弱い人はいない

生命は本来丈夫である。

人によっては自分で自分を「か細い」なんて言うこともあるけれど、それは自分でか細く見せているだけで実際に「か細いいのち」というものはない。

もとはみんな丈夫だった。丈夫だったものがいつの間にか「自分は弱い」と思い込んだのである。

問い合わせでも「子供の頃から体が弱くて‥」と書いて送ってくださる方がいるけれども、実はそういうところは最初から信じないし見ないことにしている。

こちらとしては、弱いとうっかり思い込んだのはいつからなのか、誰にそうさせられたのか、が知りたい。

勘違いに陥った地点までさかのぼって、誤解に気づけばもうその時から健康で丈夫な生活がはじまっている。

病気も丈夫のはたらきだし、丈夫で健康に生きているから病気もしているのだ。

このあたりは知識を通りこして体感的に理解するところだが、ここを自得するだけでも年月のかかる人はかかる。整体に生きる、ということを志すなら初関とも言える大切なところである。

全般に高齢になるほど既成の価値観を払拭するのに難渋するけれども、若く見えても先入した観念に頭を占拠され、真理を目の前にしてもそれを受け入れられない人がいる。

昨日のお茶でいっぱいになった茶碗の如く、そういう頭には今日の清らかな水の入る余地はない。

こういう人は生理学的には若いかもしれないが、それだけ老いて死に近づいているのだ。

しかしそういう頭でも利口になることは可能である。

体中の筋をみんなゆるめて、顕在意識の運転を休止させればいい。

「ポカンとする」とはこういうことなのだが、古くなって死にかけているような人がその価値を本当に理解するには、思考の限界性と危険性をよく理解する必要がある。

最近はもっぱら頭を使うための訓練ばかりをどこでもここでも教えているが、休め方を教える人は少ない。そういうものは、さしてウケないのだろう。

あるいは教えていても首から下の生理的働きを無視した方法を平気で教えていたりする。

そもそもが頭脳だけを身体から切り離してコントロールすることに土台無理があるのだ。

本当に頭の働きを変えるには正しい身体智から出発しなければ、永久にゴールには辿り着けない。

釈迦も達磨も禅による救いを体現したが、身体の生理的プロセスに関する記録は乏しい。

その辺りは身心学道を説いた道元の普勧坐禅儀に少し言及されているけれども、言葉のみで万人の個人差に対応するには心もとないものである。

整体の必要を説くのはそのためなのだ。

整体とは「道を為すは日に損す」と言った老子のように、日々頭の中を空にするための訓練である。

自分の弱さを掴んでこれを何とか強くしようとしているうちは丈夫にはならない。

悟りとはある意味、勘違いを打ち消すことなのだ。

道はただ一つ、身体をよく整えること、これに尽きるのである。

活元運動を深めていく:継続はちから

昨夜は子どもの寝かしつけが終わろうかというときに、久しぶりに自然の活元運動が出た。

からだの偏りが一定に達して、さらにからだの緊張・疲労度合と精神のゆるみバランスがちょうど釣り合ったときに、たまにではあるけど自然に活元運動が出ることがある。

まっ暗にしめ切った部屋でじーっと子どもに愉気をしていたので、それがたまたま呼び水になったのかもしれない。経験的に自分はあまり明るい部屋でない方が活元運動は出やすい気がする。

活元会は月に4回ばかり行っているが、こうした会で行なう活元運動はいわば予行練習みたいなものである。

野口整体の文献によれば、食べたものが傷んでいた場合に突如活元運動が出て全部吐いてしまった、とかスキーで足の骨を折った人がその場で活元運動が出て、その後、自力で滑って降りてきたという話が残っている。

活元運動はこんな風に、実際の生活上で必要性が高まったときに自然と行われるのが本来の姿である。

そうはいっても活元会に参加したときだけ行う方も多いだろうし、それでも効果は充分ある。それでもやっぱり実人生とリンクした形で行なわれるのが理想なのだろう。

いってみれば活元会で学ぶのは剣道でいうところの竹刀稽古みたいに思ったらいい。

もともとは真剣勝負のための訓練として行われていたものだから、竹刀の練習だけで完結するものではないはずだ。

訓練だけで済むならもちろんそういう生活の方が穏便で良いのかもしれないけれど、実際には生きていればいろいろな問題に直面するのでこの活元運動をしっかり修めておけばかなり心強い。

そして、なにより「継続」が鍵だ。

むかしから石の上にも三年というが、何ごとも半年、一年でやめてしまうのではその真髄を味わえないのではないか。

ときおりボディワーク・ジプシーのような方が活元会にふらっと参加されることもあるが、こういうものはなんでも「幅よりも深さ」だと思う。

気功・ヨガ、アーユルヴェーダ、野口体操・etc、ともろもろやってみても、悲しいかなどれも自分の解釈の深さでしか味わえない。

もちろん指導者の力量も大きく関与するが、「これは」と思ったものに出会ったのなら、一度は尻を落ち着けてじっくり取り組んでみることではじめて身体はその方向に発達する。

そうやって、継続は深さを生む。

情報過多な現代性にも罪業はあるのだが、そんな時代にあってこそ、あれやこれや何かと心が散らばりやすい現代人にこそ活元運動は役に立つ。

余談だが『荘子』には坐馳(ざち)という言葉が出てくる。

からだは坐っていながらこころが駆けずり回っている様を表現している言葉で、どんなにすばらしい行法を学んでいてもこれでは修養にならない。

からだの深部から起こるリラックスは質の高い精神の統一を生み出す。

そうしたこともあって、縁のあった方には活元運動の可能性を自分の心身で開拓していただきたいと思っている。もちろん丁寧な指導は必定である。

今月の活元会の日程はこちら

なぜ健康なのかわからない:荘子を読む

知は其の知らざる所に止まれば、至れり。『荘子 内篇 第二』

何も知らないとき、すべてがわかってる。

何もしなくても体温は保たれる。

疲れれば眠くなる。

欠乏すれば食べたくなる。

余ればこわす。

なぜ健康なのかわからなくても、みんな健康だ。

「なぜか」がわかってしまうと、健康は失われる。

健康になろうとする行為がむしろ健康を乱していないか。

ときどき、考えてみよう。

飲食男女

老荘研究のパイオニア福永光司さんと河合隼雄さんの対談本『飲食男女ー老荘思想入門』を読んだ。タイトルからして何のことか‥と思ったらどうやら人間の生命活動の根源的な動きを象徴した言葉らしい。つまりは自己保存の要求と、種族保存の要求。俗に「花より団子」という言葉もあるけれど、この世の中の活動は花と団子が生命エネルギーの根源といえる。

特定の宗教では人間における動物的な欲求を否定的に見る向きもあるけれど、実際は身体が整うと生理的欲求はノーマルになる。例えば異常食欲なども身体の自然をコントロールしようとし過ぎてしっぺ返しを食っている訳だ。身体のもともとの感覚に親しんで生きれば、終わりの見えないダイエットや過食症などとも無縁の生活になる。

さりとて「自然自然‥」としきりに言ったところで、これがなかなかに難しい。生き物の中で人間だけが自然を体現するために鍛錬が要る。鍛錬というとまた「筋トレ」みたいに人為的になりがちだけれど、これともまた違う。身体の感覚に耳を澄ませて、「感じて動く」という自然体(感動体?)を養うのが鍛錬。だから修養といった方がもう少しシックリいくかもしれない。

「無為をなせば、治まらざるなし」という老子の言葉を手繰れば、「何もしない」ということの功徳を窺い知ることが出来るものだ。「無為」と「野口整体」は共に自然と手を取り合って遊ぶ態度を現すもので、呼び名は違えど核心は同じである。どちらも人工的なものが9割以上占める現代文明の中和剤に成り得る。

福永さんの論では自然を人工的な知識で統制する文化が儒教的な馬(北)の文化で、自然に逆らわずゆだねて生きる道が道教的な船(南)の文化なのだそう。今の時代どっちも必要ですね、という河合さんのまとめによって自分の職業的立場もピタッと定まる感があった。勘とか野性を主(あるじ)として、思考はその従者であることが望ましい。活元運動で個人の身体から社会機構までバランスを取り戻そうではないか。

2002年初版の本だが、この両先生がもうこの世にいらっしゃらないのがさみしい。それも自然のならいなんだけど。

何もしないという技術

この2週間くらいずっと『荘子』を読んでいた。野口先生は多方面に渡って深い学識を備えた人だったが、中でも最大のよすがとしていたのはやっぱり荘子だと思った。整体の智の中には禅も生きているけれど、その縦横無尽の自由性は老荘思想に裏打ちされたものだったと、4冊の文庫本を前に唸っていた。

一言でいえば「この世界」に対する絶対的な信頼とでも言ったらいいだろうか。一神教によく見られるような、世界を生みだした「全能の創造主」という気配は全くないが、兎角この世は人智を超えた「絶妙のしくみ」によって廻っている、という訳だ。

その絶妙さは当然人体にも反映されて、人間的な「はからい」をやめてその完璧さに委ねることさえ出来れば、生老病死に関する一切の問題はその場で消えると説く。

煎じ詰めれば人間は「何もしない」ということで最大の功徳を得られることになるのだ。人為の精髄ともいえる「科学」に支えられる現代社会に照らしてみれば非常に穿った見方になる訳だが、そもそもが紀元前から受け継がれたこの老荘思想が実社会で完璧に実現した例はおそらく無いだろう。

元は動物であるヒトが今日まで「人間」としての立場を築き存続させてきた要因は、やっぱり「理性」だろうし、自然に抗する「能動性」だろう。これらがなくなると人間といえども畜生道に堕ちてしまう気がしてならない。だから元より理性を捨ててしまう必要などはないけれど、「能動性と同量の受動性があった方がいいよね」というバランスに落ち着く。要は今さら珍しい話でもなくて、自然支配から共存共栄へのシフトだ。

これを整体という人間生活のフィールドに置き換えると、「頭脳」も使うけど「感覚」も活かそう、ということになる。順序としてはまず「感じ」て、それから必要な分だけ「考え」ればいい。現代は考えることがずーっと先行して、ともすればそれが全てという風潮に偏っている。だからこそ今微妙に「野口整体」がウケているのだと思う。女性のヨガブームも山ガールも自然回帰の本能という点では同質のものだろう。ちょっと世間を見渡せば、少し前から「スローライフ」とか「頑張らない」、「競争しない」なんていう概念もちらほら見かける。老荘思想とこれらは親類、子孫みたいなものだ。

荘子の思想から一つ抜き出すと「無為」という概念は重要なキーワードである。超訳すると「何にもしない時に一番うまくいく」という感覚になるが、この辺が非常に繊細だ。整体の仕事に置き換えて考えると、クライアントさんに対して「ナニもしないのがいいんだから」と決め込んで本当に抛っておいたら職務放棄になってしまう。よく見ればこれは「ナニもしない」、ということを「やって」しまっている。

だからナニもしないことをする訳でもなく、ナニかする訳でもない。そのどちらもスパッと「無い」のが理想だろう。一切の行為から「自分」らしい気配が消えたらしめたもの。昔から日本の芸道なんかでは「無我の境地」を好んで目指したりするけれども、東洋の中でも取り分け日本は「意識を静める」ということに最良の価値を置く文化だと思われる。

23日の修養会では、一つその辺をテーマにやってみたい。静めようとして鎮まるのではなく、ヒトが自在に動いた時その動きには自ずと静寂が宿る。病気の時によく勧められる「静養」というと絶対安静みたいになるが、こんな風にただ動かないだけだと結局動きたくなってザワついてくるものだ。

もっと自然に自在に動くつもりになればいいのかもしれない。「動中の静」とか、まあ言葉はいろいろと何とでもなるけれど、結局のところ「静けさ」は身体能力なのだ。自得しなければ力にならないし、それは身体で学ぶということだ。整体の面目もこの体得、体認にある。やってみたいという変わった方はどうぞお越しください。