体得

体得という行為が世の中から失われつつある。

体得は体を通じて自認されるべき知識や技術であって、スポーツとか芸事、あるいは職業的な技能などは当然ながらこの体験によって会得するというプロセスが重んじられる。

しかし上に述べたような事柄以外、いまは大半のものが「調べる、分かる」ということでカタが付いてしまう。

学校の勉強、あるいは試験勉強などがその典型といえる。これはインターネットの普及と切っても切れない問題だろうけれども、この「調べる、分かる」というプロセスが体得に代わって現代の価値観を席巻してしまった。

非対面であらかじめ作られたプログラムを受動するeラーニングなどが現時点の最終形態といってもよさそうだが、ひとことで言えば「知る」という行為が過剰に幅を利かせてしまったのだ。

これはこれで便利な側面もあることは認めるけれども、体、体験というものが忘れ去られてしまったことの損失は前者の利点のみで補いきれるものではない。

私の立場からいうと教育と医療というこの二つの分野において、経験よりも情報の授受が先立っていることが気にかかる。

学校ではとにかく「覚えさせる」という、記憶に重点を置いた教育になってから、かれこれ一世紀が経とうとしている。

物事に直面した時に記憶に頼らなければならないのは当人の創造性の欠如に他ならない。

したがって子どものうちから記憶することを繰り返し訓練することは、既存の知識群のインプット・アウトプットに頼ることであり、創造性という観点から見れば頭を良くするどころか却って悪くする行為となりかねない。

その証拠に記憶することが達者な子どもほど難関大学を出て国家の中枢を動かしているものだから、現今の日本の行政は未曾有の出来事に直面したときの応用力や瞬発力というものが著しく乏しい。

医療にしても同様である。科学によって標準医療と言うものが一律に定められているために、今では現場の医師が個人的体験を基に主観を働かせる余地は異常に狭くなっている。

予め決められた判定基準に基づいて患者を診断し、診断の結果が出たら同様に定められた処置をする。これなら医療者が人間である必要はないではないかと思っていたら、個人的にもっとも危惧していたオンラインクリニックなるものまで出来上がってしまった。

未熟な主観に頼るのは勿論よくないが、客観的事実の集積によって総体を理解し得るという考え方は旧世代から引き継いだ悪癖である。

当面はまだ人間の介入が必要だろうが、早晩システムの管理職を除いて、現場から生きた人間の体温は徐々に失われていくことになるだろう。

なんというか「時代の流れ」というひとことでは受容しきれない異臭を日々嗅がされている気分である。

こういう世相なものだから自分のような者にも仕事があると言えばその通りなのだが、どうにもならない潮流の中でどうにかしようと足掻くことがライフワークとなりつつある。

体得から焦点がずれてしまったけれども、総じて体というものが忘れられたことによって、歳月をかけて「体で学ぶ」という文化は今後さらに希少的価値を帯びてくるだろう。

そこで何を体得するかは重要である。それが西洋発祥の随意筋を主体とした競技スポーツ、あるいはそれに付随する体操や運動ではないというのがもっぱらの自論である。

スポーツは体育としてなかなか優秀な面も合わせ持ってはいるのだが、いかんせん「競わせる」という意識が強すぎるために個人の運動能力を無視して肉体に過度なストレスがかかりやすい。

体育を目的としたスポーツをやりながら怪我や故障が頻発するというのはパラドックスなのだが、こうした矛盾が看過されたまま青少年の健全な育成にまで適用されているのは問題だろう。

弾力のある丈夫な体を育むためには随意と不随意、意識と無意識といった身心の陰陽を同量に刺激するものでなければ片手落ちである。

現代は学業でもスポーツでも常に競争にさらされ、子どもたちは意識過剰の環境の中で日々苦闘をしいられているのだ。だからこそ感情や意識以前の心と一体となって動く不随意筋群と錐体外路系を主とした体育こそがいま暗に求められているのだ。

その具体的方法としてさしあたり活元運動と禅はどんな人にも一様に勧められる優れた方法なのである。

ここに至って、無意識的思考、無意識的動作の訓練に重きを置いて来た日本文化の奇特さを再考することが、近代文明の今後を考える上で大きな意味を持つ。

「意識が閊えたら意識を閉じて無意識に聞けばいい」といった野口晴哉の言葉は時代や地域性を超えた普遍性を有しているのだ。

いのちの力を解放する鍵は体なのである。体を畏れ、体を敬い、幽かな慎みをもって今日を生きてきた旧来の日本的霊性を一日も早く取り戻し、その上にもう一度近代文明を据えることができたらそれが私にとっての丘の上の町であり、一つの理想郷だとも考えている。そこに至る道はやはり体得より他にないであろう。

胎教

前項の『いのちの輝き』の中でも胎教の重要性を説いているが、野口整体でも一生を通じて健全な人間を育てるという観点から胎教を重視している点は通底する。

医術ということを突き詰めていくと、必ず途中で教育の問題に突き当たる。病気でも怪我でも「どうしてこうなったのか?」「こうならないためにはどうすればよかったか?」とずっと辿っていくと、原因は過去にあるために「そもそもそこに至った生活から正すべし」ということになっていくのだ。

更にその生活スタイルに至った原因を追究していくと、幼児期に浸っていた社会、そして胎教に至るのは当然の成り行きと言えるだろう。

例えばうちの子でいえばもう8才なので、胎教のことをいくら思ってもとうに手が付けられない域に達している。同じ8才の子どもたちを見てみると、本当にそれぞれ個性豊かで人格形成の土台はほぼ完成しているという印象を持つ。

以前の私は母胎の中で体と心の発育の5、6割が済んでいると思っていたのだが、どうやらそれは誤りで、本当は9割以上がすでにでき上がってしまっているのではないかと考えを改めた。

たとえば人間の生活スタイルに朝型とか夜型という表現があるけれども、これは出生の時刻に起因しているのだという。明け方に生まれた子は概して朝型になりやすく、夜半に生まれた子は夜型になるという統計結果が前掲書の中に記されていた。

井深大の著作にある『幼稚園では遅すぎる』という主張も、この線でいえば育児を意識するのは生まれてからでは遅い、ということになる。

昔の日本には「お腹の子に障る」などという表現があったように、母胎内の生活が生まれてくる子の性格や体質にどれだけ強い影響を与えるか、ということが広く一般に共有されていたのである。

しかしながら現代のようにもろもろの事情で共働きが当たり前となっている状況にあっては、いくら胎教を叫んでも深い共感を得ることは難しいかもしれない。

もちろん妊娠期に多少の配慮を持って生活をする人はいるだろうが、かといって「いかに生活すればいいか」とい具体的な問題となると、整体法を正しく修めないことには的確な効果をあげることは難しいのではなかろうか。

すこし論点からはずれるかもしれないが、現代教育はとかく知育に偏り過ぎている。知育に加えて、徳育、体育が教育の三要素として掲げられているけれども、これらをばらばらにして、それぞれ別々の方法で育もうという考え方で果たして奏功するだろうか。

利発で、情があり、逞しい子に育てるための急所の時期を考えるなら、一粒の生殖細胞が数億倍に成長する受胎直後の数週間を軽視する訳にはいかない。これは体感的なもので現代人の好きな科学的根拠の確立を待っていたら実証は難しいだろう。

しかし現実に目を向ければ現代社会を生きる人々の心身の問題は山積みで、根拠以前の直感を頼りとし、速やかに胎教の実践を奨めたい。妊娠が分かった時点で仕事をしているなら早期に休暇を取り、家庭内においては妊婦に不当なストレスを掛けないように皆が協力し合うべきである。

社会制度の改正も結構だが社会の最小単位は個人に帰するのだから、社会の改革は個人を十全に育てることから考えねばならないのが道理だろう。

胎教に関してもう一つ知的な方からアプローチするなら前掲書に加えてトマス・バーニーの『胎児は見ている』を読むとその重要性をより深く認識できると思う。

環境問題が叫ばれて久しいけれども、自然を守ろうと思うならまず人間の内なる自然を護り心身の環境破壊をなくすことが重要ではなかろうか。

意識を閉じて無意識に聞く、裡なる要求を感じ生活する、こういうことは人間の自然を守り外界をも治めることに繋がっていく。教育も自然保護も百の論より足下の実践に尽きる。胎教を重んじ良い出産を迎えることはその第一歩であると思う。

迎春

昔の思い出になるが私の実家に父が彫った寅年用の木版画があった。おそらく48年前のものだろう。

細密な虎の画のわきに「迎春」と彫られていたのが記憶に鮮明である。この寒いのに、花も付かないのに、どうして春なのか、とうのが子ども心に疑問だったのだ。

それから幾ばくかの歳月が過ぎた。すると迎春とか新春、あるいは頌春などと、年が切り替わる一月一日に春を見出した昔人の感性に親しみと敬意を覚えるようになってきた。

自然との共生が要であった往時の人々は、田んぼの水引きでも収穫でも、気候や天気と一体になって動かなければならなかったのだ。

自然から切り離された近代的な自我で、「我がまま」に生きるということは許されない。具体的事情をいえば我を通せばそれだけ生存率が下がるのである。

そして自然と共生するためには、先に起こることが予感、直感されなければならない。オーケストラの指揮者のように、演奏者の次なる調子を引き出すためには先を知っていたうえで半歩リードするという技術がいる。遅ければ無論だめだし、早過ぎても意味がない。

翌年の夏が冷夏になると予見して、米ではなくヒエを植えて難を逃れた二宮尊徳の話は有名である。

だから夜が明ければ朝になることは当然としても、その時に雨が降っているのか風が吹くのか、また月が出ているのかわからなければならない。

そして冬が明ければ当然春である。今日が寒いからと言って今日に適応するだけの動きでは次の波に間に合わない。考えて動くものは一つ遅れる。そしてその間に生命の機は去っていくのだ。

ここで「なるほど、昔の人はそれだけ優れていたのだ」といってしまうと、現代人としての学びも創造性もなくなってしまう。

実際的には現代を生きる我々の中にも「先を知る力」は常に働いているのだ。わかりやすい例をあげれば、受胎した人の体は10ヶ月後に何が起こるかを知っている。

たとえ当人がそのことを無自覚であったとしても、また解剖学など何も知らなくても、乳房は将来の赤ん坊のために発達し、腰椎や骨盤も来るべき出産に備えて日々なだらかに可動性が増していく。

また自分の体内だけでなく、外界との感応、外気や気候のようなものとの相関性もある。

例えば日本なら夏末にはもう筋骨が引き締まり、寒さに備え始めているし、そうかと思えば初夏を前にもう皮膚はゆるんでくる。つまりは地球の自転や公転、すなわち太陽系の動きと一つのリズムになって動いている自分というものが最初からあるのだ。

無意識の、こうした絶え間ない働きによって、平素から我々の無事は保たれているのである。

この無意識と親しむ時間が、現代を生きる我々からだいぶ縁遠くなってきている。文学的にはアダムがリンゴをかじった瞬間に「意識」という分別心が生じ、自分が世界から孤立したことになっている。

だからその「自分以外」のものの象徴として神様とか阿弥陀様とかいろいろな名前をつけて、もう一度親しみを取り戻そうとする動きが宗教の行為の中には沢山にある。

しかし意識化されたらそれはもう無意識ではない。多くの人はそれを神様とか仏様とか言っているけれども、客観的に示した人はやはりいない。いのちの真相は私から最も遠くて近い存在なのだ。

この無意識に最も近い認識作用が「感覚」なのである。

最初に感覚されるものがあって、のちに意識の窓を通り理性の検閲を受け、ようやく行動化されるというのが人間の特徴である。

この「感覚する(させられている)」という、生きるうえで重要な工程がだんだんと思考や文字の世界に圧迫され、一路萎縮の道をたどっているのが近代人の特徴といってよいだろう。簡単に言うと生の感覚が鈍っているのである。これによってどうなるかというと、思考が現実から遊離するのだ。「机上の空論」などという言葉は、思考の産物である科学の陥穽を簡潔に言い得た言葉である。

生活に則したところで考えると、天気予報や災害警報のインフラ拡充はこうした鈍麻に拍車をかける要因の一つではないか。いや鈍っているからこそ、そこに需要と供給が生じたのかもしれないし、これは鶏と卵の理論でどちらが先かはわからない。うるさいことをいえば、折りたたみ傘などというのも雨の予知ができなくなった人間には重宝な装備である。

実際、一度ふいの雨に打たれた経験のある人がいつでも傘を持って歩くことがある。羹に懲りてなますを吹くという言葉の通り、頭が記憶に占拠されて、今の現実認識がくもるのである。

その点で感覚という作用は原始的な生き物の方がむき出しに近い。我々は遠い海の海溝で起こった噴火をずいぶん後のなってから他人の作ったニュースで知る訳だが、海亀ならば津波のある年には海浜からずっと上がったところに卵を産むという。また樹木なども干ばつの起こる年はあらかじめ幹の中に水分を余分に蓄えている、という話も聞いたことがある。原始生命に近い両生類のカメや木々にはあたりまえの所作でも、大脳の発達した人間にはなかなか難しい芸当である。

東日本大震災の折には荒れる海をスマホで撮影していた子供がそのまま津波に吞まれてしまったという報道があった。

高度に発達した近代文明の象徴とも言える小型化されたコンピューターを握って水没する人間の姿に、私は人類の末期的症状を見ることを禁じ得ない。それが本来敏感であるはずの子どもであったという事実も傷ましい。

人間の子どもは一人でに大きくなるということはない訳で、高度な感受性を具えて生まれて来る子どもを鈍麻させる環境にこそ本当の災いがある、と思う。一方でその環境を配備した大人は大人の知恵で難を免れているというのだから、古きものが生き残り新しきが死んでいくという構図に、私は種としての未来を感じないのである。

年明け早々暗い話に傾いてきたが、ここからようやく整体愛好者の我田引水がはじまる。

こうして鈍りの一途をたどろうとする人間の生の感覚に活を入れ、再生せよというのが整体法の主張なのである。

無意識、そして錐体外路系のはたらきというのは宇宙の運行と機を一つにするものである。たとえ人間という種が姿を消しても、この世界から平衡運動が消滅することはない。つまり易経の天行健である。

どんなに鈍った鈍ったといっても、体温が10度以下で動いている人もいなければ、43度という熱を出す人もいない(もはや「人工的」には起こりうるかもしれないが)。アナログ体温計のメモリが42度までしないということがこの生命の秩序を黙して語る。

そして一分間の呼吸が18ならば、脈は72である。この一息四脈というリズムは整った体を象徴する数値であり、速くとも遅くとも、この比率からズレると元へ帰ろうとする動きが即座に起こる。熱や発疹などはこの平衡作用の代表的なものの一つである。

だから問題の核心は、この働いている秩序を害悪とみなして矯正または排除に奔走するのか、逆に善なるはたらきとみなして共感と活用へ向かうのかという分岐にある。

換言すると、病症のはたらきを生命を傷つけ死に至らしめる破壊作用としか認めないのか、あるいは破壊の中にある再建という生命の適応作用を観るのかという違いである。

後者であれば自らの病症経過の苦痛の中にも、自然整体作用の快感を見出すことも不可能ではない。

しかし現実は、病気は悪であり無病が善であるという二元論、そして病気の原因をウィルスや菌という外因にしか認ようとしない特定病因説が大勢を占めている。この事実からも近代科学のもたらした偏狭な視点がグローバル化の波と一体となって地球を席巻していることは明らかである。

その要因の一つが現代人の近視眼的視野狭窄があり、そのまた奥の要因として息の浅さ、そして不整体があるというのが整体愛好者による我田引水的視野狭窄である。

繰り返すが天行は健である。天地自然、この世界の全ての運行は最初から健やかさを失わない。この健の見えざるは近代自我の過剰亢進と似非科学の盲信によるものである。

人間の世の中が如何に変わっても、自分を離れていのちは存在しない。だから私は活元運動を通していのちの真相を自覚する人を、今年も一人でも多く増やしたい。それこそが人間の進歩だと考えているからだ。

ここに至って「たとえ、百年かかっても、二百年かかってもよい。一人一人が、整体の考えを実現するよう行動してゆけばよい」という野口晴哉が生前発した言葉に、自らが宇宙の息と一つになって全うした生の荘厳さと息の深さ、そこから生じる視野の遠大さを感じるのである。

真理というものは、世の中が乱れれば乱れるほど、対比の構造によって一層明瞭になっていく。だとすれば、今ほど整体の価値が光る時代もないだろう。晴哉の見い出したいのちの世界に理解と共感を覚える人を増やしながら、着実に歩を進めていきたいと意を新たにする次第である。

教室のお知らせ

2022年1月 の教室を下記の日程で行います。

13日(木)10:00-12:00 活元指導
13日(木)13:00-16:00 愉気の会
29日(土)10:00-12:00 活元指導
29日(土)13:00-16:00 愉気の会

参加希望者は前々日までにお申し出ください。

今月の教室

12月の教室は下記の通りです。

9日(木)活元 10:00-12:00
9日(木)愉気 13:00-16:00
10日(金)座学 10:00-12:00
25日(土)活元 10:00-12:00
25日(土)愉気 13:00-16:00
26日(日)座学 10:00-12:00

参加希望者は前々日までにお申し込みください。

11月の活元会

11月活元指導の日程は下記の通りです。

2021年11月
4日(木)14:00-16:00
13日(土)14:00-16:00
18日(木)10:00-12:00
27日(土)10:00-12:00

参加希望者は各開催日の前々日までにお申し込みください。

AI

知らぬ間に横浜駅の地下街にAIの案内設備が置かれていた。「aiさくらさん」で検索すると詳細が出てくる。

道を聞く用があったのでタッチパネルに触れながら口頭で質問をしたら、流暢な、しっかりした日本語で目的地まで案内してくれた。こちらもつられて「ありがとうございました」というと「お役に立てたようでうれしいです」との返事。(ついにここまで来たか…)と隔世の感を禁じ得ない。

メイン通路を少し奥に歩いていくと、そちらで人間の案内係を見つけてほっとした。でも、もしまた同じシチュエーションになった場合にどちらを利用するかと考えたらAIの方を利用するだろう。

何故かというと利用する際のストレスがほとんどゼロに近い。声をかける際に「相手を慮る」という人間関係の重要な要素が全くないのである。

やはりAIとは違って人間の心は複雑だ。アドラーやユングによって有名になった「コンプレックス」という言葉も、元は「複雑である」という意味である。

平素我々は、表面的には理性的なやり取りをしているけれども、その下には常に潜在観念がうごめいている。

そのせいで人間は突如として怒り出したり、会ったばかりなのに好きになったり嫌いになったりしている。

しかし「急に、○○したので驚いた」などと言うのは普段我々が表面の心しか見えないからで、当人の心の中にはちゃんと合理的な理由があるのだ。

にもかかわらず、潜在意識下のことは他人はもちろん、本人にも全くと言っていいほどわからない。

こうした心の複雑性のために心理学の理論や学派は枝分かれして増える一方だし、それぞれの学派も深化と分化を繰り返してその研究には終わりがないのである。

だから心理学のプロほど「人間の心がいかにわからないか」ということを骨身に沁みてわかっているし、経験を積むほどに慎重になっていくのだ。

人間関係の醍醐味も心の奥深さや複雑さにあると言っていいけれども、こういう複雑性は「道を聞く」というような場合はあまり必要ではない。

そのせいか従来からエレベーターガールとか案内嬢といった職業にある方は人格や個性をなるだけ出さないように要求されてきたし、これを突き詰めれば早晩ロボットに行き着くのも当然かもしれない。

便利だなと思う反面さみしさを覚えるのは自分が旧世代の人間だからだろうか。

ここからはほとんど妄想だけれども、AIに案内された道を歩きながら「そのうち医者とか教員もAIに置き換わるのではないか」などと考えていた。

今回のようなコロナ騒動の場合は別として、風邪のような症状の場合はタッチパネルを前に話して、熱や脈などが遠隔で測定される。

そしてAIの医者が流暢な話し方で診断して、出された処方箋をもって薬局に行く。そこで3日分とか1週間分の薬をセルフで受け取って帰るのだ。

いわば病院の簡易版とドラッグストアの進化版が融合したような状態である。

学校も小学校の高学年、中学、高校と年次が上がるほどに単なる知識の切り売りの割合が増えていく。

だから生徒一人ひとりに「学校AI」を渡しておけば、教師の性別や性格、見た目などを生徒がカスタマイズして、あとは当人の好きな時間に勝手に勉強すればいい。

個性的で魅力のある先生との出会いのチャンスは失われるが、多感な時期の子どもが人格に偏りや歪みをもった教師に翻弄される害はなくなる。

完全に実現はないとしても、方向的にはこれに当たらずと言えども遠からずという向きに流れていくのではないだろうか。

そこへ行くと整体は人と人との接触によって結ばれる対人関係の技術である。そのためにAIと置き換わる公算は低いし、そうなってはならない。

しかしこのまま人間の力が落ちてくれば整体すらも「AIの方がまし」ということになりかねない。整体操法の真意が失われ、型だけが残った伝統芸能みたいになったらおしまいだろう。

そもそも整体法の知名度や普及率の低さを思えばそんなことはあり得ないのだが。

整体指導者は時代がどう変わっても社会の価値観に左右されることなく、そこに生きる人間の要求にピタリと応えられるようでなければならない。

真の贅沢とはこういうものだと私は考えている。人がそれを求めたときに確かなものを提供できるように、整体操法を途切れさせたくはないなとは思っている。

などなど妄想している間にAIのおかげで目的地には無事に着いた。心がないとこうもスムーズなものかと妙な所で感心もした。しかしもはやAIには心がないといいきれるだろうか、そもそも心の定義とは何か、とか、その後もしばらく暇人の思案は続いた。

死の恐怖

コロナ禍の様子を外から眺めていて、何故ここまで衛生法や薬に頼ろうとするのかなかなか理解できなかった。

それをあるきっかけで「どうしてこんなにも病気を怖がるのか」と視点を変えると、少し見える景色が変わってきた。

「病気になったら早く治したい」「治す薬が欲しい」「完璧に予防したい」と渇望する心の背景には無意識の死の恐怖がある、ということだった。

あたかも自分で気づいたように書いていながら、実は野口先生の古い講義録を読んでいたらそのまま書いてあっただけなんだけども…。

そう考えると、去年あった店頭でマスクの奪い合いででケンカになったという海外のニュースも肯ける。「単純にマスクをよこせ!コノヤロー」という話ではなくて、潜在意識化にある死に対する怖さ、というのが意識を操った結果のできごとである。

だから「今回のワクチンは胡散臭い」、「いまいち信用できないので打たない」と言っている人の中にも二種類あって、「人間は生きるだけ生きて死ぬときに死ぬんだ」と達観している人もいるだろうし、「ワクチンは嫌だけど、とはいえ病気は怖いし」とマスクと手洗いでせっせと衛生に努めている人もいるのだろう。

つまるところ病気を完全に克服するには無意識にある死の恐怖を克服するしかないし、それには「生きている」ということの実体を自分で明らかにするより他はないのである。

生老病死を克服する真理は釈迦が2500年前に見つけたものとちっとも変わらない。これは洋の東西などを飛び越えた、生きること死ぬことを貫く真理である。

例えば「アブラハムが生まれる前から私は在った」というキリストの言葉は、そのまま「父母未生以前、自分はどこに在ったか」という禅の公案の答えになっている。

「救済」とか「悟り」とか言われるものの根本は一つなのだ。

そして、どうやら昔の日本人にとっては禅は一つの嗜みだったようである。

ただしこれは生活しているうちに「はっ」と気づくようなもので、親から子へ、または先生から生徒へ「教える」ということはちょっと難しい。

よしんば気づかなかったとしても特にどうということもないので、知ってもいいし知らなくてもいい。人格的にまあまあ育って何か職業につければそれなりにやってはいける。

そうこうしている間に西洋化の潮流の中で禅文化の風土は雲散霧消していったのかもしれない。

そうすると当然心の不安、生死にまつわる漠とした恐怖をぬぐえなくなってくるので、そのポッカリと空いた心の隙間にさっと入り込んだのがペニシリンやストマイをはじめとする科学的医療手段の数々だったのではないだろうか。

だから現代の医薬信仰は中世の人が十字架を握りしめたり、神棚とか仏壇に手を合わせているようなもので、これをふいに奪われると心の安定を失ってしまう。

柱に寄りかかって立っている間はどうしても柱に執着せざるを得ない。

そういう心理構造の背景に「漠とした死の恐怖」がある、と考えるとようやく自分なりに納得ができたのだ。

自分の場合は整体法を知った時から病気の見方がコロッと変わってしまったし(これは野口整体の潜在意識教育のため)、お世話になっていた整体の先生が「野口整体は禅文化だ」と言い始めてからちょくちょく参禅をしてある時期からポコッと禅に対する疑念が途切れて湧かなくなってしまった。

今からすれば「ああ、なんだ…」という程度のものだけれども、これがあるかないかで世の中の見え方がこうも違うものかなと思う。

一般に力のある宗教家というのはそばにいる人たちから漠とした死の恐怖を忘れさせてしまう。それはある面では結構なのだけれども、下手をすると主がいなくなったとたんその集団は総崩れみたいになってしまう。

親鸞でもその死後はすぐに法が乱れてしまったというし、病気や死の克服はやっぱり自分でするより他ない。

いのちの真相は常に自分の中にある。

自分の中といっても中のものは目の前に展開しているので、ちゃんと眼さえ開ければ一瞬で解決する。

人間ははじめから生死を飛び越えて躍動しているのだ。これに気づいた瞬間、無垢な自分がゴロッとそこにそのまま出てくる。そして禍も福も、病気も老いもみんな消えてしまう。

万病に効く薬、これより他になし。

10月の活元会

下記の日程で活元会を実施します。

2021年
10/14(木)10:00-12:00
10/23(土)14:00-16:00
10/31(日)10:00-12:00

今月は第4週(土)が午後の時間となっていますお気を付けください。

また第5週は日曜日に行います。普段はご参加いただけない方もご検討ください。

乳歯

小1(6才)の子どもの上の前歯がかなりぐらぐらしている。かれこれひと月くらいはそうしていて、これがまたなかなかとれない。

早い子なら年中さん(4~5才)から抜け替わっているんだけど、うち子どもの発育は他と比較するとだいぶゆるやかである。

実はこれはある程度画策してやっていることで、たまたまそうなったわけではない。

整体法では早く育つこと、いわゆる早熟を警戒する。

「早く育って何が悪いか」という反論もあるかもしれないが、この場合何をもって良しとするかは個人の主観に委ねられる話で絶対的な是非善悪はないと思っている。

子どもをどう育てたいか、どうしたいか、というのは親の価値観に拠るもので、生物の適応力を活用すれば、早く「人間」にしようとすればできない話でない。

ハイハイしてれば早く立たせようとする、アーアーといっていれば早く話せるようにする、字も早く訓練して覚えさせて、足し算引き算でもやらせようと思えば幼稚園からできるのだから。

しかし整体法においては急づくりになるよりも、着実に、適切な期間を要して成熟していくことをよしとする。

乳歯に関して言えば、乳児期に十分栄養が満ちていればそれほど早く生えてくる必要がない。咀嚼の必要がないからである。

そのために生後2、3ヶ月くらいから赤ん坊の要求に応じて離乳食を施す。柔らかくて、体に適した、栄養に満ちたものをあたえていれば自然、そうなっていくのだ。

乳歯がおそければ、当然永久歯もおそい。「おそい」いうのも比較によって生じる表現なので、より正確に言えば「その子」の「その時」に生えてくるわけだが。

「なんだそんなことが整体なのか」と思う人は無論こんな面倒なことはやらなくていい。

しかし人間の人間たるゆえんは知恵を働かせて上質な文明を形成し、他の動植物よりも緩やかに育つ点にある。

馬とか鹿なら生まれたと同時に立とうとし、その日のうちに走れるようにならなければ生存できない。

その点人間は違う。周囲の大人たちからさまざまな保護を受けて高い生存率を保有しているために、生後1年以上も安心して寝ていられるのである。

そうしてこの期間に充分要求を満たされ、保護され安心して育った子どもには独特の雰囲気がある。外界に対する漠とした不安や恐れが感じられない。

根拠のない自信、とか余裕と呼ばれるものもここから生じるのではないだろうか。

具体的に言えば「人見知り」ということが生じにくい。そして初めての場に行ってもさっと不安なく相手の中に入っていける。

だから核心となるのはそういった点で、歯の生える時期というのは副次的についてくる現象と思った方がいいのかもしれない。

そうやって出てきた歯がどの程度丈夫なのか、という点はもう少しを観察を要するけれども、現時点で虫歯その他のトラブルはない。その点順当にきているといえそうだ。

真に見るべきは発育の遅速ではなく、常に相手の要求から出発するという生命主体の世界を築こうという心の態度にある。

こういった着眼は他の育児書ではあまり見かけたことはないので、これも整体独自の知恵の一つなのかなと思う。