健康法

今は情報も豊かなおかげで健康法とか精神論とか、いろいろなことをみんなよく知っておられます。野口整体に関心を持ってうちに来る方も、今の健康の常識とか、最近になって新たに有害性が見つかったものとか、私の知らないことをいろいろ教えてくれます。

ただこういうのをよくよく聞いてみると、それらのものはみんな自分自身で感じて、見つけたものではないということがほとんどです。本とかネットに書いてあった事が9割くらいじゃないでしょうか。そういうものに従がって自分が行動していると、それだけで「ああ大丈夫だ」と思われるのかもしれない。そのこと自体はあまり問題は無いので、好きなら存分にやって頂いていいと思います。ところがその人の生活全体を見てみると、そういう「知識」でやっているのは、ホントに数%で、あとは全部、自動的に身体の働きによって保たれていることをみんな気が付かないのです。

「眠くなる」ということだって、誰かに聞いてなるわけではないですね。眠りが必要になると、ひとりでに眠たくなります。赤ちゃんでも知っているような智慧ですけど、成長すると「まだ眠るのは早い」とか「眠りは一日何時間以内(以上)」とか何かと枠が付くようになります。良いとか悪いとか、そういう知識の上の事ですね。こういうことを総じて「健康法」と言っているとしたら、やっぱり不便だなと思うのです。これに関連するお話が野口先生の『愉気法1』にあります。

p.82「…これが養生だ、これが不養生だというのは一種の信仰で、人間は何か信仰しなくてはいられないらしく、新興宗教などが次から次へと出ますけれども、こういうことの方が悪いとか、これとこれがいいとかいうのもそういう仲間なのです。…要すれば人間が考えついて作って、いいかもしれないと思ってやっていることで、信仰のある時はいい。冷水摩擦がいいと言っても、人に水を浴びせかれられたら風邪を引く。自分でかぶるからいいのです。」

こういう「こうするべし」とか、「こうあるべき」とかいう思い込みの一番のものが「信仰」なのかもしれません。信仰自体は尊いことだと思います。ただ野口整体も何か信仰の一種だと思われそうになりますが、それはむしろ反対のことではないかと思うのです。とにかく「こうしたらいい」とか、「こうではいけない」とか、そういうものはみんな人間の考えたことです。整体ではそういう人間的な考えを起こす前の、もっと「はっきりしたもの」をあてにして生活することを説いています。それは「事実」と、それに触れた時の「感覚」ですね。この二つはいずれも人間的な考えを飛び越えたところで行われているものですから。それくらい、間違えようのない、騙されない、確かなものが誰の中にもあるんですね。

ですから整体をやるということは、人間的な考え方で作った健康法からは離れることになります。「自分」の感覚、直観智というようなもの、これらが曇らないように、人の思惟から離れた方の生活を大事にするということです。丁寧に見ると、はじめからずっと、みんなそういう生活をしているわけですが…。まずは「健康法」という名前や考え方に騙されないことでしょうか。岡本太郎氏が「健康法なんて考えないことが健康法」と言ったそうですが、これが端的ですね。至言です。