科学的であるために

あるプロ野球選手がワクチンを打った後に様態が急変、後に亡くなったというニュースを目にした。目にした、というか妻から聞いたのだが。

亡くなる前に一度様態急変のところで話は聞いていたけど、内心「どうなるのかなあ」と思いつつ後は忘れていた。

公式発表では「ワクチンとの因果関係は不明」とある。さすがに今回は「それでもワクチンは打ちましょう」という医大教授の追記はどこを探しても見当たらない。確かな根拠があるなら何があろうと載せればいいのに。

今回のワクチンについては随分いろんなことが言われているけれども、実際私の周辺の人たちはというとほとんどが「打つ派」だ。

私はワクチンの是非を言える立場ではないのだが、本件に関しては不確定要素が多い、という印象だけはつよく持っている。そもそも何とかワクチンといった場合に、それがどういう根拠で効能があるのか、調べてから受ける人は皆無に等しい。科学信仰の強固さが垣間見える。

そもそもがガラス管やネズミの体内で試した結果を人間に適用する、という従来の構図に私は信を置いていない。科学を神様よりも深く信奉している現代人の多くがなぜこれを受け入れられるのか、平素から不思議に思っているのだ。

生命は複雑だ。ある刺激を与えたら、そののちどのような反応をするか、予測することは極めてむずかしい。予測がつくのは限定された部位や時間に限ったことで、視野を巨視的に広げればそれだけ不確定さはさらに増していく。

「ここまではわかっている」「ここから先は未知である」「さて、今回あなたはどちらを選ぶか」といったら、これこそが科学的であり民主主義である。供給する側がこうした公正かつ客観的な態度を具えていれば、こちらもその合理性に賛意を惜しむ理由はない。

実験室から出てきたものだから妙な物のはずがないと科学を妄信したらそれはすでに似非科学であり、前近代的迷信である。

現代は科学的論理に支配されているのだから、科学に関する洞察と理解を怠ると自ら命を危険にさらすことにもなりかねない。本当に科学的であるためには、常に自分の眼を開いて自分の責任で事実の追求を行う態度を忘れてはならないのである。