治癒までの距離

結婚する前の妻と単発の気功セミナーに行ったときのエピソード。

その時の50代とおぼしき講師がすこぶる行動的な人だった。若い時分から勉強のために台湾にも行くし、インドにも行く。そして話が興に乗って来たあたりで「今年アメリカで開催されるヒーリングセミナーにみんなで行きましょう!」と言い始め、参加者一同目が点になったところでお開きとなった。

どうも話を伺っていると、成育歴などいろいろ問題のあった方で一筋縄ではいかない苦労人のようだった。

これまでの臨床経験から学んだことは、心理的な症状の重い人ほど治療のためにあっちに行ったりこっちに行ったり、長距離を移動する傾向がつよい。その中でもインドは人気スポットである。

とはいえ、遠くに行ったから治るかといえば、勿論そんなことはない。

本当は近所の臨床心理士のもとで地道にカウンセリングでも受けた方が費用対もいいし、治療もはかどるかもしれない。しかし問題の大きい人、傷の深い人ほどうかつに傷口に手を付けるわけにはいかないのである。

心理療法は劇薬である。治そうとしてかえって傷が深くなる可能性もあるので、時間をかけて外堀から埋めていくのが定石と考えられている。

心でも体でも本当に治るときはかなりきつい。

クライエントもそれを知ってか知らずか、最初は問題の外周を遠巻きにぐるぐると廻り続ける。そうこうしてる間に機が熟したと見るや力のある治療家を自力で探し出し訪れるのである。

そう考えていくと、外国こそ行ってないが横浜から毎週片道2時間かけて熱海に通い、奈良まで7泊8日の山岳修行に行った自分もまあまあの重症患者かもしれない。

そんな自分も最近は地元から離れることは減り、その辺はおとなしくなった。知らない間にほうぼう治ってきたのか、老けて腰が抜けたか、治療から逃げているだけなのかは判らない。

少し角度を変えて考えれば、臨床を通じてクライエントと一緒に互いのこころを洞察していく作業は実は大変な旅路である。こころは一番身近にありながら、最も遠い、広大な世界といっていいだろう。

そのこころを離れて生きている人は一人もいない。世界中どこへ行ったって、自分のこころに環境が映し出されて生活が生み出されていく。

そう考えれば誰もがはじめから治療の道を生きている。ことさらに治療家のもとを訪れる必要性も疑わしくなってくるが、自分をセラピストの所まで連れていくものはやはりこころの作用なのある。

換言すれば、私の中にいるもう一人の〈わたし〉。大切なのは物理的な移動距離の長短ではなく、私と〈わたし〉との距離感が治癒の鍵を握っているとも言えそうである。

気持ちに余裕のある時は積極的に私の中の〈わたし〉と連絡を取るのもいいのではないだろうか。外界からの情報を全てカットして一人ぼんやりしていると、だいたいは向こうからやって来る。

ほんの少し勇気を出して〈わたし〉との距離を縮めてみると、この無二の親友は自分の宿敵にもなれば、最高の名医にもなる。いつだって答えは外ではなく中心に居て、じっと息をひそめて自分との対話の時を待っている。

この中心である〈わたし〉は、見ようとすると途端に離れてしまう。見るのをやめると、見ている本体がすでに中心であったことに気づく。こう考えていくと病気と治癒は一心同体、最初から「距離」などなかったのである。