夕方関内の歯医者に行く途中こんなノボリを見つけて感慨深い思いをした。
極真カラテと加圧トレーニングか。時代のうつりかわりを感じる。
昔はこんなんだったのに‥。
しばらく見ない間にフィットネス嗜好に寄ってきていて新鮮だったが、ビジネスとして生き残るためを思えばものすごく納得。どんな仕事でも二代目は大変なものだと思われる。
それにしても身体論というのはその時代を反映するものだ。
というよりは一人ひとり、個々の身体が結集して一つの時代を構成するといったほうが正しいか。
だからある特定の地域で行なわれる身体行法とかボディワークなるものをつぶさに分析すれば、ニーズから逆算してその時代や地域に生きる人々の身体像まで見えてくるはずだ。
「野口整体」というのも大正時代からつづく身体性や生命観の変遷の波にさらされ、それを乗り越え乗り越えしながら今日まで生きてきた。
往時にあっては虫垂炎とかチフスの患者もみていたというし、空襲で焼け出されたひとの火傷を手当てすることもあったそうである。
今となっては昔日の光景を簡単にはイメージできないが、事実そういう歴史があって現在に至ったのだ。
そんな歴史の中で野口先生の偉業の一つは霊動法を活元運動に改名したことだと思っている。
いや些細なことかもしれないが、何ごとも時代性に適合することは死活問題になる。
もちろん臨機応変を是としつつも、本質まで変節してはいけないが。
どんなものでも時代時代に必要とされる価値観を備えていなければ、本質がどれだけ優れていようが表社会からは淘汰されてしまう。
大正時代にはいわゆるオカルトブーム、いま風にいえばスピリチュアルブームがあったために霊とか魂といった言葉が現代よりもずっと生活のなかに浸透していたようである。
そこからくだって昭和、戦前・戦中・戦後と人間の主体が感性から思考へとシフトし、科学的な知見の比重が増すにつれてオカルトの権威と存在価値はうすれていった。
そこで「霊が動いて、魂を浄化する」といった宗教色の濃い観念論を脱し、「錐体外路系の訓練」という科学的見地をそこに付与したことで、淘汰の対象から逆に時代を牽引する立場を確立していったのである。
「いわゆる天才」の所業。全体を直観し先を見通す力は出色のものである。
ただし牽引といっても先を走り過ぎて、いまだに事勢は追いついていないのだが。
つまるところ野口整体が何を謳っているかといえば、自身の感覚に問う生活を勧めているのだ。そして、そのことを通じて「いのちを大事にしていく」という態度を、自分の一挙手一投足に現していく。
古今東西これ程わかりやすく説かれた生き方の道があっただろうか。
人間が太古のむかしからずっと営んできた生活をそのまま是とし、それを現代社会に矛盾なく体現していくのが「整体」である。
そもそもが健康、生きる死ぬといった不易の問題に対し、時代性とか価値観、宗教観なんていう極めて流動的なものさしで取り合っていくから話がややこしくなるのだ。
これじゃあ余分な軋轢だって増える一方である。
ところがそういう「人間の考え方」とか、「はからい」をずっと飛び越えたところで、万世を貫いて変わらないものがある。
「自然」
とはそういうものであろう。
だが現代風に「自然がいいよね」というとき、だいたいそれは「人間のつくった」自然である。
本来「自然と親しむ」というのは、森林浴とか海水浴とかそういう人為的なものの中にはありえない。
もっと、うんと身近なところに自然はある。
身近すぎるからこそ「出会えない」。
その身近な自然を体得するために、人間には着眼を正すための修業・鍛錬がいる。
しかしながら他人が作った、型にはまった鍛錬は形骸である。
一人ひとりが自己の感覚に問う、真摯な態度を前にしたときに自然はその姿を「美」として現す。
簡単なことなにだが、これを体現する人は少ないのも事実である。
それだけに、噛んで含んで誰もが呑み込める形へと再編をくり返しながら、細やかに需要に応えつづけるのも供給する側の務めだと思っている。
昔から自然を体得した人の中には、融通無碍とか自由自在とか、いっさいのとらわれから放れきっている生を自得した人は少なからずいるのである。
ところがそういうことに対して、現代ではすぐに「そういう昔の人たちはちょっと別だ」という向きもあるから、まずこれがいけない。
可能性はいつだって等しくある。
今も昔も人間は同じ人間ではないか。
その可能性を開く鍵はいつだって生と死の間にあって、
それは、
今日のいのちを静かに見つめることなのである。
元来、養生とは斯くの如し、だ。
しかしその見つめ方、その説き方、そういうものを新たに開拓していく独創性も体が乱れていれば生じない。
整体を説き、勧めるのはただ一点、いのちの最善の状態を保つことで全力を発揮し、今を生き切るためである。
体を整え身を修むる方法は、その核心を一にし、また万人に適するように応変できるものでなければならない。
技術の正否を相手の感覚に問うのも当然である。
愉気、活元運動、整体操法はいずれもその要項を充たす手段であることは言うまでもない。
これから人間が何世代つづいていっても、失われない価値がそこにある。