死の恐怖

コロナ禍の様子を外から眺めていて、最後まで不思議でしょうがなかったことがある。

それを「どうしてこんなに薬にすがりたがるのかなぁ」という観点から考えている間は、どうしても相容れない考えで理解できなかったのだけれども、「どうしてこんなにも病気を怖がるのか」と視点を変えると少し見える景色が変わった。

「病気になったら早く治したい」「治す薬が欲しい」「完璧に予防したい」と渇望する心の背景には無意識の死の恐怖がある、ということだった。

あたかも自分で気づいたように書いていながら、実は野口先生の古い講義録を読んでいたらそのまま書いてあっただけなんだけども…。

だから「今回のワクチンは胡散臭い」、「いまいち信用できない」と言っている人の中にも二種類あって、「人間は生きるだけ生きて死ぬときに死ぬんだ」と達観している人もいるだろうし、「ワクチンは嫌だけど、とはいえ病気は怖いし」とマスクと手洗いでせっせと衛生に努めている人もいるのだろう。

つまるところ病気を完全に克服するには無意識にある死の恐怖を消してしまうしかないし、それには「生きている」ということの実体を自分で明らかにするより他はない。

生老病死を克服する真理は釈迦が2500年前に見つけたものとちっとも変わらない。これは洋の東西などを飛び越えた、生きること死ぬことを貫く真理である。

例えば「アブラハムが生まれる前から私は在った」というキリストの言葉は、そのまま「父母未生以前、自分はどこに在ったか」という禅の公案の答えになっている。

「救済」とか「悟り」とか言われるものの根本は一つなのだ。

そして、どうやら昔の日本人にとっては禅は一つの嗜みだったようである。

ただしこれは生活しているうちに「はっ」と気づくようなもので、親から子へ、または先生から生徒へ「教える」ということはちょっと難しい。

よしんば気づかなかったとしても特にどうということもないので、知ってもいいし知らなくてもいい。人格的にまあまあ育って何か職業につければそれなりにやってはいける。

そうこうしている間に西洋化の潮流の中で禅文化の風土は雲散霧消していったのかもしれない。

そうすると当然心の不安、生死にまつわる漠とした恐怖をぬぐえなくなってくるので、そのポッカリと空いた心の隙間にさっと入り込んだのがペニシリンやストマイをはじめとする科学的医療手段の数々だったのではないだろうか。

だから現代の医薬信仰は中世の人が十字架を握りしめたり、神棚とか仏壇に手を合わせているようなもので、ふいに奪われると心の安定を失ってしまう。

柱に寄りかかって立っている間はどうしたって柱に執着せざるを得ない。

そういう心理構造の背景に「漠とした死の恐怖」がある、と考えるとようやく自分なりに納得ができたのだ。

自分の場合は整体法を知った時から病気の見方がコロッと変わってしまったし(これは野口整体の潜在意識教育のため)、お世話になっていた整体の先生が「野口整体は禅文化だ」と言い始めてからちょくちょく参禅をしてある時期からポコッと禅に対する疑念が途切れて湧かなくなってしまった。

今からすれば「ああ、なんだ…」という程度のものだけれども、これがあるかないかで世の中の見え方がこうも違うものかなと思う。

一般に力のある宗教家というのはそばにいる人たちから漠とした死の恐怖を忘れさせてしまう。それはある面では結構なのだけれども、下手をすると主がいなくなったとたんその集団は総崩れみたいになってしまう。

親鸞でもその死後はすぐに法が乱れてしまったというし、病気や死の克服はやっぱり自分でするより他ない。

いのちの真相は常に自分の中にある。

自分の中といっても中のものは目の前に展開しているので、ちゃんと眼さえ開ければ一瞬で解決する。

人間ははじめから生死を飛び越えて躍動しているのだ。これに気づいた瞬間、無垢な自分がゴロッとそこにそのまま出てくる。そして禍も福も、病気も老いもみんな消えてしまう。

万病に効く薬、これより他になし。

10月の活元会

下記の日程で活元会を実施します。

2021年
10/14(木)10:00-12:00
10/23(土)14:00-16:00
10/31(日)10:00-12:00

今月は第4週(土)が午後の時間となっていますお気を付けください。

また第5週は日曜日に行います。普段はご参加いただけない方もご検討ください。

乳歯

小1(6才)の子どもの上の前歯がかなりぐらぐらしている。かれこれひと月くらいはそうしていて、これがまたなかなかとれない。

早い子なら年中さん(4~5才)から抜け替わっているんだけど、うち子どもの発育は他と比較するとだいぶゆるやかである。

実はこれはある程度画策してやっていることで、たまたまそうなったわけではない。

整体法では早く育つこと、いわゆる早熟を警戒する。

「早く育って何が悪いか」という反論もあるかもしれないが、この場合何をもって良しとするかは個人の主観に委ねられる話で絶対的な是非善悪はないと思っている。

子どもをどう育てたいか、どうしたいか、というのは親の価値観に拠るもので、生物の適応力を活用すれば、早く「人間」にしようとすればできない話でない。

ハイハイしてれば早く立たせようとする、アーアーといっていれば早く話せるようにする、字も早く訓練して覚えさせて、足し算引き算でもやらせようと思えば幼稚園からできるのだから。

しかし整体法においては急づくりになるよりも、着実に、適切な期間を要して成熟していくことをよしとする。

乳歯に関して言えば、乳児期に十分栄養が満ちていればそれほど早く生えてくる必要がない。咀嚼の必要がないからである。

そのために生後2、3ヶ月くらいから赤ん坊の要求に応じて離乳食を施す。柔らかくて、体に適した、栄養に満ちたものをあたえていれば自然、そうなっていくのだ。

乳歯がおそければ、当然永久歯もおそい。「おそい」いうのも比較によって生じる表現なので、より正確に言えば「その子」の「その時」に生えてくるわけだが。

「なんだそんなことが整体なのか」と思う人は無論こんな面倒なことはやらなくていい。

しかし人間の人間たるゆえんは知恵を働かせて上質な文明を形成し、他の動植物よりも緩やかに育つ点にある。

馬とか鹿なら生まれたと同時に立とうとし、その日のうちに走れるようにならなければ生存できない。

その点人間は違う。周囲の大人たちからさまざまな保護を受けて高い生存率を保有しているために、生後1年以上も安心して寝ていられるのである。

そうしてこの期間に充分要求を満たされ、保護され安心して育った子どもには独特の雰囲気がある。外界に対する漠とした不安や恐れが感じられない。

根拠のない自信、とか余裕と呼ばれるものもここから生じるのではないだろうか。

具体的に言えば「人見知り」ということが生じにくい。そして初めての場に行ってもさっと不安なく相手の中に入っていける。

だから核心となるのはそういった点で、歯の生える時期というのは副次的についてくる現象と思った方がいいのかもしれない。

そうやって出てきた歯がどの程度丈夫なのか、という点はもう少しを観察を要するけれども、現時点で虫歯その他のトラブルはない。その点順当にきているといえそうだ。

真に見るべきは発育の遅速ではなく、常に相手の要求から出発するという生命主体の世界を築こうという心の態度にある。

こういった着眼は他の育児書ではあまり見かけたことはないので、これも整体独自の知恵の一つなのかなと思う。

背く親

昨日の夕方、子どもといっしょに公園に行くと、ちょうどそこで4~7才くらいの姉妹が交代で縄跳びをして遊んでいた。はじめは夢中でやっていたけれど、そのうちにお姉ちゃんが「あや跳び」をした。するとすかさずお母さんが「すごいすごい!それはアヤトビって言うんだよ」と教えてあげた。

褒められたお姉ちゃんは今度は「アヤトビ」を成功させるためにやり始めた。ただ夢中でやっていた縄跳びに成功と失敗が生じ、そこに評価が加わった。

なかなかできなくて、イライラする。もう一回アヤトビをすると、お母さんは、「ちがうよ、それは交差跳び」、そこへお父さんまで加わって「今のはあや跳びにも交差跳びにもなっていない」と次々厳しい評価と注文を付け始めた。

そうこうする間に存在を忘れられそうになった妹が、「モウカワッテヨ!」と自分を主張しはじめた。当然である。お姉ちゃんはしぶしぶ交代する。「じゃあ5回ね!」と先に自分の自由を制限されたお姉ちゃんは、さっきまで自由に交代しながら一緒に遊んでいた妹に急に注文を付け始めた。

やっと通った要求に制限を付けられた妹は「ゴカイヤダ!カゾエナイデ!」と自分の自由を主張する。お父さんは「お姉ちゃんが貸してくれたんだから交代で遊びなさい、自分がやられたらイヤでしょ」と正しきを指導した。

ついさっきまで楽しかった同じ縄跳びが途端に詰まらくなった。嫌になり一人で遊具に行ってしまった。人間の要求は川水の流れと同じである。堰き止められれば、孤独になるとわかっても隙間を見つけて流れていく。

お姉ちゃんはアヤトビを再開するも、もう笑顔はない。それをお母さんは意に返すことなく、相変わらず「今のはちがうよ」とやっている。

お姉ちゃん「ちがうちがう、そういうこと言ってんじゃないの!」
お母さん「えっ私が教えてあげてんだけど」とついにはケンカが始まった。

読めばわかる通り、子どもの自発性と楽しみを奪ったのは親である。この場合は相手の求めない知識と正確さを押し売りしたためだ。何故そうまでして「アヤトビ」を正確に教えようとしたのか、私にはそれがわからない。

おそらくだが、この流れはここで終わらない。「正しさ」によって自分の自由と自発性を制限されたお姉ちゃんが妹にもそれをしたように、やがては学校の友達にも何かあるごとに「それはちがうよ、こう」とやり始めるかもしれない。

人間の表面の動きだけしか見ない人にこんな話をしても無駄だろう。せいぜい「親の親切に子どもが背いた」と思うかもしれないが、子どもの自然のこころに先に背いたのは親である。その根本には古くなったことによる感受性の鈍りと子どもに対する無理解がある。それが仲良く遊んでいた姉妹の中まで壊してしまった。

妹は姉が憎いと思ったかもしれないが、その背後に親の鈍感があるとは夢にも思わないだろう。その結果、本件でもっとも孤独を味わったのも妹である。しかしながら、考えてみるとこういうことは世の中にいくらでもあることではないか。

お互いがお互いの正義と自由をつつき合って息苦しい社会を作っていく土壌は、こんなところにもあるのではないかと思った。慎まなければならない。

いじめもまた然り。弱者を守るべしという頭の教育も結構だが、指導者層の視野狭窄と感受性の鈍りを見逃して、お仕着せの教育が奏功するとは思えない。子どものうちからこころの自然と感受性を守り育てていく体育の必要性ここにありと、改めて信を強くした次第である。

木に学べ

宮大工の西岡常一さんの話を一冊の本にした『木に学べ』(小学館)。伝統の職人による木と日本古来の建築、そしてそれにまつわる周辺のお話で、現代文明の在り方を当然と思って生活する我々に内省を促す内容だ。

木に学べ

全編どこを切っても含蓄の深い話ばかりである。その中でもわたしが最も気になったのは下の引用部。

自然の木と、人間に植えられて、だいじに育てられた木では、当然ですが違うんでっせ。

自然に育った木ゆうのは強いでっせ。なぜかゆうたらですな、木から実が落ちますな。それが、すぐに芽出しませんのや。出さないんやなくて、出せないんですな。ヒノキ林みたいなところは、地面までほとんど日が届かんですわな。

こうして、名百年も種ががまんしておりますのや。それが時期がきて、林が切り開かれるか、周囲の木が倒れるかしてスキ間ができるといっせいに芽出すんですな。今年の種も百年前のものも、いっせいにですわ。少しでも早く大きくならな負けですわ。木は日に当たって、合成して栄養つくって大きくなるんですから、早く大きくならんと、となりのやつの日陰になってしまう。日陰になったらおしまいですわ。

何百年もの間の種が競争するんでっせ。それで勝ち抜くんですから、生き残ったやつは強い木ですわ。でも、競争はそれだけやないですよ。大きくなると、少し離れてたとなりのやつが競争相手になりますし、風や雪や雨やえらいこってすわ。ここは雪がふるいからいややいうて、木は逃げませんからな。じっとがまんして、がまん強いやつが勝ち残るんです。

千年たった木は千年以上の競争に勝ち抜いた木です。法隆寺や薬師寺の千三百年以上前の木は、そんな競争を勝ち抜いてきた木なんですな。(『木に学べ』pp,15-16)※太字は引用者

少し長くなったけども、いわゆる自然淘汰の摂理を著者の職業的な体験を通じて語られている。

こうした淘汰作用に人間味を加えた表現が「生存競争」ではないか。しかしもう少し冷静にみていくと、これは競争というより適応と言うべきかもしれない。

芽が出せないときは出ない、けれども環境が発芽を許せば出てくる。努力したからそうなったわけでなく、タネの内と外が同調して自然(じねん)にそうなるのだ。

芽の伸び方によって早く、高く茂っていく木は伸び、日陰になった木は朽ちて菌類の温床となり、やがて土に還ってまた他の生き物に化けていく。

こうして無限に循環する生態系を「競争」とみるのは人間の視野狭窄かもしれない。もう少し公平な見方をすれば、それぞれのタネがその個性に応じた生を全うするだけなのだ。

これによってその種(しゅ)はより環境に適応した個体だけが命を繋いで存続していくことになる。

こうした淘汰と適応の相克の狭間で生きているのが地球の生命体であって、人間と言えどこの作用から遊離して生きていくことはできないのである。

しかしながら、いつの頃からか人間はこうした自然の摂理をコントロール下に置こうと努めて知能を働かせてきたのだ。

そうして個体生命の生存率を高めるために発展してきた方法論の一つが「科学」である。科学技術というのは一般に外的環境を分析によって理解し、これを自分にとって都合のいいように再構築すべく活用されてきたのである。

これと対照的に、外界になるだけ手を加えず身体の適応能力を最大化して個体の生命を全うしようというのが整体法の根本理念である。

よく誤解されていることだが「体が整っている」ということは、肩の水平や骨盤の正対称といった幾何学的均衡をいうのではない。「整体」とは刺激に即応して再適応がはかられる、弾力に満ちた身体のことを指している。

これを裏付ける説話として次のようなエピソードがある。野口先生の存命中に行われた整体指導者の資格を付与するための段位審査のテストにおいて、「整体操法を行う目的は何か」という設問があったそうである。これに対する解答の一つが「感受性を高度ならしむる」であったという。

自然界は感受性の鈍ったものから姿を消していく。

だから丈夫とは何か、それから健康と何か、といった場合に一般の感覚と整体法の考え方にはずいぶん乖離がある。

「丈夫」とか「健康」という目指すところの定義の確認から出発しないと、整体指導という共同作業は成り立たない。

先にも述べたように弾力と適応作用の保持というのが整体指導の唯一の目的で、これは科学的医療からするとほぼ死角になっている。

これは現代医療と整体法のどちらの方が優れているかという卑小な話ではなくて、それぞれの持ち場、技術が使われる枠組みをはっきりさせようという思考態度だ。

言うまでもなく整体の方が圧倒的にマイノリティではあるけれども、病気の原因を身体の内的事情に求め、また病症に生命保全の合目的性を認めるスタンスは、コロナの対応で閉塞感に悩まされている現代にこそ公正な評価を下す必要があるだろう。

旧来から野口整体を前近代的(≒非科学的)な迷信として軽視する向きもあるけれども、本来の整体法のパラダイムは後に発生したニューサイエンスと同様、西洋近代から急成長した自然科学の補償に位置している。お互いに理解を深めつつ補填、補完していくことで頻発する感染症の対応策にも新たな視点と展開が期待できると思われる。

このような観点に立つと、今から千年以上も前に人間の知恵と技術、そして自然の妙機を組み合わせて法隆寺を建造した飛鳥時代の技法は、科学至上主義の限界に立たされている我々に多くの示唆をもたらすと言えそうだ。

タイトルの『木に学ぶ』というのは、換言すればいのちに学ぶということである。今の自分の脈にも息にも、いのちのリズムは正確に刻まれている。心が自然なら人間と言えど自ずから整うようにできているのだ。

いのちの秩序から学び、そこから技術を生じでき上がった整体法にも、千年の風雪に耐え力が具わっている。その力に気づき使いこなせるかどうかは私たち一人一人の感受性にかかっているのだ。

病気はからだの自然良能

2003年に『風邪の効用』がちくま文庫に入ってから今年ですでに17年経っている。

10年ひと昔という言葉に照らせばもうふた昔は前になろうかという話だが、当時は大手書店では平済みの状態が続き、まあまあのセンセーションをもたらしたようである。そこから比べれば「野口整体ブーム」も今はやや小康状態になったとみるべきだろうか。

それにしても野口先生の存命中は「病症が身体を整えている」というだけで、かなりのトンデモ説として非難されたそうである。

考えてみれば往時の日本はペニシリンやストマイを西洋から流入したおかげでようやく死病を克服できそうだと安堵していたさ中であった。

一見すると高度な合理性を提示する科学的医療の威力に目がくらみ、これこそが絶対的な善として信じ込んでいる人が大半の時代だったのだ。

その時にいち早くその限界性と問題点を指摘した慧眼は、もっともっと高く評価されるべきだと思う(この際評価などどうでもいいかもしれないが‥)。

現代はそこからまた少し科学の方が進んだので、例えば熱が出るとその熱で症状を引き起こしている病原菌が死滅するのだ、という解釈も所を選べばそれなりに受け入れられるようにはなってきた。

ただ注意がいるのは「病菌さえなくなればいいのだ」という見方に引っかかると、やはりそれは善悪の二元対立の世界に留まることになってしまうことだ。そうであるうちはどうしても是非善悪に苦悩する自我が取り切れない。

病菌自体の存在も地球規模というか、宇宙的視野でとらえようとすると、善も悪もない「ただそのようにある」という一大活動体の一部を切り出して見ているだけである。

だから苦しければ苦しい、痛ければ痛い、というそのことで終わっておけば、それも宇宙全体の健やかな動きとして自得できるときが来るのかもしれない。

科学を基盤とする近代的な価値基準に生きる人たちに対して、ある種のコスモロジーの転換を迫ろうとするのが野口晴哉の説いた整体法という世界である。

このような視点は別に真新しいものでもなく、とりわけ東洋ではおなじみ、といえばおなじみで、例えば禅という世界がまず一つそうだし、易の天行健もはるか昔から同じことを言っている。

是非、善悪、上下、苦楽といった対立概念はよくみればみな個人の裁量に過ぎないのである。そして同じ人でも昨日と今日ではもう変わってしまう。

そういう不確実な思惟や思索をもとに世界を理解し、コントロールしようとあくせくするより、「ただそのようにある」実態のほうに自分のいのちをそっくり浮かべて漂うな気持ちになってみたらどうであろうか。

親鸞がやったのはまさしくそれである。

もしも「唯一絶対」というものがこの世にあるとすれば、それは今こうして展開する「いのち」だけなのだ。

そこに信を置けるようになるまで自己を鍛錬しようというのが整体法の説こうとした道である。易経の自彊不息も同じで、そういう精進のありかたを一語で示している。

せっかくこうして整体法に触れるのだったら、しっかりとパラダイムシフトをしてその髄を味うべきだ。

病気はからだの自然良能である。

その病気も宇宙の健全な運行のいち側面である。

健全な動きの中にある一つの姿を人間が切り出して、その都度「良い」とか「悪い」とか言っているにすぎない。

そういう観点で『風邪の効用』にもう一度目を通していくと、整体法はもとからブーム足り得るようなものではなく、事実に即した覆しようにない生命観であり古今不易のものであることが実感できると思う。

とりわけ巻末の「愉気について」は圧巻で、風邪やその他の病名に拘泥して、不安に駆られたままあくせく治そうとするのではなく、先ず「病気しているその心を正す」ことが肝要であると説いている。

この辺りのところが本当に真髄といっていいのかもしれない。

ただしここからが難しいのだが、これをさらっと信じられる人と、どうにも受け入れられない人がいる。

後者のような人を「常識が豊かな人」というのだが、実のところこういう人たちのおかげで整体がこの世に生まれたと言えなくもない。

よくよく考えれば教義というのは「受け入れられない人」がいるからその存在価値もあるわけで、みんなが「そうだ」と信じていたら、今さら改めて説く必要もない。

キリスト教も仏教もいつまでもなくならないのは、その愛も慈悲も悟りもなかなか実現しないからに他ならない。

そういう世の中を「健全」に生きていくために、己の身体の感覚に問いかけながら一歩一歩あゆんでいこう、と野口整体は言っているように思う。

『整体入門』も『風邪の効用』も一般書の中に紛れ込んでいるのでうっかりすると見過ごしてしまいそうだが、その内容は教育、医療、宗教を分け隔てすることなく人間を全一的に導くための示唆に富んでおりその功徳は計り知れない。

折に触れて読むといつも偏りかけた自分の心の姿勢を正される気がする。これが本当の整体法なのだろう。

活元指導

活元指導教室の告知をしばらくブログで行なっていませんでしたので、こちらにご案内いたします。

現在は原則月の第二木曜日、第四土曜日に活元運動の指導を行っています(臨時変更有)。

本家サイトでは教室の日程を随時更新していますので、今後はそちらを中心にご確認ください。

参加につきましては、原則的にせい氣院の整体個人指導を継続的に受けられている方に限ります。

整体法に対する理解の浅い方、体験目的の方はご遠慮ください。

自分で自分の身体を管理し、健康保持とその生き方責任を持とうという意志のある方はその旨をお書きのうえご応募ください。

汗冷症

毎年のことだけど、そろそろクーラーで身体をこわす人が増えてくるだろう。

冷夏のようだったので例年と少し時期はずれるかも知れないが、まあ大筋の動きとしては大差ないはずだ。

しかし企業とか学校で「来月から冷房がつくので、必要な方は羽織るものをご用意ください」というアナウンスをよく聞くが妙な感じがしてしかたない。

そんなに寒くしなければいいじゃん、というのがごく自然のツッコミ衝動である。

身体感覚の問題だと思うが、夏はあついのが気持ちいいのだ。

近年は舗装道路とか排気ガスの問題とかも相まって酷暑が当然だから、多少なりとも人工的に冷やさなければなるまいが、だからといって何も寒くなるほど冷房を効かすこともないだろう。

「ものすごく熱い」から「すこし暑い」くらいまで下げればいい話ではないか。

ご存知の方も多いと思うが、野口整体の概念で「汗の内攻」という捉え方がある。

汗をかいて急に冷やすとそれで簡単に身体を毀す。

まず身体が重ダルくなる。頭痛や腹痛、下痢なども定番の症状だ。

こうなった場合どうすればいいか。

汗を冷やして引っ込めて毀したのだから、もう一度体温を上げてドカッと汗をかけばいい。

ただし風呂やサウナで温めても一度内攻した身体の汗は出にくい。できれば身体を思いっきり動かして中から体温を上げたい。

成人の方で身体を動かす習慣のない方は少々難しいかもしれないが、現代はフィットネス関連の施設がも充実しているし「その気になれば」どうにでもなるだろう。

汗の内攻に限らずだが、心身の調子を崩したときに治そう治そうとうにゃうにゃ試行錯誤しているよりも、「エイヤ!!」と身体を動かしてしまった方がさっさと調子が上がってくることは存外に多い。

総じて運動不足なのだ。

人間も動物であり、動物はみな動くように出来ている。

だから動かなければ病気になり、それを発奮材料に潜在体力を振作しようとするのである。

身体の不快症状には必ず全体性を保持しようとする合目的的な要因があり、結果としてある種の秩序に向かう動きがある。

その方向に向かって適量の刺戟を加えれば、心の鬱滞でも体の失調でもすらーっと流れていく。

汗の内攻に戻るが、赤ん坊や幼児などは要注意でクーラーや扇風機の使用を誤ると場合によっては肺炎のような重篤な状態になる。

保育施設や幼稚園でこの「汗」に関する知識をもっと共有できたらかなり重宝するだろう。しかし現状は病気と言えば早期発見と早期の薬物治療、予防接種が盛んに行なわれるばかりで、生きた人間の生理的な連絡性を掴まえようとする動きは一向に見えてこない。

汗を冷やすと具合が悪いということも「自分の感覚」から出発すれば存外カンタンに解るのだが、こういう主観主義は疑似科学からは排斥の的になりやすいのだ。だからまあ向こう100年位は致し方ないかもしれない。

何にせよ毎年のことなのでこちらは飽きてくる。どうにかならないものかと嫁に向かってぶつぶつ文句を言っていたら「どうにかしたいんなら洋ちゃんが言い続けるしかないんじゃないの?」と言われたためにこの記事を書くことになった。

数人しか読んでなさそうなサイトで汗冷症などと題してみたが「汗を急に冷やすと危ないよ」という概念が通説になることを願って唱え続けてみるか‥。

10月21日 愉気の会後記

去る10月21日(日)、愉気法講習会を行いました。

愉気とは狭義においては整体法の気の手当てです。こまかな技術以前に「愉気をする人になる」ことが先ずなによりも肝要です。そのための下準備を念入りに行いました。

はじめは脊髄行気からです。

背骨に気(もしくは息)を通すような心で、スースーと呼吸をします。

しばらくすると気持ちが落ち着いてきますので、すっかり落ち着いたところで活元運動に入っていきます。

しっかり一時間弱、時間をとって行いました。

しかしながらこれもまだ下準備です。大自然のリズムと自分の呼吸を合わせるために、頭をぽかんとさせて身体の動きの中に没頭していきます。

この日ご参加されたみなさんは、よく体が動いていらっしゃいました。

愉気をしよう、人に手を当てて癒そう、と考えるような方はそれだけ心が自然に近いのかもしれません。

そうして活元運動がおわったら今度は坐学です。

教材は野口先生の『健康生活の原理』から。下に一部を引用しておきます。

私は医学的な考えというもの、あるいは体の解剖学的構造というものについて、何も学ばない十代のころから、大勢の人に愉気をし、また活元運動を誘導して健康をたもつように指導してきました。痒いところを掻くと、痒みがなぜ止まるのかは判らなくても、掻くと痒みが止まるようなものだったのでしょう。そのための体の構造も知らなければ、何を食べたらよいか、そういうことも知らないのに、相手を健康に導き得たのです。

何を基準に導いたか。強いていえば、人間はどうしてい生きているのか、生きている力を潑溂とさせるにはどうしたらよいか、人間の勢いということ、気の集注分散の波、ただそれだけを見つめ、その勢いを使って、さらにかくれている勢いを誘い出す、それだけのことを目標にしておりました。…<中略>…だから私の知識は五十何年間、一つ処へ坐りこんで、来る人の体を丁寧に観察し、そのうちにある勢いと、その勢いのもたらす体の変化だけを一人一人、調べ考えてきただけなのです。(野口晴哉著『健康生活の原理』全生社 pp.8-9)

とこういう具合に、とにかく形以前の「勢い」を呼び覚ますのが整体法の根本です。そうして相手の裡なる勢いを揺さぶっていく媒体が「気」である、と考えたら良いと思います。

こういう原理を念頭に置いて、その上で技術に入っていくことが大切だと私は考えています。

さて前置きがうんと長くなりましたが、いよいよ実習です。

具体的なこと‥をいちいち書いていくとものすごく長い駄文がつづいてしまいそうなので、申し訳ないのですがここから抽象になります。あとはご参加されてからのお愉しみと、思ってください。

先ずは気の感応を視覚化するための稽古です。

それから相手の背骨に手をかざして、引き合うところを見つけます。

そのあとで実際に触れての愉気を行いました。

あとはご参加いただいた方から「こんな場合はどこに愉気をしたらよいか?」という質問がありましたので、それにお応えするような稽古を行いました。

個人的にはこういう手かざし、手当ての系統は「変な方向」に言ってしまわないことがとても大事だと思っています。

ひと言でいえば「謙虚さ」みたいなものを修めていくことが修行ではないでしょうか。

自然との調和をはかっていく時に、やっぱり「私は、こうだよ」というものがあると、何となくギクシャクしてしまいます。

だからとにかく呼吸を自然に、こころを自然に。でも「自然にしよう」なんて思うとかえって不自然になりますから、自然にするなんていう作為らしいものをすっかり忘れてしまうくらいにまで活元運動をやっていくことが「愉気をする人」になるための近道だと思います。

などと言いつつも「この人のために」という気持ちがあれば、それだけでやっぱり愉気にはなりますが‥。何であれ、こういうことを覚えておくことは良いことにはちがいありません。

また有志の方で集まってやって開催いたしましょう。

見るということ

この二週間ほど文字を見ることができなかった。活元運動を毎日やっていたら目が痛くてしょうがなくなってしまったのだ。

そしてメガネがかけられない。

どうもあやしいので近所の眼鏡屋さんで検査したら、近視の度数が軽減しているではないか。簡単にいえば目が良くなっていたのだ。

活元運動の効用かどうかはわからないけれども、気がついたときには「目の前にレンズがある」、「顔に金具が掛かっている」という不自然さがつらくなっていた。

目の疲労は背骨の上方と、肩甲骨の動きとの関係が深い。そして肩甲骨は骨盤の動きと対応している。

さらに骨盤は呼吸といっしょにわずかに開閉する。と、こんな風に身体各部の関連性と連動性を挙げていくときりがない。

だから人体上のどこに問題が起こってもその責任は全身にある。

近視も眼球だけの問題ではないのだ。

伝え聞いたところでは、野口先生の存命中は整体指導者たるものメガネなどはかけなかったそうである。

とはいっても航空機のパイロットみたいに、裸眼視力のよくない人は最初からはじかれてしまう、という話ではない。

近視や遠視の人はその視力のおよぶ範囲内で生活をおくっていたという。

だからぼやけた世界で一生懸命氣を集めてモノを視て、それで立派に仕事をしていたそうなのだ。

だから人に会ったら50cmくらいまで顔を近づけて、「ああ〇〇さんか、こんにちは」とかやっていたらしい。

壮絶っ、という気もするけれども自然界ならばそれは当たり前だったりする。

そういうことが「自然」なら、服を着るのはどうなんだ、靴を履くことは?自動車に乗ることは?と考えていくとメガネだけに固執するのも妙な気もするのだが‥。

しかしながら、「目」そして「視る」という行為は精神活動に直結する気がしている。

むかしから「目は心の窓」というし、江戸から明治を生きた剣禅書の達人、山岡鉄舟によれば、人間はいくら学問や知識そして財力があっても「目から光が出るようにならなきゃ偉くはなれない」そうである。

仏教の方では慈眼などという言葉もあるし、人間を語る上でやはり「目」は軽視できない。

なんだか取りとめない話になってきたけど、本気で身体の再構成を願うならメガネ、コンタクトレンズといった矯正機器を付けている人は一定期間はずしてみると効果的ではないかと思った。

強度近視の方などはむずかしい場合もあるかもしれないが、今回のことでメガネを外したぼやけた世界でもかなり生活できたことに我ながら驚いた。

主観的には今までの頭の「はたらき」とは何か違う感じがする。

些細なことかもしれないが、また一つ身体の自然について考えさせられるできごとだった。

それにしても活元運動は本当にいろいろなことを教えてくれる。生命神秘の体現法だ。