迎春

昔の思い出になるが私の実家に父が彫った寅年用の木版画があった。おそらく48年前のものだろう。

細密な虎の画のわきに「迎春」と彫られていたのが記憶に鮮明である。この寒いのに、花も付かないのに、どうして春なのか、とうのが子ども心に疑問だったのだ。

それから幾ばくかの歳月が過ぎた。すると迎春とか新春、あるいは頌春などと、年が切り替わる一月一日に春を見出した昔人の感性に親しみと敬意を覚えるようになってきた。

自然との共生が要であった往時の人々は、田んぼの水引きでも収穫でも、気候や天気と一体になって動かなければならなかったのだ。

自然から切り離された近代的な自我で、「我がまま」に生きるということは許されない。具体的事情をいえば我を通せばそれだけ生存率が下がるのである。

そして自然と共生するためには、先に起こることが予感、直感されなければならない。オーケストラの指揮者のように、演奏者の次なる調子を引き出すためには先を知っていたうえで半歩リードするという技術がいる。遅ければ無論だめだし、早過ぎても意味がない。

翌年の夏が冷夏になると予見して、米ではなくヒエを植えて難を逃れた二宮尊徳の話は有名である。

だから夜が明ければ朝になることは当然としても、その時に雨が降っているのか風が吹くのか、また月が出ているのかわからなければならない。

そして冬が明ければ当然春である。今日が寒いからと言って今日に適応するだけの動きでは次の波に間に合わない。考えて動くものは一つ遅れる。そしてその間に生命の機は去っていくのだ。

ここで「なるほど、昔の人はそれだけ優れていたのだ」といってしまうと、現代人としての学びも創造性もなくなってしまう。

実際的には現代を生きる我々の中にも「先を知る力」は常に働いているのだ。わかりやすい例をあげれば、受胎した人の体は10ヶ月後に何が起こるかを知っている。

たとえ当人がそのことを無自覚であったとしても、また解剖学など何も知らなくても、乳房は将来の赤ん坊のために発達し、腰椎や骨盤も来るべき出産に備えて日々なだらかに可動性が増していく。

また自分の体内だけでなく、外界との感応、外気や気候のようなものとの相関性もある。

例えば日本なら夏末にはもう筋骨が引き締まり、寒さに備え始めているし、そうかと思えば初夏を前にもう皮膚はゆるんでくる。つまりは地球の自転や公転、すなわち太陽系の動きと一つのリズムになって動いている自分というものが最初からあるのだ。

無意識の、こうした絶え間ない働きによって、平素から我々の無事は保たれているのである。

この無意識と親しむ時間が、現代を生きる我々からだいぶ縁遠くなってきている。文学的にはアダムがリンゴをかじった瞬間に「意識」という分別心が生じ、自分が世界から孤立したことになっている。

だからその「自分以外」のものの象徴として神様とか阿弥陀様とかいろいろな名前をつけて、もう一度親しみを取り戻そうとする動きが宗教の行為の中には沢山にある。

しかし意識化されたらそれはもう無意識ではない。多くの人はそれを神様とか仏様とか言っているけれども、客観的に示した人はやはりいない。いのちの真相は私から最も遠くて近い存在なのだ。

この無意識に最も近い認識作用が「感覚」なのである。

最初に感覚されるものがあって、のちに意識の窓を通り理性の検閲を受け、ようやく行動化されるというのが人間の特徴である。

この「感覚する(させられている)」という、生きるうえで重要な工程がだんだんと思考や文字の世界に圧迫され、一路萎縮の道をたどっているのが近代人の特徴といってよいだろう。簡単に言うと生の感覚が鈍っているのである。これによってどうなるかというと、思考が現実から遊離するのだ。「机上の空論」などという言葉は、思考の産物である科学の陥穽を簡潔に言い得た言葉である。

生活に則したところで考えると、天気予報や災害警報のインフラ拡充はこうした鈍麻に拍車をかける要因の一つではないか。いや鈍っているからこそ、そこに需要と供給が生じたのかもしれないし、これは鶏と卵の理論でどちらが先かはわからない。うるさいことをいえば、折りたたみ傘などというのも雨の予知ができなくなった人間には重宝な装備である。

実際、一度ふいの雨に打たれた経験のある人がいつでも傘を持って歩くことがある。羹に懲りてなますを吹くという言葉の通り、頭が記憶に占拠されて、今の現実認識がくもるのである。

その点で感覚という作用は原始的な生き物の方がむき出しに近い。我々は遠い海の海溝で起こった噴火をずいぶん後のなってから他人の作ったニュースで知る訳だが、海亀ならば津波のある年には海浜からずっと上がったところに卵を産むという。また樹木なども干ばつの起こる年はあらかじめ幹の中に水分を余分に蓄えている、という話も聞いたことがある。原始生命に近い両生類のカメや木々にはあたりまえの所作でも、大脳の発達した人間にはなかなか難しい芸当である。

東日本大震災の折には荒れる海をスマホで撮影していた子供がそのまま津波に吞まれてしまったという報道があった。

高度に発達した近代文明の象徴とも言える小型化されたコンピューターを握って水没する人間の姿に、私は人類の末期的症状を見ることを禁じ得ない。それが本来敏感であるはずの子どもであったという事実も傷ましい。

人間の子どもは一人でに大きくなるということはない訳で、高度な感受性を具えて生まれて来る子どもを鈍麻させる環境にこそ本当の災いがある、と思う。一方でその環境を配備した大人は大人の知恵で難を免れているというのだから、古きものが生き残り新しきが死んでいくという構図に、私は種としての未来を感じないのである。

年明け早々暗い話に傾いてきたが、ここからようやく整体愛好者の我田引水がはじまる。

こうして鈍りの一途をたどろうとする人間の生の感覚に活を入れ、再生せよというのが整体法の主張なのである。

無意識、そして錐体外路系のはたらきというのは宇宙の運行と機を一つにするものである。たとえ人間という種が姿を消しても、この世界から平衡運動が消滅することはない。つまり易経の天行健である。

どんなに鈍った鈍ったといっても、体温が10度以下で動いている人もいなければ、43度という熱を出す人もいない(もはや「人工的」には起こりうるかもしれないが)。アナログ体温計のメモリが42度までしないということがこの生命の秩序を黙して語る。

そして一分間の呼吸が18ならば、脈は72である。この一息四脈というリズムは整った体を象徴する数値であり、速くとも遅くとも、この比率からズレると元へ帰ろうとする動きが即座に起こる。熱や発疹などはこの平衡作用の代表的なものの一つである。

だから問題の核心は、この働いている秩序を害悪とみなして矯正または排除に奔走するのか、逆に善なるはたらきとみなして共感と活用へ向かうのかという分岐にある。

換言すると、病症のはたらきを生命を傷つけ死に至らしめる破壊作用としか認めないのか、あるいは破壊の中にある再建という生命の適応作用を観るのかという違いである。

後者であれば自らの病症経過の苦痛の中にも、自然整体作用の快感を見出すことも不可能ではない。

しかし現実は、病気は悪であり無病が善であるという二元論、そして病気の原因をウィルスや菌という外因にしか認ようとしない特定病因説が大勢を占めている。この事実からも近代科学のもたらした偏狭な視点がグローバル化の波と一体となって地球を席巻していることは明らかである。

その要因の一つが現代人の近視眼的視野狭窄があり、そのまた奥の要因として息の浅さ、そして不整体があるというのが整体愛好者による我田引水的視野狭窄である。

繰り返すが天行は健である。天地自然、この世界の全ての運行は最初から健やかさを失わない。この健の見えざるは近代自我の過剰亢進と似非科学の盲信によるものである。

人間の世の中が如何に変わっても、自分を離れていのちは存在しない。だから私は活元運動を通していのちの真相を自覚する人を、今年も一人でも多く増やしたい。それこそが人間の進歩だと、私は考える。

ここに至って「たとえ、百年かかっても、二百年かかってもよい。一人一人が、整体の考えを実現するよう行動してゆけばよい」という野口晴哉が生前発した言葉に、自らが宇宙の息と一つになって全うした生の荘厳さと息の深さ、そこから生じる視野の遠大さを感じるのである。

真理というものは、世の中が乱れれば乱れるほど、対比の構造によって一層明瞭になっていく。だとすれば、今ほど整体の価値が光る時代もないだろう。晴哉の見い出したいのちの世界に理解と共感を覚える人を増やしながら、着実に歩を進めていきたいと意を新たにする次第である。

教室のお知らせ

2022年1月 の教室を下記の日程で行います。

13日(木)10:00-12:00 活元指導
13日(木)13:00-16:00 愉気の会
29日(土)10:00-12:00 活元指導
29日(土)13:00-16:00 愉気の会

参加希望者は前々日までにお申し出ください。

今月の教室

12月の教室は下記の通りです。

9日(木)活元 10:00-12:00
9日(木)愉気 13:00-16:00
10日(金)座学 10:00-12:00
25日(土)活元 10:00-12:00
25日(土)愉気 13:00-16:00
26日(日)座学 10:00-12:00

参加希望者は前々日までにお申し込みください。

11月の活元会

11月活元指導の日程は下記の通りです。

2021年11月
4日(木)14:00-16:00
13日(土)14:00-16:00
18日(木)10:00-12:00
27日(土)10:00-12:00

参加希望者は各開催日の前々日までにお申し込みください。

AI

知らぬ間に横浜駅の地下街にAIの案内設備が置かれていた。「aiさくらさん」で検索すると詳細が出てくる。

道を聞く用があったのでタッチパネルに触れながら口頭で質問をしたら、流暢な、しっかりした日本語で目的地まで案内してくれた。こちらもつられて「ありがとうございました」というと「お役に立てたようでうれしいです」との返事。(ついにここまで来たか…)と隔世の感を禁じ得ない。

メイン通路を少し奥に歩いていくと、そちらで人間の案内係を見つけてほっとした。でも、もしまた同じシチュエーションになった場合にどちらを利用するかと考えたらAIの方を利用するだろう。

何故かというと利用する際のストレスがほとんどゼロに近い。声をかける際に「相手を慮る」という人間関係の重要な要素が全くないのである。

やはりAIとは違って人間の心は複雑だ。アドラーやユングによって有名になった「コンプレックス」という言葉も、元は「複雑である」という意味である。

平素我々は、表面的には理性的なやり取りをしているけれども、その下には常に潜在観念がうごめいている。

そのせいで人間は突如として怒り出したり、会ったばかりなのに好きになったり嫌いになったりしている。

しかし「急に、○○したので驚いた」などと言うのは普段我々が表面の心しか見えないからで、当人の心の中にはちゃんと合理的な理由があるのだ。

にもかかわらず、潜在意識下のことは他人はもちろん、本人にも全くと言っていいほどわからない。

こうした心の複雑性のために心理学の理論や学派は枝分かれして増える一方だし、それぞれの学派も深化と分化を繰り返してその研究には終わりがないのである。

だから心理学のプロほど「人間の心がいかにわからないか」ということを骨身に沁みてわかっているし、経験を積むほどに慎重になっていくのだ。

人間関係の醍醐味も心の奥深さや複雑さにあると言っていいけれども、こういう複雑性は「道を聞く」というような場合はあまり必要ではない。

そのせいか従来からエレベーターガールとか案内嬢といった職業にある方は人格や個性をなるだけ出さないように要求されてきたし、これを突き詰めれば早晩ロボットに行き着くのも当然かもしれない。

便利だなと思う反面さみしさを覚えるのは自分が旧世代の人間だからだろうか。

ここからはほとんど妄想だけれども、AIに案内された道を歩きながら「そのうち医者とか教員もAIに置き換わるのではないか」などと考えていた。

今回のようなコロナ騒動の場合は別として、風邪のような症状の場合はタッチパネルを前に話して、熱や脈などが遠隔で測定される。

そしてAIの医者が流暢な話し方で診断して、出された処方箋をもって薬局に行く。そこで3日分とか1週間分の薬をセルフで受け取って帰るのだ。

いわば病院の簡易版とドラッグストアの進化版が融合したような状態である。

学校も小学校の高学年、中学、高校と年次が上がるほどに単なる知識の切り売りの割合が増えていく。

だから生徒一人ひとりに「学校AI」を渡しておけば、教師の性別や性格、見た目などを生徒がカスタマイズして、あとは当人の好きな時間に勝手に勉強すればいい。

個性的で魅力のある先生との出会いのチャンスは失われるが、多感な時期の子どもが人格に偏りや歪みをもった教師に翻弄される害はなくなる。

完全に実現はないとしても、方向的にはこれに当たらずと言えども遠からずという向きに流れていくのではないだろうか。

そこへ行くと整体は人と人との接触によって結ばれる対人関係の技術である。そのためにAIと置き換わる公算は低いし、そうなってはならない。

しかしこのまま人間の力が落ちてくれば整体すらも「AIの方がまし」ということになりかねない。整体操法の真意が失われ、型だけが残った伝統芸能みたいになったらおしまいだろう。

そもそも整体法の知名度や普及率の低さを思えばそんなことはあり得ないのだが。

整体指導者は時代がどう変わっても社会の価値観に左右されることなく、そこに生きる人間の要求にピタリと応えられるようでなければならない。

真の贅沢とはこういうものだと私は考えている。人がそれを求めたときに確かなものを提供できるように、整体操法を途切れさせたくはないなとは思っている。

などなど妄想している間にAIのおかげで目的地には無事に着いた。心がないとこうもスムーズなものかと妙な所で感心もした。しかしもはやAIには心がないといいきれるだろうか、そもそも心の定義とは何か、とか、その後もしばらく暇人の思案は続いた。

死の恐怖

コロナ禍の様子を外から眺めていて、何故ここまで衛生法や薬に頼ろうとするのかなかなか理解できなかった。

それをあるきっかけで「どうしてこんなにも病気を怖がるのか」と視点を変えると、少し見える景色が変わってきた。

「病気になったら早く治したい」「治す薬が欲しい」「完璧に予防したい」と渇望する心の背景には無意識の死の恐怖がある、ということだった。

あたかも自分で気づいたように書いていながら、実は野口先生の古い講義録を読んでいたらそのまま書いてあっただけなんだけども…。

そう考えると、去年あった店頭でマスクの奪い合いででケンカになったという海外のニュースも肯ける。「単純にマスクをよこせ!コノヤロー」という話ではなくて、潜在意識化にある死に対する怖さ、というのが意識を操った結果のできごとである。

だから「今回のワクチンは胡散臭い」、「いまいち信用できないので打たない」と言っている人の中にも二種類あって、「人間は生きるだけ生きて死ぬときに死ぬんだ」と達観している人もいるだろうし、「ワクチンは嫌だけど、とはいえ病気は怖いし」とマスクと手洗いでせっせと衛生に努めている人もいるのだろう。

つまるところ病気を完全に克服するには無意識にある死の恐怖を克服するしかないし、それには「生きている」ということの実体を自分で明らかにするより他はないのである。

生老病死を克服する真理は釈迦が2500年前に見つけたものとちっとも変わらない。これは洋の東西などを飛び越えた、生きること死ぬことを貫く真理である。

例えば「アブラハムが生まれる前から私は在った」というキリストの言葉は、そのまま「父母未生以前、自分はどこに在ったか」という禅の公案の答えになっている。

「救済」とか「悟り」とか言われるものの根本は一つなのだ。

そして、どうやら昔の日本人にとっては禅は一つの嗜みだったようである。

ただしこれは生活しているうちに「はっ」と気づくようなもので、親から子へ、または先生から生徒へ「教える」ということはちょっと難しい。

よしんば気づかなかったとしても特にどうということもないので、知ってもいいし知らなくてもいい。人格的にまあまあ育って何か職業につければそれなりにやってはいける。

そうこうしている間に西洋化の潮流の中で禅文化の風土は雲散霧消していったのかもしれない。

そうすると当然心の不安、生死にまつわる漠とした恐怖をぬぐえなくなってくるので、そのポッカリと空いた心の隙間にさっと入り込んだのがペニシリンやストマイをはじめとする科学的医療手段の数々だったのではないだろうか。

だから現代の医薬信仰は中世の人が十字架を握りしめたり、神棚とか仏壇に手を合わせているようなもので、これをふいに奪われると心の安定を失ってしまう。

柱に寄りかかって立っている間はどうしても柱に執着せざるを得ない。

そういう心理構造の背景に「漠とした死の恐怖」がある、と考えるとようやく自分なりに納得ができたのだ。

自分の場合は整体法を知った時から病気の見方がコロッと変わってしまったし(これは野口整体の潜在意識教育のため)、お世話になっていた整体の先生が「野口整体は禅文化だ」と言い始めてからちょくちょく参禅をしてある時期からポコッと禅に対する疑念が途切れて湧かなくなってしまった。

今からすれば「ああ、なんだ…」という程度のものだけれども、これがあるかないかで世の中の見え方がこうも違うものかなと思う。

一般に力のある宗教家というのはそばにいる人たちから漠とした死の恐怖を忘れさせてしまう。それはある面では結構なのだけれども、下手をすると主がいなくなったとたんその集団は総崩れみたいになってしまう。

親鸞でもその死後はすぐに法が乱れてしまったというし、病気や死の克服はやっぱり自分でするより他ない。

いのちの真相は常に自分の中にある。

自分の中といっても中のものは目の前に展開しているので、ちゃんと眼さえ開ければ一瞬で解決する。

人間ははじめから生死を飛び越えて躍動しているのだ。これに気づいた瞬間、無垢な自分がゴロッとそこにそのまま出てくる。そして禍も福も、病気も老いもみんな消えてしまう。

万病に効く薬、これより他になし。

10月の活元会

下記の日程で活元会を実施します。

2021年
10/14(木)10:00-12:00
10/23(土)14:00-16:00
10/31(日)10:00-12:00

今月は第4週(土)が午後の時間となっていますお気を付けください。

また第5週は日曜日に行います。普段はご参加いただけない方もご検討ください。

乳歯

小1(6才)の子どもの上の前歯がかなりぐらぐらしている。かれこれひと月くらいはそうしていて、これがまたなかなかとれない。

早い子なら年中さん(4~5才)から抜け替わっているんだけど、うち子どもの発育は他と比較するとだいぶゆるやかである。

実はこれはある程度画策してやっていることで、たまたまそうなったわけではない。

整体法では早く育つこと、いわゆる早熟を警戒する。

「早く育って何が悪いか」という反論もあるかもしれないが、この場合何をもって良しとするかは個人の主観に委ねられる話で絶対的な是非善悪はないと思っている。

子どもをどう育てたいか、どうしたいか、というのは親の価値観に拠るもので、生物の適応力を活用すれば、早く「人間」にしようとすればできない話でない。

ハイハイしてれば早く立たせようとする、アーアーといっていれば早く話せるようにする、字も早く訓練して覚えさせて、足し算引き算でもやらせようと思えば幼稚園からできるのだから。

しかし整体法においては急づくりになるよりも、着実に、適切な期間を要して成熟していくことをよしとする。

乳歯に関して言えば、乳児期に十分栄養が満ちていればそれほど早く生えてくる必要がない。咀嚼の必要がないからである。

そのために生後2、3ヶ月くらいから赤ん坊の要求に応じて離乳食を施す。柔らかくて、体に適した、栄養に満ちたものをあたえていれば自然、そうなっていくのだ。

乳歯がおそければ、当然永久歯もおそい。「おそい」いうのも比較によって生じる表現なので、より正確に言えば「その子」の「その時」に生えてくるわけだが。

「なんだそんなことが整体なのか」と思う人は無論こんな面倒なことはやらなくていい。

しかし人間の人間たるゆえんは知恵を働かせて上質な文明を形成し、他の動植物よりも緩やかに育つ点にある。

馬とか鹿なら生まれたと同時に立とうとし、その日のうちに走れるようにならなければ生存できない。

その点人間は違う。周囲の大人たちからさまざまな保護を受けて高い生存率を保有しているために、生後1年以上も安心して寝ていられるのである。

そうしてこの期間に充分要求を満たされ、保護され安心して育った子どもには独特の雰囲気がある。外界に対する漠とした不安や恐れが感じられない。

根拠のない自信、とか余裕と呼ばれるものもここから生じるのではないだろうか。

具体的に言えば「人見知り」ということが生じにくい。そして初めての場に行ってもさっと不安なく相手の中に入っていける。

だから核心となるのはそういった点で、歯の生える時期というのは副次的についてくる現象と思った方がいいのかもしれない。

そうやって出てきた歯がどの程度丈夫なのか、という点はもう少しを観察を要するけれども、現時点で虫歯その他のトラブルはない。その点順当にきているといえそうだ。

真に見るべきは発育の遅速ではなく、常に相手の要求から出発するという生命主体の世界を築こうという心の態度にある。

こういった着眼は他の育児書ではあまり見かけたことはないので、これも整体独自の知恵の一つなのかなと思う。

背く親

昨日の夕方、子どもといっしょに公園に行くと、ちょうどそこで4~7才くらいの姉妹が交代で縄跳びをして遊んでいた。はじめは夢中でやっていたけれど、そのうちにお姉ちゃんが「あや跳び」をした。するとすかさずお母さんが「すごいすごい!それはアヤトビって言うんだよ」と教えてあげた。

褒められたお姉ちゃんは今度は「アヤトビ」を成功させるためにやり始めた。ただ夢中でやっていた縄跳びに成功と失敗が生じ、そこに評価が加わった。

なかなかできなくて、イライラする。もう一回アヤトビをすると、お母さんは、「ちがうよ、それは交差跳び」、そこへお父さんまで加わって「今のはあや跳びにも交差跳びにもなっていない」と次々厳しい評価と注文を付け始めた。

そうこうする間に存在を忘れられそうになった妹が、「モウカワッテヨ!」と自分を主張しはじめた。当然である。お姉ちゃんはしぶしぶ交代する。「じゃあ5回ね!」と先に自分の自由を制限されたお姉ちゃんは、さっきまで自由に交代しながら一緒に遊んでいた妹に急に注文を付け始めた。

やっと通った要求に制限を付けられた妹は「ゴカイヤダ!カゾエナイデ!」と自分の自由を主張する。お父さんは「お姉ちゃんが貸してくれたんだから交代で遊びなさい、自分がやられたらイヤでしょ」と正しきを指導した。

ついさっきまで楽しかった同じ縄跳びが途端に詰まらくなった。嫌になり一人で遊具に行ってしまった。人間の要求は川水の流れと同じである。堰き止められれば、孤独になるとわかっても隙間を見つけて流れていく。

お姉ちゃんはアヤトビを再開するも、もう笑顔はない。それをお母さんは意に返すことなく、相変わらず「今のはちがうよ」とやっている。

お姉ちゃん「ちがうちがう、そういうこと言ってんじゃないの!」
お母さん「えっ私が教えてあげてんだけど」とついにはケンカが始まった。

読めばわかる通り、子どもの自発性と楽しみを奪ったのは親である。この場合は相手の求めない知識と正確さを押し売りしたためだ。何故そうまでして「アヤトビ」を正確に教えようとしたのか、私にはそれがわからない。

おそらくだが、この流れはここで終わらない。「正しさ」によって自分の自由と自発性を制限されたお姉ちゃんが妹にもそれをしたように、やがては学校の友達にも何かあるごとに「それはちがうよ、こう」とやり始めるかもしれない。

人間の表面の動きだけしか見ない人にこんな話をしても無駄だろう。せいぜい「親の親切に子どもが背いた」と思うかもしれないが、子どもの自然のこころに先に背いたのは親である。その根本には古くなったことによる感受性の鈍りと子どもに対する無理解がある。それが仲良く遊んでいた姉妹の中まで壊してしまった。

妹は姉が憎いと思ったかもしれないが、その背後に親の鈍感があるとは夢にも思わないだろう。その結果、本件でもっとも孤独を味わったのも妹である。しかしながら、考えてみるとこういうことは世の中にいくらでもあることではないか。

お互いがお互いの正義と自由をつつき合って息苦しい社会を作っていく土壌は、こんなところにもあるのではないかと思った。慎まなければならない。

いじめもまた然り。弱者を守るべしという頭の教育も結構だが、指導者層の視野狭窄と感受性の鈍りを見逃して、お仕着せの教育が奏功するとは思えない。子どものうちからこころの自然と感受性を守り育てていく体育の必要性ここにありと、改めて信を強くした次第である。

木に学べ

宮大工の西岡常一さんの話を一冊の本にした『木に学べ』(小学館)。伝統の職人による木と日本古来の建築、そしてそれにまつわる周辺のお話で、現代文明の在り方を当然と思って生活する我々に内省を促す内容だ。

木に学べ

全編どこを切っても含蓄の深い話ばかりである。その中でもわたしが最も気になったのは下の引用部。

自然の木と、人間に植えられて、だいじに育てられた木では、当然ですが違うんでっせ。

自然に育った木ゆうのは強いでっせ。なぜかゆうたらですな、木から実が落ちますな。それが、すぐに芽出しませんのや。出さないんやなくて、出せないんですな。ヒノキ林みたいなところは、地面までほとんど日が届かんですわな。

こうして、名百年も種ががまんしておりますのや。それが時期がきて、林が切り開かれるか、周囲の木が倒れるかしてスキ間ができるといっせいに芽出すんですな。今年の種も百年前のものも、いっせいにですわ。少しでも早く大きくならな負けですわ。木は日に当たって、合成して栄養つくって大きくなるんですから、早く大きくならんと、となりのやつの日陰になってしまう。日陰になったらおしまいですわ。

何百年もの間の種が競争するんでっせ。それで勝ち抜くんですから、生き残ったやつは強い木ですわ。でも、競争はそれだけやないですよ。大きくなると、少し離れてたとなりのやつが競争相手になりますし、風や雪や雨やえらいこってすわ。ここは雪がふるいからいややいうて、木は逃げませんからな。じっとがまんして、がまん強いやつが勝ち残るんです。

千年たった木は千年以上の競争に勝ち抜いた木です。法隆寺や薬師寺の千三百年以上前の木は、そんな競争を勝ち抜いてきた木なんですな。(『木に学べ』pp,15-16)※太字は引用者

少し長くなったけども、いわゆる自然淘汰の摂理を著者の職業的な体験を通じて語られている。

こうした淘汰作用に人間味を加えた表現が「生存競争」ではないか。しかしもう少し冷静にみていくと、これは競争というより適応と言うべきかもしれない。

芽が出せないときは出ない、けれども環境が発芽を許せば出てくる。努力したからそうなったわけでなく、タネの内と外が同調して自然(じねん)にそうなるのだ。

芽の伸び方によって早く、高く茂っていく木は伸び、日陰になった木は朽ちて菌類の温床となり、やがて土に還ってまた他の生き物に化けていく。

こうして無限に循環する生態系を「競争」とみるのは人間の視野狭窄かもしれない。もう少し公平な見方をすれば、それぞれのタネがその個性に応じた生を全うするだけなのだ。

これによってその種(しゅ)はより環境に適応した個体だけが命を繋いで存続していくことになる。

こうした淘汰と適応の相克の狭間で生きているのが地球の生命体であって、人間と言えどこの作用から遊離して生きていくことはできないのである。

しかしながら、いつの頃からか人間はこうした自然の摂理をコントロール下に置こうと努めて知能を働かせてきたのだ。

そうして個体生命の生存率を高めるために発展してきた方法論の一つが「科学」である。科学技術というのは一般に外的環境を分析によって理解し、これを自分にとって都合のいいように再構築すべく活用されてきたのである。

これと対照的に、外界になるだけ手を加えず身体の適応能力を最大化して個体の生命を全うしようというのが整体法の根本理念である。

よく誤解されていることだが「体が整っている」ということは、肩の水平や骨盤の正対称といった幾何学的均衡をいうのではない。「整体」とは刺激に即応して再適応がはかられる、弾力に満ちた身体のことを指している。

これを裏付ける説話として次のようなエピソードがある。野口先生の存命中に行われた整体指導者の資格を付与するための段位審査のテストにおいて、「整体操法を行う目的は何か」という設問があったそうである。これに対する解答の一つが「感受性を高度ならしむる」であったという。

自然界は感受性の鈍ったものから姿を消していく。

だから丈夫とは何か、それから健康と何か、といった場合に一般の感覚と整体法の考え方にはずいぶん乖離がある。

「丈夫」とか「健康」という目指すところの定義の確認から出発しないと、整体指導という共同作業は成り立たない。

先にも述べたように弾力と適応作用の保持というのが整体指導の唯一の目的で、これは科学的医療からするとほぼ死角になっている。

これは現代医療と整体法のどちらの方が優れているかという卑小な話ではなくて、それぞれの持ち場、技術が使われる枠組みをはっきりさせようという思考態度だ。

言うまでもなく整体の方が圧倒的にマイノリティではあるけれども、病気の原因を身体の内的事情に求め、また病症に生命保全の合目的性を認めるスタンスは、コロナの対応で閉塞感に悩まされている現代にこそ公正な評価を下す必要があるだろう。

旧来から野口整体を前近代的(≒非科学的)な迷信として軽視する向きもあるけれども、本来の整体法のパラダイムは後に発生したニューサイエンスと同様、西洋近代から急成長した自然科学の補償に位置している。お互いに理解を深めつつ補填、補完していくことで頻発する感染症の対応策にも新たな視点と展開が期待できると思われる。

このような観点に立つと、今から千年以上も前に人間の知恵と技術、そして自然の妙機を組み合わせて法隆寺を建造した飛鳥時代の技法は、科学至上主義の限界に立たされている我々に多くの示唆をもたらすと言えそうだ。

タイトルの『木に学ぶ』というのは、換言すればいのちに学ぶということである。今の自分の脈にも息にも、いのちのリズムは正確に刻まれている。心が自然なら人間と言えど自ずから整うようにできているのだ。

いのちの秩序から学び、そこから技術を生じでき上がった整体法にも、千年の風雪に耐え力が具わっている。その力に気づき使いこなせるかどうかは私たち一人一人の感受性にかかっているのだ。