尋常小学校

子どもが6さいになり、4月から小学生になる。

そんなタイミングで夜眠る前か朝起きたときに小学館から出ている尋常小学校の文庫本を一緒にポソポソ読みはじめた。

内容としては戦前まであった修身という授業に使われた教科書がベースになっている。

人間の生き方や道徳にまつわる話の短編集で、日本史上の偉人だけでなく外国の人物まで例に挙げて、人間の徳行というものを文字で学ばせるのだ。

こうして書いていくと「そもそも人に道徳を教えられる人間だろうか」と自分に突っ込みたくなるけれども、そこは自分の勉強のために子どもに付き合ってもらうという体(てい)で収めている。

実際読んでみると道徳観念の薄弱な自分には真面目に勉強になる話が多い。日本国内の偉人のエピソードだけでも知らないことだらけである。

目次から抜粋すると、素直な心を持つ、自分を慎む、礼儀を正しくする、夢を持つ…といった幼児教育の王道とも言えそうな直球フレーズが縷々続いていく。

現代社会は人心の興廃、モラルの低下などということが叫ばれて久しいが、その要因の一つとして戦後にこの修身(道徳)の授業が消失したことも無関係とは考え難い。

言わずもがなだがGHQの敷いた文教政策の余波は戦後70年以上経った現代の義務教育にも踏襲されているのだ。過激な言い方をすればそれは愚民政策の典型であり、日本の弱体化を狙って放った終戦後の見えない兵器である。

そこに日本人のマジメさと全体一致主義が加わり、さらに変革や意見の衝突を好まない穏便な性質が微妙に組み合わさった結果、その兵器はいまや国産品まで混在する据え置き状態、精神的な戦後復興は遅々としてはかどらないのである。

はかどらないどころか他人の掘った落とし穴に堕っこちた上に、今度は自分からその穴を深くして泥まみれになっているのだから困ったものである。

まあそれはいいとして。

前掲書の中身はなかなか盛りだくさんである。先ほどの抜粋に続いて、一生懸命働く、とか、つらさを乗り越える、思いやりの心をもつ、みんなのために、など当たり前といえば当たり前の話だが、「働いたら負け」とか「そんなの関係ねえ」といった言葉が冗談としてまかり通ってしまう現代にあってはむしろ前衛的である。

このような学校で行う「文字」や「言葉」の教育だけで人間が作れるか?と問われればそれにはもちろんノーと答える。

だからといって現代式の、既存の学問知識の切り売りに特化した教育を是認し続けていいとは全く思わない。

当然だが一人の人間が育つにはその間にさまざまな時間と場所で多くのコミュニティに接触する。

そうした中で幼児期から思春期に深く関わる義務教育の9年間だけ見ても、学校の占める比重は高い。もちろん学校が全てとは言わないが、学校で過ごす膨大な時間を軽視することはできないのである。

そうは言ったところで文科省はおろか、いち小学校の方針だって一人の人間の主義主張で変えることは難しいだろう。

そういうわけで家庭内でポソポソ読んでいるところに話は戻る。

ところで今アマゾンで「尋常小学校」を検索してみたら、意外にもこの戦前の教科書関連の新刊本が数冊出ているではないか。

それだけ関心を持つ人は増えてきているのかもしれない。戦後の科学至上主義と知識偏重教育に対する揺り戻しだろうか。

何であれ人様のことはともかく、勉強とはつまるところ自分のために自分がやるものである。

1日せいぜい10分、15分だから子どもと二人で一回通読するだけでも小いち年はかかるだろう。子どもには申し訳ないがお父さんの趣味に気長に付き合ってもらうつもりでいる。