがまんして、がまん強いやつが勝ち残るんです。

千年たった木は千年以上の競争に勝ち抜いた木です。法隆寺や薬師寺の千三百年以上前の木は、そんな競争を勝ち抜いてきた木なんですな。(『木に学べ』pp,15-16)※太字は引用者

少し長くなったけども、いわゆる自然淘汰の摂理を著者の職業的な体験を通じて語られている。

こうした淘汰作用に人間味を加えた表現が「生存競争」ではないか。しかしもう少し冷静にみていくと、これは競争というより適応と言うべきかもしれない。

芽が出せないときは出ない、けれども環境が発芽を許せば出てくる。努力したからそうなったわけでなく、タネの内と外が同調して自然(じねん)にそうなるのだ。

芽の伸び方によって早く、高く茂っていく木は伸び、日陰になった木は朽ちて菌類の温床となり、やがて土に還ってまた他の生き物に化けていく。

こうして無限に循環する生態系を「競争」とみるのは人間の視野狭窄かもしれない。もう少し公平な見方をすれば、それぞれのタネがその個性に応じた生を全うするだけなのだ。

これによってその種(しゅ)はより環境に適応した個体だけが命を繋いで存続していくことになる。

こうした淘汰と適応の相克の狭間で生きているのが地球の生命体であって、人間と言えどこの作用から遊離して生きていくことはできないのである。

しかしながら、いつの頃からか人間はこうした自然の摂理をコントロール下に置こうと努めて知能を働かせてきたのだ。

そうして個体生命の生存率を高めるために発展してきた方法論の一つが「科学」である。科学技術というのは一般に外的環境を分析によって理解し、これを自分にとって都合のいいように再構築すべく活用されてきたのである。

これと対照的に、外界になるだけ手を加えず身体の適応能力を最大化して個体の生命を全うしようというのが整体法の根本理念である。

よく誤解されていることだが「体が整っている」ということは、肩の水平や骨盤の正対称といった幾何学的均衡をいうのではない。「整体」とは刺激に即応して再適応がはかられる、弾力に満ちた身体のことを指している。

これを裏付ける説話として次のようなエピソードがある。野口先生の存命中に行われた整体指導者の資格を付与するための段位審査のテストにおいて、「整体操法を行う目的は何か」という設問があったそうである。これに対する解答の一つが「感受性を高度ならしむる」であったという。

自然界は感受性の鈍ったものから姿を消していく。

だから丈夫とは何か、それから健康と何か、といった場合に一般の感覚と整体法の考え方にはずいぶん乖離がある。

「丈夫」とか「健康」という目指すところの定義の確認から出発しないと、整体指導という共同作業は成り立たない。

先にも述べたように弾力と適応作用の保持というのが整体指導の唯一の目的で、これは科学的医療からするとほぼ死角になっている。

これは現代医療と整体法のどちらの方が優れているかという卑小な話ではなくて、それぞれの持ち場、技術が使われる枠組みをはっきりさせようという思考態度だ。

言うまでもなく整体の方が圧倒的にマイノリティではあるけれども、病気の原因を身体の内的事情に求め、また病症に生命保全の合目的性を認めるスタンスは、コロナの対応で閉塞感に悩まされている現代にこそ公正な評価を下す必要があるだろう。

旧来から野口整体を前近代的(≒非科学的)な迷信として軽視する向きもあるけれども、本来の整体法のパラダイムは後に発生したニューサイエンスと同様、西洋近代から急成長した自然科学の補償に位置している。お互いに理解を深めつつ補填、補完していくことで頻発する感染症の対応策にも新たな視点と展開が期待できると思われる。

このような観点に立つと、今から千年以上も前に人間の知恵と技術、そして自然の妙機を組み合わせて法隆寺を建造した飛鳥時代の技法は、科学至上主義の限界に立たされている我々に多くの示唆をもたらすと言えそうだ。

タイトルの『木に学ぶ』というのは、換言すればいのちに学ぶということである。今の自分の脈にも息にも、いのちのリズムは正確に刻まれている。心が自然なら人間と言えど自ずから整うようにできているのだ。

いのちの秩序から学び、そこから技術を生じでき上がった整体法にも、千年の風雪に耐え力が具わっている。その力に気づき使いこなせるかどうかは私たち一人一人の感受性にかかっているのだ。

心象風景を可視化するもの

6歳の息子による自作のフリスビー。

気がつくとうちの子はマンダラのような図柄をよく描いている。

ユングは自身が心の病にかかったとき、毎朝円をモチーフにした図柄を描くことで自分の心象風景を可視化させていた。

のちのこれが東洋の曼荼羅と酷似することを知り、円形の模様はself(自己)を現す人類共通のイメージ(元型の一つ)であるという仮説に辿りつく。

子どもの行為を注意深く観察していると、こうしたユング心理学の理論を裏付けるようなものによく出会う。

自我が未発達なだけに、自己が素直に現れやすいのかもしれない。このような天然自然のこころを野口整体では天心、と言う。

しかし子どもの天心はただ無垢なだけですぐに失われる。大人になるためには俗心を学び、分別を知り、自我を確立せねばならない。

その後でもう一度、天心に帰り、天心に生きることの中に本当に価値がある。大人になってもこの天心を保つために整体法は生まれた。

事故

家から三本前の辻は車道になっている。どういうわけかこの道はしょっちゅう事故が起こる。

ちゃんと数えたわけではないけれど、だいたい1、2か月に一回は車かバイクが事故を起こして傍らにパトカーが止まっているのを目撃するのだ。

今朝もあったのだが車と原付が接触したらしく、どういうわけか車の方が横転していた。

俗に「魔の交差点」とか「魔の時間帯」という言葉もあるように、事故が起こるには起こりやすい環境や条件があるようだ。

またこういう外的な条件とは別に、身体や心理の方にも事故を誘発しやすい内的な条件というものはある。

例えば今日みたいに週末に雨が降り冷え込んだ後でさーっと晴れて気温が上がったような場合、事故を起こしやすい。

体が余分に動的になって上気するのだろう。

こんな時に自分自身がいつもと違う「妙な感じ」であることが事前に分かれば事故を防ぐ手立ても生じてくる。

ところが現代のようにのべつスマホをいじっているような気ぜわしい状態だと、こういう自分の内的な感覚が解らなくなる。これが内的要因で、どちらかと言えば怖いのはこちらの方である。

養生の基本は「意識を鎮める」ことにはじまって、最後もここに帰る。

それを思えば現代ほど坐禅や整体法といった身心修養の必要な時代もないだろう。

とは言いながら、こういうことも昔から言われているもので道は足下にありといえども実践する人は極めて少ない。

いつものオチだが人のことではなく禅も整体も自分がやることなのだ。さて今日の自分、今の自分はどうであろうか。

こればっかりは人に尋ねても、ググってもわからないのである。外に向かう意識活動が止んだとき、はじめて自分の感じることができる。そして自己の本当の姿もここに現れるのだ。

自己を見失うと事故に遭いやすくなる、というのはシャレにもならない話だが、「体が整っている」ということの功徳は、得をすることよりもマイナスからの回避という面が大きいせいか認知されにくい。

しかし整体の効用とは知られていないだけで実は計り知れないのである。

さて今日の自分、今の自分はどうであろうか。こういう時間を持つことが人間にとって最高の贅沢なのだ。自分の目はいま本当に覚めているだろうか。

尋常小学校

子どもが6さいになり、4月から小学生になる。

そんなタイミングで夜眠る前か朝起きたときに小学館から出ている尋常小学校の文庫本を一緒にポソポソ読みはじめた。

内容としては戦前まであった修身という授業に使われた教科書がベースになっている。

人間の生き方や道徳にまつわる話の短編集で、日本史上の偉人だけでなく外国の人物まで例に挙げて、人間の徳行というものを文字で学ばせるのだ。

こうして書いていくと「そもそも人に道徳を教えられる人間だろうか」と自分に突っ込みたくなるけれども、そこは自分の勉強のために子どもに付き合ってもらうという体(てい)で収めている。

実際読んでみると道徳観念の薄弱な自分には真面目に勉強になる話が多い。日本国内の偉人のエピソードだけでも知らないことだらけである。

目次から抜粋すると、素直な心を持つ、自分を慎む、礼儀を正しくする、夢を持つ…といった幼児教育の王道とも言えそうな直球フレーズが縷々続いていく。

現代社会は人心の興廃、モラルの低下などということが叫ばれて久しいが、その要因の一つとして戦後にこの修身(道徳)の授業が消失したことも無関係とは考え難い。

言わずもがなだがGHQの敷いた文教政策の余波は戦後70年以上経った現代の義務教育にも踏襲されているのだ。過激な言い方をすればそれは愚民政策の典型であり、日本の弱体化を狙って放った終戦後の見えない兵器である。

そこに日本人のマジメさと全体一致主義が加わり、さらに変革や意見の衝突を好まない穏便な性質が微妙に組み合わさった結果、その兵器はいまや国産品まで混在する据え置き状態、精神的な戦後復興は遅々としてはかどらないのである。

はかどらないどころか他人の掘った落とし穴に堕っこちた上に、今度は自分からその穴を深くして泥まみれになっているのだから困ったものである。

まあそれはいいとして。

前掲書の中身はなかなか盛りだくさんである。先ほどの抜粋に続いて、一生懸命働く、とか、つらさを乗り越える、思いやりの心をもつ、みんなのために、など当たり前といえば当たり前の話だが、「働いたら負け」とか「そんなの関係ねえ」といった言葉が冗談としてまかり通ってしまう現代にあってはむしろ前衛的である。

このような学校で行う「文字」や「言葉」の教育だけで人間が作れるか?と問われればそれにはもちろんノーと答える。

だからといって現代式の、既存の学問知識の切り売りに特化した教育を是認し続けていいとは全く思わない。

当然だが一人の人間が育つにはその間にさまざまな時間と場所で多くのコミュニティに接触する。

そうした中で幼児期から思春期に深く関わる義務教育の9年間だけ見ても、学校の占める比重は高い。もちろん学校が全てとは言わないが、学校で過ごす膨大な時間を軽視することはできないのである。

そうは言ったところで文科省はおろか、いち小学校の方針だって一人の人間の主義主張で変えることは難しいだろう。

そういうわけで家庭内でポソポソ読んでいるところに話は戻る。

ところで今アマゾンで「尋常小学校」を検索してみたら、意外にもこの戦前の教科書関連の新刊本が数冊出ているではないか。

それだけ関心を持つ人は増えてきているのかもしれない。戦後の科学至上主義と知識偏重教育に対する揺り戻しだろうか。

何であれ人様のことはともかく、勉強とはつまるところ自分のために自分がやるものである。

1日せいぜい10分、15分だから子どもと二人で一回通読するだけでも小いち年はかかるだろう。子どもには申し訳ないがお父さんの趣味に気長に付き合ってもらうつもりでいる。

治癒までの距離

結婚する前の妻と単発の気功セミナーに行ったときのエピソード。

その時の50代とおぼしき講師がすこぶる行動的な人だった。若い時分から勉強のために台湾にも行くし、インドにも行く。そして話が興に乗って来たあたりで「今年アメリカで開催されるヒーリングセミナーにみんなで行きましょう!」と言い始め、参加者一同目が点になったところでお開きとなった。

どうも話を伺っていると、成育歴などいろいろ問題のあった方で一筋縄ではいかない苦労人のようだった。

これまでの臨床経験から学んだことは、心理的な症状の重い人ほど治療のためにあっちに行ったりこっちに行ったり、長距離を移動する傾向がつよい。その中でもインドは人気スポットである。

とはいえ、遠くに行ったから治るかといえば、勿論そんなことはない。

本当は近所の臨床心理士のもとで地道にカウンセリングでも受けた方が費用対もいいし、治療もはかどるかもしれない。しかし問題の大きい人、傷の深い人ほどうかつに傷口に手を付けるわけにはいかないのである。

心理療法は劇薬である。治そうとしてかえって傷が深くなる可能性もあるので、時間をかけて外堀から埋めていくのが定石と考えられている。

心でも体でも本当に治るときはかなりきつい。

クライエントもそれを知ってか知らずか、最初は問題の外周を遠巻きにぐるぐると廻り続ける。そうこうしてる間に機が熟したと見るや力のある治療家を自力で探し出し訪れるのである。

そう考えていくと、外国こそ行ってないが横浜から毎週片道2時間かけて熱海に通い、奈良まで7泊8日の山岳修行に行った自分もまあまあの重症患者かもしれない。

そんな自分も最近は地元から離れることは減り、その辺はおとなしくなった。知らない間にほうぼう治ってきたのか、老けて腰が抜けたか、治療から逃げているだけなのかは判らない。

少し角度を変えて考えれば、臨床を通じてクライエントと一緒に互いのこころを洞察していく作業は実は大変な旅路である。こころは一番身近にありながら、最も遠い、広大な世界といっていいだろう。

そのこころを離れて生きている人は一人もいない。世界中どこへ行ったって、自分のこころに環境が映し出されて生活が生み出されていく。

そう考えれば誰もがはじめから治療の道を生きている。ことさらに治療家のもとを訪れる必要性も疑わしくなってくるが、自分をセラピストの所まで連れていくものはやはりこころの作用なのある。

換言すれば、私の中にいるもう一人の〈わたし〉。大切なのは物理的な移動距離の長短ではなく、私と〈わたし〉との距離感が治癒の鍵を握っているとも言えそうである。

気持ちに余裕のある時は積極的に私の中の〈わたし〉と連絡を取るのもいいのではないだろうか。外界からの情報を全てカットして一人ぼんやりしていると、だいたいは向こうからやって来る。

ほんの少し勇気を出して〈わたし〉との距離を縮めてみると、この無二の親友は自分の宿敵にもなれば、最高の名医にもなる。いつだって答えは外ではなく中心に居て、じっと息をひそめて自分との対話の時を待っている。

この中心である〈わたし〉は、見ようとすると途端に離れてしまう。見るのをやめると、見ている本体がすでに中心であったことに気づく。こう考えていくと病気と治癒は一心同体、最初から「距離」などなかったのである。

裡なる感覚

ニューズウィーク日本版に掲載された大江千里氏のコロナワクチン体験記を読んだ。なかなか興味深い。

ニューヨーク在住の同氏がワクチンを打った後の反応について時系列で細かに綴ってある。摂取した晩に重度のアナフィラキシーショックで苦しんだが、免疫抗体がなくなる3ヶ月後には「もう一度受ける」と結んでいる。「科学を信じる」からだそうだ。

人物としての大江さんは昔から好きだが、科学に対するこのような態度は科学的であるとは言い難い。科学はイデオロギーではないのだから、もとより信じたり疑ったりするような対象ではない。事実の分析を積み重ねて外界の理を実証していく態度であり方法論なのだ。

公平かつ客観的態度で検証した結果「そのことはそうなっている」ということが判る、ただそれだけのモノである。

だから実証主義の科学を「信じる」という言葉には違和感を覚える。その背後には大自然の複雑性に対する怯えや不安があるようにも思える。人は本当に信じている事に対し、わざわざ「信じている」とは言わないものだ。

因みにこれもよくあることだが、既成の科学に実証された事だけを信奉して未科学を否定するという態度も非科学的である。これは疑似科学というべきで、似て非なるものだ。

しかしこうしたあり方は現代の主要先進国と言われる国々のスタンダードではないかと思う。

未来へ向けて実証的なデータを集めるために、今生きている人間の命を未知の危険にさらす。こういう蛮行が「医療」としてまかり通っているところに科学至上文明の陥穽がある。

アメリカはヨーロッパの風土から合理主義と開拓精神が凝縮されて出来上がったような国だ。合理性を過剰に優先すれば、いきおい感情や情動は下位に敷かれやすい。しかし感情は意識されなくとも、潜在意識化において力強く人間を動かしていく。

科学を否定しているのではない。見えざる感情につき動かされて科学が真の科学性を失っていることに気づく必要を説いている。

生きる、死ぬ、こういうことに動揺があるうちは物事の実態がその通り見えない。研究方法と結果をみる目にどうしてもバイアスがかかるからだ。もっと冷静な心を養い、事実を正確に見据えることで科学は真の力を発揮する。

すると神秘主義と科学も矛盾しない。「自然の法則が神であった」というアインシュタインの気づきは2500年前の釈迦の悟りと何ら変わらないのである。「事実以外に権威はない」と言ったヒポクラテスも同じである。宗教と科学は真理に向かう二艘の船だ。これからは科学の利点と限界性を認めて、これを補完するような世界の捉え方が新たに開拓される必要がある。

今はコロナから自然界の複雑性と合目的性を学ぶことができる。心を鎮めて冷静に見れば、そのミクロとマクロの動向に整然とした宇宙の息を感じられるかもしれない。

スタートはいつも自分の感覚から出発すべきである。冷暖自知とはまこと古人の至言で、主観を抜きにした客観性は時に人間を破滅の方向へと走らせる。逆に客観性を欠いた主観は第三者を無視した自分だけの世界に埋没しやすい。

戦後の日本は客観性に偏り過ぎたと言える。精度の高い主観を再建すべきで、それには身体性が鍵となる。意識を静めて自分の裡なる感覚を大事にする生活を心がけたい。