自己破壊の要求

人間にはしばしば自分をこわしたくなるときがある。

いわゆる「自傷行為」と言われるような直接的な破壊もそうだが、「食べ過ぎ」なども広い視野で見ればやはり自分をこわす動きといえる。

何のためにこわすのかといえば、丈夫にするためだ。

既にこわれかかっているものを、いつまでもこわしきらないで丁重に扱っているうちは治癒力が十分はたらかないのである。

いろいろな人とお会いして話を伺っていると、「食べ過ぎ」を気にする人は多い。そういう方にこの話をすると安心されるようである。そして不思議と食欲は安定してしまう。

一方で、一定の周期で断食をやりたくなる人もいる。

見ているとエネルギーが余ると過食になり、欠乏すると断食に走る傾向がつよい。

生きた身体には必ず「偏り」が存在するのだが、これらをみんなその偏った方向へちょっと押してやると元に戻る力が煥発するのだ。だからみんな無意識にそういう力を使っているのだろう。

いわば自然界に遍満する「破壊と創造」の連鎖である。これがつつがなく繰り返されていれば「健康」とみなしてよい。

それをかばい過ぎればかえって弱くなり、粗末にあつかえばやがて氣が荒れてくる。

無理にこわすことはないし、必要以上に破壊を怖れることもない。ただ〈いのち〉の要求に従がうことだけが、その生命を輝かす。

「自分を大事にする」ということはその身体に適うように小さな無理を重ね、常に身心の刷新を心掛けることだ。

自然生命に対する信頼を養うことだけが、真の養生へ通じる道である。