ユング心理学における「影」について2:影は心ののびしろ

…このような影があってこそ、われわれ人間に、生きた人間としての味が生じるのであって、ユングも「生きた形態は、塑像として見えるために深い影を必要とする。影がなくては、それは平板な原型にすぎない」と述べている。影のないひとは、いかに輝いて見えても、われわれはその人間味のなさにたじろぐことだろう。

シャミッソーの有名な「ペーター・シュレミール」のお話は、影を失った男の悲哀を、うまく描き出している。この素晴らしい物語の最後に、シャミッソーは、この物語を皆さんにおくるのは、人間として生きるためには、第一に影を、第二にお金を大切にすることを知って欲しいためだと書いている。

これをみて、筆者はある精神分裂病のひとの夢を思い出した。夢のなかで、このひとは、自分の影が窓の外を歩いてゆくのを見るのである。自分の影が自分のコントロールを離れて、一人歩きを始めたら全く危険きわまりないことである。

分析を受け始めると、ほとんどのひとがこの影の問題にぶち当たる。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 p.102 改行は引用者)

※塑像(そぞう)粘土・油土・蠟ろうなどを肉付けして造った像。銅像などの原型としても造られる。

心身に起こるさまざまな病症はもとをたどっていくと、自身の心の全体性が躍動しないことで「よく生きられていない」という、深層心理の問題が契機となっていることは少なくない。

このような個人のなかにおける「よく生きられていない部分」のことをユング心理学では「影」と呼んでいる。そしてそれをいかにして認め自身の心に統合していくかというのが心理療法の、特に初期における治療の焦点である。

ところが影というものはそもそも、物体に光があたった時にあらわれる必然の現象である。それだけに影を統合し消失させようとする行為は、その母体の存在をも危うくさせる可能性にさらされる。

また引用文に「生きた人間の味」というふうに表現されているとおり、影はいわばその人の隠れた持ち味でもあるのだ。

芸術家などはこの影を原動力にして創作・表現活動をしている人がほとんどであるために、そうした職業にある人が精神分析を受ける際は、事前に治療者とクライエントの間で入念な話し合いが設けられるのが常である。

整体の臨床においてはどのように対応していくのか、ということを考えてみると、もちろん個人ごとに全くことなるオリジナルの対応をそのつど生み出していくことは当然であるが、人間の精神と肉体の間にある共通の反応を理解し活用することはとても有効である。

まず基本的な話として「受け入れる」という行為は身体上に硬張りや固さがあるうちはできない。うらを返せば、身体の硬張りを上手にゆるめることさえできれば、その治療は半分以上成功したといっても過言ではない。

そこで「いかにゆるめるか」という問題に直面するのだが、整体指導といっても心理療法といっても、実際にクライエントの内面にまでおよぶ変化を引き出すものは技術以前の「何か」によるところが大きい。

その何かのなかに雰囲気や環境というものもふくまれる。

まず人がゆるむために欠かせない条件の一つに「安心」があげられるだろう。ほっとするとか気持ちがよいと心から感じられる雰囲気や環境がまず最初にクライエントの人格を受け入れ、それによってクライエント自身が自分を受け入れるという筋道を学ぶことができるのだ。

だから強力な影(実生活にあらわれていない自分)からの圧迫に悩み苦しんでいるひとに出会った場合、わたしは「抱える能力」を有した心の豊かな人との積極的な交流をすすめることが多い。

つまり自分で自分を受け入れるためには、まず自分以外の人に受け入れられる必要があるのだ。

そうして「あるがまま」、本当にちからが抜けきったときにあらわれる無垢な自分像というのを少しずつおもてに出してくことで、影の統合はむりなく行われていく。

先の引用に示されたように、もちろん容易なことではないけれども‥。かといって不可能なことでもない。俗にいう「いい年の取りかたをした」などという表現は、影の統合がうまいぐあいに行なわれた人を讃えるほめ言葉のようにも感じる。

実際には自身の「影」とは分離したまま、「陽の当たっている自分」だけで生活を営み比較的穏便な生涯を終える例も少なくないのだが、必要なひとは「悩む」という動的な葛藤状態へ自ら向かい、影との対決を余儀なくされる。そのあたりは無意識の要求に委ねられていると考えて良いだろう。

基本的には人間の無意識層には人格の全体性に向けて変容・成長して行こうとする要求が内包されている。だからそうしたもともとの要求が自然に花開くような環境を与えることで自然治癒力も最大限に発揮される。

そういう意味では人が癒えていくためには必ずしも「専門的な治療の場」が必要かというとそうとも言えない。

じっさい影の統合にやっきになっている間はむずかしかったものが、旅行のようなレクリエーションの場でふいに緊張がゆるみ、そこからスムーズに自我の再構成が行われるような例も存外多いのである。

このような治療なき治療、一見して何もしていないような行為のなかにも自由で開かれた「場」というのが展開することで思わぬ治癒効果をもたらす。これは人間のなかにもともとよくなる力が備わっていることの証明でもある。

良き治療者はそうした生命のもともとの力を発揮させることだけに専念し、何もせずとも快方へ向かうことを最良の方法と考え、実践するのである。何故そのようなことが可能であるかといえば、影こそが成長の種だからであろう。

よく生きられなかった部分というのは、うらを返せばその部分をひっくり返すことで光に転ずる、つまり影をパートナーとしてその人の人生を充実させることができるのだといえる。そこで治療者はクライエントに対し影のマイナス面を伝えると同時に、「可能性」を得心させることができれば心身両面の治癒は大きく進展する。

軽微な視点の転換ではあるが、病症と対立し、こう着状態を生まないためには重要な技術である。病症を味方につけ、影を善用する、こうした態度は個人が心の全体性を取り戻していくうえで非常に重要な条件の一つ言えそうである。

 

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