最近毎日道着にアイロンをかけるのが楽しいです。

身に付けるものが整ってると、付随して気が整ってくる。当然仕事の出来にも影響する。

世界にはあまた宗教があるけどまともな宗教で掃除をしないところはない。

整理・整頓・清潔・清掃は人間の基本なのかも。

今日尖閣諸島や竹島などについてどう思いますか?と聞かれた。

ウチにはテレビがないのでそんな問題が今ホットだとは知らなかった。

日本は幸いにして露骨な言論統制はないけど、国民一人ひとりの生き方を緩慢に支配されていることはあまり意識しない。

今までは許されなかったような報道も他所の大きな国との国益の関連で、あっさり様変わりするのだからある意味キケンなのだ。

自分の目と耳だけは研ぎ澄ましておかないと、何も知らずに目隠しをはずしたら崖っぷちに立たされてましたなんてことになりかねない。

人間にとって(真の)学問とは情報の堆積ではなく、決断・実行の足場となるような精神力につながるものでなければならない。

今は情報社会、情報の氾濫なんていうけど、一体その情報とは何かと問いたい。

情報とは・・・「文字・数字などの記号やシンボルの媒体によって伝達され、受け手において、状況に対する知識をもたらしたり、適切な判断を助けたりするもののこと。」(ウィキペディアから)です。

今の世の中、浅薄な言論が飛び交ってるだけで、その濁流から蒸留してろ過したらほとんと「情報」なんて残らないんじゃなかろうか・・。

本屋に言ってもカルチャー誌は食べ物・着るもの・車・旅行・セックスと美容のことしか書かない。そんな雑誌が何年も平気で刊行されているのだからニーズも固定されてあるのだろう。売る方も売る方だが買う方も買う方なのだ。

身体性の劣化が、民度を低くし、日本をみずから蔑んできた。

今さらながら、これは戦後70年の動向、流れなのだ。

そんな風潮を目前にしながら、「まぁ、私と私の子供が生きてるウチは大丈夫」なんて自分のことしか考えられないような近視眼的人間が溢れているのだから、この国はもう少しだけ痛い目見る必要があるのかもしれない。

原発問題にしてもしかりで、隠蔽、先送り、責任逃れという体質は戦前から少しも変わらない。それどころかむしとひどくなったような気がする。

ただ、見方を変えると、そんな迷妄の時代だからこそ、真っ直ぐ生ることにも意味があるのかもしれない。

道を求めて生きたい。腰から日本を建直すんじゃ。

人間は堕落するとどこまでもだらしない生き物だが、人間ほど崇高な向上心や信仰心をもった動物もいない。

悪に強いものは善にも強い。可能性はプラスにもマイナスにも転ずる。

「世間」も「世界」も「世の中」も、一生変わらないのだ。

自分がどう生きるか。人の一生はその一点に尽きる。

そして日本はまだまだ元気だし、いい国だ。感謝と畏敬の念をこめてそう思う。

「がんばろう日本」ではだめ。

日本がどうであろうと、人がどうであろうと、俺はやる。

みんなそうなればいいんだな。

そして、俺はやる。

人生はいつだって、「自分」が、「やるか」、「やらないか」。

それだけ。