最近何人かに「整体で心を落ち着かせる方法はありますか?」と聞かれたのですが、言われてみると全部がそんなような気もする。整体の目的は心を落ち着かせることだ。

ただ、その時その時で、落ち着かない理由が身体のポイントとして異なる。それを見つけるのが「技術」かもわかんない。

本家の整体の初等講座は手のひらの中央、「鎮心の処」という一点を押さえる所から始まるらしいのです。まさに「鎮」の一字から始まって、最後に求める目標のようでもある。(私はちょっと違うコースで学びましたけど。)

手のひらを合わせると自ずから左右の手の鎮心の処がぴったりと合わさります。だから正座・瞑目・合掌して3~5分くらい静かに息していると大体は落ち着くようにはなっている。

あと、お家でやれることは、

  • お風呂でしっかりと身体を温める。(特に下半身)
  • 仰向けに寝ておなかの固いところに手を当てる。または誰かに触ってもらう。

とか。上の3つのうち2つぐらいやれば気が下がって多少は落ち着くと思う。それにしたって人生にはいつだって3つの坂がある。上り坂、下り坂、そして、まさか。そのまさかの時に力が試されるんだが、あっひーなんかしょっちゅう狼狽している。

そういう時は整体でどうこうというより、自分で自分を放っておくしかないと決め込んでいる。そうすると、忘れたころにはちゃんと落ち着いている。案外これが一番有効ではないか、といま思った。普通すぎてミもフタもないが、真理はいつだって普通の中にある。

 

 

 

月下の棋士

羽生善治さんの『大局観』を読む。

赤ヘルの少年といわれていた子供が、時の「名人・竜王」となって旋風を巻き起こした時あっひーは高校生だった。それからさらに10余年の歳月がたったらしい。作中に、苦しい対局をいくつも乗り越えて体得する、「鍛えの入った一手」という話があったが印象的。将棋の真の力をあらわす言葉なんだそうだ。

たしか『月下の棋士』という漫画のあとがき(だったかな・・)か何かに「将棋が強くなるのに人生の苦労なんか関係ない。将棋はゲームなのだから勝つためには将棋の勉強をするしかないし、それが全てだと思う。」というようなことが羽生さんの言葉として書かれていたような気がする。

ひと世代前の名人、谷川浩司さんという人は「光速の寄せ」といって、終盤の攻めの早さと決定力を評されていたが、羽生さんは「ハブ・マジック」という、一手で局面を切り返すさし口が話題だった。

その当時から比べると、かつて未来を感じさせた気鋭の若武者が、鍛えの入った「将」になったという風格を感じさせる。プロの世界、特に直接的な勝負がからむ社会はなによりも人間が鍛えられるんだと思う。人は人によってつまづくし、人を救うのもまた、人だ。人は人の中にまみれて生きるから人間になるし、その人間の不思議さがなにより人間を成長させるんだろうな。

ちょっと意外だったのは文体が「です・ます」調でなく「~だ」「~る」であったこと。言葉はその人そのもの、羽生さんのイメージで勝手な憶測をしてたんでしょうが新鮮な気もした。文体と言うとあっひーのブログはこんな感じですから、あまり言えた口ではありません・・。

でも人間どこをどう押しても自分の人間性以上の技術も言葉も出てこない。背伸びをしたってすぐに馬脚を現すし、外見だけ立派にったってそうはいかん。あっひーは今はこんなもんだが自分の仕事には誇りをもってます。1日1ミリでもいいから魂を上に、と願って生きているんです。信じられないかもしれませんが・・。開祖を裏切らない、師匠を裏切らない、自分を裏切らない。といってやってきたらこうなった。そしてまだまだだ、と思って、また鍛えるんです。

鍛えの入った一手、は整体にもあてはまるし存在することを体験的に知っています。師匠というのはやっぱりありがたい存在だと思う。

 

 

 

 

 

放熱への証

震災のあとでお越しになった方は、好転反応(体がよくなるための発熱や下痢)が出やすいらしい。その反応も「何だか風邪っぽい・・」というのが多いらしい。熱が出る場合は弛みの現象ですから、整体で心身の緊張から解放された反動だと思う。

熱が出たら身体を冷やさないように気をつけて、水をたくさん飲むと経過がずっと良くなって肌にツヤが出てきます。

とにかく背中やお腹に「しゅくっ!」とショックが入ったまま残ってしまっている、という印象の人が多かった。変な疲れやこわばりを感じる方は、ご自宅で蒸しタオルを作って「目」や「アキレス腱」を温めてみるといいかもわかんない。

それも1週間たった今は少しずつ平常「身」に戻りつつある。みんなの「一生懸命」で、人も社会も少しずつ回復していくんだ。

幸せの道

人間はその根本において善なのか悪なのかという話がありますが、毎日痛ましい惨状と供に、助け合う人々の姿を報道で観る度に胸が熱くなります。親子の再開で涙を流す姿もあったりで、悲劇の裏で人間の生きる喜びも目の当たりにします。それを見て自分も父や母との時間を大事にしようとか思ったりする。

野口整体は性善説をとっていると認識してますが、国内外から利害を超えて救援に駆け付けてくれている人の姿には感謝の念とともに人間の根源的な善と愛の波動を感じざるを得ないです・・。

ときに整体の「氣の手当て」愉気法の起源は関東大震災までさかのぼります。当時地震のあとで赤痢が流行ったりしたそうですが、その時まだ普通の少年だった野口先生が、近所の煮豆屋のおばさんが下痢をして苦しんでいた時にすっと手を当てたら「ことっ・・」と寝てしまった。

そして起きたら身体がよくなっていた、という。回想録によればこの時「僕は面白くて、ずーっとそれを続けて行きたかった。・・・」となっています。(だからあっひーは「関東大震災がなかったら野口整体はなかったんだ。」と思ってます。)

どうやら人間の身体には、人が喜んでくれると「自分も幸せ」になる、という、そういう装置が神様によって仕込まれているらしい。逆に言うとこの方法以外に人間が幸せになる方法ってあるんジャロウか?

野口整体の愉気も整体操法も活元運動も野口先生の無償の愛から始まったものだからこんなに大勢の人が好きになってくれたのだと思うんだ。野口整体は幸せに続くキラキラの一本道であると信じて今日もテクテク歩いてるあっひーはやっぱり幸せ者だ。

僕は仕事は淡々とするように心がけているのでときどきクールに思われるが、腹の底は存外に暑っ苦しい。捻じれ型8種があるからね。「愛」とか「幸せ」の話を語り出すと、来年まで予約でいっぱいの民宿みたいにしばらくは誰もとめらんなくなるんだ。

 

 

 

人間の探求

かつて戦時中に「敵を憎め」というコピーが撒かれたらしいのですが憎めと言われて憎めるほど人間は単純な構造をしていない。

思春期の恋愛だって頭で「アキラメヨウ」といってもココロとカラダが納得しないところから西野カナちゃんの世界が始まる。

同じようにテレビで「買いだめををしないで・・」と言われても、背中にしょった「漠とした不安」が消えない限り震災のショックはショックとして残る。

家に山積みとなったトーレットペーパーやカップラーメンを見ることで「ホッと一息」、首と胸椎7番の緊張が弛むのではなかろうか。整体では「買いだめ」も身体(背骨)の問題だ。(いうまでもなく人道的に、無用な買いだめはNGです。)

件の福島原発も災害を想定した「安全弁」は予備の予備の予備まであったらしいのですが、その装置を握っている「人間のこころ」の問題はラチ外だった。今日の機械文明に至って「人間の探求」が圧倒的に遅延しているのだ。

判断はアタマでできるが決断はコシとハラでする。有事の際には平素の頭と腰の鍛えかたと、骨盤の可動性がモノを言う。野口整体では強情な人は腰が固いというが、言ってみればケツの弾力=決断力といえる。

全てはカラダからはじまる。カラダを鍛えよう。

なんとなくお腹に変な緊張をしょっている方が多いのですが、これも地震の余波といっていいのかもしれない。遠く離れた神奈川県でも死傷者が出る程の大規模震災だったがテレビで痛ましい報道をのべつ観ていると、それだけでも結構心身にこたえる。

左肋骨の下、胃袋の前は太陽神経叢といって細かい神経が叢(くさむら)のように密集しているのですが、ここは別名感情抑圧点ともいいます。辛いことがあったりイライラするとここが固くなり、しまいにはぷっくり球状のしこりができます。こういう時にちょっと刺激すると爆発的に怒りだすので通称ヒステリー球というのですが、感情を肉体的に捉えていく整体の典型例だ。

肝臓や骨盤に愉気(気の手当)をしていると、このヒステリー球は消えていく。多くは骨盤や仙骨に愉気すると人は落ち着くのです。一緒に頭頂部がこちっ☆と飛び出している方も来ましたが足の裏に丁寧に愉気したら収まりました。ある方から「先生の顔を見たら落ち着きました。」とも言われたが、当のあっひーだってお腹を固くしていたんです・・。

遠く離れた人の艱難辛苦にも胸を痛めるのが「人間」なのだ。当日の夜にツイッターであれやこれや有益情報を提供していた人たちの姿になんだか泣けてきたんだが、人間は助け合う生き物なんだと思ったら腹の底が熱くなった。のんきなことを言ってて、不謹慎かもしれないが人間の未来に希望を感じたんだ。

神の領域

お越しになっている方から「親戚が高齢で出産したら、お子さんの成長がとても速くて・・・」というお話を伺った。

世間では親の年齢に応じて子供の成長速度が変わる、という説があるそうなのですが、充分あり得るなぁと思いなんとなく合点がいきました。

最近妊婦さんのご相談が集中したのですが、おなかの子の成長の速度や個性というのがあまりにみんな違うのです。

自分の両親がどういう環境でどういう世界に生まれてくるのか「わかっている」としか思えないようなことも起こるので、とにかくなんでも「聞こえて」いて「理解」しているのではなかろうか。

もしくはこっちの世界に来る時にあらかじめ神様と相談してシナリオを決めてくるのかもしれない。僕は霊感ゼロなのでそっち方面はサッパリさんなのだが、気がつくと昼ひなかに平気でこういう憶測に酔っている。アブナイのだ。

逆子ちゃんがクルン♪してくれた時は欣喜雀躍の様相と呈したが、整体の技術者としての本分はお越しになった方の身体を一生懸命観ることで、そっから先は神の領域なのだ。今日の命に感謝して淡々と生きるのみである。

就活

せい氣院では最初の問診票に必ず「私はこうなる」という、整体指導を受ける「目標」を書いていただくのですが、この間、学生さんから就職のご相談を受けた。

その学生さんはどんな仕事をしたらいいのか「整体」を通じて自分を見つめ直したかったそうです。殊勝な心持ちに敬服したのですが、今の大学生って大変だなぁとも思った。そうはいってもあっひーなんて大学出た時はその「仕事」も決まっていなかったのだ。世間一般の価値基準に照らせば、あまり立派な話はできまい。

なにやら最近は就活問題がしょっちゅうマスコミに取りざたされている。現在は就職難で相当に思いつめてしまう大学生も少なくないそうだ。「学校」で真の人間教育がなされなくなった今日、大学でにわかに形而上的な学問や経済学を学んだくらいで、自分の生きる筋を見出そうったって土台無理な話なのだ。

こないだ電車にのっていたら高校生の会話が聞こえてきた。A君は私立のK大学にいきたいと言う。友達の何で?の質問にK大ボーイになりたい、それだけなのだそうだ。昭和バブルの時代から今日に至るまで、学歴は人生を保証してくれるお守り札みたいなもんだったが、そろそろその大卒神話のメッキも剥げてきてるんだが・・。

A君だって、オテイサイを整えて就職試験を突破した後はいかにイイトコロに収まるか考えているのだ。それがいけないわけではないが、彼はなによりも可能性に溢れた「若者」なのだ。「親」や「がっこのセンセイ」にそういう人生観しか教えてもらえなかったことがかわいそうだ、と思う。そんな価値観で会社に入ったって、自分の生き様を直視した瞬間に愛想が尽きてしまうのは目に見えているのだ。

北大の前身、札幌農学校のクラーク博士は「大志を抱け!」と言ったそうですが、僕はこういう風に教師として「ホントウにこいつを生かしてやろう!」という気迫をもった先生にはとうとう「学校」では会えなかった。

いったい今の「学校」の役割ってなんなんだとも思うのだ。どんな仕事がしたい?ったって世の中にはあまたの仕事があるが、「学生」であるうちは現実的な情報が圧倒的に少ない。

若い人たちには、働くということはまず先に社会のお役に立つことの喜びを学ぶつもりでやってみればいいと思う。得意なことや苦手なことだってやってみるからわかるのだ。今の日本ならマットウな仕事さえしてれば命まで取られることはないのだから。

僕は今世、整体を生業とさせていただいてます。人の身体から「観念」というリミッターをはずして、マッサラな一歩を踏み出すための腰力を作るのだ。この仕事は我慢と辛抱を重ねて、じっと命の成長を「待つ」仕事ですが、最近は仕事におけるひとつひとつの出来事にロマンを感じはじめています。

人生二度なし―悔いなく生きるために (Chi Chi・Select)Book人生二度なし―悔いなく生きるために (Chi Chi・Select)

著者:森 信三販売元:致知出版社Amazon.co.jpで詳細を確認する

七田眞の人間学 いかに生きるかBook七田眞の人間学 いかに生きるか

著者:七田 眞販売元:総合法令出版Amazon.co.jpで詳細を確認する

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか (青春文庫)Book自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか (青春文庫)

著者:岡本 太郎販売元:青春出版社Amazon.co.jpで詳細を確認する

人生を創る言葉―古今東西の偉人たちが残した94の名言Book人生を創る言葉―古今東西の偉人たちが残した94の名言

著者:渡部 昇一販売元:致知出版社Amazon.co.jpで詳細を確認する

キノメドキ

今日は先生の道場に参内したのですが、行きにi-podでたむらぱんの『ズンダ』を聴きながらずんだずんだ歩いていたところを後ろから誰かに背中をトントンされた。

振り返ると知らないお爺ちゃんが開口一番「アンタ足が強いね~、すごいね~!」だって・・・。(´・ω・`;)えぇ?ナニナニ???

そのオレに追いすがって背中をタップした爺ちゃんもすごんだが・・。面白い人だと思って話しながら坂道を登り始める。よくよく話を聞くとご出身は宮城だが数年前まで白楽(せい氣院のある大口のとなり町)に住んでいたそうな。

「何しに熱海に来てんの?」「整体の勉強に来てるんです。」「整体?わざわざ熱海まで来ないとだめなの?」「そうです。」「そこってオイルマッサージとかもあんの?」「ないですね~(~~;)」

しゃべりながらゼーゼー言い始めたお爺ちゃんを、わかれ道で笑顔で見送った。

木の芽時だから仕方がないんだ。

人生は修行だという。その一方で遊行、人間はこの世に遊びに来ているんだという人もいる。どちらにせよ人は何かしら「行」をしている。ただ凡庸と息吸っているというヒトはこの世に一人としていないと思う。

一見ツルリと、なめらかに生きているように見えても、ひとたび背中にまわって触れてみると、この娑婆においては一人ひとりがそれぞれ違う立場から人に言えない苦しみや悩みに相対していたりするものだ。

そうした葛藤が「病気」という形で現れることもしばしばだけれども、症状だけを追っかけたところで「その人」を捉え、受け取ることはできない。

世俗にあって千差万別の苦労があるのでしょうが、心身ともにどんなに泥まみれになっていても僕の指導室に来られた方は必ず、その「想い」も「身体」もまるごと受け取ろうと今は覚悟している。

開業する前からいろいろなものを見聞きしてきたが、僕にとっては野口晴哉の整体ほど素晴らしいものはないと信ずるようになった。心の奥底に、どこにも持って行き場のない「痛み」があれば一切合切をここで捨てていっていただきたい。

プロを宣言して一年余り、出会いのすべてが学びとなって、多くの人に支えられて今日までこれた。遅ればせながら世の中にこういう仕事が一個ぐらいあってもいいじゃないかと思うようになってきた次第です。自分の仕事に対するある種の矜持、とでもいうのかな。そういうものが心の奥に育ってきた。