午前中ツイッターを観てたらよしもとばななさんのツィートに目が止まった。
無自覚にむさぼり、使い、壊れたら憎まれ、廃棄される巨大な力。人間は勝手だ。今日は個人的に祈りの日。たくさんの人たちのために、死んでゆく原発のために、現場で亡くなった人たちのために、踊ろうと思う。ば
小説をまず読まない(読めない)あっひーだが『キッチン』は何度も読んだ。しばらく読んでないが、なんだか愛情の塊みたいな言葉の連なりに読むたびにあぁこんなこと書いてあるんだ・・、と切ない発見に心揺れるんだ。数日前に読み始めた司馬遼太郎さんの『菜の花の沖』はまだ2ページ目の途中だが・・このまましばらく凍結しそうだ。(良い本だとは思うんだが・・)
一生懸命働いて感謝の意も薄く、皆に恐がられながらかたずけられていくなんて、原発という存在がなんだかひどく可哀そうだ・・。あっひーの場合は風の谷のナウシカの巨神兵に対する憐憫の情がオーバーラップした。
大和民族は自然と手を結んで供に謡って踊って生きてきた和合の民だ。近代文明が直面している問題の焦点はマクロ的には自然と人間がどう付き合うかということだが、個においては近代科学や医療にみる疾病や健康観でもって、身体のうちなる自然との間に生まれたヒズミとどう付き合うかという話だ。
基本的に治すではなく治る、身体の自然経過の時間を安心して待てる姿勢をつくるのが野口整体なわけだが、それはあたかも歪曲したヒズミにピタリとおさまる、失われたパズルのピースのようだ。
あっひーは野口整体を学んで人間の内なる環境破壊を整えているようなもんだ。それは、この世にあって人間は希望の光であり続けてほしいからだ。人間賛歌を謡い、祈り、踊ろうと思うんだ。その祈りの形が愉気であり、無始無終の活元の舞だったりする。