活元運動を深めていく:継続はちから

昨夜は子どもの寝かしつけが終わろうかというときに、久しぶりに自然の活元運動が出た。

からだの偏りが一定に達して、さらにからだの緊張・疲労度合と精神のゆるみバランスがちょうど釣り合ったときに、たまにではあるけど自然に活元運動が出ることがある。

まっ暗にしめ切った部屋でじーっと子どもに愉気をしていたので、それがたまたま呼び水になったのかもしれない。経験的に自分はあまり明るい部屋でない方が活元運動は出やすい気がする。

活元会は月に4回ばかり行っているが、こうした会で行なう活元運動はいわば予行練習みたいなものである。

野口整体の文献によれば、食べたものが傷んでいた場合に突如活元運動が出て全部吐いてしまった、とかスキーで足の骨を折った人がその場で活元運動が出て、その後、自力で滑って降りてきたという話が残っている。

活元運動はこんな風に、実際の生活上で必要性が高まったときに自然と行われるのが本来の姿である。

そうはいっても活元会に参加したときだけ行う方も多いだろうし、それでも効果は充分ある。それでもやっぱり実人生とリンクした形で行なわれるのが理想なのだろう。

いってみれば活元会で学ぶのは剣道でいうところの竹刀稽古みたいに思ったらいい。

もともとは真剣勝負のための訓練として行われていたものだから、竹刀の練習だけで完結するものではないはずだ。

訓練だけで済むならもちろんそういう生活の方が穏便で良いのかもしれないけれど、実際には生きていればいろいろな問題に直面するのでこの活元運動をしっかり修めておけばかなり心強い。

そして、なにより「継続」が鍵だ。

むかしから石の上にも三年というが、何ごとも半年、一年でやめてしまうのではその真髄を味わえないのではないか。

ときおりボディワーク・ジプシーのような方が活元会にふらっと参加されることもあるが、こういうものはなんでも「幅よりも深さ」だと思う。

気功・ヨガ、アーユルヴェーダ、野口体操・etc、ともろもろやってみても、悲しいかなどれも自分の解釈の深さでしか味わえない。

もちろん指導者の力量も大きく関与するが、「これは」と思ったものに出会ったのなら、一度は尻を落ち着けてじっくり取り組んでみることではじめて身体はその方向に発達する。

そうやって、継続は深さを生む。

情報過多な現代性にも罪業はあるのだが、そんな時代にあってこそ、あれやこれや何かと心が散らばりやすい現代人にこそ活元運動は役に立つ。

余談だが『荘子』には坐馳(ざち)という言葉が出てくる。

からだは坐っていながらこころが駆けずり回っている様を表現している言葉で、どんなにすばらしい行法を学んでいてもこれでは修養にならない。

からだの深部から起こるリラックスは質の高い精神の統一を生み出す。

そうしたこともあって、縁のあった方には活元運動の可能性を自分の心身で開拓していただきたいと思っている。もちろん丁寧な指導は必定である。

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