子ども(6才)の右手の甲にいぼができた。だいたい高さが2mm弱、直径は3mmくらい。
いつからあったのかちゃんとは思い出せないけれども、小学校に上がってしばらくたった頃にはできていたと思う。
医学的にはいぼはウィルス感染でなるらしいが、どうも見ていると捻じれ型(8種)の若い身体にできやすい。
わたしも10代のころはよくいぼができていたし、妻もかつてはあったそうだ。二人とも押しも押されぬ捻じれである。
ちなみにヨクイニンというハト麦から作る漢方薬を飲むといぼは2~3週間でとれる。
さてこのいぼだが、子どもは全く気にする様子もない。
親も気にせず放っておいたら、先日血を吹いて剥がれかけたので子どもがそれを見て泣いてしまった。プラプラしているのを爪切りで切ったらもうそれっきりなくなってしまったのだ。
医学書によるといぼのウィルスに免疫ができると、枯れたようになって取れてしまうらしい。
なんで今かなあと思うと、思い当たるのは夏休みだ。毎日学童に行って遊んで帰って、ゲームをやって、日々楽しく過ごしているみたいだ。
子どもは大人よりもずっと、感情と体が直結してるのだ。
面白くて楽しければそれが何よりの治療である。
現代医療は人間を物質の方から研究するので病巣は物理的に切除するか、薬を与えて科学的に変質させようとする。
しかし外から体をこねていじって形を変えたからといって、病気を作った運動系の癖や心理的な傾向がそのままであれば当然再発を繰り返す。
治療ということを本当に行おうとしたら、人間の中身を切り替えるということが要求されるのだ。
まあ今回は狙ってそうしたわけではないけれども、「何もしないで」いたら自然とそうなった。
もしいぼを人為的にいじったとしたらそれでも取れたかもしれない。けれどもはたしてそれを「治った」とか「治した」といっていいのだろうか。疑問が残る。
身体がひとりでに動いて治ったものだけを「治った」というべきで、それ以外はただ観測者の目を誤魔化しているにすぎない、と私は思うのだ。
ずいぶんとこまかい話のようだが、整体を身に修めるものとしてこれは重要な視点である。
自ら治る健全な身体を育むか、偏った身体を放置したまま外から治す方法を考えるか。
後者は泥棒を捕まえてから縄をなうようなもので、勘のいい人なら前者を選ぶ。
しかしまあ現実に整体はマイノリティなのだから、まずは勘のよく働く人間に育つような教育が必要なのだろう。
ところが今度はそういう教育の要求が起こらないことには指導者も教えることができない。だから結局は少数に留まる。これが世にいう狭き門なのかなと思う。