毎日人にお会いしていてしみじみ思うのは、「抑うつ」的な要素を心に持たない人はいないということだ。
巷では一時期「鬱」の問題をどうするかという情報をよく目にしたけれども、最近は鬱よりも「発達障害」の方が話題に上ることが多い。
おかしなものだが心理療法、精神療法の世界にもブームがあるようで、社会情勢に従がって人々が陥りやすい心身の病には傾向がある。
まあ何にせよ、身体的な疾患を取り扱ううえで「抑うつ的気分」というのは必ず付いてまわる。
具体的に言うと、病気が治っていく過程で気分が落ちる人がいる。
心で抱えきれない苦しさを身体が請け負って疾病が生じるケースがあるためで、それが回復に向かうときに本来請け負うべき心の方へとその苦しさが帰っていったのだ。
つらいといえばつらいのだけれども、これが一つの治癒のプロセスなのだ。
逆に心で苦しまねばならないときに、何にも感じないでケロッとしているとしたら、そういうことから心身症に移行しやすい。
「自我の防衛機制」といわれる心理的なストレスから逃れる方法の一つに「分離」というのがあるけれども、それは感情鈍麻とか失感情症(アレキシサイミア)という症状と重なる部分がある。
これらは自分の身の上に起きていることを他人事のように「冷静に」捉えているので一見して問題を感じさせないのが特徴である。しかし身体には弾力が無くなっており、心理的には喜怒哀楽といった全ての感情に起伏が感じられなくなっている。
つまり「鬱」という状態からも無縁のものだが、生活していて歓びとか楽しみといった感情も起こらない。
せい氣院では割りにこういった方々を対象とすることがあるけれども、何回かお会いしているうちに鬱的になっていくことがある。
抑うつ症状があらわれたあたりでふっと来られなくなる方もいるので、そういうときは力不足を感じるけれども、ある面ではその人なりの「時期」が来ないと治らないものは治らないのである。
心理療法家の河合隼雄は思春期のモラトリアムな期間を「サナギ」に例えたが、身心の治癒が起こる時にもサナギになる人は多い。
ご承知のようにサナギはいも虫から蝶に変わるための中間の形態である。このとき固い殻に守られながら、その中身は液状化しているのだ。これはもちろん例えだが、実際問題「自分の作り変え」というのはここまで流動的かつ不安定になるものである。
だからこそ外側は固い殻でしっかりと守られなければならない。
例えば「引きこもり」とか「不登校」という現象はその子が精神的に抱えている不均衡状態が「治る」ための好時節に現れやすい。
このとき保護者をはじめ周囲の環境は、子どもの自我の再構築がしっかりと行えるように十分に保護してやるのが望ましい。
大抵は9~14歳くらいの間にこのような状態が現れることが多いが、「中年の危機」に象徴されるように中年期以降、ときに老年期においてもこのような精神的な危機はふいに訪れる。
こういう時期に大事なことは決して先を急がないことである。
サナギの殻を無理に割ったら成長どころか、いのちを落としてしまう。
だからこそ「環境を整えて待つ」ことが生命を援助する唯一の方法と考えるのだ。
人間がこの「サナギの時期」を無事に通過すると見事な変態を遂げて、人格的にひとまわりも、ふたまわりも成長するのである。ただしこれも勘違いされやすいけれども、「成長」というのは何も立派な「人格者」になることが全てではない。
その人自身の心の深いところ(無意識や裡なるもの)と安定的なつながりを保った、その人らしい「自然体=美」が現れる、ということである。
もしもこの「サナギの季節」が無かったらいも虫はいも虫のままである。これは人間といえど同じことが言える。
「アダルトチルドレン」などという言葉は、幼年期から思春期に十分な保護を受けられなかった方が「子どもの意識」を残したまま成人として生きている姿とも言える。
人間はいつもその身心に成長の可能性を宿している。
「抑うつ」とはそういう心理的変化が凝縮して現れた状態である。理解が深まったところでそのつらさは変わらないけれども、先に光のあることを知ることで、足もとの一歩にも信頼をおけるのではなかろうか。
人間はいつも、何度でも変化と成長の時期を向かえることができる。一生の間にサナギの季節を何度も味わうが、その度に生命は分厚く育ち、心の底に深く根をおろしていく。
他のどの生命よりも複雑に、そして深く悩むことができる人間はその苦しみと同時にもっとも大きな幸福の源泉を宿した生き物とはいえないだろうか。