内的要因

近所の緑道に生えていたきのこ。すぐ近くに似たような木があるけれども、これには全く根付いていない。同種のきのこが生えているのは左側の一本だけである。

おそらく菌類だから常に無数の胞子を飛ばしているはずである。胞子が付いたところから順次根を張ったらあたり一面に群生するだろうに、考える頭のないきのこでも繁殖する木をちゃんと選んでいるのだ。

これは他の細菌やウィルスにも同じことがいえる。

ウィルスが増えていくメカニズムは菌が繁殖するのとだいぶ違うらしいけれども、同じウィルスを保有していても増殖しやすい身体とそうでないものがあるのは事実である。

前者は病気による刷新効果が必要な鈍った身体※であり、後者は現時点で適応の行き届いた平衡状態にあることを物語っている。このような場合、体の中にウィルスを増殖拡散させない「何か」が存在すると言えそうである。

※野口整体では病気は鈍った感受性を正常化し、身体の弾力を取り戻す自然良能とみなす。

コッホが微生物を「病原体」とみなして以来、衛生研究の対称はもっぱら細菌やウィルスの研究といった外的要因の解明と除去に傾倒していった。

そのせいかはわからないけれども、病気の研究というと外から来る細菌やウィルスの研究が主で、内的要因に対する考察は余りなされていないように思われる。

「免疫」についてはある程度研究されているようだが、その免疫システムの鍵となる「何か」は依然として漠としたブラックボックスのままなのである。

これとは対照的に、整体は身体に起きた事象の内的要因を明らかにしよう考えてきた。整体法を生んだ野口晴哉はこの内的要因にこだわった代表的な人物の一人だろう。その結果として「潜在意識」という問題に行き着いたのだ。

野口の著した『風邪の効用』には「空想は体に現れる」という一節がある。

この空想を方向付ける要素が潜在意識の中にある、というのが野口が独自の研究によって明らかにした「人間」である。

木には意識はない(と考えられる)ために元々の物質的な構成要素に従って受動的に変化していくのみである。これに対して、人間の場合は空想によって身体は能動的に変化していく。

その変わっていく中にも裡から自発的に変わっていくものと、外からの刺激によって変えられるものがある。

例えば言葉だけでも顔色が良くなったり悪くなったりする。一通のメールで内容によっては血圧が変わる。あるいは食欲が増したり、逆になくなったりする。

「その何故そうなるのか?」ということを科学的に解明しようとすると大変な研究が必要になるだろうし、いくら研究しても結局何故そうなるのかは判らないかもしれない。

野口は人が健康に生きていくためにはその「判らないもの」の方が、栄養や衛生の知識よりも大きな働きを持っているという。

その判らない漠としたものが行動の元になっている。そこに潜在意識が内的な要因として深く関わっている、というのだ。

この内的要因の探求と方向付けが整体の技術の核心といっていいだろう。

一方で細菌学から出発した衛生法の辿り着いた答えが、外的要因を排除するための「マスクと距離」なのだ。現在はこの対策のために相当な方が難儀しているし、このような現代医療の方向性に「何かおかしいのではないか」という感覚を抱いている人も少なくないはずだ。

野口は風邪の菌でも結核菌でも「身体に病気の要求がなければ発症しない」と自身の体験から語っている。

加えて病気をきちんと経過すると、身体の偏りが解消されるのだと説いているのだ。つまり病症自体が生体の平衡作用であることを直感的に見抜いたのである。だから肺炎が流行るには肺炎になる身体の人が増えている、という観点から個人を探求するのが整体の立処である。

「野口整体は西洋医療を全否定うんぬん・・」という意見を耳にしたことがあるけれども、このような評価は整体法の一面しか見なかったことによる誤解である。

整体と西洋医療は互いに否定したり批判し合うような対立関係ではなく、興味や関心の対象が別分野なだけである。いわば研究の棲み分けをしていると考えたらいいだろう。

整体は何処まで行っても特定の個人を主観的に見ていくことが全てで、その個人の研究から得られた体験の知は、余人に理解を求めてもなかなか難しい。「健康」といっても「病気」といっても整体の観察結果は客観性に乏しいのが難点である。

この主観的な体験知に客観性を持たせる努力が整体に関わる人間に求められるだろう。多くの人にこの「内的要因」を認知してもらえたら、コロナが収束せずとも世の中が少しは変わってくるのではないだろうか。